学位論文要旨



No 215478
著者(漢字) 熊谷,朝臣
著者(英字)
著者(カナ) クマガイ,トモオミ
標題(和) 森林環境における物理的諸現象の数値モデリングに関する研究
標題(洋)
報告番号 215478
報告番号 乙15478
学位授与日 2002.11.12
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第15478号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,雅一
 東京大学 教授 太田,猛彦
 東京大学 教授 八木,久義
 東京大学 教授 大政,謙次
 東京大学 助教授 芝野,博文
内容要旨 要旨を表示する

 地球環境問題の多くが、陸上生態系における植生の変化による環境の悪化もしくは、環境の悪化に対する植生の変化という現象に端を発している。そこには植生─環境間の相互作用が存在している。植生─環境間における相互作用に関する研究とは、植生─環境間におけるエネルギー・物質交換過程に関する研究と言い換えることが可能である。地球環境問題への科学的提言という課題に対して、最も必要とされる研究成果・情報は、「環境変化に対応して交換過程はどのように変化するのか」という未来予測を適切に示すことであろう。モデルは、未来予測そのものを行うツールとして必要不可欠であり、現実の現象から未来予測のためのモデルを構築するためのツールとしても重要な意味を持つ。本研究では、植生環境における現象を記述するモデルの構築にあたり、今後モデルの単純化に向けた努力を可能とするためにできる限り多くの要素を組み込んだ物理モデルを構築すること、また、完成したモデルを利用して観測データの解釈を行いモデル運営上の指針を与えることを目的とした。

 本研究の植生─環境モデルでは、植生として、地球上で最も巨大なバイオマスを有し、最も強く環境に影響を与える存在として「森林」を選択した。交換される物質として最も重要な研究対象は水と二酸化炭素であり、現象が生起する環境は、土壌環境、樹木の内部的環境、樹冠─大気境界面を主体とする大気環境である。本研究では、これら3つの環境に関するモデルとして、(1)土壌中二酸化炭素環境モデル、(2)樹体内水分動態モデル、(3)樹冠─大気間熱・水・二酸化炭素交換過程モデルを構築した。土壌環境のモデルとして土壌中二酸化炭素環境に関するモデルを選んだのは、その記述には、飽和・不飽和浸透モデル、熱移動モデル、そして土中ガス移動モデルという基本的な土壌環境のモデルが全て含まれるからである。外界と植生との関係を繋ぐのは、基本的に葉の生理反応であるが、この葉の生理反応を、土壌と大気環境の中で関係付けるのは樹体、主に幹における水分動態である。また、本研究におけるモデルが記述しようとする「フラックス」は、土壌中、樹体中においては分子拡散、大気中においては乱流拡散が支配する、時間スケールが小さな現象であるが、「フラックス」の時間積分は森林群落の物質生産・放出そのものであるため、フラックスに関する現象の解析は森林動態研究の基本である。本研究における議論は、以上(1)〜(3)のモデルが統合されて、土壌から植物体、大気に至るまでの連続体を表現し得る「森林環境シミュレータ」を完成させるための礎である。

(1)土壌中二酸化炭素環境モデル

 土壌中二酸化炭素環境モデルは、以下のような土壌中のCO2ガス生成とCO2ガス拡散の2つの現象の表現から構成される。孔隙分布・連結構造に関係する土壌構造と微生物量や根系分布に関係する有機物量分布からなる土壌条件は、場に固有で緩慢に経時変動する条件である。土壌中の有機物量と地中温度・土壌水分といった外界条件から影響を受ける生物活性は短時間で変動し、そこでの生物活動を支配する。そして、土壌中CO2ガスの生成強度は、微生物による有機物の分解及び、植物の根の呼吸作用という生物活動により決定される、土壌ガスの通り道である土中気相の構造は、孔隙率や孔隙の連結といった場に固有の土壌構造に短時間で変動する土壌水分条件が付加されて決定される。土中水の存在は、孔隙の連結を切断したり孔隙を孤立させ、ガスを土中水に溶け込ませたりして、土中でのガス拡散を妨げる。また、土中CO2ガス拡散速度は、さらに地中温度の影響を受ける。

 以上のような過程を表現する数理モデルを構築し、これを用いた数値シミュレーションにより実測された森林土壌中CO2ガス濃度プロファイルの再現を試み、良好な結果を得た。そして、数値シミュレーションの中で現象の素過程(例えば、ガス拡散係数・ガス生成強度)を追跡することで土壌中CO2ガス環境形成のメカニズムについて検討を行うことができた。数値シミュレーションでは、土壌構造に起因する土壌水分特性や土壌中ガス拡散特性は、計算土層中において深さ方向で均一であると仮定した。しかし、そのような仮定下においてもシミュレーション結果と実測値が良く適合したのは、この観測事例では土壌構造のような場に固有の不均質性よりも地中温度や土壌水分のような環境因子の時空間的な不均質性が土壌中CO2ガス環境を支配しているためであると推定できた。

