学位論文要旨



No 215512
著者(漢字) 石本,晋一
著者(英字)
著者(カナ) イシモト,シンイチ
標題(和) グルココルチコイドおよび増殖因子による鼓膜穿孔治癒過程の制御についての研究
標題(洋)
報告番号 215512
報告番号 乙15512
学位授与日 2002.12.18
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第15512号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 深山,正久
 東京大学 助教授 朝戸,裕貴
 東京大学 助教授 菊池,かな子
 東京大学 助教授 中田,隆夫
 東京大学 講師 竹内,直信
内容要旨 要旨を表示する

 【緒言】鼓膜穿孔は耳鼻咽喉科の日常診療で頻繁に経験する疾患である。穿孔は容易に治癒するようにみえるが自然閉鎖せずに難聴や耳漏の原因となり、手術療法を行うことがしばしばある。その理由として鼓膜は非薄な組織にもかかわらず、3層(上皮層、固有層、粘膜層)から構成されていること、また下床がなく、宙に浮いた状態であることから鼓膜穿孔は皮膚が治癒するようにいかず、閉鎖しないのではないかと推測されている。近年、皮膚等の創傷治癒に影響を及ぼすさまざまな増殖因子が鼓膜創傷治癒過程においても発現して穿孔治癒を誘導し、鼓膜穿孔縁に特定の増殖因子を添付することで穿孔の治癒を促進することが実験動物モデルを用いて報告されている。しかし、今までの研究報告の多くは単純に鼓膜穿孔を作成して、治癒過程の一時点の増殖因子の発現をみているものであった。更に増殖因子の穿孔縁への添付実験は増殖因子を単独に添付して反応をみるというものであった。われわれは鼓膜穿孔の治癒を解明するためには、治癒過程においてどのような増殖因子がどの時期に多く発現しているか経時的に観察する必要があると考えた。また各増殖因子が鼓膜各層にどのように作用するか明確に解明するためには鼓膜穿孔治癒過程で発現する増殖因子を抑制して考察する必要があると考えた。

 この点に鑑み、本研究ではラットを用いて3段階にわけて実験を行い、実験的鼓膜穿孔に対する増殖因子の誘導と穿孔治癒との関係についてRT-PCR法及び免疫組織化学的手法にて検討した。すべての増殖因子を検索することは不可能なために、特に鼓膜穿孔治癒に関与すると報告のあるKeratinocyte growth factor(KGF)、basic fibroblast growth factor(basic FGF)、transforming growth factor-α(TGF-α)さらにKGFレセプターについて検討した。

 【研究の第一段階】はじめに正常モデルの鼓膜穿孔治癒における増殖因子の関与を調べる目的で研究を行った。研究には成熟した41匹(体重230〜300g)のアルビノラット(以後ラット)のオスを使用して形態学的変化、経時的な増殖因子のmRNAの発現、さらに穿孔縁に増殖因子を添付した鼓膜の免疫、組織学的変化を観察した。正常鼓膜及び穿孔を作成した鼓膜においてKGF、basicFGF、TGF-αおよびKGFレセプターのmRNAの発現を認めた。KGF、basicFGF、TGF-αのmRNAの発現は穿孔を作成した鼓膜が正常鼓膜(穿孔なし)よりmRNAの発現が増加していた。一方、KGFレセプターのmRNAの発現は正常鼓膜および穿孔作成鼓膜でも変化がなかった。経時的な増殖因子のmRNAの発現からKGF,TGF-αのmRNAの発現は鼓膜穿孔作成後から急激に上昇して3日目にピークを示した。一方、basicFGFのmRNAの発現は1,3,7日目と徐々に増加した。KGFが主に上皮細胞の増殖を促進してbasicFGFが線維芽細胞、血管内皮細胞という、主に上皮層、固有層の細胞増殖を促進する増殖因子であることを考えると、我々の実験結果は上皮細胞が先行して鼓膜を橋渡しした後に固有層の細胞増殖がおこるという上皮層の増殖進展説を支持する結果となった。またEGFと同一のレセプターに結合するTGF-αに関しては、KGFと同一の発現形式をとることから主として上皮層の細胞増殖に関与している可能性が高いと考えられた。

