学位論文要旨



No 215452
著者(漢字) 池上,洵一
著者(英字)
著者(カナ) イケガミ,ジュンイチ
標題(和) 説話と記録の研究
標題(洋)
報告番号 215452
報告番号 乙15452
学位授与日 2002.09.30
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第15452号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小島,孝之
 東京大学 教授 多田,一臣
 東京大学 教授 五味,文彦
 東京大学 助教授 藤原,克巳
 東京大学 教授 三角,洋一
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は、日本の院政期から鎌倉時代を中心とした時代における説話の生態を、公家日記・言談の記録・説話集等、既成ジャンルの枠組みを越えて追究し、説話の生成と伝承の機構、集成と記録の方法を解明して、説話集が持ちえた文学的意義を考察し、新たなる視点からする文学史の構築を試みたものである。

 本論文は、第一編「公家日記の方法」、第二編「言談の記録」、第三編「説話集とその周辺」、第四編「史的展望の試み」、第五編「新資料の研究」の五編からなり、各編は上述の研究を実現させるため、基礎的諸問題の検討から文学史的課題の考察へと順次追究を深めるべく構想、配置されている。

 まず、『玉葉』『台記』等の男性貴族漢文日記における説話伝承記事を分析し、日常生活の中で口頭により伝達される説話が、伝承の場を支配している諸要因、すなわち各種の文化伝統やその時々の社会情勢、年中行事や公事、細かくは各人の人間関係や立場によって、発話の契機が支配され、話題の選択や主題の解釈、話の連関や記録の方法等において強く規制されている事実を確認する。

 これに対して『江談抄』『中外抄』等の文献は口伝・教命にかかわる言談の記録であり、日常的な説話伝承とは一線を画して取り扱うべき対象である。口伝・教命は貴族界の名家の老識者が後進の者に伝授する公卿学の奥義であるが、伝授されるのは条文的に決定された規則ではなく、伝承と経験により体得された規範であり秘訣であるから、体系的であるよりも場を支配する諸要因によって規制されるところが大きい。藤原忠実の言談の記録『中外抄』と『富家語』とが話題および筆録の方法において大異するのは、保元の乱を境に急転した彼の立場の反映に他ならない。言談の記録においては、伝授者と筆録者との対話を通じて両者の人間性がきわやかに描出されている場合があり、説話集とは異質な、対話の文学としての可能性が示されているが、後代の享受者はこれらの書に知識・教養としての説話を求めるに急であったため、結局この可能性は生かされなかった。すなわち『江談抄』においては、雑纂本から類聚本に向かう過程で対話的要素が排除され、『中外抄』『富家語』は、『古事談』に採録されて、説話集の説話としての普遍性を賦与されたのと引換えに、言談としての臨場性を喪失したのである。

 一方、説話集の説話は、文章表現を前提として一回的な場からは解放されている点に特徴があるが、口頭で伝達される説話をそのまま文字化すれば説話集の説話となるわけではない。説経や法談など口頭伝承の世界との関わりが深い『打聞集』、金沢文庫本『仏教説話集』、『百座法談聞書抄』等は、それぞれに新しい文章表現を模索した作品であった。説話集の盛行期は院政期から鎌倉時代にかけてであったが、それは王朝的文化伝統の変動期と重なる。巨大な伝統の変容が過去の遺産の回顧と集成を要請した。『今昔物語集』とて例外ではなかっただろう。『続古事談』のごとく伝統の断絶や価値あるものの喪失を痛惜する作品は価値観の共有なしには同感を得られないが、撰者と読者はまさしく情念を共有することが出来たのである。情念の共有は仏教説話においても著しく、『発心集』以下の仏教説話集に共通するのは、他者に対する一方的な教化や解説、啓蒙の姿勢ではなく、撰者と読者とが同行の者として信仰の情念を共有しようとする姿勢であった。人間を見る真摯な目はこの時期の仏教説話集が獲得した最も大きなものだったが、人間を見る目の深さと確かさは『宇治拾遺物語』等の世俗説話集にも通底している。

 王朝的なるものの喪失が既成の事実となり、伝統的なるものを知識や教養として受け止めざるをえなくなると、上述の性格の説話集は終焉を迎えた。王朝説話は軍記や謡曲等に活発に利用されたが、説話集の形で享受しようとすれば、かえって観念的な知識・教養の具としてしか機能しない状況が生まれたのである。『三国伝記』は近江の在地伝承と密接な関係を持つことによって独特の世界を切り開いた希有な説話集というべきである。

