学位論文要旨



No 215453
著者(漢字) 伊藤,正
著者(英字)
著者(カナ) イトウ,タダシ
標題(和) ギリシア古代の土地事情
標題(洋)
報告番号 215453
報告番号 乙15453
学位授与日 2002.09.30
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第15453号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 桜井,万里子
 東京大学 助教授 高山,博
 東京大学 教授 逸身,喜一郎
 東京大学 教授 本村,凌二
 放送大学 教授 伊藤,貞夫
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は古代ギリシア・ポリス社会の社会経済史的考察をその内容とし、ポリス社会の盛衰の問題を土地制度の観点から究明することをその目的とする。その際、ポリス社会の本質的特徴として「分割地」と「共有地」の並立的存在という土地制度上の構造にまず着目する必要がある。そしてその上で更に次の問いかけをしなければなるまい。すなわち、この構造がいつ、どのようにして成立したのか、また、この構造はいつ頃そのバランスを逸することになるのか。これを明らかにすることによって、ポリス社会の盛衰の問題にある一定の回答を引き出すことができるのではないか。したがって、本論文は特にこれらの点を実証的に考察する一つの試みである。まず、序章で、ポリスの盛衰に関わる二つの重要な時期、すなわち前七・六世紀と前四世紀、を設定する。第一部において前七・六世紀に着目し上述の構造の成立過程を考察する。この時期は市民共同体としてのポリス社会の成立期にほぼ合致する。ここではアテナイにおけるソロンの改革を取り上げる(第一・二章)。またソロンとペイシストラトスの土地政策を比較し、共有地に関する土地政策上の連続性を指摘する(第三章)。第二・三部においては前四世紀以降を考察の対象とする。まず第二部において、古典期アテナイの公有地賃借人の社会的地位について考察する(第四章)。次にヘカトステー碑文については公有地売却に関わる史料とは見ず、公有地賃貸借に関わるエイスフォラ徴収の記録と看做す(第五章〉。更に前四世紀後半に公有地賃貸借の規模が著しく増大していること、賃貸借による地代収入がポリス並びにその中の様々な小共同体の財政に役立ったことなどを指摘する(第六章)。次に第三部において、上述の構造がバランスを逸する原因として公有地の私的蚕食の問題を考察する。ここでは前四世紀後半から前一世紀までの碑文史料を中心に検討を行なう。まず神殿領私的蚕食の実態をヘラクレイア碑文の分析を通して考察し(第七章)、次に公有地私的蚕食の実態をゼレイアについて論じ(第八章)、最後にアテナイその他のポリスに見られる公有地私的蚕食の実態について吟味し、ヘレニズム期における公有地私的蚕食の一般化の傾向を指摘する(第九章)。「結び」では共有地の変貌についての全体的な見通しを述べ、ランバートのヘカトステー碑文に関する研究を紹介批判しつつ、土地制度上の観点から見たポリスの衰退とは何かについて論じる。

 「共有地」の変貌について全体的な見通しを示すと次のようになるであろう。

 ホメーロスの詩篇に見られる共有地利用の問題について、まず考えてみよう。第一に言えることは、ホメーロスの社会において共有制や共有地の定期的割替制といったものは確認されないということである。ホメーロスの詩篇における共有地とは無主のまま放置されている森林や荒蕪地並びに放牧地で、これらの土地はエスカティアと呼ばれていた。このような士地に対して共同体成員は平等にその用益権を享受し得たことに加えて、平等に無主物先占権occupatioを有しており、その一部を必要と能力に応じて「私的に」占取することができた。ホメーロスの詩篇における自由な土地獲得の例がこのことを証明している。この先占権は原則的には全共同体成員に許されていたが、この権利を現実的に行使し得たのは、ホメーロスの詩篇が示す通り、ラエルテースのような富裕な高い身分の者に限られていたに違いなく、平等なはずの先占権が、共有地の不平等利用を促すことになる場合があった。このような共有地利用のあり方は、ヘシオドスの世界においても、またソロン以前のアテナイにおいても原則的には同様であったと推定される。

 ソロン期のアテナイにおける共有地は、ιερα,δημοσια κτεναとして表現されている。前者はおそらく「神殿のための切り取り地」であり、後者は「私人への分配を差控えられた土地」であったと推定される。このような土地は富裕な貴族による「私的」占取の対象となった。アテナイについてはソロンの詩篇がそれを示しているように思われるし、メガラについてもアリストテレスの『政治学』(1305a 21ff)の記述がそれを推定させる。すなわちテアゲネスは「富裕者が川の近くで放牧していた家畜の群れを屠殺することによって」僭主になったと伝えられている。そして富裕者が家畜の群れを放牧していた川の近くの土地を共有放牧地(the common grazing-land)と看做し、囲い込みによる彼ら以外の用益権者の閉め出しが行なわれていたとすれば、ここに我々はアテナイで確認できたのと同じような共有地の私的蚕食の事実を読み取ることができる。

