学位論文要旨



No 215468
著者(漢字) 下川,信也
著者(英字)
著者(カナ) シモカワ,シンヤ
標題(和) 海洋大循環の熱力学 : 流体系のエントロピー生成率
標題(洋) Thermodynamics of the oceanic general circulation : entropy increase rate of a fluid system
報告番号 215468
報告番号 乙15468
学位授与日 2002.10.21
学位種別 論文博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 第15468号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 日比谷,紀之
 東京大学 教授 山形,俊男
 東京大学 助教授 松田,佳久
 東京大学 助教授 安田,一郎
 東京大学 助教授 川辺,正樹
 東京大学 助教授 新野,宏
内容要旨 要旨を表示する

1.はじめに

 海洋系は熱フラックス・塩分フラックスを通してその外系とつながっている開放散逸系と考えることができる。開放散逸系のエントロピー生成率はその系の安定性と関係していることが知られている。その考え方にはエントロピー生成率最小の原理(Gransdorff and Prigogine,1964)とエントロピー生成率最大の原理(以下、MEP。Sawada,1981)の2つがある。非平衡度及び非線形度の高い系においては後者が成立している可能性を示すいくつかの証拠がある。例えば、Paltridge(1975)は気候系において水平熱輸送に伴うエントロピー生成率が最大となる状態で安定となっている可能性を示した。しかし、海洋系についてMEPを検証した研究はまだない。その海洋系には同一境界条件下の多重解が存在することが知られている(Stommel,1961)。しかし、その多重解間の遷移のメカニズムについてはよくわかっていない。また、流体力学の分野では、いわゆる乱流の最大輸送説が知られている(乱流シアフローMalkus,1954;ベナール型熱対流 Busse,1970)。しかし、これらの物理的意味についてはよくわかっていない。

我々はこれらの問題に対して熱力学的な視点からのアプローチを試みた。本研究の目的は、

・大規模な開放散逸系(海洋系)とその外系における熱と物質(塩分)の輸送に伴うエントロピー生成率を計算する方法を開発すること

・その方法を海洋大循環モデルに適用することによって、海洋大循環系のエントロピー生成率を評価し、海洋系の多重解間の遷移においてMEPを検証すること

・その方法と従来のローカルな散逸に基づくエントロピー生成率の計算方法を結びつけることによって、乱流の最大輸送説とMEPの関係を調べること

の3つである。

2.開放散逸系のエントロピー生成率

海洋系とその外系の熱と塩分の輸送によるエントロピー生成率S(グローバル表現)は、非圧縮及び単位体積あたり熱容量が一定であると仮定すると、次のようになる。

Sはエントロピー、pは密度、cは定積比熱、Tは温度、Fhは海表面での外向き熱フラックス、αは塩分イオンの解離の効果(=2)、kはボルツマン定数、Fsは海表面での外向き塩分フラックス、Vは海洋の全体積、Aは海表面の全面積を表す。右辺第一項は海洋系の熱輸送によるエントロピー増加率、第二項は外系の熱輸送によるエントロピー増加率、第三項は海洋系の塩分輸送によるエントロピー増加率、第四項は外系の塩分輸送によるエントロピー増加率を表す。この合計が全系の熱と塩分の輸送によるエントロピー生成率となる。この方法は、大循環モデルで表現できないようなミクロな物理過程を直接的には含んでいないので、大循環モデルにも適用することができる。

3.数値モデルと実験方法

 使用した海洋大循環モデルはGFDLのMOM ver.2である。モデル領域は、東西72度、南北140度の大西洋を模した、南極周極流のある矩形海洋である(水平解像度は4度、鉛直解像度は12層、深さは4500m一定)。実験は、次の3つの段階に分かれる。

(1)リスト-リング境界条件下でのスピンアップ(5000年)

(2)北半球高緯度への塩分の擾乱を含む混合境界条件下での積分(500年)

(3)その擾乱を取り除いた混合境界条件下での積分(1000年)

(1)のリスト-リング温度・塩分及び風応力は、緯度のみの関数で赤道対称である。また、初期場は、速度は0、温度は深さと緯度の関数、塩分は34.9‰で一定である。(2)の塩分の擾乱△は、2×10-7kgm-2s-1で北緯46度より北に適用され、淡水フラックスに換算するとおよそ-0.1myear-1に相当する。(1)の結果、北沈込をもつ定常状態(NRBC)に達する。(2)の結果、擾乱によって規定される状態に移る。(3)の結果は、次の3つに分かれる;(a)擾乱によって規定された状態に留まる。(b)初期状態へ戻る。(c)擾乱とは独立の別の状態へ移る。結果として、新しい定常状態が得られた場合は、その定常状態を初期状態として(2)と(3)を繰り返す。新しい定常状態が得られなかった場合は、与える擾乱の大きさを変えて(2)と(3)を繰り返す。このような一連の実験により、同一境界条件下での多重解が得られる。

