学位論文要旨



No 215425
著者(漢字) 新倉,貴子
著者(英字)
著者(カナ) ニイクラ,タカコ
標題(和) アルツハイマー病に特異的に作用する神経細胞死拮抗因子Humaninの解析
標題(洋)
報告番号 215425
報告番号 乙15425
学位授与日 2002.09.11
学位種別 論文博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 第15425号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岩坪,威
 東京大学 教授 新井,洋由
 東京大学 教授 堅田,利明
 東京大学 教授 入村,達郎
 東京大学 助教授 仁科,博史
内容要旨 要旨を表示する

 アルツハイマー病(AD)は痴呆を主徴とする進行性の神経変性疾患で、有病率が加齢と共に増加することから、早期診断、及び、根治的治療法の確立への希求が社会の高齢化に伴い著しく高まっている。ADは特定の原因が不明の孤発性ADと遺伝子の変異が原因である家族性AD(FAD)に分類される。脳の病理学的所見としては異常構造物である老人斑、神経原線維変化、神経細胞死が認められる。ADは神経細胞の脱落による欠失障害と考えられることから、神経細胞死はAD治療法開発の重要な標的である。FAD患者数はAD全体の1%以下でしかないが、遺伝子の変異が原因である単一遺伝子病であることから、病態の分子レベルでの研究にとりわけ適している。FADの原因遺伝子として今までにアミロイド前駆体蛋白(APP)、プレセニリン(PS)1及びPS2が発見されている。FADの原因遺伝子の変異体は神経細胞死を直接誘導できるが、その細胞死機構の詳細な解析により、遺伝子や変異体の種類によって細胞死を誘導する細胞内経路が異なることが明らかにされてきている。そこで、細胞死機構にはとらわれずに神経細胞死抑制分子を探索する無作為スクリーニングを実施した。

HNはADの細胞死侵害刺激に特異的な細胞死物抑制因子である

 FADの原因である第642番目のValがIleに置換したAPP変異体、V642I-APPの惹起する細胞死に拮抗しうる因子を探索する機能的スクリーニングを実施し、新規の因子ヒューマニン(Humanin:HN)を得た。HNはアミノ酸24残基から成るポリペプチドで、配列はMAPRGFSCLLLLTSEIDLPVKRRAである。HNの合成ペプチドをV642I-APP cDNAを導入した培養神経細胞F11の培地に添加すると、V642I-APPが惹起する細胞死を用量依存的に抑制し、1-10μMで空ベクターを導入した陰性対照と同程度の細胞死率にまで抑制した。また、第14番目のSer(Ser14)をGlyに置換する(Humanin G:HNG)と1000分の1の濃度である10nMで完全な細胞死抑制活性を示した。一方、Cys8をAlaに置換すると活性は完全に消失した。

 HNはFAD遺伝子変異体である4種類のAPP変異体、5種類のPS1変異体、2種類のPS2変異体が培養神経細胞F11に惹起する細胞死を全て抑制した(表1)。また、老人斑の主な構成成分であるべータアミロイド(Aβ)が初代神経細胞に誘導する細胞毒性については、HN前処理により細胞死も神経突起の変性も完全に阻止された(図1)。更に、APP細胞外領域を認識する抗APP抗体が初代神経細胞に誘導する細胞死も抑制した。一方、ハンチントン病や脊髄小脳変性症の原因とされる長鎖ポリグルタミン(Q79)、家族性筋萎縮性側索硬化症の原因遺伝子のSOD1変異体、抗癌剤のエトポシド、クロイツフェルト・ヤコブ病の原因のプリオンペプチドが惹起する神経細胞死にはHNは全く効果がなかった。これらの結果から、HNはADの侵害刺激に特異的な細胞死抑制因子であると示唆された。

HNの1次構造と活性との関連性

 HNの欠損変異体を用いてV642I-APPの誘導する細胞死への抑制効果を調べたところ、HNの活性に必要な最小領域はPro3からPro19までの17残基であった。この17残基のうち、Pro3、Cys8、Leu9、Leu12、Thr13、Ser14、Pro19をAlaに置換すると活性が消失し、これら7残基が必須であることがわかった。

 HNのCys8のAlaへの置換体やSH基をS-S結合させた2量体HNは細胞死抑制効果が消失または低減した。Cys8の他のアミノ酸への置換体を用いてV642I-APPの誘導する細胞死への効果を調べたところ、塩基性アミノ酸LysとArgの置換体はCysとほぼ同様の細胞死抑制活性を示した。よって、SH基を持たないLysまたはArgへのCys8の置換体は生体内修飾の影響を受けず、生体への投与に適すると考えられた。

