学位論文要旨



No 215423
著者(漢字) 二川,治子
著者(英字)
著者(カナ) フタガワ,ハルコ
標題(和) カルバメート殺虫剤の非コリン性循環機能不全の機序
標題(洋)
報告番号 215423
報告番号 乙15423
学位授与日 2002.09.11
学位種別 論文博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 第15423号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 漆谷,徹郎
 東京大学 教授 松木,則夫
 東京大学 教授 津谷,喜一郎
 東京大学 教授 杉山,雄一
 東京大学 助教授 西山,信好
内容要旨 要旨を表示する

序論

 カルバメート殺虫剤は農薬として世界中で使用されている。その薬理作用は害虫のコリンエステラーゼ(ChE)阻害であり、害虫の神経伝達物質であるアセチルコリンをシナプス間隙に蓄積させ、コリン作動性神経を過剰に興奮させて殺虫効果を発揮する。一方、アセチルコリンはヒトでも中枢及び末梢のコリン作動性神経の伝達物質であることから、カルバメート殺虫剤はヒトに対しても重篤な中毒を発症する危険性を有している。

 2-sec-butylphenyl methylcarbamate(BPMC)は我が国で開発され、ウンカやヨコバイ類などの水稲害虫に卓効を示すことから、国内では多く使用されているカルバメート殺虫剤である。一方、国外ではあまり使用されていないため、毒性研究の報告は国内のものに限られ、報告数も少ない。このことは、BPMCの中毒処置に関する情報は十分でない可能性を示している。本研究は、BPMCを大量に暴露された場合を想定してウサギに静脈内投与した結果、ChE阻害以外の作用により急性死を生ずることを明らかにした。そこで、BPMCによる急性中毒症の処置法に関する情報を提供するために、急性死の機序を明らかにすることを目的とした。検討においては、代表的なChE阻害剤であるフィゾスチグミンを対照として用い、BPMCと類似構造を持つカルバメート殺虫剤2-isopropoxyphenyl methylcarbamate(PHC)と2-isopropylphenyl methylcarbamate(MIPC)とも比較した。

本論

1.中枢及び循環動態に対する作用

 フィゾスチグミン、PHC、MIPC、BPMCをウサギに静脈内投与すると、痙攣、縮瞳、流涎などのChE阻害剤に特徴的な症状が認められた。また、これらの化合物の致死用量を投与して中枢及び末梢の部位のChE活性を測定すると、いずれの部位においても著明な抑制が認められた。しかしながら、これらの異常症状及びChE活性の抑制にはカルバメート剤の間で明確な差はみられなかった。次に、無麻酔ウサギにこれらの化合物の致死用量を静脈内投与し、呼吸と血圧のパターンを調べた。フィゾスチグミンとPHCでは投与終了後から血圧が上昇し、その後呼吸停止し死亡した。一方、MIPCとBPMCでは投与中から急激に血圧が低下し、その後呼吸停止し死亡した。アトロピン(20μmol/kg、i.v.)を前処置すると、フィゾスチグミンとPHCでみられた血圧上昇は拮抗されたが、MIPC、BPMCでみられた血圧低下は拮抗されなかった。さらに、フィゾスチグミン、PHC、MIPCによる急性死はアトロピン前処置で抑制されたが、BPMCによる急性死は抑制されなかった。これらの急性死に対する人工呼吸の影響をハロセン麻酔ウサギを用いて調べると、フィゾスチグミンとPHCによる急性死は人工呼吸によって抑制されたが、BPMCによる急性死は人工呼吸の影響を受けなかった。さらに、BPMCはノルエピネフリン(NE、3μg/kg)静脈内投与による昇圧を抑制した。

 以上の結果より、ウサギにBPMCの致死用量を静脈内投与すると、症状やChE活性の抑制程度に他のカルバメート剤との差はないが、血圧パターンと致死原因が異なることを明らかにした。BPMCの致死原因はChE阻害以外の作用による末梢性の循環機能不全である可能性が示唆された。

2.摘出心筋及び血管平滑筋に対する作用

 BPMCによる循環機能不全の機序を明らかにするため、摘出心筋及び血管平滑筋に対する作用を検討した。いずれのカルバメート剤も摘出左心室乳頭筋の電気刺激による収縮と摘出大動脈のK+(40mM)及びNE(1μM)による持続的収縮を抑制したが、その中でもBPMCは乳頭筋収縮と大動脈K+収縮を強く抑制した。次にBPMCの摘出大動脈収縮抑制の機序を詳細に検討した。BPMCはNE(1μM)による収縮よりもK+(40mM)による持続的収縮を強く抑制した。BPMCによるK+収縮抑制の程度は、細胞外液のK+濃度を変化させても変わらなかったが、Ca2+チャネルアゴニストであるS(-)-BAY K 8644(100nM)を細胞外液に添加することによって弱まった。K+によって増加させた張力と細胞内Ca2+レベルを同時に測定し、BPMCを適用すると、細胞内Ca2+レベルは張力に平行して減少した。一方、BPMCはCa2+-free溶液中でのカフェイン(20mM)ならびにNE(1μM)による一過性収縮を抑制しなかった。

