学位論文要旨



No 215451
著者(漢字) 池田,和臣
著者(英字)
著者(カナ) イケダ,カズオミ
標題(和) 源氏物語 : 表現構造と水脈
標題(洋)
報告番号 215451
報告番号 乙15451
学位授与日 2002.09.30
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第15451号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小島,孝之
 東京大学 教授 多田,一臣
 東京大学 助教授 藤原,克巳
 東京大学 教授 戸倉,英美
 東京大学 助教授 大津,透
内容要旨 要旨を表示する

 一貫して『源氏物語』独自の世界形成・表現形成の方法・仕組みについて論じた。それを解明するためには、多方面からのアプローチが必要になる。すなわち、話型や先行作品の引用(2・4・13/3・9)、既に書き記した物語の中から構想力を編み出していく方法(5・12)、自己引用や鍵語(キーワード)が張り巡らされた表現構造(1・7・9・11・12・14・15)、語りの表現構造(6・8)などの分析である。なお、表現の方法や構造の分析の前提作業として必要不可欠であれば、古めかしい考証もおこなった(10)。また、『源氏物語』の世界形成に深く関わる問題として、表現主体と言葉の世界との動的関係についても考察した(1・6・16)。さらに、『源氏物語』の表現形成における引用の問題に関連して、『源氏』と後期物語の間の引用関係をも考察した。『源氏物語』の言葉が獲得した主題的想像力の、後期物語への展開を追究したのである(17・18・19・20)。

 1:序にかえて-『源氏物語』の達成 表現と文体- 本書全体の理解の助けとするべく、自らの研究姿勢について述べた。『源氏物語』の独自な達成をはかる尺度として重要なのは、書かれた内容よりも書き方の方であるという立場から、『源氏物語』の文体・虚構の方法・表現の構造に関わる研究史を辿り、表現構造・語り・引用(引歌・物語取り・自己引用)の研究意義について説いた。また、登場人物・語り手・機能としての作者・実体としての作家の相互関係について、テクスト論の考え方を批判した。

I『源氏物語』第一部についての諸論

 2:第一部の懇像力の基底 世界形成・表現形成といっても、無からの創造はありえない。作家の意識よりも前にあらかじめ存在し、作家のものの見方や想像力に形を与えてくれるものがある。それが話型であり、先行作品である。それらの無意識的発動によって、創造は始まる。『源氏』第一部の創造においても、『記』『紀』の海幸山幸神話の話型が重要な意味をもっている。それが第一部の基層に三度も引き据えられてい、光源氏の秘密の子である冷泉帝が神話における初代天皇神武に重ねられていることを明らかにした。

 3:藤壺と「長恨歌」-引用による主題性の変容-藤壺が、光源氏の栄華の物語における役割とは別に、長恨歌からの引用表現によって、それも平安時代の一般的長恨歌理解を革新するかたちの引用によって、男の「愛執」の拒否と女の「宿世」の発見という、新しい主題の芽を生成していることを明らかにした。

 4:『源氏物語』における継子譚の形態分析-玉鬘物語の解析のために- 継子譚の話型の引用や変奏という観点から、玉鬘物語の人間関係がどのように形成されているかということを分析し、玉鬘物語が意図して描いたのは光源氏と玉鬘の隠微に淫靡なきわどい関係であったことを明らかにした。

 5:玉鬘十帖の興趣-方法的実験と内発的生成力- 玉鬘十帖を特徴づける独自な作品形成の方法、すなわち、読者を意識した作為的方法と、自己を形成する構想力を自らが既に書き記した物語の内部から新たに紡ぎ出していく方法について論じた。因みに、志賀直哉の芥川批判に言及したのは、その批評原理が『源氏』研究における批評原理と同じであり、共に近代主義の弊害に陥っていることを示すためであった。

II『源氏物語』第二部についての諸論

 6:草子地・語りについての-視角-作晶形成における方法的意義- 古来「草子地」と呼び慣わされる表現様式がある。これは、語り手が表現の上に姿を顕在化させて語る、いわゆる「語りの表現構造」のことである。この「語りの表現構造」が『源氏』の独自な世界形成や主題展開にいかに関わっているのかを、主に第二部を中心に分析した。

