学位論文要旨



No 215499
著者(漢字) 安野,正明
著者(英字)
著者(カナ) ヤスノ,マサアキ
標題(和) 戦後ドイツ社会民主党の党改革実現過程 : 党再建からゴーデスベルク綱領制定まで
標題(洋)
報告番号 215499
報告番号 乙15499
学位授与日 2002.11.28
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第15499号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 石田,勇治
 東京大学 教授 油井,大三郎
 東京大学 教授 木畑,洋一
 東京大学 教授 相澤,隆
 東京大学 助教授 森井,裕一
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は、ドイツ社会民主党(SPD)が戦後十数年の停滞を余儀なくされた要因はどこにあったのか、それを克服する党改革運動はどこからいかなる主張を掲げて生まれてきたのか、党改革運動が当初は挫折を重ねたのはなぜか、それがいかにして1950年代末に実現するに至ったのかに留意しながら、党組織改革と基本綱領制定という党改革の二つの問題を軸にして、1945年の党再建活動から1959年のゴーデスベルク綱領制定に至るドイツ社会民主党史を分析した。

 「定説」的理解としては、1950年代末に実現したSPDの党改革は、党改革を推進する「改革派」(Reformer)対党改革を阻害し停滞的指導を行っていた「党官僚」(Apparat)の対立構造が強調され、連邦議会議員団や地方の首長を中心とする「改革派」がオレンハウアー党首を頂点とする「党官僚」を打倒してゆく過程として、二項対立的な図式の中で把握されてきた。

 しかし、従来の研究では、一連の党改革が1960年代以降のSPDの飛躍の基礎を築いたと、その「意義」は強調されてきたが、それが実現する「過程」については掘り下げの足りない所があり、本論文では未解明の部分の実証的解明を目指し、基本綱領制定と組織改革をめぐる戦後SPDの試行錯誤、紆余曲折の分析を行った。本論文は一連の党改革が実現に至る過程の詳細を跡づけることにカを注いだが、それ自体が目的であるだけでなく、党改革実現過程の実証研究が、上記のような党改革全体の「定説」的理解の見直しになると考えた。

 第一章と第二章では戦後約1年の再建過程を検討し、そのプロセスで戦後SPDの進むべき方向と組織構造について、いかなる刻印が為されたかを分析した。SPD再建にあたっては、ハノーファー、ロンドン、ベルリンの「三つの核」の活動を中心に分析するのがかつては一般的であったが、近年では地方レヴェルでの研究が進展を見せている。それを踏まえて、SPD再建を全体としてどうとらえ直すかを念頭に置いて研究を進めた。

 SPDの再建は、各地域で様々な展開が見られ、占領軍政府の対応の違いも少なからぬ影響を与えており、特定の「核」が主導して一斉・一様に進行することを困難にしていた。確かに、大勢としては、1933年以前の組織・党員との「非連続」よりは「連続」の方が強く認められるのではあるが、各地でタイムラグを持ちながら分権的再建が進行し、最後にシューマッハーが「反社会主義統一政党」という屋根を架ける形でSPDは再建されていた。この再建過程で、シューマッハーは「社会主義者となる動機の多元性の承認」を強調し、ゴーデスベルク綱領制定につながる社会主義問い直しの方向付けを行ったかに思われたし、「再建ではなく新建設を」と訴えていた。

 しかし、地方組織(その要となる単位は「大支部」と訳したBezirk)は、分権的再建の帰結としてシューマッハー指導部に対して相当の自立性を有していたが、地方組織の大勢は、1933年までのSPDの世界に生きている伝統主義的年長党員の支配するところとなっていた。

 SPDの組織規約では、党大会で選出される党幹部会(Parteivorstand)が党全体の指導機関であったが、有給党幹部会員と無給党幹部会員の二重構造が存在していた。「再建ではなく新建設を」と訴えていたシューマッハーではあったが、彼の強いリーダーシップが確立していた党中央指導部においては、党本部に常勤している有給党幹部会員(党首、副党首、数名の専従党官僚)に「決定と執行」の区分なく権限が集中する組織原理が「再建」され、議員団に対する「党の優位」も自明とされていた。このような組織構造に不満を募らせ、党組織改革を求める「改革派」が連邦議会議員団や無給党幹部会員を中心に形成され、党本部の「党官僚」との対立が構造化されてゆくことになるのである。

 第三章では、ゴーデスベルク綱領との「連続性」が指摘されてきた1947年のツィーゲンハイン決議と、「動機の多元性の承認」を掲げたシューマッハーが、意外にも早期基本綱領制定には否定的対応を明確にし、基本綱領制定運動が挫折してゆく経緯を分析した。そして、基本綱領論議のプロセスでよく登場する「倫理的社会主義」と「自由な社会主義」について、その成り立ちと内容を戦後SPD史の文脈に即して検討し、これらがいかなる刺激と革新的要素を綱領論議に与えていたかを考察した。

 第四章では、1953年連邦議会選挙敗北後に高揚した「改革派」による党改革運動が、挫折に至る経緯を分析した。1958年に実現する組織改革につながる改革案は出ていたのではあるが、この時点では「改革派」は地方組織の支持を調達することができず、組織改革はオレンハウアーによって巧みに封じ込められてしまった。

 これに対して、基本綱領論議は1953年選挙後、一定の前進を見た。組織改革を挫折させた1954年党大会において1952年の行動綱領が改訂されたが、それは「自由な社会主義」や「倫理的社会主義」の議論の成果を生かし、SPDの綱領的革新を相当程度進めていた。SPD内部への浸透はその後の課題であったが、これは「改革派」ではなく、オレンハウアーの管理下に達成された成果であったことに留意すべきである。

 早期基本綱領制定運動がシューマッハー時代に挫折に追い込まれた後、慎重に綱領論議を進め、基本綱領制定による党改革の主導権を掌握したのは、「定説」では党改革に抵抗した「党官僚」の頭目とされるオレンハウアーであり、かつて綱領論議に積極的に関与していた「改革派」(たとえば、カルロ・シュミットなど)は、次第に基本綱領制定への関心を失っていった。

 オレンハウアーは、ロンドン亡命時代以来彼に忠実なアイヒラーを基本綱領委員会の委員長にすえたが、1954年の成果は党内に浸透せず、基本綱領委員会の作業は停滞したまま1957年連邦議会選挙を迎えることになった。

 第五章では、これまでの検討を踏まえて、1957年連邦議会選挙後、一連の党改革が実現する過程を追った。1957年選挙敗北後のオレンハウアーの第一反応が「今こそ、基本綱領を」で組織改革には否定的であったのに対し、「改革派」は組織改革と人事の刷新に集中し、基本綱領制定を妨げようとしていた。つまり、1957年選挙大敗に対する衝撃は、SPDに党改革機運を高めていたのではあるが、党改革の具体的内容と方向性には対立があった。その結果、党改革が同じ方向に収斂せず、党内権力闘争がネガティヴに作用して二つの改革が足を引っ張り合い、党改革が全体としては失敗に終わるという危険、少なくとも党の弱体化を招きかねない混乱が党改革に伴って生じるという危険は、1957年10月の連邦議会議員団執行部選挙のころは存在していた。が、そのような事態を招かず、一連の党改革が成功裏に実現するに至った最終段階のプロセスを詳細に跡づけることに意を用いた。

 1958年党大会で実現した組織改革が、「改革派」主導で実現したことはつとに指摘されている通りである。ただ、有給党幹部会員の閉鎖的特権集団を解体し、専従党官僚を政治的に無力化した党常任幹事会(Parteiprasidium)の設置を核とするこの組織改革は、「改革派」が「党官僚」の頭目たるオレンハウアーを屈服させた結果、1958年党大会で実現したと、従来の「定説」のような単純な二項対立図式で捉えられるものではなかった。

 この組織改革実現過程では「皇帝は残って将軍が入れ替わる」方向での解決が模索されており、オレンハウアーとエルラー、シュミット、ヴェーナーを中心とする「改革派」指導者との間に「対抗的協調関係」が形成されていったのである。そして、これを基盤に1958年党大会以後、オレンハウアーの強いイニシアティヴが発揮されて「改革派」を巻き込みつつ、「定説」で語られてきたような「党内コンセンサス形成」「民主的手続きを経ての合意形成の帰結」とは言いかねるやり方で、ゴーデスベルク綱領は制定されていた。

 「改革派」の「党官僚」に対する勝利として一連のSPDの党改革を説明する研究は、オレンハウアーを「党官僚」の頂点に置いて論ずるのが一般的で、その結果、党改革全体に対するオレンハウアーの貢献など最初から検討の対象から外れてしまう。しかし、オレンハウアーを伝統を墨守して党改革に抵抗し続け、シュトゥットガルト党大会で無力化された「党官僚」の首領と位置付けるのは適切ではない。組織改革とゴーデスベルク綱領制定が一連の党改革として成功裏に実現したのは、「改革派」が「党官僚」の頂点に立つオレンハウアーを打倒した帰結ではなく、様々な局面で対立しながらも、「改革派」と呼ばれた人々とオレンハウアーがそれぞれ置かれた異なる場で進めていた党改革への努力が、1957年選挙後のSPDの危機の中で合体した帰結であった。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、戦後ドイツ社会民主党が1950年代末に実行した二つの大きな改革の実現過程を、これまで十分に検討されてこなかった党首エーリヒ・オレンハウアーの役割に注目しつつ、新たに再構成しようとするものである。方法論としてはオーソドックスな歴史学・政党史研究の手法がとられ、今回初めて光のあたったものを含め豊かな資料分析に基づく実証研究となっている。

 ここでいう二つの大きな改革とは、第一に、党指導部の組織改革、すなわち戦後再建された社会民主党内で隠然たる力を行使してきた有給党幹部会員・専従党官僚による閉鎖的特権集団に代わって、党連邦議会議員団の指導力を保証する新しい党指導組織が確立(1958年)されたことを意味する。第二に、伝統的なマルクス主義と決別し、階級政党から国民政党への脱皮をめざす戦後初の党基本綱領「ゴーデスベルク綱領」が制定(1959年)されたことである。両者はいずれも、その後の社会民主党が躍進する原動力となった。

 本論文は、これら組織と綱領に関する党改革の実現過程を、改革をめぐる複雑な党内権力関係と多様な思想潮流を視野に入れて、克明に描き出している。この分野の標準書とされるヘルムート・ケーザーによる先行研究が、党首オレンハウアーを改革に消極的な「守旧派」(=既存エリート)の頭目とみなし、二大改革は「改革派」(=対抗エリート)がオレンハウアーの影響力を簒奪して実現したという、二項対立的なテーゼを掲げているのに対して、本論文が導く結論は、オレンハウアーと「改革派」はさまざまな局面で対立しながらも、一定の協調関係(「対抗的協調関係」)を築きあげ、1957年の連邦議会選挙の大敗北を契機に一気に深まった危機状況の中で、オレンハウアーを含む種々の改革努力が結晶した結果として、二つの改革が成就したというものである。

 本論文は、序章、第1章から第5章、結語、付録(表・文献リストなど)から構成される。目次等を含めて総数326頁で、四百字詰め原稿用紙換算で約900枚の分量に相当する。以下、各章の概要を紹介する。

 第一章「ドイツ社会民主党の再建」と第二章「再建された社会民主党の組織-その特色と問題点」は一対のものであり、合わせて紹介する。

 ここでは、なぜ党の組織改革が必要となったのか、問題の歴史的な背景を解明している。まず、戦後、連合国の分割占領下で再スタートした社会民主党が、ヴァイマル共和国期以来の連続性を維持しながら、占領地域毎にまったく異なる展開を遂げた経緯が、従来の研究(三大拠点論:ハノーファー、ロンドン、ベルリンを党再建の三大拠点とし、それらの相互連関から再建過程を描く)を批判しながら、描出される。次に、西側占領地区の社会民主党が、ソ連占領地区で強行された社会民主党と共産党との合同を機に、反共主義者のクルト・シューマッハーのもとに統合されて行く過程が描かれる。また、初代党首に就任したシューマッハーが「社会民主党員となるための動機の多様性」を認め、党員基盤の拡大をめざす一方で、伝統主義的な党員の反発を恐れ、新しい基本綱領の制定には反対していたこと、そして有給党幹部会員・党専従官僚の連邦議会議員団に対する優位を温存させ、党内組織対立を構造化させたことが解明される。

 第三章「シューマッハー時代の基本綱領制定運動と基本綱領をめぐる潮流」では、まず、「ツィーゲンハイン決議」(1947年)の政治思想的背景が検討され、これがゴーデスベルク綱領に通底する内容を有しながら、肝心のシューマッハーによって等閑にされた経緯が描かれる。次に、それでも党内に徐々に地歩を占め始めた社会主義の新しい思想潮流、つまりアイヒラーの「倫理的社会主義」(「人間の尊厳を重視する社会主義:自由・公正・連帯」)とシラーの「自由な社会主義」(「可能な限りでの競争、必要な限りでの計画」)が検討され、これらがシューマッハー指導下では日の目を見なかったものの、オレンハウアーの支持を得て、後の「ゴーデスベルク綱領」の水源となることを究明している。

 第四章「1953年連邦議会選挙後の党改革運動と基本綱領委員会の設置」では、改革論議が、シューマッハーの後任者となったオレンハウアー新党首の下で、どのような展開を見せるかが分析される。1953年の連邦議会選挙は社会民主党にとって戦後初の大きな敗北であり、組織改革を求める声が、カルロ・シュミットなど「改革派」によってあげられたが、党地方組織とオレンハウアーの賛同を得られず実現しなかった。一方、基本綱領制定については、「改革派」は次第に関心を失っていく。基本綱領の策定が「改革派」の言動を縛り、党内影響力の喪失につながると考えられたためである。

 第五章「党改革の実現-組織改革と基本綱領制定」は、本論文の核心部分である。ここではまず、1957年連邦議会選挙でのいっそう深刻な選挙敗北を受けて危機意識が深まる中、党の組織改革の実現に奔走するカルロ・シュミット、フリッツ・エルラー、ヘルベルト・ヴェーナーという「改革派トロイカ」の激しい動きが、オレンハウアーから妥協を引き出し、これが1958年の組織改革に結実した過程が描かれる。たしかにここでオレンハウアーは従来の党官僚寄りの姿勢を翻し、「改革派」に大きく歩み寄った。これは、先行研究が指摘するように、オレンハウアーの敗北とも解釈できるが、本論文の提出者は、この妥協を、党改革をめぐる確執が党の弱体化をもたらしかねないという党首の判断によるものであり、オレンハウアーは妥協によってかえって党内基盤を強化したとみている。結局、「改革派」は、オレンハウアーの「皇帝は残り将軍を入れ替える」手法によって、オレンハウアーの側に引き寄せられることになった。オレンハウアーは、「改革派」が依然として逡巡する基本綱領策定に乗り出し、十分な党内合意のないまま、強引ともいえる手法で「ゴーデスベルク綱領」の制定を達成するのである。

 これらの分析から得られた本論文の結論はすでに述べた通りであるが、あえて補足すれば、オレンハウアーは、従来の研究が指摘するような党改革の阻害要因ではなかった。彼はむしろ、伝統的な党官僚の利益に配慮しつつ、必要な党組織改革を認め、社会民主党の新時代を切り開くゴーデスベルク綱領の「産婆役」を果たしたのである。

 以上が本論文の要旨であるが、本論文は次のような点で高く評価することができる。

 第一に、本論文は、日本はもとより欧米でも従来のドイツ政治史研究において、つねに「行動力のない、魅力に乏しい指導者」として描かれてきたオレンハウアーの政治家としての手腕、舞台裏の行動に最初の本格的な分析のメスを入れた研究である。党改革に果たしたオレンハウアーの役割に関するこれまでのネガティヴな評価は改められねばならない。この意味で本論文は、今後、戦後ドイツ社会民主党研究に関して必ず参照されるべき文献の一つとなろう。

 第二に、本論文は、巻末の文献目録が示すように、社会民主党の二大改革とオレンハウアーに関する文書館資料が網羅的に渉猟され、精緻な実証分析のうえに議論を展開している。党大会、幹部会の記録だけでなく、オレンハウアーの個人文書を精査した本論文は、戦後ドイツ史研究に大きな貢献をなしているといえよう。

 第三に、本論文は第二次世界大戦直後のドイツ社会民主党を構成する多様な思想潮流、派閥、世代を同時代の社会状況と結びつけて論じている。たとえば第四章が詳論するヒトラー・ユーゲント世代の獲得をめぐる党議論の分析が示すように、本論文はたんなる政党史を越えて政治社会史研究の視点を提供していると言えよう。

 他面、本論文にもいくつかの不足点がないわけではない。たとえば、キリスト教民主同盟・社会同盟のように、社会民主党と競合する他政党との比較や関連がほとんど論じられていないこと、また、社会民主党の改革論議が外交政策・安全保障政策とどのように関係していたかについて分析がないのも惜しまれる。また、社会民主党の学生組織として発足した社会主義ドイツ学生同盟の歴史的位置づけについてはやや不分明な印象は否めない。

 とはいえ、これらの点は本論文の全体としての価値を損ねるものではない。本論文は戦後ドイツ政治史研究のすぐれた業績として内外の学界に多大な貢献を果たすものと評価できる。以上の理由から、本論文の提出者は博士(学術)の学位を授与されるのにふさわしいと判断する。

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