 以上の結果から、BPMCによる循環機能不全の機序として、心筋及び血管平滑筋収縮の抑制が示唆された。さらに、BPMCによる血管平滑筋収縮の抑制はL型Ca2+チャネルを介する細胞外からのCa2+流入の抑制によることが示唆された。

3.心筋L型Ca2+チャネル電流に対する作用

 BPMCはモルモットにおいてもウサギと同用量で同様の血圧低下及び急性死を示し、摘出乳頭筋の電気刺激による収縮をウサギと同様に抑制した。そこで、BPMCによるCa2+流入抑制の機序を明らかにするため、モルモット単離心室筋細胞のL型Ca2+チャネル電流に対する作用をホールセルパッチクランプ法を用いて調べた。BPMCは可逆的かつ濃度に依存してCa2+チャネル電流を抑制した。ピーク電流の50%抑制濃度は5.2×10-4Mであり、摘出乳頭筋収縮の50%抑制濃度1.3×10-4Mに近似していた。また、BPMCはピーク電流を抑制すると共にCa2+チャネル電流の減衰速度を著明に促進した。この促進は細胞外液のCa2+をBa2+に置換しても認められたため、電位依存性の不活性化過程の促進によると考えられた。これを支持するように、Ca2+チャネル電流の不活性化過程を2成分にフィッティングすると、BPMCは電位依存性不活性化を反映する遅い成分の不活性化を促進した。このことは、BPMC(3×10-4M)が不活性化曲線を過分極方向に12.7mVシフトさせたことからも支持された。さらに、BPMCによるCa2+チャネル電流の不活性化速度の促進は代表的なCa2+拮抗薬(ジルチアゼム、ニフェジピン、ベラパミル)に比べて顕著であった。

 以上の結果から、BPMCは心筋のL型Ca2+チャネル電流を抑制することが示唆された。さらに、BPMCはL型Ca2+チャネルの不活性化を著明に促進する特徴を持っていたことから、他のCa2+拮抗薬とは異なった機序でCa2+チャネルを抑制する可能性が示唆された。

結論

 本研究では、カルバメート殺虫剤BPMCを静脈内投与した時の致死原因とその機序を検討し、以下の結果を得た。

1.BPMCはChE阻害以外の作用による末梢性の循環機能不全によって急性死を生じた。

2.BPMCは摘出心筋及び血管平滑筋の収縮を強く抑制した。

3.BPMCによる血管平滑筋収縮の抑制は、細胞外からのL型Ca2+チャネルを介するCa2+流入抑制による。

4.BPMCは心筋L型Ca2+チャネル電流を抑制した。

5.BPMCはL型Ca2+チャネルの不活性化を著明に促進する特徴を持っていた。

 以上の結果より、BPMCは心筋及び血管平滑筋のL型Ca2+チャネルを抑制することにより、ChE阻害作用からは予想できない循環機能不全による急性死を生ずることを明らかにした。殺虫剤は散布中の事故や誤飲などによって大量に暴露され、急性中毒症を発症する恐れがあり、本研究によってBPMCの中毒処置にはChE阻害剤とは異なる処置が必要であることを示した。さらに、BPMCは他のCa2+拮抗薬とは異なった機序でL型Ca2+チャネルを抑制する可能性があることから、Ca2+チャネル研究に有用なツールとなる可能性が示唆された。

審査要旨 要旨を表示する

 カルバメート殺虫剤は農薬として世界中で使用されている。その薬理作用及び毒作用はコリンエステラーゼ(ChE)阻害であり、神経伝達物質であるアセチルコリンをシナプス間隙に蓄積させ、コリン作動性神経を過剰に興奮させることによって、害虫に対しては殺虫効果を発揮し、ヒトに対しては重篤な中毒を発症する。本研究において申請者は、カルバメート殺虫剤の1つである2-sec-butylphenyl methylcarbamate(BPMC)に大量に暴露された場合を想定してウサギに静脈内投与したところ、ChE阻害以外の作用により急性死を生ずることを見出した。この知見に基づき、BPMCによる急性中毒症の処置法に関する情報を提供するために、急性死の機序を明らかにした。