 生体内での蛋白質分解酵素への耐性を考慮し、HN配列中のトリプシンとキモトリプシンの切断部位、Arg4とPhe6をAlaに置換したHNG(AGA-HNG)の効果をHNGと比較した。AGA-HNGはHNGの3から10倍の活性を示し、現時点で最も活性の強いHN誘導体であることがわかった。

 以上の構造活性相関はFAD変異体とAβによる細胞死において共通であったことから、HNは同一の機序でこれら全ての細胞死に拮抗すると推察された。

HNの作用機序

 HNはAβの細胞毒性に拮抗するので、HNがFAD変異体の誘導する細胞死を抑制する作用機序はAβの産生抑制ではないかと考えられた。Aβ産生増加をもたらすK595N/M596L-APPを導入した培養神経細胞F11から分泌されるAβの量をHN存在下で測定したところ、細胞毒性のあるAβ42も細胞毒性のないAβ40もHNおよびHNGの存在下で産生量の変化は認められず、HNはAβ産生には関与しないと考えられた。

 HN遺伝子を細胞に導入するとHNは細胞外に分泌される。Leu9のArgへの置換体(HNR)は細胞内には発現するものの細胞外への分泌能は消失し、細胞死抑制効果も認められなかった。しかし、HNR合成ペプチドをV642I-APPを導入した細胞に添加すると細胞死が抑制された。このことから、HNは細胞外からのみ作用することが示唆された。さらに、放射性標識したHNGはF11細胞に特異的に結合し、HNの特異的な結合分子が細胞外に存在することが示唆された。

 HNによる細胞内反応を知るため、アポトーシスの際活性化されるプロテアーゼ、caspase3について調べた。アポトーシス型の細胞死を惹起するV642I-APPによるcaspase3の活性化はHN存在下では認められず、HNの細胞死抑制効果がcaspaseカスケードの上流に働くことを示唆した。また、細胞内シグナル伝達因子の阻害剤として、wortmannin、PD98059、genisteinについて調べたところ、HNの細胞死拮抗作用はgenisteinのみで抑制された。よって、HNはPI-3キナーゼやMAPキナーゼではなく、チロシンキナーゼによって細胞死抑制活性を起こすと考えられた。さらに、チロシンキナーゼのひとつJAKキナーゼの阻害剤AG490が初代神経細胞へのAβの毒性に対するHNの拮抗作用を阻止したことから、HNの細胞死抑制活性はJAK/STAT系を介すると推察された。

 初代神経細胞へのAβの細胞毒性に拮抗しうる因子として、insulin-like growth factor I(IGF-I)、basic fibroblast growth factor(bFGF)、activity-dependent neurotrophic factor 9(ADNF9)が報告されている。FAD遺伝子変異体による細胞死に関しては、V642I-APPには全ての因子が拮抗したが、NL-APPに拮抗したのはADNF9だけであった。PS1とPS2の変異体に対しては全ての因子が拮抗しなかった。IGF-I及びbFGFは抗アポトーシス作用を持つことから、これらの因子はアポトーシスによる細胞死のみを抑制すると考えられた。一方、全てのFAD変異体遺伝子による細胞毒性に拮抗できるHNはADに関する侵害刺激によるアポトーシス、非アポトーシス両方の細胞死を抑制しうると推察された。

 HNの細胞死抑制効果はADの侵害刺激に対して高い特異性が認められ、HNがより副作用の低いAD治療薬となることを示唆した。HNの活性はその1次構造に依存しており、アミノ酸の置換により活性の高い誘導体を得られたことから、より低濃度で活性を持つHN誘導体を作出して臨床応用できる可能性が示唆された。HNはAβの産生を阻害せず、むしろ細胞外の特定の分子に結合して細胞死抑制活性を起こすと考えられた(図2)。このことから、HNはAβを標的とした他の治療法、Aβ産生阻害剤などとの併用によってより広範なAD治療に役立つと考えられた。HNの生体内での安定性や毒性、作用機序の詳細な解明などの検討が今後の課題であるが、今回明らかにしたHNの特性はHNが新しいAD治療薬のシードとして期待できる因子であることを示すものである。