 以下、章を追って本論文の要旨を述べる。

 第一編第一章「読書と談話」は、『玉葉』における談話・説話・読書関係記事を分析し、情報としての説話の役割、読書の意味を考えつつ、動乱の時代を生きた九条兼実の前半生を展望する。第二章「口承説話における場と話題の関係」は、同じく『玉葉』における談話・説話記録を分析。社会情勢・人間関係の中で話題が如何に選ばれ、話を呼び出した場の状況によって語り口が如何に規制されているかを実証する。第三章「説話の生成」は、『台記』を素材として作製された『続古事談』の説話を分析し、目記と説話の方法的特徴を探る。第四章「公家日記における説話の方法」は、『明月記』の談話記事を分析。定家本人や藤原長兼の談話を多角度から検討して、「興定め」なる伝承の場に注目しつつ、日記の談話記録が独特の方法を持った存在であることを明らかにする。

 第二編第一章「『中外抄』『富家語』の展望」は、談話者藤原忠実と筆録者中原師元・高階仲行をとりまく社会情勢とその変化、各人の立場や資質等の相関関係の中に、両書の基本的性格を明らかにする。第二章「『中外抄』『富家語』における話題の連関」は、同じく両書において、話題が如何に選択され、かつ各条が如何なる連関の下に記録されているかを分析。これらの書の話題が場の状況の支配下にあることを明らかにする。第三章「『富家語』有職故実的諸条の背景」は、同書に説く大嘗会の河薬について探究。烏賊の甲の故実が、忠実にとっては鬱積した思いの痛切な表明であったこと等を明らかにして、新しい読みの可能性を探った論である。第四章「『江談抄』における「場」の問題」は、『台記』に現存説話集にはない説話が記録されていること、『江談抄』にその後日譚があることを指摘して、同書前田本第八七条の長大な談話の場を詳細に解明する。第五章「『江談抄』の小宇宙」は、『江談抄』を説話資料的ないし説話集的に読むことへの疑念を提示し、匡房と実兼との対話の文学としての特徴を論じる。

 第三編第一章「『打聞集』断片的記事の性格」は、同書の表紙裏や巻末に見られる雑多なメモ的記事の正体を解明し、併せてその文体的特徴を論じる。第二章「金沢文庫本『仏教説話集』の説話」は、同書の説話の出典を考証。中国敦煌莫高窟出土の『歓喜国王縁』と共通する話があることを指摘し、比較文化論的考察を試みる。第三章「『水鏡』と説話」は、元暦二年京都大地震の記録として、中山忠親の『山槐記』が情報の精度において傑出することを指摘。同人の手になる『水鏡』の歴史叙述が『大鏡』とは異質なものとなった必然性を説く。第四章「『宇治拾遺物語』の「序」」は、『宇治拾遺物語』の序文の読解を通して、同書が立つ文学的基盤について論じる。第五章「『三国伝記』の成立基盤」は、『三国伝記』の内部徴証を精査し、撰者玄棟は近江国神崎郡に縁が深く、天台記家の大家京都元応寺の運海と関係があったことを立証する。第六章「『三国伝記』版本の浄土教的特徴」は、同書の近世版本の本文が浄土教鼓吹の立場から改変されている事実を指摘し、取り扱いに注意を喚起した論。第七章「『発心集』と『三国伝記』」は、『三国伝記』との比較を通して、『発心集』に対する『古事談』先行説を批判。これと関連して『百座法談聞書抄』の文章を聞書きと即断することの非を論じる。

 第四編第一章「「説話文学」を考える」は、「説話文学」なる術語の概念規定のあいまいさとその理由を論じ、併せて口承文芸と文字文芸との方法的差異について考察。第二章「古代の説話と説話集」は、平安時代の説話と説話集について展望し、殊に往生伝の系譜、散佚『宇治大納言物語』の意義とその位置づけを明確にした。第三章「説話の生成と伝承」は、神話・伝説と対立する概念としての世間話の生成・伝承過程を見据えて、一般的理論の確立をめざす。第四章「中世の説話と説話集」は、鎌倉時代における説話集の盛行と、室町時代におけるその衰退の必然性を探究したもの。第五章「説話集の序文」は、説話集における序文の有無を、公性と私性の両面から論じ、公性からの訣別が物語的説話集にとって必然であった所以を説く。第六章「説話集の時代」は、説話集における撰者の寡黙さと能弁の意味、説話に対する共時的緊張関係の検証を通して、その文学史的意義を考察する。第七章「「鬼」の悲しみ」は、鬼の形象に託した伝承者の思いを近代の合理主義が無感覚に切り捨てた結果、失ったものがいかに大きかったかを論じる。

