学位論文要旨



No 215525
著者(漢字) 中井,祐
著者(英字)
著者(カナ) ナカイ,ユウ
標題(和) 樺島正義・太田圓三・田中豊の仕事と橋梁設計思想 : 日本における橋梁設計の近代化とその特質
標題(洋)
報告番号 215525
報告番号 乙15525
学位授与日 2003.01.16
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第15525号
研究科 工学系研究科
専攻 社会基盤工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 篠原,修
 東京大学 教授 森地,茂
 東京大学 教授 藤野,陽三
 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 助教授 内藤,廣
 文化庁 技術職 北河,大次郎
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は,明治末〜昭和初期にかけて橋梁設計に業績を残した樺島正義・太田圓三・田中豊の三人の技術者についてその仕事の全容と橋梁設計思想を明らかにし,さらに上記三人を軸にして日本における橋梁設計の近代化の過程とその特質を論じたものである。

 第一章では,最初に研究の背景について述べたのち,上記三人の技術者に関するプロフィールの概略を述べ,論文の目的として以下の三点を示している。

1)樺島正義・太田圓三・田中豊の経歴と仕事の全容を明らかにすること

2)三人の主要な橋梁設計の仕事の特徴及び設計思想を明らかにすること

3)上記の内容をもとに,三人をキイパーソンとして日本における橋梁設計の近代化の過程とその特質を論じること

 続けて,既往研究では橋梁技術者を対象とした人物研究,及び日本における橋梁設計の近代化の特質を包括的に論じる試みはいずれも看過されていることを指摘し,人物研究と日本近代橋梁史研究の性格を併せ持つ本論文の位置付けと独自性を示している。

 続けて明治〜昭和戦前期の日本近代橋梁史を概観し,上記三人を日本における橋梁設計の近代化を読み解く上でのキイパーソンに位置付けることの意義を仮説的に述べている。

 第二章では樺島正義の経歴と仕事の全容を明らかにした上で樺島の市街橋設計思想の特徴を論じ,さらに橋梁美観思想の全体像を整理している。その概要は以下の通りである。

 最初に樺島の生涯を四期に区分し,各期の仕事について明らかにした。その主な成果を以下に示す。

・在米時代の樺島は市街橋の設計を担当することはなかったが,ワデル事務所での経験を通じて,プロの橋梁技術者という職能に対する共感を得ていた。

・帰国後東京市の技師に就任した樺島は,日本橋の設計において建築家妻木頼黄と協働し,検討の初期段階から意匠の専門家と共同設計を行うことが市街橋デザインの有効な方法論であることを認識し,次の鍛冶橋と呉服橋の設計で意識的にその方法論を試みた。

・事務所時代の樺島は,京漢鉄道黄河橋梁設計競技,富士川橋・大井川橋など国道一号線の橋梁設計指導,羽衣橋の設計,江戸川上水の水管橋などの仕事を手がけているが,中でもこの時期設計した唯一の市街橋である大阪の四ツ橋は,四つのアーチが一体となって一つの空間を形成するユニークなデザインで,場所性を強化する装置として市街橋のあり方を発想する樺島の設計思想の典型を見ることができる。

・自宅・桜田・疎開時代における樺島の主要な仕事は,水郷大橋の設計と鼎岩橋の設計指導である。これらの仕事には,橋と周辺景物との関係性に美観の価値を設定する樺島の設計思想がよく現れている。

 次に,樺島の市役所時代の作品のうち,樺島自身が重要かつ会心の作としている鍛冶橋・呉服橋・高橋・神宮橋・一石橋と,事実上の処女作である新大橋を加えた計6橋について分析を行い,樺島の市街橋設計思想について論じている。その最大の特長は,架橋地点の場所性の把握に基づいて,線形・構造型式・材種・ディテール・装飾などを相互に関係付けて,市街橋を都市に場所性を付与,もしくは既存の場所性を強化する装置としてデザインしている点である。

 樺島の橋梁美観論は具体的なデザイン手法論を中心としているが,特に橘と周辺景物との関係性の良否に橋の美観の本質を設定し,それを具体的な方法論として述べている点は,当時他の技術者には見られない独自の特長である。

