学位論文要旨



No 215455
著者(漢字) 今野,浩太郎
著者(英字)
著者(カナ) コンノ,コウタロウ
標題(和) 植食昆虫が植物の化学防御を打破して食害するメカニズムに関する研究
標題(洋)
報告番号 215455
報告番号 乙15455
学位授与日 2002.10.07
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第15455号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小林,正彦
 東京大学 教授 長澤,寛道
 東京大学 教授 田付,貞洋
 東京大学 助教授 石川,幸男
 東京大学 助教授 嶋田,透
内容要旨 要旨を表示する

 本研究では、イボタという植物が、植食動物に対し強いタンパク質架橋変性活性・栄養低下活性により化学防御をしていること、これに対抗してイボタを専門に食べる昆虫が、消化液中にグリシンなどのアミノ酸を分泌してイボタのタンパク質架橋変性活性を阻止して食べていることを発見し、この現象の化学メカニズムを解明した。

1.鱗翅目幼虫消化液中におけるグリシンの存在と分泌生理

 イボタガ・サザナミスズメ・カイコを始めとする多くの植食性鱗翅目幼虫や一部膜翅目幼虫の中腸内容物や消化液中に5mM〜100mMの高濃度の遊離グリシンが存在していた。タンパク質やアミノ酸を含まない人工飼料を与えた幼虫中腸内容物や、幼虫を1日間絶食させてから嘔吐させ採取した消化液中にも、他の遊離アミノ酸は含まれていないのに遊離グリシンだけが高濃度で存在していたことから、このグリシンは消化管内腔に分泌されているものと推測された。50mMに及ぶ高濃度のグリシンが嘔吐させた消化液中に存在したイボタガ幼虫においては、消化管内腔のグリシン濃度は中腸の前半で高く後半で低くなっていた。中腸前半におけるグリシン濃度は、血リンパ液における濃度よりも高かった。また15Nで標識したグリシン・アラニン・リジン・グルタミン酸等のアミノ酸を血体腔内に注射し0.5〜2時間後の消化管内腔における15N量を測定したところ、15N-グリシンを注射した場合のみ、注射した15N量の30%程度が消化管内腔から検出された。またこの場合、15Nの濃度は中腸の前半で高く後半で低く、グリシンの消化管内濃度分布とほぼ一致していた。これに対し、15Nで標識した他のアミノ酸を注射したときには、15Nは中腸内からほとんど検出されなかった。このことは、イボタガにおいてグリシンが、血リンパ液から中腸細胞に取り込まれ、消化管内腔にむけて選択的かつ能動的に分泌されていることを示唆していた。

2.鱗翅目幼虫の消化液中グリシン濃度と寄主植物の関連性

 鱗翅目幼虫消化液に存在する高濃度の遊離グリシンの生理的役割が、昆虫の寄主植物と関連があるか否かを調べるため、様々の鱗翅目幼虫について消化液中のグリシン濃度を比較した。その結果、消化液中のグリシン濃度はその昆虫種が食べている寄主植物と密接柱関連があり、その昆虫種が所属している分類群とは関係がなかった。イボタ(Ligustrum obtusifolium)というモクセイ科の低木の葉を寄主としているイボタガ(Brahmaea wallichiiイボタガ科)、サザナミスズメ(スズメガ科)、ホシシャク(シャクガ科)、コクロハバチ(膜翅目広腰亜目ハバチ科)などの幼虫は、分類上遠く隔たっているのにもかかわらず、共通して50〜100mMに達する高濃度のグリシンが消化液中に存在していた。一方、サザナミスズメと同じスズメガ科に属していても、イボタを寄主としていないウンモンスズメなどの幼虫の消化液中には、グリシンは全く存在していなかった。

3.イボタ葉のタンパク質架橋変性活性と消化液中グリシンの阻止作用

 イボタの葉が特殊な性質を持っているか調べたところイボタの葉は極めて強いタンパク質架橋変性活性を持っていることが判明した。すなわち、タンパク質をイボタ葉抽出液にさらして処理すると、タンパク質は架橋され高分子化されると同時に、タンパク質中のリジン含量が減りタンパク質は栄養価をほとんど失っていた。このためイボタに生理的な適応をしていない一般の昆虫はそのままではイボタを食べても成長できず、イボタ葉のタンパク質架橋変性活性とこの活性に付随するリジンを減少させる作用はイボタの植食昆虫に対する化学防御であることが示唆された。ところが、イボタを寄主としているイボタガなどの昆虫の消化液の条件を模倣し、イボタ葉抽出液に1%のグリシンを添加したところ、タンパク質架橋変性活性とリジンの減少が完全に阻止された。このことより、イボタが、タンパク質架橋変性活性で自らの栄養価を低下させて防御している一方で、イボタに特化しているイボタガなどのスペシャリストの幼虫は、消化液中にグリシンを分泌し、イボタの化学防御であるタンパク質架橋変性活性を打ち破って食べていることが示唆された。