図1 Aβによる初代神経細胞死に対するHNの効果

マウス大脳皮質初代神経細胞の蛍光顕微鏡像。Calcein-AMにより生細胞を可視化した。細胞は25μMAβ1-43処理により死滅するが(中央)、10μM HN存在下(右)では未処理細胞(左)と同様に、細胞体、神経突起ともにほぼ完全な形態を保っている。

表1 HNが有効なAD関連細胞侵害因子

図2.HNによる神経細胞死抑制の作用標的の模式図

ADにおける神経細胞死はFAD変異体によって直接誘導される細胞死とAβの毒性による細胞死の2種類があると考えられる。HNはこの両方の細胞死を抑制するが、Aβ産生には影響しない。

審査要旨 要旨を表示する

 アルツハイマー病(AD)は痴呆を主徴とする進行性の神経変性疾患で、有病率が加齢と共に増加することから、早期診断、及び、根治的治療法の確立への希求が社会の高齢化に伴い著しく高まっている。ADは特定の原因が不明の孤発性ADと遺伝子の変異が原因である家族性AD(FAD)に分類される。脳の病理学的所見としては異常構造物である老人斑、神経原線維変化、神経細胞死が認められる。ADは神経細胞の脱落による欠失障害と考えられることから、神経細胞死はAD治療法開発の重要な標的である。FAD患者数はAD全体の1%以下でしかないが、遺伝子の変異が原因である単一遺伝子病であることから、病態の分子レベルでの研究にとりわけ適している。FADの原因遺伝子として今までにアミロイド前駆体蛋白(APP)、プレセニリン(PS)1及びPS2が発見されている。FADの原因遺伝子の変異体は神経細胞死を直接誘導できるが、その細胞死機構の詳細な解析により、遺伝子や変異体の種類によって細胞死を誘導する細胞内経路が異なることが明らかにされてきている。そこで、申請者は細胞死機構にはとらわれずに神経細胞死抑制分子を探索する無作為スクリーニングを実施した。

 FADの原因である第642番目のValがIleに置換したAPP変異体、V642I-APPの惹起する細胞死に拮抗しうる因子を探索する機能的スクリーニングを実施し、新規の因子ヒューマニン(Humanin:HN)を得た。HNはアミノ酸24残基から成るポリペプチドで、配列はMAPRGFSCLLLLLTSEIDLPVKRRAである。HNの合成ペプチドをV642I-APP cDNAを導入した培養神経細胞F11の培地に添加すると、V642I-APPが惹起する細胞死を用量依存的に抑制し、1-10μMで空ベクターを導入した陰性対照と同程度の細胞死率にまで抑制した。また、第14番目のSer(Ser14)をGlyに置換する(Humanin G:HNG)と1000分の1の濃度である10nMで完全な細胞死抑制活性を示した。一方、Cys8をAlaに置換すると活性は完全に消失した。

 HNはFAD遺伝子変異体である4種類のAPP変異体、5種類のPS1変異体、2種類のPS2変異体が培養神経細胞F11に惹起する細胞死を全て抑制した(表1)。また、老人斑の主な構成成分であるべータアミロイド(Aβ)が初代神経細胞に誘導する細胞毒性については、HN前処理により細胞死も神経突起の変性も完全に阻止された。更に、APP細胞外領域を認識する抗APP抗体が初代神経細胞に誘導する細胞死も抑制した。一方、ハンチントン病や脊髄小脳変性症の原因とされる長鎖ポリグルタミン(Q79)、家族性筋萎縮性側索硬化症の原因遺伝子のSOD1変異体、抗癌剤のエトポシド、クロイツフェルト・ヤコブ病の原因のプリオンペプチドが惹起する神経細胞死にはHNは全く効果がなかった。これらの結果から、HNはADの侵害刺激に特異的な細胞死抑制因子であると示唆された。

 次にHNの欠損変異体を用いてV642I-APPの誘導する細胞死への抑制効果を調べたところ、HNの活性に必要な最小領域はPro3からPro19までの17残基であった。この17残基のうち、Pro3、Cys8、Leu9、Leu12、Thr13、Ser14、Pro19をAlaに置換すると活性が消失し、これら7残基が必須であることがわかった。

 HNのCys8のAlaへの置換体やSH基をS-S結合させた2量体HNは細胞死抑制効果が消失または低減した。Cys8の他のアミノ酸への置換体を用いてV64I-APPの誘導する細胞死への効果を調べたところ、塩基性アミノ酸LysとArgの置換体はCysとほぼ同様の細胞死抑制活性を示した。よって、SH基を持たないLysまたはArgへのCys8の置換体は生体内修飾の影響を受けず、生体への投与に適すると考えられた。