 実際にKGF及びbasicFGFを鼓膜穿孔縁に添付した実験(鼓膜穿孔作成時、および2日目に100μg/ml(0.5μg)添付して3日目に撲殺し、標本を作成)では、コントロール群と比較してKGF添付群では鼓膜上皮層にBrdU陽性細胞の増加を認め、上皮層の肥厚を認めた。一方、basicFGF添付群では固有層の肥厚及びBrdU陽性細胞数の増加を認めた。しかしコントロール群でも鼓膜穿孔の肥厚及びBrdU陽性細胞を多数認めることより治癒の抑制していない状態では外因性の増殖因子の他に多くの内因性の増殖因子等が治癒に作用していると考えられた。我々は外因性の増殖因子の鼓膜穿孔縁への作用を明確にするためには治癒抑制モデルを用いて検討する必要があると考えた。

 【研究の第二段階】次に鼓膜穿孔において治癒抑制モデルを作成するために皮膚の創傷治癒が遅延するという報告のあるグルココルチコイドを全身投与して鼓膜においても穿孔治癒の遅延が生じるのではないかと推測して研究を進めた。研究には52匹(体重230〜300g)のラット(オス)を使用した。皮膚の創傷治癒を遅延する作用のあるグルココルチコイド(デキサメサゾン)をPhosphate buffer saline(以後PBS)に1mg/mlで溶解して1mg/kgで毎朝皮下投与してグルココルチコイド投与モデルを作成した。グルココルチコイド投与モデルに鼓膜穿孔を作成して穿孔縁への影響を検討するために鼓膜穿孔縮小率、組織学的所見、BrdU陽性細胞数、増殖因子のmRNAの発現に関してコントロール群(PBS皮下投与群)と比較した。鼓膜穿孔作成後7日目の鼓膜穿孔縮小率に関しては、コントロール群(n=5)で73.6±12.7%(Mean±SD)であるのに対してグルココルチコイド投与群(n=5)は19.2±9.0%(Mean±SD)であった。鼓膜穿孔作成後7日目の鼓膜0.5mmあたりのBrdU陽性細胞数はグルココルチコイド投与群(n=18、6耳)で13.3±7.4、コントロール群(n=18、6耳)で30.6±8.O(Mean±SD)であった。ともにコントロール群と比較してグルココルチコイド投与群では低下しており統計学的に有意差を認めた。(P<0.01、Student's t検定)。病理、組織学的検索ではグルココルチコイド投与による治癒遅延モデルでは上皮細胞の増殖が穿孔縁から離れた所でわずかに認めるだけで、通常穿孔治癒過程で重要な作用である上皮細胞の移動作用(migration)が穿孔縁まで進展しないで治癒が遅延しているのが観察できた。手術顕微鏡所見でも鼓膜穿孔と穿孔縁から離れて増殖した上皮細胞層とで鼓膜穿孔縁が二重輪のように観察できた。グルココルチコイド投与群でも各増殖因子(KGF,basicFGF,TGF-α)のmRNAの発現は穿孔を作成することで増加した。KGFに関しては、グルココルチコイド投与群では鼓膜穿孔を作成していない状態でも明らかなmRNAの発現の低下を示した。グルココルチコイド投与群のbasicFGF、TGF-αのmRNAの発現量は穿孔を作成していない状態ではコントロール群と同様であった。コントロール群で3日目まで急激にmRNAの発現量が増加傾向を示すKGFとTGF-αは、グルココルチコイド投与群においても3日目に最大になり、その後減少傾向を示した。しかしその発現量はコントロール群と比較して低下していた。BasicFGFに関してはコントロール群では5日まで徐々にmRNAの発現が増加したがグルココルチコイド群では3日目に最大になり、その後減少傾向を示した。またグルココルチコイド投与群の0,1日目のbasicFGFの発現量はコントロール群とほぼ同様であった。また、緩やかに増加するbasicFGFは時間を経過するごとにグルココルチコイド投与群とコントロール群の間でmRNAの発現の隔差が増大した。以上のことよりグルココルチコイド投与ラットは増殖因子の発現を抑制して鼓膜穿孔治癒を著しく遅延していることより外因性の増殖因子の鼓膜穿孔縁への効果を検索するのに適していると考えた。