 付論:若菜巻の文体-方法としての挿入句- 若菜上巻における「はさみこみ」と呼ばれる文体の表現機能を分析した。これは、物語の奥深く微妙な状況を立体的に表現し、女三宮と柏木の密通事件へのストーリー展開を必然化するはたらきをもっていた。

 7:タ霧巻の引用論的解析-反復・変奏の方法.あるいは「身にかふ」タ霧- タ霧巻が、女三宮と柏木の物語を反復し変奏していること、そしてそのことによって、女三宮と柏木の物語が潜在させていた「女の物語」の主題的側面を照らし出し、その主題に自らを連繋させ、さらにそれを深化させていることを明らかにした。

 8:紫上終焉の方法-御法巻の表現構造- 紫上の孤絶した内面と死をえがく文体に、情意性形容詞で文末を終止させるという特徴がある。これは語りの表現構造を利用して、語り手の情意を作中世界に投げかけるものであり、この特殊な文体の多用によって、語り手と読者の情緒的共生空間がつくりだされていることを明らかにした。

III『源氏物語』第三部についての諸論

 9:引用表現と構造連関をめぐって-第三部の表現構造- 共通の引歌本歌をもつ、離れた部分と部分とが、その共通引歌を媒介にして主題的に連繋されたり対照されていることを明らかにした。また同様に、自己引用や鍵語による連繋や対照もあり、それらによる隠れた主題的連関や対照を析出しながら、第三部全体の表現構造を明らかにした。

 10:竹河巻官位攷-竹河論の序章として- 他の巻の官位呼称と矛盾していると言われる竹河巻における薫の官位呼称が、実は竹河巻の主題的要請によること、また、兼官であると考えれば矛盾はなくなることを考証した。11論文の前提となるものである。

 11:竹河巻と橋姫物語試論-竹河巻の構造的意義と表現方法- 第三部の初めの三巻、匂宮・紅梅・竹河巻は、それに続く宇治十帖と有機的に結ばれていないと言われる。しかし、竹河巻の表現の深層に隠されているテーマを剔出することで、竹河巻が宇治十帖前半の橋姫物語(椎本巻の展開)と構造的に連関させられていることを明らかにした。

 12:浮舟登場の方法をめぐって-『源氏物語』の『源氏』取り- 『源氏物語』は、言葉と言葉の関係そのものによって物語の進行を必然的に方向付けるような文体を、創作過程のなかで獲得する。しかし、そのような文体の力は、あらかじめ予定されていた物語の構想と対立することもある。宿木巻には、そのような対立の状況が生まれるが、その対立を解消した方法が、自己引用という特殊な方法であったことを明らかにした。

 13:類型への成熟-浮舟物語における宿命の認識と方法- 最後の女主人公である浮舟は、三角関係の苦悩から宇治川に入水しようとする。この筋書きは、妻争説話の話型によっているが、ここで話型が導入されたのは、浮舟に与えられた冷厳な運命を象徴するためであり、ひいては作者の世界認識と深く関わった方法であったことを明らかにした。

 14:浮舟物語の方法-二つの挿語をめぐって- 蜻蛉巻の女一宮挿話と、手習巻の中将挿話は、自己引用や鍵語によって、表面上の意味とは別の意味を生成している。前者には薫の過去の人生の再現、後者には浮舟の過去の人生の再現という意味があり、それぞれ次の物語展開のために重要な機能を果たしていることを、明らかにした。

 15:手習巻物怪攷-浮舟物語の主題と構造- 入水未遂した浮舟に実は物怪が取り憑いていたと、手習巻で突然明らかにされる。薫の造型に用いられた表現と、物怪に使われた表現を比較分析することで、僧の物怪が薫の愛執の暗喩であることを明らかにした。

 16:『源氏物語』の言語状況-物語行為の喩としての、色好みのことば- 『源氏物語』作者にとって、言葉を操ること、『源氏物語』を書くことが。どういう精神的営みであったのかを考察した。物語最後のヒロイン浮舟の「沈黙」と「手習」が、作者の物語行為の終わりと、作者が『源氏物語』を書き始めたことの暗喩であることを論じた。

IV『源氏物語』と後期物語の引用関係についての諸論

 17から20までは、引用論の観点から.『源氏物語』より後の物語が、『源氏』の言葉がはらんだ主題的想像力をどう受け継ぎ自らの構想力としていくのかということを考察した。