(2)樹体内水分動態モデル

 根系部を含まない全軍木中の水収支を定量的にも定性的にも表現できる数理モデルを、多孔質媒体中の水移動則と植物性理学的知見を利用して構築した。この数理モデルを用いた解析により、樹体内水分特性パラメータと単木レベルでの水収支(蒸散、辺材における水分移動・貯留、吸水、水ポテンシャル分布)の関係を検討した。このモデルでは、大気側の要求量に対して蒸散が起こり、水ポテンシャルが樹体中で配分される。吸水は駆動力としてのこの配分によって生起し、蒸散量と吸水量の差が辺材中の貯留水量となる。詳細な気象データ、つまり、日射や風速などの時系列データは使用されなかったので、計算結果と観測結果の詳細な適合は行われなかった。また、導管もしくは仮導管要素を理想形(すなわち、完全に滑らかで長さ方向に一定径の毛管)と仮定し、モデル中の樹液流に対する抵抗増大を引き起こす導管もしくは仮導管中のエンボリズムやキャビテーションを無視した、しかし、モデル中では、試料木で観測されたほとんど物理特性のみが明らかに物理的意味を持つパラメータとして利用された。吸水という現象を引き起こす水ポテンシャルという値でさえ、多くのSPACモデルではパラメータの一種として扱われているという現実があるが、本モデルでは、植物中の水ポテンシャルは、明らかに物理的意味を持ち、試料木で観測される実際の水ポテンシャルと比較可能である。蒸散速度、吸水速度、水ポテンシャル、辺材中の貯留水変化量といった計算結果は、強制的に吸水を止めるという極端な条件下においてさえ観測結果に定性的な一致を見せた。よって、本モデルは、様々な樹種における水分特性を表現する様々なパラメータが蒸散速度や吸水速度に及ぼす影響を検討することが可能である。

(3)樹冠一大気間熱・水・二酸化炭素交換過程モデル

 樹冠内外における風の質(乱流特性など)、樹冠に入射さらに樹冠内を伝達する光の質(散乱光と直達光の成分比など)、樹冠構造(葉面積密度、葉の大きさ、傾斜角とその垂直分布など)、個葉レベルの物理的物質交換特性(葉面での対流特性)・生理学的特性(電子伝達速度、RuBisCo活性などやこれらを支配する葉内窒素含有量の垂直分布まで含む)を考慮して樹冠内・上空での熱・水・二酸化炭素交換過程を再現するモデルを構築した。本モデルは、主に、樹冠内放射伝達モデル、個葉生理学的・物理過程モデル、樹冠内・上空乱流拡散過程モデルの3つのサブモデルから構成されている。

 本モデルの構造で述べたように、フラックスを生起する要因とその相互作用系は非常に複雑である。本モデルのようなPhysical-Basedモデルは、このような環境因子とそれに対する生物側の反応が作り出す複雑な相互作用系を詳細に追跡することが可能である。この相互作用系のプロセスを観測することは非常に困難であり、むしろ不可能な場合の方が多い。例えば、樹冠内での環境因子の分布に対する個葉光合成速度の分布は、最も知りたい基本情報の1つであるが、観測は不可能である。この場合、大気中の拡散の様子、二酸化炭素濃度分布などから間接的に推測するしかない。Physical-Basedモデルは、このような間接的な推測を可能とするツールとしての役割も持っている。本研究では、本モデルが実際の現象を適正に表現できることを確認した上で、対象とする森林の条件(ここでは、葉面積密度垂直分布)が変化した時、現象がどのように変化する可能性があるのかを探った。また、本モデルを用いたシミュレーションを行うにあたってどの程度の分解能で情報収集を行う必要があるのか、という疑問に対する答えの1つとして、個葉光合成特性に関する計測の樹冠内における必要データ量について検討した。最後に、現在数多く存在する樹冠内拡散過程を無視したキャノピーモデルを用いた場合、環境勾配の大きい森林では、適正に現象が再現できない可能性があることを示した。

 森林環境で生起する現象という観点では、本論文で行ったことは、サブモデルの開発である。今後の課題として、以上(1)〜(3)のサブモデルの連結による総合モデルの開発が挙げられる。例えば、土壌乾燥条件に対するフラックスの反応の記述のためには、土壌環境の記述はもちろんのこと、根系部の吸水という新しいモデルが必要であり、樹体内水移動・貯留モデルの連結が必要である、新しいモデルの開発にはそのバリデーションのための新しい計測手法が望まれる。森林環境内での樹木根系部による吸水速度とその分布は、非常に困難な計測の1つであろう。また、それぞれの現象を支配する時間・空間スケールの違いのため、サブモデルの連結の際の時間・空間刻みの調整は数値計算上の技術的困難を含まざるを得ない。総合モデルの構築には、まだ解決すべき困難が多く残されている。しかし、本研究の価値は、総合モデルの構築以前に、未だ着手されていなかったサブモデルを完成させ、それぞれのサブモデルの特性を明確にしたことにある、これにより、最終的な総合モデルである「森林環境シミュレータ」の完成が具現化されたと考える。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は、植生─環境間におけるエネルギー・物質交換過程における現象を記述する物理モデルの構築すること、また完成したモデルを利用して観測データの解釈を行いモデル適用上の指針を与えることを目的とした。植生としては、地球上で最も巨大なバイオマスを有し最も強く環境に影響を与える存在として、「森林」を対象とする。交換される物質として最も重要な研究対象は水と二酸化炭素であり、現象が生起する環境は、土壌環境、樹木の内部的環境、樹冠一大気境界面を主とする大気環境である。本研究では、これら3つの環境に関するモデルとして、(1)土壌中二酸化炭素環境モデル、(2)樹体内水分動態モデル、(3)樹冠─大気間熱・水・二酸化炭素交換過程モデルを構築した。