4.イボタ葉タンパク質架橋変性活性の化学メカニズム

 上記の現象の詳細な化学メカニズムを調べた。イボタの葉は、生重の3%にも及ぶ多量のオレウロペインというフェノール性のイリドイド配糖体を、タンパク質変性物質の前駆体として含んでいた。オレウロペインそのものはタンパク質変性活性を全く持たず、植物体に危害を及ぼすことなく安定な状態で葉細胞に蓄えられていた。しかし、葉が昆虫など食害等によって破壊されると、葉細胞のオルガネラ画分に含まれているβ-グルコシダーゼやポリフェノールオキシダーゼなどの活性化酵素が基質であるオレウロペインと混合し、オレウロペインを非常に強いタンパク質架橋変性物質に変換することが明らかになった。ポリフェノールオキシダーゼはオレウロペインのジヒドロキシフェノール部分を、β-グルコシダーゼはオレウロペインのイリドイド配糖体部分を活性化することがわかった。特に、オレウロペインに対して特異性が高いイボタの葉に含まれるβ-グルコシダーゼが、オレウロペインのイリドイド配糖体部分のグルコースを切り落とすと、イリドイド配糖体部分は化学的に活性なグルタルアルデヒド様構造に変換され、この部分がタンパク質のリジン残基の側鎖にあるアミノ基と共有結合し、タンパク質分子を架橋変性することが判明した。この結果、タンパク質のリジン含量は減少し、昆虫にとっての栄養価も失われることが明らかになった。また、オレウロペイン以外のアウクビンやゲニポシドなどのイリドイド配糖体も、β-グルコシダーゼによって同様に活性化されタンパク質変性活性を示すことから、多くの植物に含まれる多様なイリドイド配糖体が植食昆虫に対する防御的役割をもつことが示唆された。

5.グリシンのタンパク質架橋変性阻止活性の化学メカニズム

 イボタを専門に寄主にする昆虫が、消化液中に分泌している遊離グリシンは、そのアミノ基で、活性化されたオレウロペインと結合することがわかった。タンパク質のリジンの側鎖にあるアミノ基と、遊離グリシンのアミノ基は競合関係にあり、このため、タンパク質架橋変性活性が防がれることが判明した。また、グリシン以外でもアミノ基を有するGABA、β-アラニン、アラニン、プロピルアミンやアンモニウムイオンなども、イボタの葉のタンパク質架橋変性活性を阻止する作用を持っていた。実際、ウラゴマダラシジミやシマケンモンなどのイボタを専門に食べる昆虫の消化液中には、グリシンの代わりにそれぞれGABAやβ-アラニンが特異的に多量に存在していた。イボタを寄主とする昆虫の消化液中に多量の存在が確認されているグリシン、GABA、β-アラニンなどのアミノ酸は、消化液中に存在していなかったアラニンに比べて変性阻止活性が強く、1/5量以下で同等の変性阻止作用を示した。

 以上の結果は、イボタという植物が植食昆虫に対してタンパク質架橋変性物質前駆体であるオレウロペインと活性化酵素であるβ-グルコシダーゼを組み合わせた強力な化学防御機構を備えていることを示す一方で、イボタを食べる複数の分類群の異なる植食昆虫が、グリシン、GABAなどのアミノ酸を消化液に分泌しタンパク質架橋変性活性を阻止していることを示している。共通の原理に基づいた有効な化学的な適応策が、系統的に遠く隔たった昆虫の間で、異なる分子を用いて発達してきたことは、これらの昆虫側の適応が独立に進化してきたことを示唆している。また、このことは、昆虫の植物に対する化学的な適応機構における平行進化の興味深い一例であると思われる。本研究の結果は、植物と植食昆虫の間に複雑な化学反応を駆使した防御機構や適応機構による攻防関係が存在していることを明確な形で示すものである。

