学位論文要旨



No 215517
著者(漢字) 江藤,一弘
著者(英字)
著者(カナ) エトウ,カズヒロ
標題(和) グルコース応答性インスリン分泌におけるNADHシャトル機構の役割 : 膵β細胞における新規のグルコースシグナル伝達経路の解明
標題(洋) Role of NADH Shuttle System in Glucose-Stimulated Insulin Secretion : Novel Pathway for Glucose Signalling in Pancreatic β Cells
報告番号 215517
報告番号 乙15517
学位授与日 2002.12.18
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第15517号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 飯野,正光
 東京大学 教授 大内,尉義
 東京大学 教授 永井,良三
 東京大学 教授 藤田,敏郎
 東京大学 助教授 岡崎,具樹
内容要旨 要旨を表示する

 膵β細胞からのグルコース応答性インスリン分泌に際して、グルコースは解糖系代謝に引き続いてミトコンドリア内のTCA回路において代謝されたのち、電子伝達系においてATPが産生される。ATPはKATPチャネル依存性経路、およびKATPチャネル非依存性経路を介してインスリン分泌に必須の役割を果たす。従来、グルコース応答性インスリン分泌におけるグルコース代謝の概念では、解糖系代謝はピルビン酸のみによりミトコンドリア代謝と連結されると考えられてきた(図A)。しかし、膵β細胞においてピルビン酸はグルコースと同程度に良く酸化されるものの、単独ではインスリン分泌をほとんど惹起しえない、また、ピルビン酸のミトコンドリアヘの輸送をある程度阻害しても、グルコース刺激によるインスリン分泌が抑制されない、などの実験事実は、ピルビン酸以外のなんらかの解糖系中間代謝産物や、そこから派生するシグナルもグルコース応答性インスリン分泌にとって必須のcoupling factorであることを示唆していた。

 そのcoupling factorの候補として、解糖系のグリセルアルデヒド3リン酸脱水素酵素反応の段階でNAD+から産生されるNADHが挙げられた。NADHの電子は、NADHシャトル機構によりミトコンドリア内に伝達され、直接的に電子伝達系でのATP産生を亢進させることから、ピルビン酸と並ぶ解糖系からミトコンドリアヘの代謝シグナルを構成しうる。NADHシャトル機構はグリセロールリン酸シャトルとリンゴ酸-アスパラギン酸シャトルから構成される。膵β細胞においては、グリセロールリン酸シャトルの構成要素であるミトコンドリアグリセロール3リン酸脱水素酵素(mGPDH:mitochondrial glycerol-3 phosphate dehydrogenase)が、肝臓の数十倍に高発現してい,ることが知られ、インスリン分泌低下を呈する糖尿病モデル動物やヒト2型糖尿病では膵β細胞特異的なmGPDHの発現低下が認められるなど、グリセロールリン酸シャトルがグルコース応答性インスリン分泌になんらかの役割を果たしている可能性が推測されてきた。しかしながら、糖尿病に認められるmGPDH活性の低下は糖尿病の一次的な原因というよりもブドウ糖毒性によりもたらされる間接的な結果である可能性が高く、グリセロールリン酸シャトル、ひいては、NADHシャトル機構全体としてのグルコース応答性インスリン分泌不全における病因論的な意義は不明であった。今回、mGPDH欠損マウス、すなわちグリセロールリン酸シャトル欠損マウスを作製し、これから単離した膵島にリンゴ酸-アスパラギン酸シャトルの阻害剤であるアミノオキシ酢酸(AOA)を併用することにより、両方のNADHシャトル機能を停止させたモデル膵島を樹立した。この系を用いてNADHシャトル機構のグルコース応答性インスリン分泌における役割について検討することが可能となった。

 mGPDHホモ欠損マウスは正常の耐糖能を示し、単離した膵島からのグルコース応答性インスリン分泌にも障害を認めず、グリセロールリン酸シャトルの停止のみではインスリン分泌不全をきたさないことが明らかとなった。野生型膵島にAOAを作用させ、リンゴ酸-アスパラギン酸シャトルのみを停止させた状態でもグルコース応答性インスリン分泌はほぼ保たれていた。しかしながら、mGPDHホモ欠損膵島にAOAを作用させ両シャトル機構を停止させると、グルコース応答性インスリン分泌はほぼ完全に廃絶し、NADHシャトル機構の働きがグルコース応答性インスリン分泌に必須の役割を果たすことが初めて明らかにされた。グリセルアルデヒドに対するインスリン分泌にも障害が認められたことから、NADHシャトル機構は解糖系においてNADHを産生しうる分泌刺激物質特異的に、インスリン分泌応答に必須であることが示された。

