学位論文要旨



No 215492
著者(漢字) 片山,建二
著者(英字)
著者(カナ) カタヤマ,ケンジ
標題(和) 過渡反射格子法に基づく新しい超高速光熱変換測定法の開発とその応用
標題(洋)
報告番号 215492
報告番号 乙15492
学位授与日 2002.11.14
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第15492号
研究科 工学系研究科
専攻 応用化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 澤田,嗣郎
 東京大学 教授 雨宮,慶幸
 東京大学 教授 尾嶋,正治
 東京大学 教授 高木,英典
 東京大学 助教授 藤浪,眞紀
内容要旨 要旨を表示する

【背景】

 光熱変換分光法とは、物質に光を照射して発生する熱波や音波を計測することで、その物質の熱・弾性・光学物性評価を行う計測法の総称である。この分光法は、1880年にBellによって光音響現象が発見されたことに端を発する非常に古い分光法であるが、固体表面の計測法として用いられるようになったのは、1973年にRosencwaigによって開発されて以降のことである。固体表面における光熱変換分光法は、通常の分光法では測定困難な光散乱性の物質(生体試料・ゲル状物質・液晶など)から半導体デバイス材料まで多種多様な物質が測定できることから、急速に進展し確立してきた。ここ10年来、本分野で最も進展してきた分野が高速光熱変換分光法と呼ばれる分野であり、本論文はその範疇に入る。この新しい分野では、パルスレーザーを固体表面に照射後の熱や音のダイナミクスをナノ秒程度の時間分解能で計測する。このようなダイナミックな熱や音の情報は基礎物理的に有用な情報を与えるとともに、従来法で得られる情報よりミクロな局所領域の熱・弾性物性を観測できるというメリットがある。さらに、近年では、時間分解能がフェムト秒領域まで向上することで熱・音の発生素過程である励起キャリヤに関する情報が得られるようになってきた。そのようなキャリヤ挙動は、さまざまな界面化学反応の素過程と密接に関わっており、これらの情報は、界面物理化学過程を明らかにする上で有用である。しかし、このような固体表面での高速光熱変換分光法に類する手法は、ナノオーダーの微小な界面領域を計測するため、通常のバルク計測に比べて数桁感度が劣り、また、時間分解能の向上により、さまざまな光熱変換過程が計測されるため、情報の選択性が問題となっている。本研究では、これらの課題を解決するため、高速光熱変換分光法の一つであり、感度が優れ、観測領域が界面10nm程度の過渡反射格子(TRG)法をさまざまな視点から改良した。それらの新たに開発した手法をいくつかの応用例に適用することで本手法を固体表面・固液界面における新たな分光分析手法として提案するのを目的としている。

【測定法の原理】

 図1に示すようにTRG法では2本の励起光を固体表面に交差して同時に入射することで、焦点部分を干渉縞状に励起する。その焦点部分では、電子の励起、熱による温度変化などにより、干渉縞状に屈折率が変化する。その焦点部分にプローブ光を入射すると、それらの屈折率変化により回折光が発生する。その回折光の強度変化を時間分解計測することで、屈折率変化、すなわちさまざまな物理化学過程の変化を観測する。

【結果と考察】

1.サブナノ砂時間分解表面プラズモン(SP)共鳴TRG法の開発とその応用

 SPとは固体表面に局在する電子の粗密波であるが、近年、光学的に励起されたSPを界面のプローブとして化学・バイオセンサーが実用化されている。SPの特徴として(1)光を共鳴的に吸収する、(2)固体/液体界面における高感度なプローブとなる、という特徴をいかしてTRG法に適用することを着想した。すなわち、(1)の特徴を利用して、SPを光熱変換現象の元となる効率的な熱源として利用し、(2)の特徴を利用して、界面における電子励起・熱や音発生による界面での変化を高感度に検出することを考えた。実際に、(1)や(2)の着想通り、最大2桁の信号増幅に成功した。しかも、励起光とプローブ光のSP共鳴条件をコントロールすることで、TRG法で観測できる電子・熱・音のダイナミクスを選択的に観測できることが見出された。