 第五編第一章「永青文庫蔵『豊後国風土記』について」は、旧熊本藩主細川家所蔵の文禄三年写本についての研究。第二章「島原松平文庫蔵『古事談抜書』の研究」は、同書と『十訓抄』との特異な関係、『彫玉集』の逸文らしい中国説話の存在を論じ、奥書に見える人物がすべて鎌倉鶴岡八幡宮の社僧であることを明らかにして、関東における説話受容の一端を解明する。第三章「東大寺図書館蔵『三宝聚集抄』について」は、同書の概要を紹介。中世釈迦信仰や春日信仰にも関係する貴重な文献たる所以を述べる。第四章「東大寺図書館蔵『釈迦如来釈』」は、同書の全文を翻刻して各条の典拠を考証。中世釈迦信仰の初期の様相を示して貴重である所以を述べる。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、日本の院政期から鎌倉時代を中心とした時代における説話の生態を、公家日記・言談の記録・説話集等種々の側面から、説話の生成と伝承の機構、集成と記録の方法を解明し、以って説話集の文学的意義を考察し、新たな視点からの文学史の構築を目指したものである。

 第一編「公家日記の方法」、第二編「言談の記録」、第三編「説話集とその周辺」、第四編「史的展望の試み」、第五編「新資料の研究」の五編からなり、基礎的諸問題の検討から文学史的課題の考察へと編成されている。

 第一編の第一章・第二章においては、九条兼実の日記『玉葉』に見える談話・説話記録関係の記事を分析し、話題を呼び出す場の状況によって語り口が規制される在り方を具体的に実証する。第三章では、藤原頼長の日記『台記』を素材として編まれた『続古事談』の説話を分析し、日記と説話の方法的特徴を探り、第四章では、藤原定家の日記『明月記』の談話記事を多角的に検討し、日記の談話記録の独特の方法を明らかにする。

 第二編の第一章・第二章においては、藤原忠実の言談の筆録である『中外抄』と『富家語』の二つを採り上げ、両書が筆録者の高階仲行・中原師元の立場や資質等に規定されたそれぞれの独自な基本的性格を持ち、筆録された話題が場の状況の支配下にあることを明らかにしている。第三章では、『富家語』の記事の具体的な注釈的探求で、新しい読みの可能性を探る。第四章・第五章では、大江匡房の談話記録に基づく『江談抄』を分析し、一般的に説話集的に読まれていることへの疑念を提示し、対話の文学としての特徴を論じている。

 第三編では、談話の記録と見なされる説話集を中心に具体的な分析や考証を展開する。第一章は『打聞集』、第二章は『金沢文庫本仏教説話集』、第三章は『水鏡』、第四章は『宇治拾遺物語』序文、第五章・第六章では『三国伝記』、第七章では『発心集』等を採り上げ、それぞれ非常に有力な新見を導いている。

 第四編は文学史的課題の考察であり、第一章において「説話文学」という述語の概念規定を論じ、口承文芸と文字文芸との方法的差異を考察している。第二章では平安時代の説話と説話集について展望し、特に『今昔物語集』を初め多くの後継説話集に多大な影響を与えたと目される、散逸『宇治大納言物語』の意義と位置付けを明確にする。第三章では神話・伝説と対立する概念としての世間話の生成・伝承過程を見据えて一般的理論化を試みる。第四章では中世における説話集の盛行と衰退の必然性を探る。第五章では説話集の私性と公性を論じ、第六章では説話集撰者の寡黙さと饒舌さの意味を論じて、その文学史的意義を考察している。第七章では、鬼の形象に託した伝承者の思いを切り捨てた近代合理主義の問題を論じている。

 第五編は四章に亘って新資料の紹介とその意義の検討を行っている。

 以上は著者の40年に亘る説話研究の成果の集大成であり、個々の論文において明らかにした新見は枚挙に暇がないが、日記における談話記事の意義の分析は著者の独壇場であり、著者の発表以後研究史上の定説となった事柄も多数にのぼる。とりわけ個別の業績を超えて、説話の文学的な特性を究明しようという誠実かつ周到な論証は、確固たる研究上の基盤を形成し、その研究史に与えた功績は極めて大きなものがある。

 なお、冷泉家から藤原定家自筆の『明月記』原本が現れた現時点から見ると、著者の発見した「興定め」という興味ある言葉も、実は「興言」という一般的語の誤写であったこと判明するといった、訂正を要する記述もないわけではないが、論文全体の成果に鑑みれば僅かな瑕蝦瑾に過ぎない。よって、審査委員会は本論文を博士(文学)に相応しいものと結論した。

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