学位論文要旨



No 215421
著者(漢字) 吉垣,知能
著者(英字)
著者(カナ) ヨシガキ,トモヨシ
標題(和) ウニ卵細胞質分裂における収縮環位置決め問題の理論モデルによる研究
標題(洋)
報告番号 215421
報告番号 乙15421
学位授与日 2002.09.10
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第15421号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 田之倉,優
 東京大学 教授 清水,謙多郎
 東京大学 教授 馬渕,一誠
 東京大学 教授 金子,邦彦
 東京大学 助教授 宮脇,長人
内容要旨 要旨を表示する

 動物細胞の細胞分裂では、複製された染色体が分裂装置によって両極に運ばれた後、赤道部分の細胞膜がくびれて細胞質が二分される。くびれ部分の膜直下には、マイクロフィラメントが集積した収縮環と呼ばれる構造体が存在して、ミオシンIIとの相互作用により力を発生している。収縮環の形成は、分裂面が二つの星状体を分断するような位置に起こるので、娘細胞は必要な染色体セットを、必要な細胞質と共に受け取ることが出来る。様々な生理学実験から、収縮環の位置は、細胞表層上に最初から固定されているのではなく、分裂後期の分裂装置によって決定されることが判明している。こような分裂装置による収縮環形成の空間的制御は、核分裂と細胞質分裂の協調において中心的な役割を果たしている。しかし、長年に渡る研究にも関わらず、「位置決め」の仕組みは未だに不明で、その分子機構の解明は細胞生物学の大きなテーマの一つとなっている。

 細胞質分裂の分裂面は、二つの星状体の中心を結ぶ線分の中点を通り、かつ、その線分に垂直であるように形成される。これが、収縮環と分裂装置の通常の位置関係である。しかし、ウニ受精卵を使った実験が示すように、細胞を変形したり、分裂装置の配置を変えると、収縮環と分裂装置が通常とは異なる特殊な位置関係を取ることがある。例えば、卵を円錐状に変形して、紡錘体軸が円錐軸と垂直になるように分裂装置を配置すると、二つの星状体の間に、分裂装置と通常の位置関係を持つ分裂溝が出現する一方で、円錐軸と分裂装置の間に、もう一つ余分な分裂溝が出現する(Rappaport & Rappaport,1994.Dev. Biol.164:258-266)。その分裂面は紡錘体軸に平行であり、両者は50μmほども遠く離れていた。従って、分裂面は必ずしも紡錘体軸に垂直ではなく、二つの星状体の中点を通っているわけでもない。また、細い管に押し込めて円筒状に変形した卵で、分裂装置を連続的に往復運動させると、運動路の中点付近に分裂面を持つ分裂溝が一つ出現する(RaPPaPort,1997.Dev Growth Differ.39:221-226)。つまり、分裂装置が静止していなくとも、表層に働きかけて収縮環形成を引き起こすことが可能である。このように、収縮環と分裂装置の位置関係は、状況に応じてさまざまに変化する。本論文の目的は、その多様な幾何学的関係を理論的に解析して、「位置決め」の分子機構として最も可能性の高いモデルを提出することである。