 【研究の第三段階】研究2で作成したグルココルチコイド投与による鼓膜穿孔治癒抑制モデルの鼓膜穿孔縁に増殖因子(KGF、basicFGF、TGF-α)を添付してそれぞれの増殖因子の効果、作用を明確にする目的で研究を行った。研究には28匹のラットを用いて鼓膜穿孔作成時、および2日目に100μg/ml(0.5μg)添付して3日目に撲殺し、標本を作成して観察した(研究1同様)。グルココルチコイド投与方法は前述同様に行った。コントロールとしてグルココルチコイドの代わりにPBSを投与してPBSを添付したコントロール1群とグルココルチコイド投与して鼓膜にPBSのみを添付したコントロール2群を作成した。上皮層の細胞増殖及びmigrationはグルココルチコイド投与ラットに各増殖因子を添付しても認められなかった。増殖因子を添付した各群の増殖期の各群で鼓膜0.5mmあたりのBrdUの陽性細胞数を比較した。計測方法としては1耳に対して鼓膜穿孔を含んだ5切片をランダムに選択してKGF添付群、basicFGF添付群、TGF-α添付群、コントロール群1(PBS投与、PBS添付群)、コントロール群2(グルココルチニコイド投与、PBS添付)ともに各35片(各7匹,7耳)を用いた。各コントロール1群では42.8±14.0(Mean±SD)であった。グルココルチコイド投与群のBrdU陽性細胞数はKGF添付群では15.6±2.0、basicFGF添付群では15.8±1.6、そしてTGF-α添付では18.9±2.0(Mean±SD)であった。コントロール2群では6.7±2.5(Mean±SD)であった。コントロール1群と比較してグルココルチコイド投与群のBrdU陽性細胞数は有意に低下していた(P<0.01,StUdent's t検定)。各群で鼓膜の長さに関しては統計的に有意差(P=0.109)はなかった。グルココルチコイド投与群(2〜5群)の中で検討するとグルココルチコイド投与下増殖因子添付群はコントロール2群と比較してBrdU陽性細胞数は有意に増加していた(p<0.01,Student's t検定)。しかし各増殖因子添付群間でBrdU陽性細胞数に有意差は認めなかった。これら3つの増殖因子を添付した鼓膜の組織反応としては、KGFを添付した鼓膜では穿孔縁で上皮層の細胞の過形成がbasicFGF、TGF-αを添付した鼓膜より顕著であり、一部に角化している部位を観察することができた。これはグルココルチコイドによって抑制された上皮層のmigrationをKGFがbasicFGF,TGF-αよりも促進したものと思われる。また皮膚科領域で報告されているようにグルココルチコイドはケラチノサイトの増殖を抑制し、その結果として強い角化抑制作用がある。KGFはこのグルココルチコイドによる角化作用の抑制をbasicFGF,TGF-αよりも回復することができた点は、注目すべき点であると思われる。

 【結論】ラット鼓膜穿孔治癒過程において穿孔治癒を誘導すると思われるKGF,basicFGFおよびTGF-αのmRNAの発現を穿孔作成後から経時的に観察した結果、KGFおよびTGF-αのmRNAの発現は穿孔作成後、1日目から3日目まで急激な増加を示し、その後減少した。一方、basicFGFのmRNAの発現は1日目から緩やかに増加し7日まで増加を続けた。KGFが上皮層、basicFGFが固有層の細胞増殖を強く誘導することより、我々のmRNAの発現の結果も鼓膜穿孔治癒は上皮層増殖進展説を支持する結果となった。

 また皮膚において治癒抑制作用のあるグルココルチコイドの投与(1mg/kg)により鼓膜穿孔縮小率及び鼓膜0.5mm当りのBrdU陽性細胞数はコントロール群と比較して有意に低下し、グルココルチコイドは鼓膜穿孔治癒を抑制した。また治癒を誘導するKGF,basicFGF,TGF-αのmRNA発現を検索してところコントロール群と比較して顕著にmRNAの発現が抑制されていた。グルココルチコイド投与モデルは鼓膜穿孔治癒を誘導する増殖因子の発現を抑制することより、各増殖因子の鼓膜穿孔縁への働きを調べるモデルとして適していると考えた。