1.中枢及び循環動態に対する作用

 BPMCをウサギに静脈内投与すると、痙攣、縮瞳、流涎などのChE阻害剤に特徴的な症状が認められ、中枢及び末梢部位のChE活性が抑制された。これらの異常症状及びChE活性の抑制には、代表的なChE阻害剤であるフィゾスチグミンや類似構造を持つカルバメート殺虫剤と明確な違いは認められなかった。一方、呼吸と血圧のパターンを調べると、フィゾスチグミンでは投与終了後から血圧が上昇し、その後呼吸停止し死亡したが、BPMCでは投与中から急激に血圧が低下し、その後呼吸停止し死亡した。アトロピン(20mmol/kg、i.v.)を前処置すると、フィゾスチグミンでみられた血圧上昇及び急性死は抑制されたが、BPMCでみられた血圧低下及び急性死は抑制されなかった。これらの急性死に対する人工呼吸の影響を調べると、フィゾスチグミンによる急性死は抑制されたが、BPMCによる急性死は影響を受けなかった。また、BPMCはノルエピネフリン(NE、3mg/kg)静脈内投与による昇圧も抑制した。これらのことから、BPMCの致死原因はChE阻害以外の作用による末梢性の循環機能不全であることが示唆された。

2.摘出心筋及び血管平滑筋に対する作用

 BPMCによる循環機能不全の機序を明らかにするため、申請者はその摘出心筋及び血管平滑筋に対する作用を検討した。BPMCは摘出左心室乳頭筋の電気刺激による収縮と摘出大動脈のK+(40mM)収縮を強く抑制した。さらに、BPMCの摘出大動脈収縮抑制の機序を詳細に検討した。BPMCはNE(1mM)による収縮よりもK+(40mM)による持続的収縮を強く抑制した。BPMCによるK+収縮抑制の程度は、細胞外液のK+濃度を変化させても変わらなかったが、Ca2+チャネルアゴニストであるS(-)-BAY K 8644(100nM)を細胞外液に添加することによって弱まった。K+によって増加させた張力と細胞内Ca2+レベルを同時に測定し、BPMCを適用すると、細胞内Ca2+レベルは張力に平行して減少した。一方、BPMCはCa2+-free溶液中でのカフェイン(20mM)ならびにNE(1mM)による一過性収縮を抑制しなかった。これらのことから、BPMCによる循環機能不全の機序として、心筋及び血管平滑筋収縮の抑制が示唆された。さらに、血管平滑筋収縮の抑制は、L型Ca2+チャネルを介する細胞外からのCa2+流入の抑制によることが示唆された。

3.心筋L型Ca2+チャネル電流に対する作用

 BPMCによるCa2+流入抑制の機序を明らかにするため、申請者はモルモット単離心室筋細胞のL型Ca2+チャネル電流に対する作用をホールセルパッチクランプ法を用いて調べた。BPMCは可逆的かつ濃度に依存してCa2+チャネル電流を抑制した。ピーク電流の50%抑制濃度は5.2×10-4Mであり、摘出乳頭筋収縮の50%抑制濃度1.3×10-4Mに近似していた。また、BPMCはピーク電流を抑制すると共にCa2+チャネル電流の減衰速度を著明に促進した。この促進は細胞外液のCa2+をBa2+に置換しても認められたため、電位依存性の不活性化過程の促進によると考えられた。これを支持するように、Ca2+チャネル電流の不活性化過程を2成分にフィッティングすると、BPMCは電位依存性不活性化を反映する遅い成分の不活性化を促進していることが明らかになった。このことは、BPMC(3×10-4M)が不活性化曲線を過分極方向に12.7mVシフトさせたことからも支持された。さらに、BPMCによるCa2+チャネル電流の不活性化速度の促進は代表的なCa2+拮抗薬(ジルチアゼム、ニフェジピン、ベラパミル)に比べて顕著であった。これらのことから、BPMCは心筋のL型Ca2+チャネル電流を抑制することが明らかとなった。さらに、BPMCはL型Ca2+チャネルの不活性化を著明に促進する特徴を持っていたことから、他のCa2+拮抗薬とは異なった機序でCa2+チャネルを抑制する可能性が示唆された。

 以上のように、BPMCは心筋及び血管平滑筋のL型Ca2+チャネルを抑制することにより、ChE阻害作用からは予想できない循環機能不全による急性死を生ずることが明らかとなった。本研究によって、散布中の事故や誤飲などによって大量のBPMCに暴露された場合には、一般に行われているChE阻害剤中毒に対する処置だけでは危険であることが,初めて示唆された.これは実際の臨床例が報告される以前に実験動物レベルで危険性を予測し得たという点で,意義深いものと考えられる.実際の処置に当たっては,血圧をモニターし、低下時にはノルエピネフリンなどの心血管収縮薬の処置が必要であることが提案されている。さらに、BPMCは他のCa2+拮抗薬とは異なった機序でL型Ca2+チャネルを抑制する可能性があることから、Ca2+チャネル研究に有用なツールとなる可能性が示唆された。これらの成果は、毒性学における機能解析の重要性とこの化合物の実験ツールとしての有用性を示したものであり、博士(薬学)の学位に値すると判断した。

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