学位論文要旨



No 215450
著者(漢字) 門脇,俊介
著者(英字)
著者(カナ) カドワキ,シュンスケ
標題(和) 理由の空間の現象学 : 表象的志向性批判
標題(洋)
報告番号 215450
報告番号 乙15450
学位授与日 2002.09.30
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第15450号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高山,守
 東京大学 名誉教授 渡邊,二郎
 東京大学 教授 松永,澄夫
 東京大学 助教授 熊野,純彦
 東京大学 助教授 野矢,茂樹
内容要旨 要旨を表示する

 この論文は、入間が世界に赴き世界に住まうことを可能にするものとして、20世紀の哲学が導入した「志向性」の概念を、現象学的伝統と分析哲学的伝統の両者にまたがって検討し、志向性の仕組みを、私と他者とがともに参与し批判的会話を交わす「理由の空問」として解釈することをめざしている。

 序論においては、この論文全体にかかわる重要な概念が導入される。近代の初頭以来意識とその対象との関係を、指示関係にならった意味論的モデルに基づいて把握しようとする「表象主義1」は、志向性の理解のためには不適切な発想であって、文あるいは命題を単位とする「表象主義2」(カント、フレーゲ、デイヴィドソン)こそが、志向性に内在する規範的関係を正確にとらえることができることがまず確認される。表象主義2における志向性の概念は、真であるとみなす・端的に行為するという「コミットメント」と、推論的な「理由の空間」という志向性の全体論的脈絡においてのみ成立するという二つの性格を持つ。フッサールとハイデガーの現象学はさらに、この推論的な「理由の空間」の基底に、非推論的な「理由の空間」とそれによって可能になる根源的な志向性を見いだした。表象主義2は、根源的な志向性を認める「反表象主義」に訴えることなしには不完全であり、この点を最も徹底して強調したのはハイデガーであった。さらに、「理由の空間」と志向性に関するこうした理解から、他者についての志向性の「帰属」という問題にも新しい光が投げかけられる。

 1章は、フッサールの初期から後期までの著作を検討することを通して、表象主義1に基づいた基礎づけ主義の擁護者という従来からのフッサール像を訂正し、フッサールをむしろ表象主義1の強力な批判者として解釈する。フッサールは、知覚的志向性におけるコミットメントの意味を正しくとらえ、何らかの知覚をその部分として可能にする志向性の全体論的構造を「地平」の概念を用いて明らかにした。フッサールは、コミットメントと全体論的性格を志向性に認める表象主義2の強力な推進者であるとともに、これらの志向性の性格を明示的命題を形成しない知覚的志向性について指摘した点で、反表象主義への道を拓きつつあった。知覚的志向性に関するフッサールのこうした議論を前提にすることによって、後期フッサールの「生活世界」の概念を、より正確に理解することができることも示されている。

 2章は、志向性を意識に内在する心的状態としてではなく、人の語りふるまっていることと周囲の状況とに基づいて理解しようとする「解釈主義」の立場から、志向性と言語に関する古典的な立場(中期のフッサール、サール)を批判している。すなわち、言語の意味とは、すでに意識の内部に潜在した命題的志向性が外界に転写されて、物理的な記号に背負わされるときに成立するという立場を批判しているのである。信念や意図のような志向性の帰属なしには言語理解が成立しないことを認めると同時に、・このような志向性の成立が逆に社会的に構成された言語によって可能になるという点が、批判の基礎となっている。

 3章は、話者とその発話の理解者(解釈者)とのあいだで成立する志向性の体制の規範的な網の目の内部でのみ、言語の意味は理解可能になるという、デイヴィドソン流の解釈論的規範主義の立場を擁護する。近年の認知意味論が、根源的な志向性を分節化しているような「受肉」した意昧の探究を提案していることを評価した上で、「理由の空間」に内在する真理や合理性といった規範的概念なしに、意味の探究を進めようとしている点に、認知意味論の錯誤が存することを指摘している。