 グルココルチコイド投与による穿孔治癒抑制モデルの鼓膜穿孔縁にKGF,basicFGF,TGF-αの添付をおこなったところ、いずれの増殖因子添付群でもコントロール(グルココルチコイド治療、増殖因子添付なし)と比較して有意にBrdU陽性細胞が増加していた。しかし、その増加量は各群で有意差を認めず、3種類の増殖因子聞で、どの増殖因子が最も有効であるかということはいえなかった。

 病理組織学的所見としてKGF添付群のみにおいて一部に抑制されたmigrationが回復され、穿孔縁における上皮層の肥厚が認められ、また一部にグルココルチコイドによる角化抑制作用を回復する所見を認めた。しかしKGFを添付して上皮層の細胞増殖を積極的に亢進させ、migrationを進行させた場合、上皮層が穿孔縁裏面へ翻転して、穿孔縁が上皮で覆われて鼓膜穿孔閉鎖が進行しないように働く可能性も考えられるため、鼓膜穿孔治癒をスムーズに進行させるためには上皮層と固有層の治癒のバランスが取れるように増殖因子を添付することが重要であると推測された。

審査要旨 要旨を表示する

 本研究はラットを用いて、実験的鼓膜穿孔を作成して穿孔治癒過程に対しての各増殖因子(KGF,basicFGF,TGF-α)およびグルココルチコイドの影響について分子生物学的手法を用いて検討したものであり、下記の結果を得ている。

 1:実験的鼓膜穿孔を作成することで鼓膜穿孔縁に多くの細胞増殖が誘導されることを抗BrdU抗体を用いた免疫染色により同定した。さらに穿孔縁に増殖因子を添付した群においてはKGF添付群では上皮層に、basicFGF添付群では固有層に細胞増殖が誘導された。鼓膜においてKGFは主に上皮層に、basicFGFは主に固有層の細胞増殖に関与することが示された。

 2:鼓膜穿孔治癒過程でKGF,basicFGF,TGF-αのmRNAの発現を測定したところ、KGFおよびTGF-αのmRNAの発現は穿孔作成後、1日目から3日目まで急激な増加を示し、その後減少した。一方、basicFGFのmRNAの発現は1日目から緩やかに増加し7日まで増加を続けた。KGF,TGF-αが上皮層、basicFGFが固有層の細胞増殖を強く誘導することから上皮層の増殖が、固有層の増殖よりも先行することが示唆された。

 3:一方、グルココルチコイドの全身投与(1mg/kg)により鼓膜穿孔縮小率及び鼓膜0.5mm当りのBrdU陽性細胞数はコントロール群と比較して有意に低下した。鼓膜穿孔においてもグルココルチコイドは治癒を抑制することが明らかになった。鼓膜穿孔治癒を誘導するKGF,basicFGF,TGF-αのmRNA発現を測定したところグルココルチコイド投与群で各mRNAの発現が低下していたことより穿孔治癒の遅延はグルココルチコイドの増殖因子の発現抑制によることが示唆された。

 4:グルココルチコイド投与の鼓膜穿孔縁にKGF,basicFGF,TGF-αの添付をおこなったところ、いずれの増殖因子添付群でもコントロール(グルココルチコイド治療、増殖因子添付なし)と比較して有意にBrdU陽性細胞が増加し、細胞増殖が回復された。

 5:グルココルチコイド投与ラットの鼓膜に増殖因子を添付した各群で、BrdU陽性細胞数に有意差を認めず、3種類の増殖因子間で、どの増殖因子が最も有効であるかということはいえなかった。しかしKGF添付群でmigrationが促進され、一部に上皮層の角化を認めた。

 以上、本論文はラットを用いて、鼓膜穿孔治癒においてKGF,basicFGF,TGF-αが鼓膜穿孔治癒に強く関与することを明らかにした。一方、グルココルチコイドの投与により鼓膜穿孔治癒が抑制され、その原因としては治癒を促進する増殖因子の発現を抑制するためであることが証明された。そのような治癒が抑制された条件でも外因性の増殖因子の投与により、穿孔治癒が回復することを明らかにした。本研究は鼓膜穿孔治癒の病態生理の解明および臨床的応用に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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