 従来の概念によれば、解糖系のグリセルアルデヒド3リン酸脱水素酵素による反応でNAD+がNADHに還元されたのち、NADHシャトル機構の停止によってNAD+への再酸化が不充分あるいは不可能となれば、解糖系の代謝回転が阻害されることが考えられた。しかし、NADHシャトル機構の停止状態下でも解糖系でのグルコース利用には有意な低下は認められず、インスリン分泌の廃絶は解糖系代謝回転の阻害では説明され得なかった。ところが、TCA回路におけるグルコース酸化を反映する[6-14C]グルコースの酸化は、正常の約50%に減少していた。また、グルコース刺激後のNAD(P)H自家蛍光産生の増大も正常の約32%に低下していた。NAD(P)H自家蛍光の大部分はミトコンドリア内に局在するNADH由来であると考えられており、シャトル機構を介してのミトコンドリア内NADH産生の廃絶に加え、TCA回路でのグルコース酸化およびNADH産生の大幅な減少という状況に矛盾しない。両NADHシャトルを介してのNADHとFADH2産生が廃絶し、さらにTCA回路に由来するNADHとFADH2産生が大きく減少した状態を反映し、グルコース刺激後のミトコンドリア内膜電位形成は、正常の約25%に低下していた。同じくミトコンドリア内膜電位に依存するATP合成酵素の活性を反映するグルコース刺激後のATP含量増加、あるいはATP/ADP含量比上昇も大きく障害されていた。

 また、NADHシャトル機構停止状態では、グルコース刺激後のミトコンドリアCa2+濃度上昇はまったく観察されず、NADHシャトル機構がミトコンドリアCa2+濃度の調節に重要であることが示された。ミトコンドリア内へのCa2+流入障害とこれに伴うCa2+依存性酵素群の活性化障害が、TCA回路でのグルコース酸化が半減する一因であると考察された。

 NADHシャトル機構停止時のTCA回路の活性低下の意義を検討するため、野生型膵島にTCA回路のアコニターゼの阻害剤であるモノフルオロ酢酸を投与し、NADHシャトル機構が正常に機能している状態でTCA回路でのグルコース酸化のみを約50%阻害した条件を再現したが、NAD(P)H自家蛍光産生、ミトコンドリア内膜電位形成、ミトコンドリアCa2+濃度上昇はほとんど影響を受けず、インスリン分泌も正常に保たれていた。このことは、NADHシャトル機構停止時の分泌廃絶はTCA回路の約50%の阻害のみでは説明されず、NADHシャトル機構の停止自体の方に重要な意味があることが明確に示された。

 NADHシャトル機構が停止した状態では、グルコース刺激後の細胞質Ca2+濃度の初期低下は認められず、小胞体Ca2+-ATPaseによる細胞質Ca2+の取り込みが充分起きていないことが示唆された。また、細胞質Ca2+濃度上昇の第1相のピーク形成も消失していた。これは、KATPチャネルの閉鎖とそれに引き続く細胞質へのCa2+流入の活性化が充分ではないことを示している。これらはいづれもATP要求性の反応であり、ミトコンドリアでのATP産生の減少を反映するものである。電気生理学的手法を用いた単一膵β細胞における検討では、この際、細胞膜電位を規定しているKATPチャネルの閉鎖はほとんど観察されなかった。細胞膜の脱分極と活動電位の発生も、長時間観察下での少数例を除いては認められなかった。これらの結果から、インスリン分泌廃絶のATP産生過程以遠の主因は細胞質へのCa2+流入障害にもとめられた。また、KATPチャネル非依存性経路によるインスリン分泌も正常の約40%に低下しており、Ca2+流入以遠の開口分泌にいたる経路もNADHシャトル機構を介したエネルギー産生に強く依存していることが示された。