 4章は、意図の志向性が欲求に還元不可能で、行為のコミットメントをなす担い手であることが自覚されてきた経過を追跡している。そのさい、意図が欲求に還元不可能であるという主張は、意図が、欲求・信念モデルから説明可能な意図的行為に還元不可能であるという主張として理解される。意図的行為に還元不可能であることは、欲求と区別された固有の心的状態としての「意図」という概念を成立させるか(デイヴィドソン)、あるいは意図的行為のうちに何らかの未来の状態へ向かう位相を見いだすか(アンスコム、ウィルソン)である。前者の場合は、古典的意志論という修復不可能な説を復活させかねない危険をはらむこと、後者の場合は、未来の目的からのふるまいの統御をどう考えるべきかについての困難を抱えることが明確にされ、5章におけるハイデガーの行為論による解決の前提が与えられる。

 5章は、前期ハイデガーにおける探究主題としての「存在者の存在」が、「理由の空間」という非因果的な様相で、何らかの存在者が出会われることを可能にする全体論的条件であり、このことをハイデガーは、カントの「存在論的ア・プリオリ」の概念から引き継いでいることを論じている。『存在と時間』におけるハイデガーは、道具的存在者、現存在、事物的存在者のそれぞれの存在論的カテゴリーに対応して、それらの存在者の出現を可能にする全体論的条件を探究しており、そうした条件は、理解可能性、適所性、方向づけ、コミットメントといった、非推論的な志向性の構造から理解されることがこの章で解明されている。さらに、このような構造に注目することによって、表象的志向性の把握を拒むコンテクストとしての「世界」、心的状態としての意志や明示的な目的表象抜きの意図的行為の成立、一定のコンテクストに依存しながらもコンテクストを無効化する自己解釈を内蔵する科学理論、などの諸現象が明らかにされる。

 6章は、これまで「内的体験の記述」の方法から比較されてきた、アウグスティヌスとフッサールを、むしろ表象主義1や、現前への内的意識としての「表象的志向性」に対する、共同の批判者として解釈する方向を提示している。両者が明らかにしている「知覚の目的論」は、知覚を、単なる現前の意識としてではなく、むしろ行為であるか行為に連接する「強い意味での志向」としてとらえているのであり、存在論や時間論もこうした非表象主義的な観点から再考されるべきであることが論じられる。

審査要旨 要旨を表示する

 『理由の空間の現象学--表象的志向性批判』との表題をもつ本論考は、表題からも窺えるとおり、一貫して「表象的志向性」を批判的に検討することにより、新たな「現象学」--「理由の空間の現象学」--の確立を目論むものである。

 それによれば、とりわけ現象学によって主題化された「志向性」--何らかの対象へと向かうという心的状態の特性--は、実は種々の哲学説において中心的な役割を果たすものなのだが、こうした志向性が、多くの学説において、「表象的志向性」と捉えられた。それにより、二つのタイプのいわゆる「表象主義」が成立した。その第一のタイプ(「表象主義1」)は単純に、心的な世界表象が外的な対象(知覚対象)と対応すると考えようとするもので、本論考によれば、これは端的に却下されるべきものである。慎重に検討されるべきは、第二のタイプ、すなわち、カント、フレーゲ、デイヴィドソン等に代表される「表象主義2」である。それは、全体論的な脈絡において成立する、明示的命題的な理由付けの推論連関(「理由の空間」)を説き、かつ、これを単に客観世界に対応する世界表象と見なすのではなく、世界そのものへとコミットする機序であると?つまり、「理由の空間」が世界そのものであると--捉えようとするのである。

 とりわけこうした「表象主義2」の批判的検討によって、本稿の提起することは、この「理由の空間」には、これを可能にしているさらに根底的な非明示的・非命題的・非推論的(あるいは前明示的・前命題的・前推論的)な「地平」が存していること、この「地平」が主題化され、一層根源的な志向性が論じられること(「反表象主義」)によってこそ、「表象主義2」の趣意も生かしうるということ、そして、フッサール、ハイデガー、さらには実はアウグスティヌスが、こうした「反表象主義」--新たに提起されるべき「理由の空間の現象学」--を、すでに相当程度明確に説いていたのだということ、である。

 こうした論議が展開される本論第一章においては、そもそもフッサールの提起する「志向性」とはいかなるものかが、詳細に論じられる。それによれば、その「志向性」の最も基本的な形態は「信念」である。その「信念」とは、「科学的な仮説」のように命題として明示的に表明されるものから、およそ非明示的な、身体動作等に関わる最も基底的なもの--地面が固いという歩行中の非明示的信念--までを含み、かつ、そうした諸々の信念が、相互に連関して「全体論的なネットワーク」(すなわち、「地平」)をなしているという、そうした総体である。フッサール現象学の企図したことは、こうした信念体系を、「あらゆる断定や先入見を停止して」再構築することである。ただしその際重要なのは、この信念体系が総じて「直観によって正当化される」ということ、つまり、信念体系とは直観される世界そのものだということである。