 本論文は5章からなり、第1章では森林のエネルギー・物質交換過程の物理モデルによる研究の考え方をまとめ研究の方向を提示した。第2章では、森林土壌中の二酸化炭素ガス濃度分布の経時変動を表現する数理モデルを作成した。このモデルは、場に固有で緩慢に経時変動する土壌構造、微生物量や根系分布に関係する有機物量分布からなる土壌条件と、土壌中の有機物量と地中温度・土壌水分によって変わる土壌中二酸化炭素ガスの生成強度、孔隙の連結を切断したり孔隙を孤立させる土壌水による土中気相の構造の変化を反映するものである。土壌中での二酸化炭素ガスの生成強度を、有機物量、地温、土壌水分の関数として与える新たに提案したモデルを、土壌中のガス拡散モデルに組み込むことによって、森林における長期観測結果が良好に再現された。シミュレーション結果と実測値の良好な適合にいたる過程の検討から、土壌構造のような場に固有の不均質性よりも地中温度や土壌水分のような環境因子の時空間的な不均質性が土壌中CO2ガス環境を支配していることが推定された。

 第3章では、根系部を含まない樹木地上部の水収支を定量的にも定性的にも表現できる数理モデルを、多孔質媒体中の水移動則と植物生理学的知見を利用して構築した。この数理モデルを用いた解析により、樹体内水分特性パラメータと単木レベルでの水収支(蒸散、辺材における水分移動・貯留、吸水、水ポテンシャル分布)の関係が検討された。このモデルでは、大気側の要求量に対して蒸散が起こり、水ポテンシャル分布が樹体中で形成され、その圧力差によって吸水が生じる。また、蒸散量と吸水量の差が辺材中の貯留水量変化をもたらすものである。蒸散速度、吸水速度、水ポテンシャル、辺材中の貯留水変化量といった計算結果は、強制的に吸水を止めるという極端な条件下においてさえ観測結果に対応する応答を示した。従来の多くのSPACモデルにおける水ポテンシャルの値は、概念的に扱われ必ずしも実際に観測される値と対応するものではないが、本モデルにおける植物中の水ポテンシャルは、明らかに物理的意味を持ち、試料木で観測される実際の水ポテンシャルと比較可能である。本モデルは、様々な樹種における水分特性を表現する様々なパラメータが蒸散速度や吸水速度に及ぼす影響の検討が可能であることが示されている。

 第4章では、樹冠内外における風の質(乱流特性など)、樹冠に入射さらに樹冠内を伝達する光の質(散乱光と直達光の成分比など)、樹冠構造(葉面積密度、葉の大きさ、傾斜角とその垂直分布など)、個葉レベルの物理的物質交換特性(葉面での対流特性)・生理学的特性(電子伝達速度、RuBisCo活性やこれらを支配する葉内窒素含有量の垂直分布を含む)を考慮して樹冠内・上空での熱・水・二酸化炭素交換過程を再現するモデルを構築した。本モデルは、主に、樹冠内放射伝達モデル、個葉生理学的・物理過程モデル、樹冠内・上空乱流拡散過程モデルの3つのサブモデルから構成されている。

 このモデルは、樹冠内外の二酸化炭素濃度分布の計測データから樹冠内での環境因子の分布に対する個葉光合成速度の分布の関係の推定が可能である。本研究では、本モデルが実際の現象を適正に表現できることを確認した上で、対象とする森林の条件(ここでは、葉面積密度垂直分布)が変化した時、現象がどのように変化する可能性があるのかが調べられた。また、個葉光合成特性に関する計測の樹冠内における必要データ量についても検討された。

 第5章では、全体を整理し、(1)土壌中二酸化炭素環境モデル、(2)樹体内水分動態モデル、(3)樹冠一大気間熱・水・二酸化炭素交換過程モデルを統合する方向性がまとめられている。以上、本研究では、森林の微気象環境、二酸化炭素濃度環境を物理的に解析するために必要な物理則に基づくシミュレーションモデルを完成させ、それぞれのモデルの特性が明確にされた。

 以上のように、本研究は学術上のみならず応用上も価値が高い。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位を授与するにふさわしいと判断した。

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