 生体内での蛋白質分解酵素への耐性を考慮し、HN配列中のトリプシンとキモトリプシンの切断部位、Arg4とPhe6をAlaに置換したHNG(AGA-HNG)の効果をHNGと比較した。AGA-HNGはHNGの3から10倍の活性を示し、現時点で最も活性の強いHN誘導体であることがわかった。

 以上の構造活性相関はFAD変異体とAβによる細胞死において共通であったことから、HNは同一の機序でこれら全ての細胞死に拮抗すると推察された。

 HNはAβの細胞毒性に拮抗するので、HNがFAD変異体の誘導する細胞死を抑制する作用機序はAβの産生抑制ではないかと考えられた。Aβ産生増加をもたらすK595N/M596L-APPを導入した培養神経細胞F11から分泌されるAβの量をHN存在下で測定したところ、細胞毒性のあるAβ42も細胞毒性のないAβ40もHNおよびHNGの存在下で産生量の変化は認められず、HNはAβ産生には関与しないと考えられた。

 HN遺伝子を細胞に導入するとHNは細胞外に分泌される。Leu9のArgへの置換体(HNR)は細胞内には発現するものの細胞外への分泌能は消失し、細胞死抑制効果も認められなかった。しかし、HNR合成ペプチドをV642I-APPを導入した細胞に添加すると細胞死が抑制された。このことから、HNは細胞外からのみ作用することが示唆された。さらに、放射性標識したHNGはF11細胞に特異的に結合し、HNの特異的な結合分子が細胞外に存在することが示唆された。

 HNによる細胞内反応を知るため、アポトーシスの際活性化されるプロテアーゼ、caspase3について調べた。アポトーシス型の細胞死を惹起するV642I-APPによるcaspase3の活性化はHN存在下では認められず、HNの細胞死抑制効果がcaspaseカスケードの上流に働くことを示唆した。また、細胞内シグナル伝達因子の阻害剤として、wortmannin、PD98059、genisteinについて調べたところ、HNの細胞死拮抗作用はgenisteinのみで抑制された。よって、HNはPI-3キナーゼやMAPキナーゼではなく、チロシンキナーゼによって細胞死抑制活性を起こすと考えられた。さらに、チロシンキナーゼのひとつJAKキナーゼの阻害剤AG490が初代神経細胞へのAβの毒性に対するHNの拮抗作用を阻止したことから、HNの細胞死抑制活性はJAK/STAT系を介すると推察された。

 初代神経細胞へのAβの細胞毒性に拮抗しうる因子として、insulin-like growth factor I(IGF-I)、basic fibroblast growth factor(bFGF)、activity-dependent neurotrophic factor 9(ADNF9)が報告されている。FAD遺伝子変異体による細胞死に関しては、V642I-APPには全ての因子が拮抗したが、NL-APPに拮抗したのはADNF9だけであった。PS1とPS2の変異体に対しては全ての因子が拮抗しなかった。IGF-I及びbFGFは抗アポトーシス作用を持つことから、これらの因子はアポトーシスによる細胞死のみを抑制すると考えられた。一方、全てのFAD変異体遺伝子による細胞毒性に拮抗できるHNはADに関する侵害刺激によるアポトーシス、非アポトーシス両方の細胞死を抑制しうると推察された。

 HNの細胞死抑制効果はADの侵害刺激に対して高い特異性が認められ、HNがより副作用の低いAD治療薬となることを示唆した。HNの活性はその1次構造に依存しており、アミノ酸の置換により活性の高い誘導体を得られたことから、より低濃度で活性を持つHN誘導体を作出して臨床応用できる可能性が示唆された。HNはAβの産生を阻害せず、むしろ細胞外の特定の分子に結合して細胞死抑制活性を起こすと考えられた。このことから、HNはAβを標的とした他の治療法、Aβ産生阻害剤などとの併用によってより広範なAD治療に役立つと考えられた。HNの生体内での安定性や毒性、作用機序の詳細な解明などの検討が今後の課題であるが、今回申請者が明らかにしたHNの特性はHNが新しいAD治療薬のシードとして期待できる因子であることを示すものであり、ADの治療薬創出に資するところが大きく、博士(薬学)の学位に値する内容を有するものと考える。

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