 以上の実験結果から、グルコース応答性インスリン分泌においてピルビン酸が唯一の解糖系由来のミトコンドリアヘの代謝シグナルであるとする従来のモデル(図A)には改訂が必要であり、その意義がこれまで不明であったNADHシャトル機構が分泌に必須の役割を果たしていることが示された。今後は、NADHシャトル機構を介する細胞質NADHの電子のミトコンドリアヘの伝達を、ピルビン酸のミトコンドリアヘの伝達と並ぶ、主要な解糖系由来代謝シグナルとして位置付けなければならない。この新規なグルコース代謝モデルは以下のようにまとめられる(図B)。好気的解糖により細胞質内で産生されたNADHの電子は二つの独立したシャトルからなるNADHシャトル機構によりミトコンドリア電子伝達系に伝達され、それ自体がミトコンドリアで産生されるATPの約50%に寄与している。そればかりではなく、ミトコンドリア内膜電位の形成に伴うミトコンドリアヘのCa2+流入の活性化がCa2+依存性酵素群を賦活化させ、ピルビン酸のTCA回路での酸化を亢進させることにより分泌に充分なATP産生を保証している。一方、NADHシャトル機構が停止すると、細胞質NADHの電子に由来するATP産生が廃絶するばかりでなく、正常状態ではミトコンドリアで産生されるATPの約50%をになうピルビン酸のTCA回路での酸化が、ミトコンドリアヘのCa2+流入障害などにより半減する結果、ミトコンドリア全体としてのATP産生は正常の約25%にまで大幅に減少する。これに伴い、細胞内ATPの二大標的のうち、KATPチャネル閉鎖-電位依存性Ca2+チャネル開ロ-細胞内Ca2+濃度上昇のカスケードはほぼ完全に抑制され、細胞内Ca2+濃度上昇以降のインスリン開口放出に至るカスケードも強く抑制される結果、インスリン分泌は廃絶する(図C)。

 日本人2型糖尿病においては、病初期からのグルコース特異的なインスリン分泌応答不全がその特徴である。解糖系におけるNADH産生からミトコンドリア電子伝達系への電子の供給までを含むNADHシャトル機構の経路上に位置するあらゆる異常はグルコース特異的なインスリン分泌不全を惹起しうると考えられ、今後、2型糖尿病の重要な成因候補として検討を進めてゆく必要がある。

 従来(A)は、ピルビン酸のみが解糖系代謝とミトコンドリア代謝を連結する代謝シグナルと考えられてきた。新規モデル(B)では、ピルビン酸と並んで解糖系由来のNADHが、NADHシャトル機構を介してミトコンドリア代謝を活性化し、分泌に充分なATP産生に必須のシグナルを形成している。NADHシャトル機構停止状態(C)では、NADHシャトル機構に由来するATP産生が廃絶するばかりではなく、ミトコンドリアヘのCa2+流入障害などによりTCA回路でのグルコース酸化も半減するため、ミトコンドリア全体としてのATP産生は正常の約25%に低下し、もはやインスリン分泌を惹起しうる閾値に達し得ない。KATP:KATPチャネル、VDCC:電位依存性Ca2+チャネル。

図1:グルコース応答性インスリン分泌におけるグルコース代謝モデル

審査要旨 要旨を表示する

 本研究は膵β細胞からのグルコース応答性インスリン分泌におけるNADHシャトル機構の役割を明らかにするため、NADHシャトル機構を構成するグリセロールリン酸シャトルとリンゴ酸アスパラギン酸シャトルの両方を停止させた系にて、グルコース代謝とインスリン分泌の解析を試みたものであり、下記の結果を得ている。

 1.グリセロールリン酸シャトルを構成するミトコンドリア・グリセロール3リン酸脱水素酵素(mitochondrial glycerol-3 phosphate dehydrogenase)を欠損するノックアウトマウスを発生工学的に作製しだ。このマウスから単離した膵島にリンゴ酸アスパラギン酸シャトルの阻害剤であるアミノオキシ酢酸を作用させることにより、NADHシャトル機構が停止したモデル膵島を樹立した。