 この開発した手法を用いて以下の応用研究を行った。(1)界面の熱ダイナミクスを選択的に観測できることを利用して、数nm膜厚のアルカンチオール自己組織化膜による熱低抗測定に成功した。(2)固液界面ナノ空間内の熱エネルギーの移動を分子レベルで解釈することを試みた。金-電解質水溶液間のエネルギー移動過程を調べ、ナノ空間内でのエネルギーの移動過程は固体のフォノン振動だけではなく、電子的な相互作用が関与していることを見出した。

2.フェムト秒時間分解過渡反射(TR)・TRG同時測定法の開発とその応用

 TR法は、固体表面の高速光熱変換分光法の1つであり、TRG法と異なり、反射率変化により高速ダイナミクスをモニターする。TR法とTRG法を比べると、感度はTRG法の方が優れている。含まれる物理的な情報としては、TRG信号には、TR信号に含まれる情報に励起キャリヤの界面水平方向への拡散による効果が付加される。そのため、TR信号とTRG信号を比較することで、キャリヤの表面領域での拡散速度に関する情報を抽出することできる。シリコンの場合、1020cm-3程度の高密度キャリヤでは、キャリヤ密度に非線形に依存する拡散速度が見出された。このことは熱的に非平衡状態のキャリヤが拡散に関与しているものと考えられる。

3.TRGスペクトル法の開発とその応用

 高速光熱変換分光法においてナノ秒程度の時間分解能の測定では、熱や音のダイナミクスを観測していたが、フェムト秒時間分解能の計測になると、観測される現象が熱や音の発生素過程となるキャリヤ(電子やホール)のダイナミクスとなり、時間軸方向の1軸情報しかもたない高速光熱変換信号では、どのような物理現象が関わっているのかを明らかにするのは困難な状況になってきた。そこで、キャリヤダイナミクスが、どのエネルギー準位・中間状態を経て緩和しているかを明らかにするために、TRG法にスペクトル情報を付加することを着想した。具体的には図2に示すように、プローブ光に白色フェムト秒パルス光を用いることで、従来のように単一波長における屈折率変化を測定していたのを、様々な波長における屈折率変化を同時計測できるように改良した。この開発により、(1)キャリヤの緩和過程を各エネルギー準位ごとに観測できるようになり、(2)キャリヤの緩和過程とそれにともなう熱の発生過程を選択的に観測できるようになった。

 本手法の応用例として、まず、従来の測定法で詳細は不明な熱平衡状態に達する以前の非平衡キャリヤの緩和過程(熱化過程)を調べた。TRGスペク.トル法による金表面での測定結果を図3に示す。図3に示す2つのピークは2つの異なる励起状態を意味している。2つのピークは異なる緩和過程を示している。この信号の解析から、熱化過程には励起状態に応じて異なる2段階の過程があることが見出された。

 また、半導体表面における熱の発生素過程を調べた。この研究はキャリヤの緩和過程と熱による温度変化を選択的に測定できるようになったことによって可能となった。シリコンでは、1020cm-3程度から熱の発生素過程は非線形なキャリヤ再結合が起因となっていることを見出した。そのため、ピコ砂時間領域では表面温度は励起光強度に対して非線形に増加することが見出された。この現象は近年、注目されているフェムト秒レーザー加工技術とも関連があることを示した。

 分光的な応用例として表面増強ラマン散乱(SERS)効果の発生素過程を調べた。SERS効果とは、特定の金属表面に吸着した分子のラマン散乱強度が104から106倍増強される現象であるが、その増強の起因は、明らかにされているとはいえない。そこで、SERS効果がおこる場合とおこらない場合で金属と吸着分子の間の電子的な相互作用を調べた結果、SERS効果に関与する電荷移動が200fs以内でおきていることを見出した。これは、SERS効果の素過程を直接観測したはじめての例である。

 実用的な応用例として、半導体表面における欠陥評価をおこなった。光励起キャリヤは、欠陥や不純物によって形成されたエネルギー準位にトラップされやすい。そこで、キャリヤの各エネルギー準位ごとの緩和過程を観測することで、様々なトラップ準位を形成する欠陥・不純物を検出できると考えた。イオン注入をほどこし、様々な時間アニールすることで欠陥状態を変化させたシリコン表面に適用して、欠陥準位を検出した。2種類の欠陥準位を検出することに成功し、また、各欠陥準位でのキャリヤ寿命の測定にも成功した。

4.高次回折光の時間分解ダイナミクス測定によるキャリヤ非線形効果の観測

 TRG法では、従来1次回折光により、固体表面における屈折率変化を観測してきた。それは、屈折率変化を観測する上で、何次の回折光を観測しても得られる物理情報は同じであり、回折効率の面から考えると1次回折光を観測するのが最も感度がよいと考えられたからである。しかし、2次回折光のダイナミクスを計測したところ1次とは全く異なる過渡応答を示すことが見出された。このことは、TRGで誘起する干渉縞が正確な正弦波形から崩れていることによることが示された。この原因は、キャリヤの非線形効果によりキャリヤ密度に応じて緩和過程が異なることに起因する。したがって、高次回折光を観測することでキャリヤの非線形相互作用による緩和過程を選択的に観測できることが分かった。

【まとめと展望】

 本研究では、近年急速に進歩してきた高速光熱変換分光法に属する新しい手法を提案した。従来の高速光熱変換分光法では、熱や音のダイナミクスから熱・弾性物性を測定することが多かったが、本研究では時間分解能をフェムト秒時間領域まで向上させることで、熱や音の素過程となるキャリヤの過程を測定することが可能となってきた。キャリヤ→熱へのプロセスは、吸着分子との相互作用や欠陥へのトラップ過程など様々な界面化学反応と密接に関係がある。したがって、太陽電子・光触媒・光機能性表面などにおける光化学反応素過程を明らかにしたり、そのキャリヤをプローブとして様々な表面分析も可能である。また、ナノテクの進展にともない重要視される高密度なキャリヤ状態での非線形なキャリヤ相互作用に関しても、その物性評価に本手法が適用可能であることも示された。したがって、本研究で示されたフェムト秒時間分解・高密度励起キャリヤ・スペクトル情報・高次回折光などの実験条件を組み合わせたTRG法は固体表面における新時代の物性評価法として期待される。

図1:TRG法の原理

図2:TRGスペクトル法の原理図

図3:金薄膜(膜厚100nm)のTRGスペクトル

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、近年急速に進展してきた高速光熱変換分光法の分野に属するものである。本研究は、そのなかで固体表面測定法の一つである過渡反射格子(TRG)法に基づいて、いつくかの新しい手法を開発・提案し、様々な応用例を通してそれら新規な手法の有用性を示すものである。光熱変換分光法とは、物質に光を照射した後の熱波や音波を計測することで、熱・弾'性・光学物性評価を行う計測法の総称である。1970年代以降、固体表面における光熱変換分光法は、通常の分光法では測定困難な光散乱性の物質(生体試料・ゲル状物質・液晶など)から半導体デバイス材料まで多種多様な物質が測定できることから急速に進展し確立されてきた。これらが発展する形で高速光熱変換分光法と呼ばれる分野が生まれた。この分光法では、パルスレーザーを固体表面に照射し、発生する熱や音のダイナミクスをナノ秒程度の時間分解能で計測する。このようなダイナミックな熱や音の情報は非線形波動などの基礎物理的に有用な情報を与えるとともに、従来法で得られる情報よりミクロな局所領域の熱・弾性物性を観測できる。

 しかし、このような高速光熱変換分光法に類する手法は、観測領域がナノメートルオーダーであるために通常のバルク計測に比べて数桁感度が劣り、測定できる試料が限定されていた。また、観測される熱・音の現象を分離して観測することが難しかった。そこで、高速光熱変換分光法の一つであり、その中では感度に優れているTRG法を選択し、本法に表面プラズモン(SP)共鳴現象を利用して高感度化・情報選択性の向上に取り組んだ。その結果、熱や音のダイナミクスの選択的測定及び、最大2桁の高感度化に成功した。本装置を用いて単分子膜の熱物性評価や固液界面ナノ空間エネルギー移動の解析を行った。