 第三章では太田圓三の経歴と仕事の概要,特に鉄道時代の仕事と復興局土木部長としての具体的業績を明らかにした上で,晩年の太岡の土木技術思想について論じている。その概要を以下に示す。

 鉄道作業局・帝国鉄道庁時代の太田の主な業績は,大連日本橋の基本設計,E33鈑桁定規及び六郷川橋梁の設計である。E33鈑桁定規は,従来の英国型定規から米国型への転換を図った作35年式(杉文三)の細部に改良を加えたもので,定規桁成立過程における一段階以上の意義は見出せないが, 鈑桁とトラス構造を組み合わせた六郷川橋梁には,独自の発想を求める太田の個性の一端を見ることができる。

 鉄道院・鉄道省時代の太田の顕著な業績は,上越線水上石打間の工事の機械化を推進し,かつ鉄道省直轄工事としてこれを行ったことである。その背景には,土木工事の近代化を図り,技術者の専門性を高め,究極的には日本における近代文明を成熟させて日本独自の文化を築くための基礎とするという太田の遠大な目的意識が存在していた。

 大正12年10月,太田は十河信二の強力な推薦によって帝都復興院土木局長に抜擢されるが,特に道路・橋梁・区画整理・高速鉄道計画を重視して復興計画を遂行した。太田は復興院幹部の中で最も強く区画整理の実現を主張した一人であり,帝国議会で一度削減された復興区画整理の予算が復活したのは,政治家を歴訪して説得にあたった太田の功績である。また,太田が主張した高速鉄道の建設は復興事業としては実現しなかったが,太田が私案として示した高速鉄道網計画案は,大正14年における内務省公示案の原型となった。また,隅田川の橋梁の下部工に米人技師を招聘してニューマチックケーソン基礎を導入した背景には,上越線工事の場合と同様,西洋近代技術の学習消化によって土木工事の近代化を図り,日本の近代文化成立の基礎にするという太田の意図が存在していた。

 太田は日本の近代を表面的物質文明と批判し,その原因を明治以来の西洋近代文明の急速な輸入にあると見ていたが,太田が直面した問題の本質は,圧倒的な支配力を有し,しかも急速に流れ込んできた西洋文明の土俵の上で,いかにして日本が文化のオリジナリティを保持・創造できるのかということであった。晩年の太田の論説には,この近代日本に内在する根本的な矛盾に対して,土木技術者即ち近代化推進の当事者として直面せざるを得なかった太田の苦悩が,色濃く現れている。

 第四章では,田中豊の仕事の概略と技術者としての性格について論じている。概要を以下に示す。

 田中は鉄道省時代に一貫して鋼構造物設計チームに所属していたが,橋梁設計実務の経験は乏しかった。田中は理論派の技術者であり,得意としたのはむしろ設計の根拠となる理論・実験研究であった。

 復興局橋梁課長としての田中は115橋に及ぶ橋の設計全般を監修したが,その設計体制は次のようなものであった。まず小規模の街路橋の場合は,当初正子重三など経験豊かな技術者が上部工を設計し,成瀬勝武が下部工をまとめて担当したが,その後は成瀬が設計を統括し,主に鉄道省出身の小室親一が照査を行った。なお「復興局型」と呼ばれたラーメン橋台橋の原案は田中によるものである。隅田川の橋梁の場合は,設計担当は大学を出て間もない若い技術者たちであったが,小室が照査を行って万全を期し,経験豊かな中堅技術者が現場に配置された。

 田中が東京帝国大学教授に就任して最初に行った講義「橋梁」は,力学一般の基礎理論から構造力学,橋梁構造各論へと体系的に論じるスタイルであり,内容は主としてドイツの最新理論をベースとしたものであった。また,鈑桁構造を重視した内容であったことも大きな特徴であり,当時の田中の関心がよく現れたプログラムになっている。