4.数値実験の結果

 上記(1)の実験からは、定常状態では、全系の熱輸送によるエントロピー生成率は1.9×1011WK-1、全系の塩分輸送によるエントロピー生成率は3,6×108WK-1であること、及び、外系のエントロピー増加率は熱輸送によるものも、塩分輸送によるものも、ともに正、海洋系のエントロピー増加率は熱輸送によるものも、塩分輸送によるものも、ともにほぼ0あることがわかった。これらの結果は、定常状態では、塩分輸送によるエントロピー生成率は熱輸送によるエントロピー生成率に比べて第一義的には無視できること、及び、海洋系の定常的な循環にともなう熱と塩分の輸送よって生成されたエントロピーが海表面を通してすべて外系に排出され海洋系を含む全系を最終的な平衡へと向かわせていることを示す。また、上記(2)と(3)の実験の結果、同一境界条件下での多重解(図1、3つの北沈込をもつ定常状態:N1,N2,N3と4つの南沈込をもつ定常状態;S1,S2,S3,S4、NRBCはリスト-リング境界条件下での唯一の定常状態)が得られた。南沈込間の遷移においては、擾乱の符号に関わらず、常にエントロピー生成率の大きい状態に遷移している(r04,r05,r14,r15)。また、その遷移後の状態に正負の擾乱を与えても、もとのエントロピー生成率の小さな状態に戻ることはない(r08,r09,r18,r19)。これらの結果は、海洋系の非可逆的な遷移を示し、MEPを支持する(図2)。一方、北沈込から南沈込への遷移においては、エントロピー生成率の小さな状態に遷移している(r12,r13)。ただ、これらの場合には、現状の循環の沈込域に直接その循環を壊すような向きに擾乱が加えられており、その結果現状の循環が完全に崩壊してしまっている。これらの場合においても、循環が崩壊したあとの時間発展においてはMEPに矛盾しないことが示される(この点の詳細については、原論文を参照されたい)。

5.MEPと乱流の最大輸送説の統一的解釈

本研究で導出したグローバル表現と従来から知られているローカル表現を結びつけると、エントロピー生成率最大の条件(定常状態、物質の輸送は無視)は、次のようになる。

ここで、Fは境界での外向き熱輸送、Fは熱の輸送フラックス、Φは散逸関数、(2b)の右辺第一項は熱伝導によるエントロピー生成率、第二項は粘性散逸によるエントロピー生成率を表す。ここで、ベナール型熱対流における熱輸送Fが最大の条件は(2a)の右辺のFが最大の場合に対応し、乱流シアフローにおける運動量輸送τが最大の条件は(2b)の右辺のΦ(=τ△U)が最大の場合に対応する。以上から、MEPは乱流の最大輸送説を含んだ、より汎用性の高い概念であることがわかる。

6.今後の展望

以上、考察してきたように、MEPは、非常に汎用性の高い概念であると考えることができる。しかし、一方で、MEPの背後にある物理的な意味は必ずしも明確ではなく、現在までに得られているMEPに対するサポートはすべて経験的あるいは実験的なものである。この点にはさらなる研究が必要と思われる。

参考文献:

Busse, F. H. 1970. J.Fluid.Mech.41, 2 19-240.

Gransdorff, P. and I. Prigogine 1964. Physica 30, 351-374.

Malkus, W. V. R. 1954. Proc. Roy. Soc. London A225, 196-212

Paltridge, G. W 1975. Q. J. Roy. Meterol. Soc. 104, 927-945.

Sawada, Y. 1981. Prog. Theor. Phys. 66, 68-76.

Stommel, H. 1961. Tellus 13, 224-230.