 17:『源氏物語』の水脈-浮舟物語と『かばねたづぬる三宮』- 散逸物語『かばねたづぬる三宮』の残存資料や『更級日記』の記述などから、それが『源氏』最後の浮舟と薫の物語の主題を受け継ぎ、掘り下げようとした作品であったことを明らかにした。

 18:『源氏物語』の水脈-浮舟物語と『夜の寝覚』- 『夜の寝覚』の『源氏物語』からの引用表現を分析することで、『寝覚』の主題が巻一の当初から、浮舟の主題を引き継いで女の生き方を追求した、「女の物語」であったことを明らかにした。

 19:『狭衣物語』の修辞機構と表現主体 『狭衣物語』の終局部分に見られる『源氏物語』からの引用表現を分析することで、『狭衣』の『源氏』引用が美的装飾の位相にとどまっていること、そして『狭衣』の表現主体が、『源氏』の表現主体のように言葉の世界を「生きる」主体ではなく、美的世界を「見る」主体であることを明らかにした。

 20:文学的想像力の内なる『虫愛づる姫君』-もうひとりのかぐや姫- 虫愛づる姫君という存在の文学史的意義を、『記』『紀』の石之日売、石長比売、『源氏』の宇治大君との想像力の連環から、「性」を拒否し自らを閉じた永遠の処女であると論じた。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は『源氏物語』の豊かな表現世界を、池田氏独自の分析手法を駆使して解明したものである。論文の構成は、『源氏物語』の第一部から第三部に対応させた第I部から第III部と、『寝覚』『狭衣』等の平安後期物語における『源氏物語』の引用を論じた第IV部とから成るが、本論に先だって、氏自身の問題意識と分析方法を研究史上に位置づけて明らかにした「序にかえて」を置いている。

 池田氏の研究は、引歌や話型等の引用の諸相と、中世源氏学以来「草子地」と呼び習わされてきた語り手の批評的言辞に見られるようなこの物語特有の語りのあり方を中心とした、精緻な表現分析である。とくに物語がそれ自身の先行部分を引用する物語内引用の分析は、氏の研究の最も独創的なところであり、数々の重要な新見を生み出している。

 たとえばIII-11「竹河巻と橋姫巻試論」では、竹河巻で、薫がその傍観者となる蔵人の少将の恋の物語に、薫の実父柏木の自滅的な恋の物語が引用され、さらに橋姫巻で、薫自身の宇治の大君に対する恋の物語に再度柏木物語の引用が見られることを指摘し、こうした物語各部の有機的な主題連関を通して、柏木の破滅的な情念を内に秘めながら逡巡する優柔な認識者という、物語史上画期的な薫の人物造型が必然化されているとして、古来作者別人説さえ唱えられてきた竹河巻の主題的位相をも併せて明らかにしている。

 また12「浮舟登場の方法をめぐって」は、物語の大きな流れとしては浮舟を登場させる役割を担わされた中君について、その物語の展開を阻害しかねないほどに中君自身の苦悩の描写が深刻化してゆくのを、しばしば突き放すような草子地の介入によってかろうじてくいとめている様相を指摘して、『源氏物語』の語りの特質を明らかにしている。

 さらに第III部の最後に置かれた16「『源氏物語』の言語状況」は、本論文の源氏論全体を統括する論であるが、光源氏・夕霧・薫・手習巻の中将といったそれぞれに異なる性格を付与された男君たちが、実は女君に対する求愛においては類型的な表現を繰り返しているのに対して、女君たちの拒否が次第に峻厳になってゆくことを明らかにし、この物語における主題の反復と深化の様相を鮮明に浮かび上がらせている。

 神話的元型や継子いじめの話型の引用を論じた第I部では、その元型や話型の捉え方にやや曖昧さが見られ、また第II部以下の諸論においても、やや深読みかと思われる箇所もなしとしないのであるが、論文全体としては、語りと引用の精緻な分析によって、主題の有機的な連関・照応を地下水脈のように張りめぐらしながら生成する『源氏物語』の表現世界のありようを克明に浮かび上がらせた功績はきわめて高く評価される。よって審査委員会は本論文が博士(文学)の学位に値するとの結論に達した。

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