 復興局から鉄道省に戻った田中は総武線御茶ノ水両国間の高架橋群の設計に関わっているが,特にランガー桁の隅田川橋梁及び当時単純桁としては最長支間であった昭和橋には,鈑桁の可能性の追求という田中の興味が直接的に表現されている。また,東大教授専任後の仕事である田端大橋は,全溶接の採用によってさらに細部構造と形態が単純化されており,田中の鈑桁構造追求の到達点と見ることが可能である。

 第五章では,帝都復興橋梁の設計方針について整理し,特に隅田川六大橋の設計の特徴を分析するとともに,復興局の橋梁美観思想について考察を行っている。

 太田圓三は隅田川の設計方針として新しい形・構造の創出をスタッフに求めたが,その背景には近代技術の消化の上に日本独白の橋を生み出したいという太田の意図が存在していた。田中は太田の意図を「最も進歩的せる形式」の実現という意味に読み替え,当時世界的にも先端的構造であった長径間鈑桁構造を隅田川の六橋の主構及び主桁に一貫して用いたが,ここに隅田川六大橋の最も重要な特長を指摘することができる。永代橋と清洲橋は対の橋としてデザインされたが,これは1911年にドイツで行われたケルンの橋のコンペ上位案をそのまま流用して組み合わせたものである。両橋には先端技術が集中的に投じられたが,その理由として長大橋技術への布石として位置付けられていた可能性が指摘できる。また蔵前橋の設計は,あらかじめ設定した構造の論理に形状を厳密に一致させることによって形の正当性を主張するという性格を有しており,設計理論の発展があって初めて可能となる考え方であるが,これは理論派で鳴らした田中が設計を主導した結果と考えられる。この構造の論理と形態との一致を旨とする設計思想は,当時の構造即美説に代表される橋梁美観論の趨勢に合致するものであり,合理性と機能性によって形の正当性を保証するという点に,当時勃興していたモダニズム思想に通じる近代的特質を見出すことが可能である。

 第六章では,樺島・太田・田中を軸に据えて,日本における橋梁設計の近代化とその特質について考察し,日本における橋梁設計の近代化の過程の特質と,樺島・太田・田中の位置付けについて論じている。

 最後に,結論を以下のようにまとめている。

1)樺島正義・太田圓三・田中豊の仕事の全容を明らかにした。特に,樺島の事務所時代の仕事,鉄道時代の太田の仕事と復興局時代の具体的功績,東大における田中の講義の内容と特徴は,既往の文献では指摘されていない史実である。

2)樺島の市街橋設計思想を分析し,その独自性を指摘した。

3)太田の土木技術思想と田中の橋梁設計思想の特徴を明らかにして隅田川六大橋の設計方針と設計の特徴を示し,さらに復興局の技術者たちの橋梁美観思想について論じた。

4)樺島・太田・田中を軸に,日本における橋梁設計の近代化とその特質について論じた。

審査要旨 要旨を表示する

 日本の橋梁技術は戦後飛躍的な発展を遂げ,特に長大橋に関しては世界的に見ても随一の技術を有する(特に施工技術)と評価されることが多い。しかしながら,挑戦的で独創的なデザインという観点からは,言及されることはまず皆無と言って良いのが現状である。本論文はその原因の一つが日本の橋梁設計の近代化のプロセスにあるという仮定のもと,戦前において顕著な業績を残した三人の橋梁技術者である樺島正義・太田圓三・田中豊についてその仕事の全容と橋梁設計思想を明らかにし,さらにこの三人を軸にして日本における橋梁設計の近代化とその特質について論考したものである。このような,特定の技術者の業績と思想,すなわち個人の創造性に着目して,橋梁の近代設計史を読み解く試みを既往研究に見ることはできず,独自性の高い着眼点であると言うことができる。第一章では,上記の内容を論文の背景として述べている。

