学位論文要旨



No 215424
著者(漢字) 長洲,毅志
著者(英字)
著者(カナ) ナガス,タケシ
標題(和) Rasタンパクのファルネシル化阻害に基づく抗癌剤創出に関する研究
標題(洋)
報告番号 215424
報告番号 乙15424
学位授与日 2002.09.11
学位種別 論文博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 第15424号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 関水,和久
 東京大学 教授 堅田,利明
 東京大学 教授 入村,達朗
 東京大学 教授 杉山,雄一
 東京大学 教授 岩坪,威
内容要旨 要旨を表示する

1.序

 Rasプロト癌遺伝子(H-ras、K-ras、N-ras)産物は細胞の増殖・分化に重要な低分子量Gタンパクで、刺激を受けるとGDP結合型からGTP結合型に変化しシグナルを下流に伝える。造腫瘍性を発揮するrasの活性化変異は、ヒト癌の20〜30%において観察され、特に大腸癌では50%近く、膵癌では80%以上に見られる。

 Rasを介するシグナル伝達にはrasタンパクの細胞膜への局在が必須である。そのためにはrasタンパクのC末端から4番目のシステインがファルネシル化を受けることが必要である。それを触媒するファルネシルトランスフェラーゼ(FTase)はC末端の4アミノ酸(CAAXモチーフ)を基質として認識する。我々はファルネシル化阻害剤の抗癌剤への応用を企図し、CAAXモチーフのCVFMを出発物質として合成展開を行いB956を得た(図1)。

2.ヒト癌細胞株の足場非依存性増殖への影響

 B956はH-rasタンパクのファルネシル化をIC50=11nMで阻害した。細胞レベルにおいても、マウス繊維芽細胞株NIH-3T3の活性化H-ras、K-ras形質転換株で発現しているrasタンパクのファルネシル化をそれぞれIC50=0.5、25μMで阻害した。そこで、癌細胞特有の異常増殖に対する効果を検討するためにヒト癌細胞株19株を用いて足場非依存性増殖への影響を調べた。

 これら癌細胞株を軟寒天培地上で培養すると、正常細胞とは異なり足場非依存的な増殖によりコロニーを形成する。培地へのB956添加によりコロニー形成が用量依存的に抑制された。IC50は細胞株により極めて広範囲に分散していたが、rasの種類によって感受性が異なる傾向が認められた。すなわち、H-ras変異を有する癌細胞株は非常に感受性が高く(IC50<1μM)、N-rasは中程度(1μM<IC50<10μM)、K-rasは中程度から非常に感受性が低いもの(10μM<IC50)まで広く分散していた。一方、ras遺伝子が正常な細胞株は低感受性であった。

3.形質転換NIH-3T3マウス繊維芽細胞株によるマウス腫瘍への影響

 次にB956のin vivoでの抗腫瘍効果をNIH-3T3の活性化H-ras形質転換細胞株(zH1)を用いて検討した。ヌードマウス腹側皮下にzH1を移植し、その翌日よりB956を腹腔内投与した。B956は用量依存的に腫瘍の増殖を抑制し、投与期間終了後は用量に依存した増殖再開の遅延を認めた。増殖再開後は対照群と同様の増殖速度であった。この投与量では体重の推移も対照群と差がなく、明確な毒性発現は認められなかった。

 B956のin vivoでの腫瘍増殖抑制がファルネシル化阻害に基づくものであることを示すために、腫瘍中のrasタンパクの局在を検討した。zH1細胞をヌードマウスに移植後腫瘍体積が100mm3程度になる時点まで増殖させ、B956を3日間投与した。投与終了後には明らかな増殖抑制効果を認めた。その後腫瘍を回収し、膜画分と可溶性画分をSDSゲル電気泳動後、抗ras抗体を用いたウエスタンブロット解析を行った。その結果、対照マウスから回収した腫瘍のrasタンパクは膜画分に局在するのに対し、薬剤処理群では可溶性画分に蓄積することが示された(図2)。これらのことから、B956が生体内でもrasタンパクのファルネシル化を阻害していることが示唆された。

4.ヌードマウス移植各種ヒト癌細胞の増殖に対する影響

 B956のin vivo効果はヒト癌細胞移植モデルでの有用性を検討するにはまだ不十分と考えられたので、細胞内移行性を上げたメチルエステルプロドラッグB1086を合成し(図1)、ヌードマウス移植各種ヒト癌細胞の増殖に対する治療効果を検討した。ヒト腫瘍細胞としてはEJ-1膀胱癌株(H-ras変異)、HT-1080繊維肉腫株(N-ras変異)、HCT116大腸癌株(K-ras変異)を用いた。

 EJ-1が最も高い感受性を示し、その作用は用量依存的であった。最大耐用量である100mg/kgでは投与期間中の増殖は完全に抑制された。いわゆる従来の抗癌剤に強い耐性を示すEJ-1に対してB1086が腫瘍増殖を完全に抑制した意義は大きい(図3)。

 HT-1080に対するB1086の効果はEJ-1の場合ほど顕著ではないが、統計的有意差を持って腫瘍増殖を抑制した。増殖の抑制は用量依存的であり、100mg/kgでの実験終了時の腫瘍体積は対照群の約60%であった。HT-1080は悪液質を引き起こすことが知られているが100mg/kg群では動物の状態は比較的良好で、悪液質も抑制されている可能性が示唆された。

 HCT116は用いた中では最も感受性が低く100mg/kg投与で有意な増殖抑制を示したもののその程度は約20%であった。

5.新たな化合物展開とER-51784のin vitroの活性

 B956・B1086を用いた実験からファルネシル化阻害剤がrasタンパクの膜移行を阻害し抗腫瘍活性を示すことが明らかとなりコンセプトの妥当性が示された。しかしながらまだ投与量が多く臨床での効果を期待するには不十分と考えられた。そこで更なる化合物合成展開を行い、ER-51784およびそのエステルプロドラッグER-51785、経口投与可能なC末端フルフリルアミド体ER-82704を創出した(図1)。ER-51784は前述のB956と同様に強いFTase阻害活性を示した(IC50=13nM)。フルフリルアミド化合物ER-82704の活性はエステル体ER-51785と同程度であった。一方、細胞系においては、ER-51785は、フリー体のER-51784やアミド体のER-82704よりも約十倍ほど強い活性を示した。このことは、メチルエステルが細胞内への透過に重要であることを示唆している。アミド体は細胞レベルでの活性は低かった。おそらく細胞内でフリー体に変換されないことが原因と考えられる。

 ER-51785は種々のras変異を有する細胞に対し、軟寒天培地上での足場非依存的増殖を阻害した。ER-51785はフルフリルアミド体ER82704よりも優れた効果を示した。また、K-ras変異よりもH-ras変異を有する癌に対して強い活性を示した。

6.ヒト膀胱癌EJ-1ヌードマウス移植モデルでの縮小効果

 エステルプロドラッグER-51785とフルフリルアミド体ER-82704を用いてEJ-1ヌードマウス皮下移植モデルでの効果を検討した。EJ-1はin vivoでも感受性が高くER-51785の静脈内投与実験で腫瘍の縮小を観察することができた(図4)。アミド体の場合には腫瘍縮小は観察されるもののその効果は2倍ほど弱かった。しかしながら、化合物を経口投与した場合にはアミド体の方が強い効果を示した。これはアミド体が、エステル体よりも優れた経口吸収性を有するためと考えられる。

 ER-51785の静注での効果は明確な用量依存性を示し、3.13mg/kg/day投与において50%以上の腫瘍縮小を認めた(図4)。体重推移は対照群と同様で重篤な副作用がないことが推測された。

 分割投与の方が強い治療効果を認め、かつ高濃度での非特異的毒性発現(心毒性)を避けられることから、浸透圧ポンプを用いて血中濃度を長期間保つことを試みた。

 その結果2.6mg/ml以上のポンプ内濃度で3.13mg/kg/dayと同等の腫瘍縮小効果を認めた。抗癌剤の臨床では点滴が一般的であることを考慮すると、ポンプで有効性を示し、濃度依存的毒性発現を避ける見通しが立ったことは意義深い。

7.ER-51785とPaclitaxelの併用効果の検討

 ER-51785はH-ras変異を有する腫瘍には単剤で有効性を期待できるまでに最適化されたものの、K-ras変異を有する腫瘍に対する効果は不十分であった。最近、K-rasタンパクの細胞膜への局在が、Paclitaxelで阻害されることが報告された。FTase阻害剤が、Paclitaxelとの併用でK-rasに対する効果増強ができれば、臨床上の有用性は大きくなる。そこでまず足場非依存性増殖試験での併用効果を検討した。ER-51785によるヒト膵癌株(K-ras変異)MIA PaCa-2の足場非依存性増殖阻害効果は、2.5nMのPaclitaxel添加で相乗作用が認められた。一方、K-ras遺伝子が野生型であるHT-29(ヒト大腸癌細胞株)では効果は相加的なものであった。比較対照として作用機序の異なる市販の抗癌剤5-FU、シスプラチンを用いて検討した結果、これらの薬剤とER-51785は相加的であり、相乗的な作用はPaclitaxelに特有であった。