 この世界そのものである信念体系(「地平」)こそが、「反表象主義」的な「理由の空間」を形成する。それは、世界に対峙する主観的な信念体系(表象)であるのではなく、世界そのものなのであり、かつ、命題的・推論的な理由付けの連関を基礎づける、前命題的・前推論的な地平としての「理由の空間」なのである。

 しばしば「表象主義」の代表格と見なされるフッサールの現象学も、本論考によれば、実はこうして「反表象主義」--新たな「理由の空間の現象学」--へと一歩踏み出していたのである。

 第二章、第三章は、同様の志向性論が、既存の言語論批判という形で犀開される。すなわちサールの提起する重要テーゼは、「言語は志向性に依存する」である。しかしこれによっては、言語と志向性(われわれの関わる世界)とが独立であると見なされ、言語が単なる心的なものとされざるをえない(「表象主義1」)。重要なのは、かのテーゼが「志向性は言語に依存する」によって補完されるべきことである。また、言語を「客観主義的な」存在「規範」--客観的世界と正確に対応する存在モデル--と見なす「客観主義的規範主義」(ある観点からのデイヴィドソン)も維持することはできない(「表象主義1」)。これらは総じて、「表象主義2」でありつつ「反表象主義」へ道をも拓きうる「解釈主義的規範主義」(別の観点からのデイヴィドソン)へと洗練されなければならない。

 第四章の主題は、「意図の自立性」である。客観的世界とは独立の、心の内なる世界としての「意図」なるものが、存立するのかどうか。むろん本論考によれば、そうした「意図」の存在(「表象主義1」)は、否定される。心の内なる意図が原因となって作用を身体に及ぼし、身体が世界に関与するという構図は、採れない。この構図を、目的論的な観点を導入することにより、「表象主義2」の方向で保持しようとしても根本的な困難は解消されえない。意図の真の位置づけは、ハイデガーの行為論の観点(「反表象主義」)が視野に入れられることにおいてはじめて、明確にしうるのである。

 第五章において、そのハイデガーの行為論が主題化される。それは、カントの超越論哲学--主観的な規範が客観世界のあり方そのものである--の明瞭な影響下にあるとされるが、本論考によれば、その影響下、『存在と時間』においてかの「地平」が、相互連関する「存在者」の全体、つまり、「道具連関の全体」と捉えられ、それが「適所性の全体」と表現される。その意味は、「地平」(「表象」)が決して「心の内で表象されている」もの(「表象主義1」)ではなく、世界そのものだということ(「表象主義2」)、そしてそれが間違いなく、かの基盤としての「理由の空間」なのだということ(「反表象主義」)、である。

 最終章、第六章において、一転して中世の代表的思想家アウグスティヌスが主題化され、この思想家においては、「知覚の目的論と行為の目的論との連接」が視野に捉えられており、ここに包括的でこのうえなく内容豊かな目指すべき「現象学」--「理由の空間の現象学」--の萌しが明瞭に見て取られうるという。

 こうして本論考は、実に詳細かつ見事にいわゆる現代哲学を中心とした批判的考察--表象的志向性批判・表象主義批判--を遂行することにより、自らの斬新で先端的な哲学説を慎重かつ確実に彫琢しようとする、哲学的思索の結実である。むろんこの哲学的思索は、なお緒に付いたばかりである。そこには例えば、「表象主義2」的な「理由の空間」と「反表象主義」的な「理由の空間」との関連づけといった問題が残されていよう。それは、現代哲学のトピックである身体還元論的な自然主義との対決という困難な問題だが、この点をめぐっての説得的な論議がなお期待される。また、本論考の主旨に即した、フッサール、ハイデガー、両哲学の全面的な再解釈も、なお期待されよう。

 もちろん、こうした点を考慮しても、本論考がそれ自体すでに、内実豊かな真正の哲学論考であることにいささかの変わりもない。

 審査委員会は、本論考が博士(文学)の学位を授与するに値すると判定する次第である。

UTokyo Repositoryリンク