 第二章では,樺島正義の仕事の全容を明らかにした上で,樺島が東京市で手がけた市街橋を中心に,その設計思想を分析している。特に,日本で最初の橋梁コンサルタントとして知られる樺島の事務所時代の仕事に関して,これまで知られていなかった事実を多く明らかにしており,歴史研究として価値の高い成果である。また,樺島が東京市時代に手がけた市街橋のうち,新大橋,鍛冶橋・呉服橋,神宮橋,高橋,一石橋について,設計思想とその特徴を図面と設計報告をもとに詳細に分析しており,樺島の場所性を重視する発想及び橋梁の美観を景観的観点から追究する手法を明らかにして,その同時代的な新しさを論じている。これまで単に日本橋の設計者としてのみ知られていた樺島の設計思想の本質を指摘したことは,研究成果として高く評価できるものである。

 第三章では,復興局土木部長として帝都復興事業を指揮した太田圓三について,仕事の全容と土木技術思想について明らかにしている。特に,これまで知られていなかった事実として,鉄道省時代の太田が手がけた最も重要な仕事が上越線水上石打間の路線計画と工事計画であること,また復興局土木部長時代に私案として提出した高速鉄道計画がその後の東京地下鉄路線網の原型となっていることの二点は,土木史研究として極めて重要な成果であるとみなすことができる。また,太田が土木技術者として日本の近代化に内在する矛盾について批判し悩んでいたこと,さらに西洋化の流れの中で日本独自の近代文化を築き上げるという太田の目的意識が,区画整理事業,高速鉄道計画,隅田川の橋梁デザイン等帝都復興事業の背後に一貫して流れていることを,太田の論説の分析に基づく詳細な論考によって明らかにしている。

 第四章では,復興局橋梁課長として隅田川の六大橋をはじめとする復興橋梁の設計を統括した,田中豊の仕事と設計思想を論じている。特に,鉄道省時代の田中が設計そのものよりは理論研究・実験研究に秀でていたこと,田中が東京帝国大学土木工学科教授に就任して最初の年に行った講義「橋梁」は,力学一般論から橋梁構造形式各論へ体系的に論じるスタイルと,ドイツ最新理論への傾倒が如実に現れていること,さらに復興事業完成後鉄道省に復帰して以降の橋梁設計においては,長径間鈑桁構造の追究と単純で合理的な構造への関心が強く現れていることを明らかにした点は,注目すべき成果である。

 第五章では,第三章と第四章の成果に基づいて,隅田川六大橋の設計経緯と設計思想を詳細に論じている。まず,隅田川六大橋には長径間鈑桁構造の一貫した採用が意図されており,それが田中によって示された方針であるとともに,トラス構造が一般的であった当時は極めて新しい試みであったことを指摘している。さらに,永代橋と清洲橋が対の橋梁として検討されており,それが1911年のケルンの橋の設計競技上位案を流用したものであったこと,その背後には最新ドイツ技術の導入に強い関心を抱く田中の意識と,西洋技術の学習消化によって日本独白の橋梁デザインの創出を願う太田の妥協があったことを指摘している。これらの成果は,いずれも既往の知見とは異なる本研究独自の発見または解釈であり,高く評価できるものである。また,本章では帝都復興期における橋梁美観論の特徴についても詳細に分析を行っており,当時の橋梁美思想を論じる上で有効な材料と視点を提示している。

 第六章では,前四章の知見をもとに,樺島・太田・田中の三人を軸にして日本における橋梁設計の近代化について論じている。ここでは,場所性からの発想と橋梁景観を重視する樺島のデザイン思想,常に土木技術の文化文明的意義を思考してオリジナルなデザインを追求しようとした太田の思想,最新の理論と技術から発想して合理的な単純性を求めた田中の思想を相互に対比させながら,樺島あるいは太田の思想が主流とならなかった点に,日本における橋梁設計の近代化の特質が見られることを指摘している。

 以上概観したように,本研究の最も評価すべき点は,新事実の発掘という歴史研究としての成果と,それらの事実をもとに三人の技術者の橋梁設計思想を詳細に分析し,更に日本における橋梁設計の近代化の特質を論じた点にある。また,このような近代橋梁史に対する本研究のアプローチは,技術者個人の設計思想に対する関心を欠く既往の土木史研究には見ることのできない,独自性の高い方法論であると結論付けることができる。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク