学位論文要旨



No 215419
著者(漢字) 藤井,匡
著者(英字)
著者(カナ) フジイ,タダシ
標題(和) L-リジンからL-ホモグルタミン酸およびL-ピペコリン酸への微生物変換系の構築に関する研究
標題(洋)
報告番号 215419
報告番号 乙15419
学位授与日 2002.09.10
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第15419号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大森,俊雄
 東京大学 教授 高橋,秀夫
 東京大学 教授 山根,久和
 東京大学 助教授 西山,真
 東京大学 助教授 野尻,秀昭
内容要旨 要旨を表示する

 今日、世界で販売されている医薬品の約40%が、また開発中の医薬品の約80%がキラル化合物であり、キラル化合物の世界市場は2000年で66.3億ドルで2007年には160.3億ドルになると予想されている。微生物変換法はキラル化合物を生産する上で最も有効な方法の一つであることから、著者はL-リジンからL-ホモグルタミン酸およびL-ピペコリン酸への微生物変換系の構築を行った(図1)。

 L-ホモグルタミン酸はβ-ラクタム系抗生物質の前駆体となる非タンパク性のアミノ酸で、医薬品合成のキラル中間体として重要な化合物である。このような非蛋白性のアミノ酸は医薬品の原料としての需要が多いが、蛋白性のアミノ酸と違って通常の発酵法で製造することが難しい。L-ホモグルタミン酸の生合成経路はβ-ラクタム抗生物質生産菌Streptomyces clavuligerusにおいて生化学的、分子生物学的な研究がなされており、まずL-リジン6-アミノトランスフェラーゼ(LAT)によりL-リジンがα-アミノアジピン酸セミアルデヒドあるいはこれと平衡状態にある△1-ピペリデイン-6-カルボン酸(P6C)に変換され、次いでP6C脱水素酵素(PCD)によりL-ホモグルタミン酸に変換されることが知られていた。

 グラム陰性菌Flavobacterium lutescens IFO3084株によりL-リジンがL-ホモグルタミン酸に立体選択的に変換されることが知られており、実際に著者はこの菌株を用いてL-リジンから市場価値の高いL-ホモグルタミン酸への微生物変換を行っていた。そこで著者は、F.lutescens IF03084株においてもLATとPCDによりL-ホモグルタミン酸が生合成されるものと考え、F.lutescens IF03084株によるL-リジンからL-ホモグルタミン酸への微生物変換速度の向上を目的として、その変換反応に関与する遺伝子latとpcdをクローニングすることを試みた。まず著者はF.lutescens IF03084株のLATを精製し、そのN末端のアミノ酸配列からしATをコードするlat遺伝子をクローニングした。LATのアミノ酸配列は種々のアミノトランスフェラーゼに相同性を示していた。精製しだしATはnative PAGEでは分子量約110,000を示し、SDS-PAGEでは分子量約53,000を示した。このことはF.lutescens IF03084株のLATがホモダイマーとして機能していることを示していた。また、大腸菌で発現した組換えLATもホモサブユニット構造をとり、LAT活性を示した。これらの結果は、他の種々のアミノトランスフェラーゼがモノマーかホモポリマーとして機能していることと合致しており、既に報告されていた「F.lutescens IF03084株のLATはヘテロテトラマー構造をとる」という報告を覆す結果であった。

 次に著者はショットガンクローニングにより、PCDをコードするpcd遺伝子をクローニングした。PCDとLATとの共役反応によりL-リジンをL-ホモグルタミン酸に変換することを示した。また、latとpcdを増幅したF.lutescens/pCF335株を構築し、L-リジンからL-ホモグルタミン酸への微生物変換反応効率を約1.7倍に向上させることに成功した。F.lutescens/pCF335株のL-ホモグルタミン酸生産量は培養開始後96時間で約13.4g/Lであったが、この生産量は十分工業生産に耐えうる数値であり、実際に著者らは現在この菌株を用いてL-ホモグルタミン酸の工業生産を行っている。

 一方、L-ピペコリン酸も非タンパク性のアミノ酸で、医薬品合成のキラル中間体として重要な化合物である。これまでL-ピペコリン酸を蓄積する微生物の報告はあったが蓄積量が少ないことから経済的にL-ピペコリン酸を発酵生産するには至っておらず、L-ピペコリン酸の製造法としては、ジアステレオマーの塩を形成させてラセミ体からL体を分別結晶化する方法と酵素によるラセミ体の立体選択的変換法が知られていた。しかし、これらの方法では光学純度100%のL-ピペコリン酸は得られていない。そこで著者はP6Cの酵素的還元によるL-ピペコリン酸の製造を考えた。これまでP6CのL-ピペコリン酸への還元反応を触媒する酵素については同定されていなかった。これはこの酵素反応の基質となるP6Cが化学的に不安定であり容易に単離できないため、P6Cを用いた実験が難しいからであった。