 共有地の不平等利用を促す恐れがあったoccupatioに制限を設けようとする動きはいつ現われるのか。ホメーロスの詩篇の中にそのような制限は認められない。それがポリス的共同体にとっての急務となるのは、おそらく、前七・六世紀のように思われる。アリストテレスが伝えている昔多くのポリスに存在したという立法がその証拠であるし、アテナイにおけるソロンによるホロイの引き抜きも私有化されていた共有地を元の状態に戻すのに役立ったし、ソロンの土地最高限を定めた法もまさにoccupatioに制限を設ける意味をもった。このようにしてギリシア諸ポリスにおいてはポリス成立期の早い時期にoccupatioに制限を設けることに成功し、真に平等な共有地用益秩序を確立することによって、ローマにおけるような大土地所有制発展の道を封じることができたのである。

 前六世紀における共有地の利用形態については、ペイシストラトスの施策を除けば、我々は多くの知見を有していない。また賃貸借が確認されるのは前五世紀中葉以降である。共有地の所有団体に関して言えば前五世紀にポリス、部族、区が現われるのに対して、前四世紀になるとポリス、部族、トリッテュス、区、並びにゲノス、オルゲオネス、フラトリアなどを確認することができる。ではアテナイにおいて、ソロンの時代の共有地と前四世紀におけるそれとの間にはどのような関連性があるのか。前四世紀における共有地ははたしてソロンの詩篇に現われるιερα,δημοσια κτεναに遡り得るのか。遡り得るとすれば、ソロンの時代における共有地の所有団体は前四世紀のそれと同一なのか。同一でないとすれば、ソロンの時代の共有地所有団体は何か。またどのような経過をたどって前四世紀の共有地所有団体に移行したのか。我々はこれらの問題については史料的制約もあってはっきりとした答えを出すことはできない。ただウェーバーは、「アッティカの村落共同体(デーモイ)は、前四世紀においてもなおきわめて広大な土地を所有し・それを当時は賃貸によって利用していた。疑いもなくアッティカの村落共同体はその土地をずっと以前から所有していたものにちがいない。前四世紀にはそれらの土地は-最初はともかく放牧地として利用されていた共用地(アルメンデ)であったが-しばしば畠地や園地として耕作された」と.考えている。つまりウェーバーは前四世紀に区が所有し賃貸に出していた「共有地」がもとは共有放牧地であったと考えていたことになる。(またアンドレーエフは「アッティカの公的士地所有はソロンおよびクレイステネスの改革あるいは統一的アテナイ国家形成のずっと以前に遡る。それは土地を管理下においているある種の中央行政機関による個々の団体への土地の「贈与」や「割当」の結果ではなかった。その起源は、おそらく、アッティカの平地が最初に定住された時代に遡るのではないか」と推定している。〉では、共有地の利用形態は時代の推移に伴ってどのように変わったのか、あるいは変わらなかったのか。アルカイック期において「共有地」は既存の村落共同体の漢然とした慣行に基づいて共同利用されていた。さらに共有地におけるoccupatioの制限は共有地の共同利用に大いに役立つことになった。特にエスカティアは共有放牧地として無償で共同利用され続けたものと思われる。前五世紀中葉以降になると、このような土地の一部がポリス、部族、区によって「畠地(コーリオン)や園地(ケーポス)」として貸し出されるようになる。前四世紀後半になるとこのような土地の多くの部分が「畠地や園地」として賃貸耕作されたばかりではなく、従来共同利用されていた放牧地もしだいに地代をとって貸し出されるようになり、純然たる共同利用の形態は排されることになった。