図1 イボタ葉のタンパク質変性袈橋活性とイボタを寄主とする植食昆虫消化液中グリシンがこれに活性を阻止する作用の総合化学モデル

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、イボタという植物が、植食動物に対し強いタンパク質架橋変性活性により化学防御をしていること、これに対抗してイボタを専門に食べる昆虫が、消化液中にグリシンを分泌してタンパク質架橋変性活性を阻止して食べていることを発見し、この現象の化学メカニズムを解明することにより、植物と植食昆虫の間に化学防御機構と適応機構による攻防関係が存在していることを明確な形で示したものである。論文は3部6章からなる。

 第1部、鱗翅目幼虫の消化液におけるグリシンの存在と分泌生理について

 第1章では、カイコ(Bombyx mori)・エビガラスズメ(Agrius convolvuli)・イボタガ(Brahmaea wallichii)等を用い、消化管内腔に遊離のグリシンが高濃度に存在していることを発見した経緯について述べている。

 第2章では、イボタガの体腔内に15Nで標識したグリシン等のアミノ酸を注射して腸管内への15Nの移行を調べた結果、中腸における遊離グリシンの分泌が選択的かつ能動的に行われていることを明らかにしている。

 第2部、グリシンが持つ生理的および生態学的役割について

 第3章では、各種鱗翅目幼虫の消化液中のグリシン濃度と幼虫寄主植物との関連性、すなわち、モクセイ科のイボタ(Ligustrum obtusifolium)を寄主としている幼虫が特に高濃度のグリシンを消化液中に含んでいたという発見について記述している。

 第4章では、イボタが非常に強いタンパク架橋変性活性をもちタンパク質を架橋・重合させるとともに、食餌タンパク質中のリジン含量を低下させ栄養価を減少させる活性を持つことと、遊離のグリシンがこれらイボタ葉の全ての活性を阻止できることを示唆する実験結果を示し、グリシンが持つイボタの葉のタンパク質架橋変性活性に対抗する生理的・生態学的役割について論じている。

 第3部、植物の防御機構と植食昆虫の適応機構の化学メカニズムの解明

 第5章では、イボタの葉が持つタンパク架橋変性活性について、タンパク質架橋変性原因物質がオレウロペイン(oleuropein)というイリドイド配糖体(iridoid glycoside)であることを解明した経緯を記述している。また、イボタの葉の酵素、特にβ-グルコシダーゼ(β-glucosidase)やポリフェノールオキシダーゼ(polyphenol oxidase)によるタンパク架橋変性原因物質の活性化機構について得られた実験結果を基に、イボタ葉のタンパク質変性の化学メカニズムについて論じている。特に、イリドイド配糖体がβ-グルコシダーゼによってグルタルアルデヒド様物質に変換されて非常に強いタンパク質架橋変性活性を持つようになるという新規な化学メカニズムのモデルを提出し、このモデルについて綿密な検討を行っている。

 第6章では、グリシンがイボタの葉のオレウロペインによるタンパク架橋変性活性を防ぐ化学メカニズムについて論じている。まず、グリシンのアミノ基が架橋変性阻止作用において重要であることを示す実験結果を基に、グリシンの架橋変性阻止作用の化学メカニズムのモデルを提唱した。次に、この仮説を支持する現象として、ウラゴマダラシジミ(Arthopoetes pryeri)幼虫などの専らイボタを食する昆虫が、グリシンの代わりにGABAやβ-アラニンを分泌していることを発見し、GABAとグリシンがタンパク質架橋変性活性を阻止する共通の化学メカニズムによるものであることを明らかにすると共に、一般化した化学モデルを提案している。また、なぜ鱗翅目幼虫が多くのアミノ酸の中からグリシン、GABA、β-アラニンを選択して用いているかについて、進化・生態学的見地から論じている。

 最後に総合考察として、植物が保持している化学防御物質、特にアルキル化作用を持つタンパク架橋変性物質に対し、植食昆虫がどのように対抗しているか、消化液中へのアミノ酸の分泌という現象も含めて生理的・化学的・進化的・生態学的側面から総合的に論じている。

 以上要するに、本論文は、イボタという植物が食害に対してオレウロペインとβ-グルコシダーゼによりタンパク質架橋変性物質を形成する強力な化学防御機構を備えていること、イボタを食べる複数の分類群の異なる植食昆虫が、グリシン、GABA等のアミノ酸を消化液に分泌しタンパク質架橋変性活性を阻止していることを明らかにし、植物と植食昆虫の間に複雑な化学反応を駆使した防御機構と適応機構による攻防関係が存在していることを明確な形で示したもので、学術上、また応用上極めて優れた知見を得ている。よって、審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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