 異なる分裂装置に属する星状体の間に分裂溝が出来ることなどから、収縮環形成に必要な最小単位は、紡錘体や染色体ではなく、星状体であることが分かっている。分裂装置の二つの星状体は、分裂後期に、プラス端が表層に達するほど微小管を顕著に伸長させるので、星状体微小管が収縮環の位置決定に関与している可能性が指摘されてきた。しかし、収縮環の形成は、微小管の多い場所に起こるのか、少ない場所に起こるのかについては、明らかになっていない。そこで、表層に到達する微小管数の多い少ないを、細胞表面の各点における微小管密度関数fとして定義して、いくつかの仮定を導入することで、この関数を計算する。中心的な仮定は、星状体微小管の長さが、正規分布に従うとするものである。この仮定については、実験的な示唆と共に、微小管の動的不安定性(dynamic instability)をrandom walkに近いと見なせるという判断から導入した。また、分裂装置の紡錘体領域から、星状体微小管が排除されるという仮定も導入した。これまでに発表された電子顕微鏡像やチューブリンの蛍光染色像は排除領域の存在を示している。この方法によって、ウニ卵を変形するいくつかの実験について、微小管密度関数fを計算して、実際の収縮環マイクロフィラメンの分布と比較した。その結果、収縮環マイクロフィラメントは、微小管密度関数fが極小を取る場所に出現し、その極小の「谷」が深く険しいほど、出現しやすいという仮説を得た。この仮説は多くの現象、特に収縮環と分裂装置が通常の位置関係を保っている場合を、よく説明する。しかし、両者が特殊な位置関係を示す上述のような場合については、明らかに説明能力を欠いている。そこで、微小管密度勾配に沿って、密度の高いところから低いところへ動く膜タンパク質で、その集積が収縮環マイクロフィラメントの形成を引き起こすような因子を仮定して、新しい理論モデルを提出する。論文中、この因子は自由粒子と呼ばれる。自由粒子の(表面)濃度関数Cを導入すると、その流れJは次の式で表される。J=-kC▽f-D▽C (1)ここでkは正の定数であり、Dは拡散定数を表す。つまり、右辺第一項は微小管密度の勾配による流れを、第二項はFickの法則による並進拡散を表している。細胞表面の曲面がP(u1,u2)で表現されるならば、fとCには次のような関係がある。Ct=k{H1C1f1+H2(C1f2+C2f1)+H3C2f2+C(H4f1+H5f2+H1f11+2H2f12+H3f22)}+D(H4C1+H5C2+H1C11+2H2C12+H3C22)H1=g11 H2=g12 H3=g22H4=-(g11Γ111+2g12Γ112+g22Γ122)H5=-(g11Γ211+2g12Γ212+g22Γ222) (2)CiやfiはCとfのuiによる偏微分、gijとΓは、それぞれ計量(metric)とクリストッフェルの記号(Christoffel's symbols)である。細胞の形と微小管密度関数fが与えられると、式(2)は自由粒子の濃度関数Cを形とする微分方程式になる。収縮環マイクロフィラメントの形成確率は、Cの大きさに比例すると考えると、微分方程式を解くことで、収縮環がいつ、どこに、どのように形成されるかを予測できる。微小管密度関数fが極小を取る場所に、収縮環マイクロフィラメントが出現するという仮説は、微分方程式(2)から導くことが出来る。深く険しい「谷」では、自由粒子が両側から勢いよく「谷」の底に流れ込み、そこに急速に集積するからである。また、円錐状卵で分裂装置を円錐軸に垂直に置いた実験について、微分方程式(2)は、余分な分裂溝の位置と向きを正しく予測する。この場合、分裂溝が出現する場所は極小の「谷」の底ではなく、むしろ極大の「山」の麓に相当している。自由粒子は、高く険しいこの「山」の斜面を勢いよく滑り落ち、その麓で急激に減速して集積する。分裂装置は「山」の頂上近くに位置しているので、自由粒子はかなり離れた場所に集積することになり、実際の分裂溝の位置と一致する。円筒状の卵で分裂装置を連続的に往復運動させた実験についても、微小管密度関数fを時間の関数と見なすことで、微分方程式(2)から、分裂溝出現の有無と位置を計算することが出来る。分裂装置の運動によって自由粒子は複雑な動きをするが、最終的には運動路を覆う表層の中央付近に集積して、その場所に一本の分裂溝を出現させる。このように、自由粒子モデルは、収縮環と分裂装置の位置関係について、通常の場合あるいは特殊な場合を問わず、知られている現象のほとんどを説明することが出来る。

 分裂中期に星状体の一つをtaxol処理して、分裂後期に微小管が伸長できないようにすると、赤道面に関して非対称な分裂装置が形成される。このような卵では、分裂装置が細胞の中央に置かれているにも関わらず、分裂溝は処理された星状体の方へずれて出現する(Hamaguchi,1998.Cell Motil. Cyoskeleton 40:211-219.)。分裂溝の出現する場所は極大の「山」の麓に当たり、そこでの自由粒子の集積を微分方程式(2)から導くことが出来るが、その際に、「卵が二つのプレートの間で押さえつけられると、出現する収縮環マイクロフィラメントの領域は曲がる」という予測が得られる。収縮環マイクロフィラメントの形については、まだ調べられていないので、これは実験による検証を必要とする予言である。taXO1処理した卵をカバースリップとスライドガラスの間で押さえつけて、収縮環領域の曲がりを確認できれば、自由粒子の実在を強く裏付けることになる。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は、動物細胞の細胞分裂において分裂面の位置が決定される仕組みについて、これまでに報告されたウニ受精卵の顕微操作実験を理論的に解析して、最も可能性の高いモデルを提唱したものである。