 最後に「共有地」と「公有地」の使い分けについて一言述べておく必要がある。筆者は実体として同一の公的土地(公地)について、上の二つの言葉を本論文において使い分けて用いている。ではその使い分けに何らかの意味があるのであろうか。筆者が「共有地」という場合は、その土地を、実体として、入会地的性格の地代乃至使用料を必要としない共同体全成員に開放されている共同(利用)地として理解しているのであり、これに対して、「公有地」という場合は、その土地を、実体として、ポリスやその下部組織である小共同体が賃貸契約に基づいて地代乃至使用料をとって貸し出している土地として理解している。したがって、実体として同一の公地が、共有地として存在する場合と、公有地として存在する場合とがあり、またときには共有地から公有地へ変化する場合やあるいはその逆もあり得た。この公地における二つのカテゴリーは、各共同体に帰属する公地全体の中でどのような割合を占めていたのであろうか。そしてその割合は時代の移り変わりと共に変わっていったのか。これらの点については不明とする他ないが、推定が許されるならば、その割合は時代が下がるにしたがって共有地から公有地へと移っていったのではないかと考えたい。すなわち、公地に占める公有地の割合がしだいに増大していったのではないか。この変化の背景には、所有権が実質的に帰属する団体(小共同体)の法人格概念が伸張したことと、それに伴って、団体の所有権が強く意識されるようになったことに関連があるのではないかと推定される。とすれば、ポリスの衰退の問題については、土地所有上の観点から言えば、二つの段階が想定される。まず第一段階は公地の「共有地」から「公有地」への変化であり、第二段階は「公有地」から「私有地」への変化である。前者は公地内のバランスの問題であり、後者はいわゆる「分割地」と「共有地」の均衡の問題である。そして双方いずれの場合においても、そこに不均衡が生じることになれば、それはポリス社会にとって必ずしも健全な状態とは言えなかったであろう。では、アテナイにおいてこの不均衡はどのようにして現われたのであろうか。それはまず、共有地私的蚕食をきっかけにして、前四世紀後半に公有地賃貸借の大規模な実施(共有地から公有地への変化を意味する)という形をとっておこり、それは次に前三世紀初頭に公有地売却の一般化(公有地から私有地への変化を意味する)という形をとって進展したものと思われる。この不均衡は、アテナイにおける公有地絶対量の狭小さ故に、ローマにおけるような大土地所有制という形をとって現われることはなかったが、それがやはりポリス衰退の一要因となったことは、まず間違いのないところであろう。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、土地所有制度の観点からポリス社会の特質を分析し、古代ギリシアの歴史の変遷に新たな光を当てようとしたものである。古代ギリシアのポリスを市民共同体ととらえる著者は、その社会において分割地と共有地が存在していた構造に注目し、両者の調和的並立をポリスの特徴ととらえ、他方で、両者のバランスの崩れをポリスの衰退の現れとみる指標を定める。このような指標に基づき、実証的な研究を積み重ねた成果である本論文は、3部からなる。

 第1部では前7,6世紀を考察の対象とし、ホメーロスの叙事詩とソロンの詩篇を主要史料として、上記の土地制度が成立する背景の解明を試みるとともに、ギリシア史研究上の難問の一つであるソロンの改革に新たな解釈を加える。すなわち、ポリス成立前夜においては、無主の土地を能力あるものが占有する権利を持っていたことをホメーロスの叙事詩から推定し、この有力者(貴族)たちの先占権(occupatio)行使を抑制することをソロンの改革の意義の一つとする見解を提示し、ここにポリスの独自性を指摘する。第2部では前5,4世紀にいたるまで村落共同体の共同利用に供されていた共有地の一部が、前4世紀後半になると特定個人に賃貸耕作に出され、ここに共同体内部の変質の兆候が見いだされると、碑文史料(ヘカトスtaクイ碑文)を分析して結論する。ヘカトスタイ碑文については、賃貸と売却のいずれを示す公文書であるかについて論争があり、後者と解する見方が最近復活し、この数年来優勢となっているが、これを賃貸と解する本論文はそれなりに論理の整合性を獲得しており、研究史上の意義は大きい。第3部では公有地の私的蚕食の問題を前面に立て、前4世紀後半からヘレニズム時代においてギリシア世界全体に公有地の私的蚕食という傾向が顕著であることを確認する。

 ポリス社会における土地所有制度の重要性に注目する問題意識は、故村川堅太郎本学名誉教授以来、日本の古代ギリシア史研究において連綿として継承され、優れた研究成果が生み出されてきた。本論文もその系譜上に位置づけられるものである。土地制度の研究は法理が関係してしばしば複雑、錯綜し、研究史の整理ひとつとっても容易ではないが、著者がこの困難の多い分野の研究にたじろぐことなく専念し、本論文を完成させたことは評価でき、また、ポリスの盛衰の歴史に独自の輪郭を与えたことも、ポリス研究の一つのあり方として注目できる。

 戦後の日本において有力であった共同体理論に発する問題意識に基づく本論文には、近年進捗のめざましい社会史あるいは民族誌(エスノグラフィー)の分野の研究成果に対する目配りがやや不十分なきらいもあり、若干の不満もないわけではないが、それは上記のような本論文の全体的意義をいささかも減ずるものではない。よって審査委員会は本論文が博士(文学)の学位に値するとの結論に達した。

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