 本研究により著者はLatを発現させた大腸菌がL-リジンをL-ピペコリン酸へ変換することを見い出した。さらに大腸菌のproCがコードするピロリン-5-カルボン酸還元酵素(P5C還元酵素)が、LATによりL-リジンから生成されるP6Cを還元してL-ピペコリン酸に変換することをin vivoおよびin vitroにおける実験により示した。これにより遺伝子組換え大腸菌によるL-リジンからL-ピペコリン酸への変換菌をはじめて構築することができた。このlat発現大腸菌による微生物変換反応で蓄積するL-ピペコリン酸の光学純度は100%であった。つまり、光学純度100%のL-ピペコリン酸を生産できる系が初めて構築されたのである。

 さらに著者は、lat発現大腸菌によるL-リジンからL-ピペコリン酸への変換速度の向上を試みた。リジン特異的透過酵素をコードするlysP遺伝子をlatと共に乗せたプラスミドpRH125をE.coli BL21に導入し、培養試験によりこの株のL-リジンからL-ピペコリン酸への微生物変換速度を調べた。この結果E.coli BL21/pRH125株の変換速度は140mg/L/hであり、これはlatのみを乗せたプラスミドを導入したE.coli BL21/pRH124株の変換速度28mg/L/hの約5.0倍であった。このように、lysPの増幅はlat発現大腸菌によるL-リジンからL-ピペコリン酸への微生物変換速度の向上に対して有効であることが示された。

 また、lysPのすぐ上流にはyeiEというORFが存在することが大腸菌のゲノム情報から知られていた。yeiEのコードする蛋白質YeiEのアミノ酸配列は、LysRファミリーと呼ばれる転写因子群に相同性を示していた。このことからYeiEはおそらく転写因子として他の遺伝子の転写を調節しているのであろうと考えられていたが、YeiEの機能についての報告はこれまで全くなかった。著者はRT-PCRによる解析により、yeiEがlysPの正の転写制御因子であることを明らかにした。yeiEをlysPとlatと共に乗せたプラスミドpRH127をE.coli BL21に導入し、培養試験によりこの株のL-リジンからL-ピペコリン酸への微生物変換速度を調べた。この結果E.coli BL21/pRH127株の変換速度は180mg/L/hであり、これはlatのみを乗せたプラスミドを導入したE.coli BL21/pRH124株の変換速度28mg/L/hの約6-4倍であった。このように、yeiEとlysPの増幅はlat発現大腸菌によるL-リジンからL-ピペコリン酸への微生物変換速度の向上に対して有効であることが示された。

 このように著者は、光学純度100%のL-ピペコリン酸を生産できる系を初めて構築し、それを工業生産で用いることが可能なレベルにまで生産性の向上を行った。実際に著者らはここで構築したE.coli BL21/pRH127株を用いてL-ピペコリン酸の工業生産を行っている。

 本研究を進める上で、基本的な遺伝子操作技術はもちろんであるが、大腸菌のゲノム情報の貢献度は非常に高かった。第3章でP6Cを還元してL-ピペコリン酸に変換する酵素がP5C還元酵素であることを発見したこと、および第4章でlysPの転写を正に制御するyeiEの存在を示したことなどは、ゲノム情報がなければ迅速には進まなかったであろう。微生物変換反応によるキラル化合物の工業生産という研究分野においても、今後ゲノム情報をうまく使うことが重要であろう。本研究はその良いモデルケースと言えるのではないだろうか。

 我々の最終的な目標は大腸菌を酵素反応の場とすることによって光学純度の高い様々なキラル化合物を経済的に製造することにある。これまでの化学合成法や酵素を直接用いる酵素合成法では、コストがかかりすぎたり、その生産量や光学純度を上げられなかったり、あるいはそれを生産する系すら存在しなかったような目的キラル化合物について、組換え大腸菌を用いた微生物変換法による発酵生産が可能になり得ることを本研究は示した。さらに共通の宿主として大腸菌を用いることによっていろいろなキラル化合物の製造に同じ培養技術が使えるであろう。また、培養液からの回収工程も共通化でき精製工程もいくつかの共通の工程を組み合わせることで対応できると考えられる。これらの培養工程と回収精製工程の共通化は製造プロセスの開発に必要な時間と経費を節約できることを意味している。このように本研究における組換え大腸菌を用いた微生物変換法によるL-ピペコリン酸工業生産の成功は、今後光学純度の高い様々なキラル化合物を経済的に製造していく戦略の上で、確かな指針を示した。

図1 L-リジンからL-ホモグルタミン酸およびL-ピペコリン酸への微生物変換反応

審査要旨 要旨を表示する

 今日、世界で販売されている医薬品の約40%が、また開発中の医薬品の約80%がキラル化合物であり、キラル化合物の世界市場は2000年で66.3億ドルで2007年には160.3億ドルになると予想されている。中でもL-ホモグルタミン酸およびL-ピペコリン酸は、医薬品合成のキラル中間体として重要な化合物である。本論文は、キラル化合物を生産する上で最も有効な方法の一つである微生物変換法を用い、L-リジンからL-ホモグルタミン酸およびL-ピペコリン酸への微生物変換系の構築を行った結果を論述したもので、緒言に続く4章から成る。

