学位論文要旨



No 215498
著者(漢字) 田辺,勝美
著者(英字)
著者(カナ) タナベ,カツミ
標題(和) 毘沙門天像の起源 : ガンダーラにおける東西文化の交流
標題(洋)
報告番号 215498
報告番号 乙15498
学位授与日 2002.11.25
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第15498号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小川,裕充
 東京大学 教授 河野,元昭
 東京大学 教授 小佐野,重利
 東京大学 教授 佐藤,康宏
 名古屋大学 教授 宮治,昭
内容要旨 要旨を表示する

 北方の守護を司る毘沙門天(多聞天)像及び兜跋毘沙門天像は我が国においては、四天王像のなかでは最も著名なものである。しかしながら、これらの天部像の起源に関しては我が国は無論、欧米の研究者によっても、まだ解明されていない。無論、最古の毘沙門天像の一つのタイプがガンダーラにおいて2-4世紀頃に創造されたことは、1967年頃以降J.M.Rosenfield等によって指摘されていたが、しかしながら、そのタイプは武装をしていない毘沙門天像であるので、我が国の槍や戟などを持ち、鎧を着た武将姿の(兜跋).毘沙門天像の起源とはいえないのである。

 このようなわけで、本研究においては、真の毘沙門天像、すなわち武装した毘沙門天像及び兜跋毘沙門天像の起源の解明を試みた。

 まず、毘沙門天像や兜跋毘沙門天像に関する内外の研究を概観し、従来の研究が、僅かの例外を除き、ホータン(6-7世紀)に兜跋毘沙門天像の起源をもとめるにとどまっている点を明らかにした。しかしながら、ホータンが(兜跋)毘沙門天像の起源地ではないことは、既にガンダーラの非武装の毘沙門天像の実在によって、ほぼ明らかとなっていた。それゆえ、本研究は、ホータンの仏教美術より古いガンダーラの仏教美術に武装した毘沙門天像の起源をもとめる視点で研究を進めた。

 その方法は釈迦牟尼の伝記を記した『仏伝』とその内容を図化した「仏伝浮彫」との比較を行うものである。仏伝浮彫に関しては、成道後の釈迦如来が用いるべき托鉢用の鉢を四天王が献上する挿話を図化した「四天王捧鉢図浮彫」に既に非武装の毘沙門天が描写されているので、その図像学的特色---鳥翼冠とイラン(中央アジア系の服装---を明らかにし、それを比較資料として新たに、毘沙門天像が描写されている仏伝浮彫の特定を試みた。その結果、シッダールタ太子が夜半、カピラヴァストゥ城を去って修行の地に向かう挿話を図化した「出家踰城図浮彫」にも、「四天王捧鉢図浮彫」に描写されている毘沙門天像の特色を持つ武人が一人描写されていることを発見した。この武人は鳥翼冠を戴き、手に原則として弓矢(矢筒)を持っている。その他、弓矢を持ち、頭にターバンを巻いたインド人王侯風の人物も描写されているが、これは、ヤクシャ(四天王)の一人、北方の守護を司るクヴェーラである。また、イラン系とインド系の服装を折衷した衣服をまとい、弓矢を持つ人物も描写されている。このように、細部において若干の相違点はあるが、弓矢を持つという点、および騎馬の太子の面前に描写されているという二つの点において、これらの人物像は共通点を有する。

 かくして、この種の武人像が、未だ知られていない毘沙門天のもう一つのタイプである蓋然性が明らかとなったが、ただし、大きな問題が存在した。それは、このタイプの武人像は19世紀末以来、シッダールタ太子(釈迦牟尼)の出家を妨害する魔王マーラと解釈され、それが定説となって現在まで信奉されている事実である。それゆえ、この定説を打破しなければ、本研究は成り立たない。

 この定説が何故、間違っているかということを明らかにするために、まず、その由来を考察したところ、それは南伝の仏典たるパーリ本『ジャータカ』の序「ニダーナカター」の出家品の記述と、北伝の『ブッダチャリタ』の「降魔成道品」の記述が、この定説の文献的根拠---_魔王マーラの武器は弓矢で、太子に出家を断念させようとした---であることが判明した。しかし、前者は、北伝佛教に基づくガンダーラの彫刻の図像解釈には用いるべきではないし、後者も「出家踰城図浮彫」の人物の同定には適用できない。特に北伝やサンスクリット語の仏典の出家品には、魔王マーラは殆ど言及されていない。このような考察の結果、従来の定説は論拠が間違っていることが判明し、弓矢を持つ武人が魔王マーラではないことを明らかにした。

 一方、この弓矢を持つ武人像に関しては、1985年にW.Loboが帝釈天であるという新説を提示している。それゆえ、この新説の間違いも論証する必要がある。この新説の論拠はサンスクリット本『ラリタヴィスタラ』の出家品に太子の道案内をする者として帝釈天が挙げられている点、この武人の右手の仕種は、定説のように太子の馬の進行を止めようとするものではなく、道案内をするものであると解釈する点にある。後者に関しては、W.Loboの解釈は正鵠を射ているが、前者に関しては帝釈天だけが道案内者として諸仏典の出家品に記されているわけではないことを明らかにし、W.Lobo説の欠陥を指摘した。その上、帝釈天はガンダーラの仏伝浮彫では、しばしば、円筒冠を戴き、常に非武装のインド人王侯姿で描写されているので、問題の武人像が帝釈天である蓋然性は殆どないことを論証して、この新説を退けた。

 このような定説及び新説の誤謬を論証した後、諸仏典の出家本(種に漢訳経典)に挙げられている太子と馬の道案内者が、クヴェーラ、毘沙門天(多聞天)、梵天、帝釈天の4人であることを明らかにした。そして、これら4人の「候補者」とガンダーラの幾つかの「出家踰城図浮彫」に描写されている武人像ないし道案内者像との比較を行った。その結果、問題の人物像については、ほぼ次のようなことが判明した。

1.頭にターバンを巻き、弓矢を持つインド人王侯風の場合は、クヴェーラである。

2.頭に一対の鳥翼を戴き、弓矢を持つイラン人王侯風ないしインド人王侯風の場合は毘沙門天(多聞天)である。

3.弓矢を持たないインド人王侯風の場合は帝釈天の蓋然性が大きい。

 このようなわけで、「出家踰城図浮彫」には、太子と馬の道案内者として、毘沙門天が描写されていることを論証した。この場合、毘沙門天は弓矢で武装し、かつ鎧を着ている場合が多いので、この武人タイプの毘沙門天像が、中央アジア、中国、日本の毘沙門天(多聞天)像及び兜跋毘沙門天像の源流となったことが明らかとなったのである。

 次に、何故、インド系のクヴェーラではなく、毘沙門天という北方守護天がガンダーラで創造されたかという問題を考察した。クヴェーラは福神であり、四天王(ヤクシャ)の一人で北方を守護する存在であったが、ガンダーラでは、他の3人のヤクシャの首領のような存在に格上げされた。これは、インドの北西に位置するガンダーラでは、特に北方の守護を司るクヴェーラが格別に厚い信仰を得たことを物語る。一方、ガンダーラの上流階級はイラン系のクシャン族で、その他にも中央アジア、イラン高原から移住したイラン系民族が多数住んでいた。これらイラン系の人々が崇拝した福神はクシャン朝のコインに刻印された豊穣・商業の神ファッローであった。かれらが仏教徒に改宗した後、純粋にインド的なクヴェーラに代えて、イラン系のファッロー神を四天王の首領的存在にした。このようなわけで、ファッロー神の姿で以てクヴェーラを、上述した二種類の仏伝浮彫に描写したのが、他ならぬ毘沙門天像であったのである。それは、毘沙門天像の頭部につく一対の鳥翼がファッロー神の頭部につく鳥翼に由来することから証明される。

 次に、このファッロー神型毘沙門天像の源流は、同じく豊穣・商業を司るギリシアのヘルメース神、ローマのメルクリウス神にあることを解明した。問題の鳥翼はこれら地中海の神の特色の一つであり、かつ、これらの神は英雄等の戦車を牽引する馬を先導する役割があった(太子の馬を先導する役割に通じる)。

 このようにして、「出家踰城図浮彫」における毘沙門天の存在を明らかにした後、それに先行する「出家前夜図浮彫」中の夜の観念の造形を明らかにし、更に「出家踰城図浮彫」にも、ギリシア・ローマの夜の女神像(Nyx,Nox)を借用した夜の観念が造形化されていることを解明した。そして、この「夜の観念」が太子と馬の正面観描写とペアーをなしている場合が多い事実を突き止めた。後者の正面観描写は太陽神像に由来し「光明の観念」を暗示するので、多くの「出家踰城図浮彫」は「明暗の劇的効果」によって、太子の出家を賛美するのが主題であったことを確認し、定説の説く「魔王マーラと太子の抗争」ではないことを改めて論証した。

 この後、四天王が関係する「従園還城図浮彫」には、ギリシアの鍛冶の神ヘーファイストゥスの姿をした造化の神(毘首羯天)が描写されていることを明らかにし、ヘルメース=ファッロー=毘沙門天説を補強した。また、ホータンの毘沙門天像についても、武器の変化(弓から槍、戟)の問題と関連づけて若干の考察を試みた。

 最後に、多聞天という名称は、ガンダーラの毘沙門天像には相応しくないことを明らかにした。多聞天というのは毘沙門天(Vaisravana)の意訳で、"Vaisravana"は動詞語根Vi√sru(遍く聞く)から派生した名詞であると見なされている。従来、「多聞」は釈迦如来の説法を多く聞いたからこのように言われたと説明されてきた。しかしながら、クヴェーラにせよ毘沙門天にせよ、釈迦如来の説法を聞いたとは仏伝には全く記されていない。また、その最古の像にもそのような特色はない(道案内者、仏鉢の進呈者)。それゆえ、このような語源は妥当ではないと考え、その代わりに、"Vi√sri"(多くの富を持つ)を提案した。富はクヴェーラ、ファッロー神の本質であるので、これらの神に由来する毘沙門天の名称には最も相応しいのである。

審査要旨 要旨を表示する

 ガンダーラ美術の研究は、従来、仏像自体の様式や、仏伝浮彫の表現形式、あるいはそのモチーフなどについて、ギリシャ・ローマ美術の影響を考察するという形で行われてきた。また、仏伝図像に関しては、仏教経典と照合することにより、場面の解釈がなされてきた。それに対して、岡辺勝美氏の論文『毘沙門天像の起源-ガンダーラにおける東西文化の交流』は、仏伝浮彫などの細部の図像を取り上げ、その祖型をクシャン貨幣に表されるイラン系神像に見出すとともに、ギリシャ・ローマの図像にも遡ることを明らかにしており、これまでほとんど行われてこなかった新たな視点による図像学的研究をなす。

 氏は、先行研究に逐一当たって鋭い批判を加え、自説の方向性を打ち出しつつ、ガンダーラの「出家踰城図」浮彫中のシッダールタ太子の前に立つ人物について、魔王マーラとする通説や、帝釈天とする異説を否定し、文献的根拠と図像的検討とを踏まえて、毘沙門天とする。その上で、この人物の図像をタイプ分けし、そのうち、弓矢をもち、鳥翼冠をつけ、武装する姿のそれを東アジアで通行する毘沙門天像の起源とし、従来、ホータンとされてきた武装毘沙門天像の起源が、ガンダーラにまで遡ることを示すとともに、クシャン朝の貨幣に表されるファッロー神の図像を基礎として、ギリシャ・ローマのヘルメース・メルクリウス神の図像と信仰とを吸収しつつ成立したものであることを明らかにする。

 さらに、ガンダーラの「出家踰城図」などには、光と闇の造形化がなされていると主張する。すなわち、そこには、ギリシャ・ローマの夜の女神ニュクスが、ヴェールを持つ女神像として表される一方、馬に乗る太子が正面観で形づくられている点にギリシャの太陽神ヘーリオス的性格が認められることなどを指摘し、太子の出家が夜なされたにもかかわらず、光り輝いたという『ブッダチャリタ』『マハーヴァストゥ』などの経典の内容に即した悟りの光明世界を表象すると読み解く。

 その研究は、以上のように、ガンダーラ美術に関わる図像解釈を推進しつつ、クシャン族がガンダーラ美術においてイラン系の神々の図像とギリシャ・ローマの神々のそれとを融合させる大きな寄与をなしたとする見解を始めて提出する点で、高く評価できる。

 とはいえ、「出家踰城図」の毘沙門天がもつ弓矢をインドの太陽神スールヤの脇侍の持物と関係づける点は、疑問である。それでは毘沙門天の図像の成立にインドの影響を認めることになり、イラン系のファッロー神に祖型を求める立場と矛盾するからである。また、ガンダーラ美術におけるクシャン族の寄与が具体的にどのようなものであったのか。工房やパトロンに関する観点や考察を欠くなど、問題点もままあるものの、本論文は、その点を考慮に入れても、新たな視点と新たな知見とを含む卓越した業績であると認められる。

 審査委員会は、以上の点から、本論文が博士(文学)にふさわしいものと思量する。

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