 また、高速光熱変換分光の分野では、より直接的な熱・音のダイナミクスを計測したいという欲求が高まってきたため、従来のナノ秒からフェムト秒時間領域まで時間分解能を向上させる試みに取り組んだ。そのことにより、従来観測された熱や音のダイナミクスだけではなく、熱や音の発生素過程となるキャリヤ(電子やホール)のダイナミクスも観測されるようになった。

 これらのキャリヤのダイナミクスが観測できるようになって、さらに多くの応用分野が広がってきた。それは、このような励起キャリヤは、太陽電池・光触媒・光機能性表面などにおける反応素過程に関与しており、吸着分子との相互作用や欠陥へのトラップ過程など様々な界面でおこる反応を調べる上で有益な情報を与えるからである。一方で、光励起初期のキャリヤの振る舞いは、キャリヤ同士の散乱・フォノン散乱・欠陥や不純物へのトラップなど多くの過程が含まれ、それぞれの過程で熱が発生するため複雑となり、解析が困難になった。そこで、情報の選択性を向上させるために、キャリヤの空間的な拡散情報を抽出することができる過渡反射(TR)-TRG複合測定法の開発やキャリヤの緩和過程をエネルギー準位選択的に観測できるTRGスペクトル法の開発などを行った。特に、TRGスペクトル法は本研究中最も多くの成果をあげた手法であり、非平衡キャリヤの緩和過程・キャリヤの非線形相互作用に基づく熱発生過程・表面増強ラマン散乱効果の素過程の観測・半導体表面欠陥の評価など世界的にはじめて見出された事項をいくつか含んでいる。

 また、別の視点として、近年のデバイス等の微細化・高速化やフェムト秒パルスレーザー加工など、局所的に高密度なキャリヤ生成がおこる場面が増えるとともに、そのような条件下でおこる様々な非線形効果に関する知見が重要視されるようになってきた。そこで、高密度キャリヤ条件でのキャリヤ・熱挙動の情報を得ることができる高速光熱変換計測の適用を考えた。TR・TRG複合測定による空間的なキャリヤ伝搬過程のキャリヤ密度依存性の解析や、TRGスペクトル測定によるキャリヤ多体効果に基づく熱発生過程の測定や、高次回折光の時間分解計測によるキャリヤの非線形挙動の直接測定を行った。

 本論文の構成としては、第1章では本研究の位置づけと目的を示すために、背景となる光熱変換分光法やTRG法の原理、測定例について述べた。第2章では表面プラズモン共鳴TRG(SP・TRG)法について述べてある。SP-TRG法による電子・熱・昔ダイナミクスの選択的な観測についてと界面ナノ領域における固液界面間エネルギー移動過程の解析について述べている。第3章ではTR-TRG複合測定に関して述べており、シリコン表面における高密度キ十リヤの動的過程の特異性が示されている。第4章では、TRGスペクトル法の開発・理論・測定例が示されており、本論文の中心的な部分である。スペクトル情報の付加による情報量の増加により、多くの物理化学過程が明らかにされた。非平衡キャリヤの緩和過程・キャリヤの非線形相互作用に基づく熱発生過程・表面増強ラマン散乱効果の素過程の観測・半導体表面欠陥の評価という4つの応用例に関して述べている。第5章では、高次回折光の時間分解測定により、キャリヤの非線形効果を直接測定した例が示されている。

 以上要約したように、本研究により、高速および超高速光熱変換分光法における感度・情報選択性をきわめて向上させることに成功した。特に超高速時間領域で観測されるキャリヤダイナミクスの情報は、光化学反応の素過程を明らかにし、様々な光誘起プロセスの指針をあたえるとともに、光励起キャリヤをプローブとした新しい界面分析手法の開発にもつながっていくものと考えられる。今後、短パルスレーザー光源の低価格化や簡易取り扱いが進めば、これらの分光法がますます進展していくものと期待される。

 以上のことから、本論文は工学博士の学位にふさわしい内容を持つものと判断した。

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