 次にPaclitaxelとのin vivo併用効果を、in vitroで相乗的な効果の見られたMIA PaCa-2の皮下移植ヌードマウスモデルで検討した。ER-51785の10、30mg/kgにおいてPaclitaxel 6.25mg/kgを併用した場合に、単剤では見られなかった強い腫瘍縮小効果を認めた(図5)。

8.結語

 我々は癌細胞に特異性の高い抗癌剤創出を目指し、癌遺伝子の中で最も臨床での関与が明らかなrasの機能発揮に不可欠なファルネシル化を阻害する薬剤を創出した。

 前臨床の実験により、創出した化合物はH-ras変異を有する癌に対しては単剤で、K-ras変異を有する癌にはPaclitaxelとの併用で有効であることが示された。今後臨床での効果が期待される。

 この研究は、癌の悪性形質に直接アプローチするものとして、抗癌剤創薬の新しい波につながるものであると信じている。

図1.化合物の構造

図2.ヌードマウス移植zH1細胞内rasタンパクの局在

図3.ヒト膀胱癌細胞株EJ-1移植ヌードマウスに対するB1086の抗腫瘍効果

図4.ヒト膀胱癌細胞株EJ-1移植ヌードマウスに対するER-51785の抗腫瘍効果

図5.MIA PaCa-2移植ヌードマウスモデルでのE-51785とPaclitaxelの併用効果

審査要旨 要旨を表示する

1.序

 Ras遺伝子(H-ras, K-ras, N-ras)の活性化変異は臨床の癌で非常に多く観察され(ヒト癌全体の20〜30%、大腸癌では50%近く、膵癌では80%以上)、癌特異的な抗癌剤のターゲットとして重要と考えられる。Rasタンパクの機能発揮には細胞膜への局在が必須であり、そのためにはrasタンパクのC末端から4番目のシステインがファルネシル化を受けることが必要である。それを触媒するファルネシルトランスフェラーゼ(FTase)はC末端の4アミノ酸(CAAXモチーフ)を基質として認識する。本研究ではファルネシル化阻害剤の抗癌剤への応用を企図し、CAAXペプチドを出発物質として合成展開を行いB956を得た。B956でコンセプトが証明されたので、更なる合成展開を行い、臨床応用を期待できる化合物を得た。

2.ヒト癌細胞株の足場非依存性増殖への影響

 B956はH-rasタンパクのファルネシル化をIC50=11nMで阻害し、マウス繊維芽細胞株NIH-3T3の活性化H-ras, K-ras形質転換株で発現しているrasタンパクのファルネシル化をそれぞれIC50=0.5, 25μMで阻害した。そこで、ヒト癌細胞株19株を用いて足場非依存性増殖を指標に癌細胞特有の異常増殖に対する効果を調べた。その結果、B956はコロニー形成を用量依存的に抑制した。IC50は、H-ras変異を有する癌細胞株は非常に感受性が高く、N-rasは中程度、K-rasは中程度から非常に感受性が低いものまで広く分散していた。一方、ras遺伝子が正常な細胞株は低感受性であった。

3.形質転換NIH-3T3マウス繊維芽細胞株によるマウス腫瘍への影響

 次にB956のin vivoでの抗腫瘍効果をNIH-3T3の活性化H-ras形質転換細胞株(zH1)を用いて検討した。ヌードマウス腹側皮下にzH1を移植し、その翌日よりB956を腹腔内投与したところ用量依存的な腫瘍の増殖の抑制を示した。

 B956のin vivoでの腫瘍増殖抑制がファルネシル化阻害に基づくものであることを示すために、腫瘍中のrasタンパクの局在を検討した。zH1細胞のヌードマウスに移植系を用い、B956投与後明らかな増殖抑制効果を認めた時点で腫瘍を回収し、ウエスタンブロット解析を行った。その結果、対照群のrasタンパクは膜画分に局在するのに対し、薬剤処理群では可溶性画分に蓄積することが示された。即ちB956が生体内でもrasタンパクのファルネシル化を阻害していることが示唆された。