 2.グリセロールリン酸シャトルを欠損するマウスは正常耐糖能であり、膵島からのグルコース応答性インスリン分泌にも障害は認められなかった。また、野生型膵島にアミノオキシ酢酸を作用させてリンゴ酸アスパラギン酸シャトルのみを停止させても分泌は障害されず、どちらか片方のシャトル活性のみでグルコース応答性インスリン分泌には十分であることが示された。しかし、両シャトルが停止した条件下ではグルコース応答性インスリン分泌は廃絶した。グリセルアルデヒド刺激に対する分泌も障害されていたが、メチルピルビン酸やグリベンクラミド刺激に対する分泌は保たれていたことから、NADHシャトル機構は解糖系に流入しNADHを産生しうる刺激物質特異的に分泌に必須であることが示された。

 3.NADHシャトル機構が停止した条件下でも、従来の見解と異なり、解糖系でのグルコース利用には有意な低下は認められなかった。NADHシャトル機構以外にも解糖系で生じたNADHを再酸化させる機構が存在する可能性が示唆された。一方、ミトコンドリアのTCA回路におけるグルコース酸化は正常の約50%に減少し、グルコース刺激後のミトコンドリアNADH量の増大、ミトコンドリア内膜電位形成は、正常の約25%に低下していた。ATP合成酵素の活性を反映するグルコース刺激後のATP含量増加、あるいはATP/ADP含量比上昇も大きく障害されていた。これらのことから、NADHシャトル機構がグルコース刺激後のミトコンドリア代謝活性化に重要な役割を果たすことが示された。

 4.NADHシャトル機構停止状態では、グルコース刺激後のミトコンドリア・マトリックス内Ca2+濃度の上昇はまったく観察されず、NADHシャトル機構がミトコンドリアCa2+濃度の調節に重要であることが示された。ミトコンドリア内へのCa2+流入障害とこれに伴うCa2+依存性酵素群の活性化障害が、TCA回路でのグルコース酸化が約50%減少する一因であると示隆された。

 5.野生型膵島にTCA回路を構成する酵素であるアコニターゼの阻害剤モノフルオロ酢酸を作用させ、NADHシャトル機構が正常に機能している状態でTCA回路でのグルコース酸化のみを約50%阻害した条件を再現したが、ミトコンドリアNADH量の増大、ミトコンドリア内膜電位の形成、ミトコンドリアCa2+濃度の上昇はほとんど影響を受けず、インスリン分泌も正常に保たれていた。このことから、NADHシャトル機構停止時の分泌廃絶はTCA回路の約50%の阻害のみでは説明されず、NADHシャトル機構の停止自体の方に重要な意味があることが示された。

 6.NADHシャトル機構が停止した状態では、グルコース刺激後の細胞質Ca2+濃度の初期低下は認められず、小胞体Ca2+-ATPaseによる細胞質Ca2+の取り込みが充分起きていないことが示唆された。また、細胞質Ca2+濃度上昇の第1相のピーク形成も消失しており、KATPチャネルの閉鎖とそれに引き続く細胞質へのCa2+流入の活性化が充分ではないことが示された。

 7.電気生理学的手法を用いた単一膵β細胞における検討では、NADHシャトル機構が停止した状態では、細胞膜電位を規定しているKATPチャネルの閉鎖はほとんど観察されなかった。細胞膜の脱分極と活動電位の発生も、長時間観察下での少数例を除いては認められなかった。また、KATPチャネル非依存性経路によるインスリン分泌も正常の約40%に低下していた。これらのことから、KATPチャネルの閉鎖とそれに続く電位依存性チャネルの活性化からなるKATPチャネル依存性経路は、NADHシャトル機構を介したエネルギー産生に完全に依存し、Ca2+流入以遠から開口分泌にいたるKATPチャネル非依存性経路もこれに強く依存していることが示された。

 以上、本論文はグルコース応答性インスリン分泌において、ピルビン酸が唯一の解糖系由来のミトコンドリアヘの代謝シグナルであるとする従来のモデルには改訂が必要であり、その意義がこれまで不明であったNADHシャトル機構が分泌に必須の役割を果たしていることを明らかにした。また、NADHシャトル機構を介する細胞質NADHの電子のミトコンドリアヘの伝達を、ピルビン酸のミトコンドリアヘの伝達と並ぶ、主要な解糖系由来代謝シグナルとして位置付けなければならない、という新規なグルコース代謝モデルを提唱した。本研究はこれまで未知に等しかった、グルコース応答性インスリン分泌におけるNADH機構の役割の解明に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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