 分裂面の位置決定は、染色体が両極に分配されつつある分裂後期に、分裂装置が細胞表層での収縮環形成の位置を決定することに帰せられる。その仕組みについては、星状体微小管が関与するという説が有力であるが、詳細は分かっていない。序章の前半では、このような現在までの研究の流れが概説されている。序章の後半では、ウニ受精卵を変形したり、分裂装置の位置を変える実験を、三つの群に分類して紹介している。通常、分裂面は分裂装置の赤道面と一致し、収縮環は最初から完成されたリングとして出現する。しかし、実験条件によっては、分裂装置と収縮環のこの正常な位置関係が失われる場合がある。そこで、分裂装置が一定の位置に留まっている実験のうち、両者の正常な関係が維持されている実験を第一群、それが損なわれる実験を第二群に分類した。また、分裂装置の位置が動かされる実験は第三群に分類した。このような場合、分裂溝自体も移動することが多い。

 1979年にAsnesとSchroederは、ウニ受精卵の電子顕微鏡観察を通して、表層に達している星状体微小管の本数は、収縮環が出現する赤道よりも、極の方が多いことを示した。第一章では、彼らの結論は理論的に支持できることが示されている。

 第二章では、表層に達している星状体微小管の多い少ないを、微小管密度関数fとして数学的に計算する方法について考案している。分裂後期の星状体微小管の長さが正規分布に従い、また、紡錘体領域からそれらが排除されるとして、主に第一群に属する実験について関数fを計算し、観察された収縮環形成の有無と比較した。その結果、微小管密度が極小となる場所に収縮環マイクロフィラメントが形成される可能性が高いことが示された。

 しかし、この考え方は、第二、三群の実験結果を説明するには不十分である。そこで、第三章では、自由粒子という膜タンパク質を仮定して、その集積が収縮環マイクロフィラメントの形成を引き起こす新しいモデルが提唱された。自由粒子は、微小管密度の高い所から低い所へ流れ、また、Fickの法則に従って並進拡散する。これらの性質から、微小管密度関数fを係数として自由粒子の表面濃度関数Cを形とする偏微分方程式を作ることが出来た。まず、細胞表面が紡錘体軸に関して回転対称である場合に適用できる方程式を作られた。第三群のほとんどの実験では、卵が細い管に閉じ込められて円筒状に変形されているので、この方程式でシミュレーションを行うことが出来る。その結果、動く分裂装置によって引き起こされる自由粒子の流れが、観察された分裂溝の振る舞いを説明することが示された。円錐状に変形した卵で、分裂装置が円錐軸の上に配置されている場合、分裂面と赤道面が一致しない。この第二群の実験のシミュレーションを同じ方程式で行い、両者の不一致が正しく予測された。

 第四章では、紡錘体軸に関する回転対称性を前提としない、一般的な場合に適用できる方程式を作って、円錐状に変形した卵で、分裂装置が円錐軸に対して垂直に配置されている場合のシミュレーションが行われた。この卵では、二つの星状体の間の分裂溝に加えて、分裂装置と円錐頂点の間に、紡錘体軸と平行な分裂面を持つくびれが出現する。自由粒子モデルは、この余分なくびれの出現を正しく予測することが示された。

 カバースリップとスライドガラスの間で卵を押さえつけると、収縮環マイクロフィラメントは、局所的に出現した後に、徐々に伸びてリングを完成するという形成過程を取る。第五章では、この第二群の実験が自由粒子モデルで説明出来ることが示された。また、星状体の一つが分裂後期での成長を阻害された場合、分裂溝はその星状体の方へずれて出現する。この実験のシミュレーションは、分裂溝のずれに加えて、卵を押さえつけた場合、収縮環領域が上から見て曲がっていて、かつ、一定幅でなく先細りする形をしているという未知の現象を予測した。

 終章では、自由粒子モデルを従来の仮説と比較して、それが第一群から第三群までのすべての実験結果を説明出来る唯一の理論であることが示された。さらに、自由粒子に相当する実際の膜タンパク質について、どのようなものが考えられるか議論されている。動物細胞の分裂面の位置決め機構の研究は、長い歴史を持ち、細胞分裂に関する最重要問題の一つである。本研究において、信頼度の高い仮説が提唱されたことは、今後の研究の発展に寄与するところが少なくない。よって審査員一同は博士(農学)に値すると判定した。

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