4.ヌードマウス移植各種ヒト癌細胞の増殖に対する影響

 細胞内移行性を高めたメチルエステルプロドラッグB1086を用い、ヌードマウス移植各種ヒト癌細胞の増殖に対する治療効果を検討した。ヒト腫瘍細胞としてはEJ-1膀胱癌株(H-ras変異)、HT-1080繊維肉腫株(N-ras変異)、HCT116大腸癌株(K-ras変異)を用いた。

 EJ-1が最も高い感受性を示し、その作用は用量依存的であった。最大耐用量(100mg/kg/day)では投与期間中の増殖は完全に抑制された。HT-1080に対するB1086の効果はEJ-1の場合ほど顕著ではないが、統計的有意差を持って腫瘍増殖を抑制した。動物の状態は良好で、HT-1080由来の悪液質が抑制されている可能性が示唆された。HCT116は用いた中では最も感受性が低かった。

5.新たな化合物展開とER-51784のin vitroの活性

 以上の実験からファルネシル化阻害剤がrasタンパクの膜移行を阻害し抗腫瘍活性を示すことが明らかとなりコンセプトの妥当性が示された。しかしながら投与量が多く化合物として完成度が低いと考え更なる化合物合成展開を行った結果、ER-51784およびそのエステルプロドラッグER-51785、経口投与可能なC末端フルフリルアミド体ER-82704を創出した。

 ER-51784は前述のB956と同様に強いFTase阻害活性を示した。細胞系においては、ER-51785は、フリー体のER-51784やアミド体のER-82704よりも約十倍ほど強い活性を示した。全ての化合物がB956同様K-ras変異よりもH-ras変異を有する癌に対して強い活性を示した。

6.ヒト膀胱癌EJ-1ヌードマウス移植モデルでの縮小効果

 エステルプロドラッグER-51785とフルフリルアミド体ER-82704を用いてEJ-1ヌードマウス皮下移植モデルでの効果を検討した。EJ-1はin vivoでも感受性が高くER-51785の静脈内投与実験で腫瘍の縮小を観察することができた。アミド体の場合には腫瘍縮小は観察されるもののその効果は弱かった。しかしながら、化合物を経口投与した場合にはアミド体の方が強い効果を示し経口投与薬剤の可能性を見出した。

 ER-51785の静注での効果は明確な用量依存性を示し、3.13mg/kg/day投与において50%以上の腫瘍縮小を認めた。体重推移は対照群と同様で重篤な副作用がないことが推測された。

 創投与量が同じであれば分割投与の方が強い治療効果を認めた。また、高濃度での非特異的毒性発現(心毒性)を避ける目的で、浸透圧ポンプを用いて血中濃度を長期間保つことを試みた結果、同等の腫瘍縮小効果を認めた。抗癌剤の臨床では点滴が一般的であることを考慮すると、ポンプで有効性を示し、濃度依存的毒性発現を避ける見通しが立ったことは意義深い。

7.ER-51785とPaclitaxelの併用効果の検討

 ER-51785はH-ras変異を有する腫瘍には十分な効果を示したがK-ras腫瘍に対する効果は不十分であった。最近、K-rasタンパクの細胞膜への局在がPaclitaxelで阻害されることが報告されたので、まず足場非依存性増殖試験での併用効果を検討した。その結果、ER-51785によるヒト膵癌株(K-ras変異)MIA PaCa-2の足場非依存性増殖阻害効果においてPaclitaxelとの相乗作用が認められた。一方、K-ras遺伝子が野生型であるHT-29(ヒト大腸癌細胞株)では効果は相加的なものであった。また、調べた範囲で相乗的な作用はPaclitaxelに特有であった。

 次にPaclitaxelとのin vivo併用効果を、in vitroで相乗的な効果の見られたMIA PaCa-2の皮下移植ヌードマウスモデルで検討した。その結果、単剤では見られなかった強い腫瘍縮小効果を認めた。

8. 結語

 申請者は癌細胞に特異性の高い抗癌剤創出を目指し、癌遺伝子の中で最も臨床での関与が明らかなrasの機能発揮に不可欠なファルネシル化を阻害する薬剤を創出した。

 前臨床の実験により、創出した化合物はH-ras変異を有する癌に対しては単剤で、K-ras変異を有する癌にはPaclitaxelとの併用で有効であることが示された。今後臨床での効果が期待される。

 ゲノム創薬の重要性が叫ばれるなかで特に抗癌剤については、新しい考え方を取り入れて真に患者様のためになる薬を創出せねばならない。この研究は、癌の悪性形質に直接アプローチするものとして、抗癌剤創薬の新しい波につながるものでり、博士(薬学)の学位を授与するにふさわしいと判定した。

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