 第1章はL-リジン6-アミノトランスフェラーゼ(LAT)をコードする1at遺伝子をクローニングした結果を述べている。グラム陰性菌Flavobacterium lutescens IF03084株において、L-リジンがL-ホモグルタミン酸に立体選択的に変換されることが知られていた。この変換反応では、まずLATによりL-リジンがα-アミノアジピン酸セミアルデヒドあるいはこれと平衡状態にある△1-ピペリデイン-6-カルボン酸(P6C)に変換され、次いでP6C脱水素酵素(PCD)によりL-ホモグルタミン酸に変換されることが予想された。そこでF.lutescens IF03084株によるL-リジンからL-ホモグルタミン酸への微生物変換速度の向上を目的として、その変換反応に関与する遺伝子をクローニングすることを試みた。まずF.lutescens IF03084株のLATを精製し、そのN末端のアミノ酸配列からしATをコードするlat遺伝子をクローニングした。LATのアミノ酸配列は種々のアミノトランスフェラーゼに相同性を示していた。またLATはホモダイマーとして機能していた。この結果は、他の種々のアミノトランスフェラーゼがモノマーかホモポリマーとして機能していることと合致しており、既に報告されていた「F.lutescens IF03084株のLATはヘテロテトラマー構造をとる」という報告を覆す結果であった。

 第2章はPCDをコードするpcd遺伝子をクローニングし、さらにL-リジンからL-ホモグルタミン酸への微生物変換速度の向上を達成した結果を述べている。まず、ショットガンクローニングにより、PCDをコードするpcd遺伝子をクローニングした。さらにLATとPCDとの共役反応によりL-リジンをL-ホモグルタミン酸に変換することを示した。また、latとpcdをプラスミドに連結した後、得られたプラスミドをF.lutescens に導入して、L-リジンからL-ホモグルタミン酸への微生物変換反応効率を約1.7倍に向上させることに成功した。この株のL-ホモグルタミン酸生産量は培養開始後96時間で約13.4g/Lであったが、この生産量は十分工業生産に耐えうる数値であり、実際にこの菌株を用いてL-ホモグルタミン酸の工業生産が行われている。

 第3章はLATとピロリン-5-カルボン酸還元酵素(P5C還元酵素)に触媒されるL-リジンからL-ピペコリン酸への微生物変換系を構築した結果を述べている。本研究以前は経済的にL-ピペコリン酸を発酵生産する系は確立されておらず、また化学合成法によっても光学純度100%のL-ピペコリン酸を得る事は出来なかった。本研究ではlatを発現させた大腸菌がL-リジンをL-ピペコリン酸へ変換することを見出し、さらに大腸菌のproCがコードするP5C還元酵素が、LATによりL-リジンから生成されるP6Cを還元してL-ピペコリン酸に変換することをin vivoおよびin vitroにおける実験により明らかにした。このlat発現大腸菌による微生物変換反応で蓄積するL-ピペコリン酸の光学純度は100%であり、これにより遺伝子組換え大腸菌によるL-リジンからL-ピベコリン酸への変換菌をはじめて構築することができた。

 第4章はlysPとyeiEの増幅によりlat発現大腸菌のL-リジンからL-ピペコリン酸への変換速度の向上を達成した結果を述べている。リジン特異的透過酵素をコードするlysP遺伝子をlatと共に連結したプラスミドを大腸菌に導入し、この株のL-リジンからL-ピペコリン酸への微生物変換速度を調べむこの結果、変換速度は140mg/L/hであり、latのみを連結したプラスミドを導入した大腸菌の変換速度28�r/L/hの約5.0倍であった。また、yeiEがlysPの正の転写制御因子であることを明らかにし、yeiEをlysPとlatと共に連結したプラスミドを大腸菌に導入し、この株のL-リジンからL-ピペコリン酸への微生物変換速度を調べた。この結果、変換速度は180mg/L/hであり、latのみを連結したプラスミドを導入した大腸菌の変換速度の約6.4倍であった。このように、yeiEとlysPの増幅はlat発現大腸菌によるL-リジンからL-ピペコリン酸への微生物変換速度の向上に対して有効であることが示された。先に述べた光学純度100%のL-ピペコリン酸生産系の生産性を、工業生産で用いることが可能なレベルにまで向上させることに成功した。実際にここで構築した株を用いてL-ピペコリン酸の工業生産が行われている。

 以上のように、これまでの化学合成法や酵素を直接用いる酵素合成法では、コストがかかりすぎたり、その生産量や光学純度を上げられなかったり、あるいはそれを生産する系すら存在しなかったような目的キラル化合物について、遺伝子組換え菌を用いた微生物変換法による発酵生産が可能であることを本研究は示したものであり、学術上、応用上寄与するところが少なくない。よって本審査員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク