学位論文要旨



No 215500
著者(漢字) 佐原,哲也
著者(英字)
著者(カナ) サハラ,テツヤ
標題(和) 近代バルカン都市社会史 : 多元主義空間における宗教とエスニシティ
標題(洋)
報告番号 215500
報告番号 乙15500
学位授与日 2002.12.09
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第15500号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 石井,規衛
 東京大学 教授 木村,靖二
 東京大学 教授 柴,宜弘
 東洋文化研究所 教授 鈴木,董
 東京都立大学 教授 中野,隆生
内容要旨 要旨を表示する

1.論文の構成

 本論は、以下の各章、節で構成される。

序章 共存のための政治文化にむけて

第1章近代バルカンの都市空間

1節 バルカンの都市社会・2節 都市社会と宗教・3節 東方正教徒の世界・4節 マイノリティと宗教・5節 都市内部の分離と融合・6節 都市と統合機能

第2章 タンズィマートと都市社会

1節 改革運動・2節タンズィマートの概観・3節 都市行政改革・4節 ベレデイエ評議会の財政・5節 都市基盤整備・6節 地方行政改革の影響とその評価・7節 結論

第3章 オスマン主義とミッレト制度改革

1節 オスマン主義・2節 ミッレト憲法・3節 正教会ミッレト憲法の制定とその影響・4節 ブルガリア教会独立運動・5節 結論

第4章 タンズィマート期の宗教対立

1節 I改革以前の宗教意識・2節 宗教対立の顕在化・3節 ムスリムとキリスト教徒の対立・4節 結論

第5章 多言語社会と「民族語」

1節 多言語公用化とその反響・2節 前近代バルカン都市の言語環境・3節 「民族語」の形成・4節 結論

第6車 オスマン国家の文教政策と多元的統合の可能性

1節 オスマン政府の公教育政策・2節 ムスリムの教育システムと改革の影響・3節 混合学校の試みとその反応・4節 東方正教徒の伝統教育と近代化の矛盾・5節 結論

第7軍 オスマン主義とナショナリズムの和解可能性

1節 独立諸国の教育システムとオスマン領への影響・2節 学校を巡る「民族紛争」・3節 ネイションに抗する力・4節 結論

終章 オスマン的多元主義の意味

2.各章の内容

 序章では、民族独立が唯一の歴史的発展の道であるとするバルカン諸国の近代史の説明原理である「民族復興理論」の矛盾点の指摘と、それに代わる多民族共存モデルをめぐるロシア史、ハプスブルク史、オスマン史の議論を紹介し、多民族社会の近代化モデルが現在の歴史学上の重要論点であることを指摘した。そして、オスマン領バルカンがそのモデルとなりうるかを検討する際に解明されねばならない研究史上の未解明の問題として、タンズィマート期のオスマン帝国が行った地方統治システムの評価・バルカン諸民族のナショナリズム形成における宗教の役割、ナショナリズムの普及過程における教育の役割の3点を抽出し、これらをエスニシティ理論を援用して考察する道筋を示した。

 第1章では、前近代のバルカン都市社会の構造を取り上げ、主要な社会制度としてのコミュニティの機能と実態を提示した。19世紀までのオスマン領バルカンの地方都市では、ムスリム、東方正教徒、アルメニア教徒、ユダヤ教徒などが宗教的均質性に基づくコミュニティ組織を形成しており、これが日常生活の枠組みであるとともに、アイデンティティの主要な源泉であった。多宗教的な住民構成にもかかわらず、こうした宗教別の自治組織が共存を可能としていたのは、コミュニティを横断する同職組合と都市行政機構が存在していたからであった。17世紀以降、地方名望家層が勃興し、地方統治は混乱するが、コミュニティを基礎とする社会の形態とローカルな共存のメカニズムはむしろ強化された。

 第2章では、オスマン帝国のタンズィマート改革の地方統治システムの変化を分析した。タンズィマートは、宗教的平等を掲げて、ムスリム名望家とキリスト教徒の分離主義を抑制する新たな統合政策であり、1860年代の州制度の導入が地方での改革導入の契機となった。州制度改革で行われた諸事業は、経済発展と宗教的マイノリティの政治参加を目指しており、ムスリムとキリスト教徒の名望家は、一般に、改革を積極的に支持していた。しかし、同時に、改革は宗教別に組織されたコミュニティの機能を強化する結果となり、宗教帰属に沿った社会の分節化をむしろ促進した。

 第3章では、宗教集団が分離主義の温床であるとみなした政府が、それに対抗するために宗教集団の政治的権利を制限するために導入した政策とその影響を分析した。その結果、アルメニア教徒とユダヤ教徒の場合は、改革によって宗教的分離主義は抑制されたが、キリスト教徒の場合には、従来の意識が変化し、言語的差異に基づく集団意識の変化が生じ、その一部がナショナリズムに結びついたことを解明した。

 第4章では、前章での検討を踏まえて、ナショナリズムの発展とされる現象がキリスト教徒だけに見られるのはなぜかを解明するために、ムスリム、キリスト教徒、ユダヤ教徒の異宗教間関係の変化を分析した。その結果、従来のバルカンでは宗教的相対主義が支配的であったが、改革以後、キリスト教徒の間では反ユダヤ主義が生まれ、ムスリムにはイスラム擁護運動が発生したように、宗教的価値観の再認識が行われ、他の宗教に対する寛容性が失われたが、それはいずれも改革の掲げる宗教の平等への反発であったことを明かとした。それゆえ、キリスト教徒の間で主張されてきたナショナリズムの発展は、すべての住民の問で展開していた宗教意識の変化のごく一部を説明するものでしかないと結論される。

 第5章では、ナショナリズムの発展を裏付けるとされる言語文化の変化を分析するため、タンズィマート期に採用された多言語公用化政策と、それへの反応を分析した。バルカンでは多言語使用が一般的であり、エスニシティと言語の関係も曖昧であったが、19世紀の「民族語」の形成によって多言語使用は民族的同化であるという意識が生まれ、他者の言語に対する敵対的環境が生まれつつあった。多言語公用化政策は、こうした言語対立を調停し、多言語コミュニケーションを実現する可能性を持っていた。

 第6章では、国家による公教育と「民族語教育」の関係を分析した。従来の学説では公教育政策は言語的トルコ化であるとされてきたが、実際にはマイノリティの文化を保護し、多数派であるムスリムとマイノリティであるキリスト教徒の相互理解を促進する政策であり、民族語教育の発展を阻害しないことを証明した。

 第7章では、セルビア、ギリシャ、ルーマニア、ブルガリアのナショナリズムに基づく民族語教育を分析し、これらがいずれも排他的で戦闘的性格を持ち、多言語多宗教社会を解体するものであったことを明らかにした。ナショナリズム教育は、民族的差異を自明の前提とするものではなく、逆に、規格化された民族語を強要することで民族的差異を作り出すものであり、従来の共存システムを破壊する性格を持っていた。そのため、民族語教育には広範な住民の反発が見られ、多くのケースで、民族教育の受容は表面的であり、人々は自らのエスニックな性格を隠したまま特定の民族の一員であることを装っていた。そして、状況が変化すると、容易に他の民族に帰属替えをしていた。複数言語教育を可能にするオスマン政府の公教育政策は、こうした対立を調停し、多元的共存にとって好適な条件を準備するものであった。

 終章では、これらの考察結果を踏まえて、次のような結論に至った。

 オスマン領バルカンにおいては、1830年代から1870年代の40年間はその前後の時期と比較して相対的に安定した時代を経験したが、それは微妙なバランスの上に立ったものであった。オスマン政府が導入した一連の改革は、徐々にではあるが確実に成果をあげていた。整った地方支配のシステムの導入と近代的インフラストラクチャーの導入政策は、前時代に進行したアーヤーン層の分離主義の抑制を実現し、非ムスリムを含む地方名望家層の統合を可能にする条件を生み出していた。更に、従来のイスラム国家からの相対的離脱を志向する宗教的平等主義の導入は、多宗教的構造を傷つけずに、共通の国家的共同体への帰属意識を生みだしうる環境を実現したであろう。

 しかし、同時に平等原理による多元性の容認は、宗教とエスニックな要素に基礎を置く多様な集団意識の分節化にも肯定的な条件を提示したため、人々は新たな社会的条件に対応したアイデンティティの獲得に向けて動きだした。宗教活動の自由は、それぞれの宗教がもつ固有の価値を他者に顕示する機会を提供し、これによって従来の宗教的相対主義は後退し、新たな宗教理解が一般化するとともに、他者に対する宗教的不寛容も顕著となった。近代教育の導入は、そのコード化作用によって、「民族語」という観念を生み出し、言語に基づくアイデンティティが宗教以上に重視されるとともに、多言語性を隠蔽し、言語的差異の規範化という神話が生まれた。

 こうした変化は、平等原理の提示と国家が進める近代化に対する反応であった。具体的な現象は、既存の宗教帰属を重視する形態から言語的類縁性を強調するものまでの様々な偏差をもったが、ネイションという集団意識の顕在化もその一つであり、とりわけキリスト教徒の間では顕著であったが、変化の総てではない。ネイションヘの帰属意識が最も本来的なアイデンティティであるとする前提に立った既存の歴史認識は、その意味で、この時代の変化のごく一端をとらえたに過ぎない。このことは、同時に、ナショナリズムが近代への唯一の道程ではなかったことを示しており、ネイション以外の近代に対応したアイデンティティが存在し、そこに民族独立以外の共存の可能性を見いだすことも可能である。多元主義は、社会の分節化の対極に位置するものではなく、多様なアイデンティティの在り方を許容することを基礎に成り立つからである。

 こうした社会は、その構成員の何者からも決して本心から歓迎されるものではない。多元主義社会は安定と調和の支配する社会ではなく、絶え間ない緊張と対立要因を内包するものであるが、それ故に、均質な国民国家が必要であるとは限らない。問題の本質は、アイデンティティの分節化に伴う、他者との軋轢を、いかに調停するかであり、対立を全面化しないための微妙なバランスを維持する努力である。そして、この点で、タンズィマート期のオスマン政府は、多様性に対して最大限に寛容であり、よき調停者であろうと努めていた。政府の対応に問題があったとするならば、それは介入にたいして慎重でありすぎたことにすぎない。

 19世紀半ばにオスマン領バルカンで展開された多元主義的統合政策は、その意味で、失敗した改革ではなく、国民国家に代わる多民族社会の近代化モデルとなりえた。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、19世紀なかばに行われたオスマン帝国のタンズィマート改革が、当時この国家の支配下にあったバルカン半島の住民、とりわけ都市部に暮らす人々に及ぼした影響を、宗教、教育、言語などの面から多面的に分析した力作である。

 現在、バルカン諸国の歴史学は、民族をアプリオリに実体化する傾向を強くもっている。それに対して筆者は、民族とは近代に作られた観念であるという構成主義の立場に立ち、この研究において、既存の研究史の体系的再読と新資料の発掘という二通りの手法で、バルカンの都市社会を構成する様々なエスニック・グループ間の関係の変化を、詳細に分析する。そのさい筆者は、英仏露和の研究はもちろん、トルコ、ブルガリア、ユーゴスラヴィア、ギリシア、マケドニア、ボスニア=ヘルツェゴヴィナの各国の研究を網羅的に活用する一方で、オスマン・トルコ語、スラヴ系諸語、ギリシア語の原史料を利用している。即ち、バルカン各国の民族語のほぼすべての記述言語情報をもとに、19世紀にオスマン帝国の支配下にあったバルカンのすべての地域を分析しているのである。この点からも本論文は、欧米では勿論、バルカン各国でも極めて稀なものであり、国際的にも高く評価されうるものと評価できる。

 本研究の学問上の貢献は、以下の三点を具体的に指摘できる。

 第一は、タンズィマート期の地方行政システムが、通説とは異なり、実をあげたものであることを明らかにしたことである。そのさい筆者は、法制度面の検討・分析という従来の研究の限界を越えて、バルカン半島における地方行政文書等を積極的に利用することによって実態的に解明した点である。

 第二に、タンズィマート改革の実施過程における宗教集団の反応の分析において、キリスト教徒(東方正教徒)に限らず、ムスリム、ユダヤ教徒、アルメニア教徒(アルメニア教会派キリスト教徒)などの宗教集団をも取り上げ、彼らの集団意識の変化を解明したことである。

 第三に、タンズィマート改革の矛盾した側面もあわせて、総合的な解明と評価を行なっていることである。すなわち改革は、近代化によってバルカン都市社会に一定の緊張関係をもたらしたことを確認する。その一方で、筆者は、19世紀後半までバルカンでは多言語使用が一般的であったことを独自に確認した上で、従来トルコ化政策として批判されてきたオスマン政府の進めていた多言語公用化政策が、深刻化していた教会と学校を巡る住民衝突を緩和し、マイノリティに対して適切な保護を与える可能性を持っていた面を浮かび上がらせた。そのことによって本論文は、独自の近代化をめざすオスマン帝国のタンズィマート改革が、バルカンの民族対立を緩和し、諸民族の共存を実現しうる可能性を持つものであったことをも、説得的に示したと言えるだろう。

 以上のような成果によって、本論文は、従来の東欧・バルカン研究の一面的な傾向、各国の国民史を、批判的に検討したのみならず、バルカン地域史研究のための国際レベルでの共通の基礎を作り上げ、トルコ・イスラム研究に対しても建設的な貢献をなすものとも言える。なかに気負いの感じられる評語も散見されるが、独創性を追究する作品にはえてしてありがちで、論文全体の達成度に照らしてみれば瑕瑾に過ぎない。よって、審査委員会は、本論文を博士(文学)に相応しいものと結論した。

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