図1 同一混合境界条件下での多重解(子午面平均流線関数)。

(a)NRBC,(b)N1,(c)N2,(d)N3,(e)S1,(f)S2,(g)S3,(h)S4。コンター間隔は2SV(106m3s-1)。

図2 遷移実験のまとめ。

縦軸はエントロピー生成率、横軸は子午面平均流線関数の最大値。点は各実験の遷移前と遷移後の定常状態、矢印は遷移の方向、矢印の側の記号は実験番号と与えた擾乱。

審査要旨 要旨を表示する

 熱塩海洋大循環は、熱フラックスと塩分フラックスを通して外系とつながっている開放散逸系である。従来の熱塩海洋大循環に関する研究は、主に力学的視点からなされ、熱力学的視点からはほとんどなされてこなかった。本論文は、熱力学的視点から熱塩海洋大循環を考察し、特に、氷期-間氷期スケールの気候変動との関わりが注目されている熱塩海洋大循環の多重解間の遷移がエントロピー生成率最大の原理と矛盾しないことを、数値モデルを用いて実証したものである。

 本論文は、計8章からなる第1部と、計5章からなる第2部によって構成されている。

 第1部の導入部では、熱塩海洋大循環の開放散逸系としての性質、および、開放散逸系の安定性に関する2つの考え方、すなわち、エントロピー生成率最小の原理とエントロピー生成率最大の原理に関するレビューが展開されている。また、第2章では、熱塩海洋大循環をはじめとする大規模な開放散逸系とその外系における熱と塩分の輸送に伴うエントロピー生成率の計算方法が導出されている。この計算方法は、熱や塩分のマクロな輸送過程に基づいており、ミクロな散逸過程の表現を直接的には含まないため、海洋大循環モデルの結果にも容易に適用できる。第3章および第4章では、熱塩海洋大循環の定常状態における熱力学的性質が調べられるとともに、その多重解間の遷移を調べるための数値実験の方法が述べられている。数値モデルは、東西72度、南北140度の大西洋を模した、南極周極流のある矩形海洋である。数値実験は、(1)リストーリング境界条件下でのスピンアップ(5000年)、(2)北半球の高緯度へ加えられた塩分アノマリーを含む混合境界条件下での積分(500年)、(3)加えられた塩分アノマリーを取り除いた混合境界条件下での積分(1000年)、の3つの手順からなる。(1)の結果、系はある定常状態に達するが、(2)と(3)の手順を繰り返すことによって、同一境界条件下での多重平衡解が得られる。これらのすべての手順において、第2章で導出された方法により、熱塩海洋大循環のエントロピー生成率が計算できる。

 数値実験の結果、熱塩海洋大循環の定常状態においては、塩分輸送によるエントロピー生成率は熱輸送によるエントロピー生成率に比べて第1義的に無視できること、また、熱と塩分の輸送によって生成されたエントロピーが海面を通してすべて外系に排出され、全系を最終的な平衡へと向かわせていることが示された。また、熱塩海洋大循環は、非常に強い塩分アノマリーが加えられた場合を除き、常にエントロピー生成率の小さい状態から大きい状態に遷移し、遷移後の状態に塩分のアノマリーを加えても、元のエントロピー生成率の小さな状態には戻らないことから、多重解間の遷移がエントロピー生成率最大の原理と矛盾していないことが確認された。

 第2部においては、地球流体系を含むいくつかの種類の乱流現象の散逸的な性質が考察されている。エントロピー生成率の表現には、従来から知られているミクロな物理過程(熱散逸と粘性散逸)に基づく「エントロピー生成率のローカル表現」と、第1部で導出したマクロな物理過程(熱の輸送)に基づく「エントロピー生成率のグローバル表現」の2つがある。申請者は、この2つの表現を結びつけることで、非平衡系のエントロピー生成率最大の条件が、ベナール型熱対流における熱輸送最大の条件および乱流シアフローにおける運動量輸送最大の条件を含む汎用性の高い概念であることを示した。簡単な例として、熱境界層と粘性境界層を仮定し、ベナール型熱対流における熱輸送の最大値と乱流シアフローにおける運動量輸送の最大値を求め、ともに、実験結果とのよい一致を確認した。

 以上をまとめると、申請者は、海洋大循環モデルにも適用できるようなエントロピー生成率の表式を導出するとともに、熱塩海洋大循環の定常状態における熱力学的性質を議論し、その多重解間の遷移がエントロピー生成率最大の原理と矛盾しないことを確認した。さらに、地球流体系を含むいくつかの種類の乱流現象がエントロピー生成率最大の原理という視点から統一的に解釈できることを明らかにした。このことは、特に、氷期-間氷期スケールの気候変動をコントロールしてきたとされる熱塩海洋大循環の多重解間の遷移という重要な問題に関し、新たに熱力学的視点を導入することによって、今後進展させるべき研究の明確な方向づけをしたものとして高く評価できる。

 なお、本論文の一部は、地球フロンティア研究システムの佐久間弘文氏および小澤久氏との共同研究であるが、何れも申請者が主体となって研究を行ったもので、その寄与が十分であると判断できる。よって審査員一同は、申請者が博士(理学)の学位を授与されるに十分な資格があるものと認める。

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