学位論文要旨



No 215530
著者(漢字) 由井,宏治
著者(英字)
著者(カナ) ユイ,ヒロハル
標題(和) 強励起による過渡増強誘導ラマン散乱現象とその溶液化学への応用
標題(洋) Transiently Enhanced Stimulated Raman Scattering under Strong Excitation Conditions and Its Applications to Solution Chemistry
報告番号 215530
報告番号 乙15530
学位授与日 2003.01.16
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第15530号
研究科 工学系研究科
専攻 応用化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 澤田,嗣郎
 東京大学 教授 平尾,公彦
 東京大学 教授 濱口,宏夫
 東京大学 助教授 伊藤,耕三
 東京大学 助教授 藤浪,眞紀
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は、物質がプラズマ相に相転移するようなレーザー電場による強励起条件下での水の誘導ラマン散乱(Stimulated Raman Scattering)の異常増強現象の発見とその機構の考察、そして増強現象の溶液化学への応用について述べたものである。その具体的な研究内容は主に以下の3つに大別される。

第1章 水の誘導ラマン散乱光の異常増強現象の発見

 物質に強いレーザー光を集光照射すると、物質は誘電破壊を起こしプラズマ状態に相転移する。この現象はレーザーブレイクダウンとよばれ、物質の加工や特殊な化学反応の誘起、プラズマからの発光を利用した分光分析等に利用されている。本研究では、超純水中に混入した固体微粒子を計測する目的で、水中に強いレーザーパルス光を適切なエネルギー密度で集光照射し、微粒子の選択的プラズマ化を誘起している際、固体微粒子のプラズマ化に伴い、溶媒である水分子のOH伸縮振動領域の誘導ラマン散乱(SRS)が過渡的に異常増強する現象を見出した。時間分解分光の結果、SRS光はプラズマヘ相転移する直前、まだ液相にある段階で平均として約40ピコ秒、過渡的に増強していることをつきとめた。

 一方、水を含む液体について、強い光によってプラズマヘ相転移する機構そのものもまだよく分かっておらず、基礎科学的な側面からだけでなく、レーザー手術等、応用の分野からその解明が望まれている。特にピコ秒からナノ秒における、液相からプラズマ相への相転移に至る初期過程についてはほとんど分かっていない。我々は上記の増強SRSがこの時間に放射されている点、また水のOH伸縮振動領域のスペクトルは水の構造(水素結合環境)を鋭敏に反映することに着目し、増強SRSの時間分解スペクトルを詳細に検討した結果、水が高圧氷中におかれたような状態を経由してプラズマに相転移することを突き止めた。

第2章 過渡増強SRSの増強機構の考察

 第2章では、上記のSRSの過渡異常増強の機構を考察した。第1章で述べたSRS過渡増強現象は励起光にナノ秒のパルスレーザーが使われたが、時間分解測定により、プラズマに相転移する前の数10ピコ秒の時間領域が決定的に重要であること、またナノ秒のレーザーパルス光は、ピコ秒レベルでは強度的に揺らぎがあるので、励起パルスをピコ秒のパルスレーザーに切り替えた。さらに集光領域における水の状態についてより多くの情報を得るため、同時に観測される後方SRS光も併せて測定した。その結果、後方SRSスペクトル中に、前方散乱スペクトルには顕著でなかった2つの特有なピークが現れることを見いだした。プラズマ生成時に観測されること、プラズマ生成ごく初期過程で多量に生成した電子は励起光の進行方向に対して、後方に顕著であること、また気相での電子-水クラスターでみられる特徴的な2つのピークと波数領域が一致することから、得られたスペクトルは水中における電子-水相互作用を反映するピークに帰属され、水中で電子と相互作用する水分子の初の振動スペクトルを得ることに成功した。水中における電子と水分子の相互作用に理解は、水中とりわけ生体環境における電子移動反応の理解や放射化学の分野で重要であるため、次章でより詳しく検討することとした。SRSの増強といった観点から興味深い点としては、水分子と電子の存在比が高く見積もってもおおよそ100:1であるにも関わらず、電子との相互作用に起因するピークが通常の水分子に由来するピークに比べて、強度的に圧倒的に大きいことであった。このことから、過渡的な異常増強の機構について、強いレーザーパルスによって過渡的に水中に多量に生成した電子が、外部の光電場とカップルして振動し、それと相互作用する水分子の非線形分極率が増強されているものと考察した。

第3章 過渡増強SRSの溶液化学への応用

 第3章では、過渡増強SRS現象の溶液化学への応用について、いくつかの試みを取り上げた。

 (1) 水中における電子と水分子の相互作用の理解

 本研究で観測された過渡増強SRSスペクトルは、凝集相において電子と相互作用する水分子の振動状態を反映するため、水中における電子-水分子相互作用について詳細な知見が得られることが期待できる。そこで本節ではスペクトルの温度依存性、同位体効果を調べることで、その相互作用についてより深く考察した。その結果、観測された2つの特徴的なピークの観測される温度域の違いから水中では少なくとも2種類の区別できる水分子-電子相互作用が存在することを明らかにした。またピークの波数シフトの温度依存性や同位体効果から、それぞれの相互作用に対応する水素結合環境を考察した。

 (2) 希薄エタノール水溶液の微視的水素結合環境の考察

 アルコール水溶液は身近な生活にもよく使われている重要な液体であるが、その特異な熱力学特性、すなわち水分子とエタノール分子がランダムに混合した際に予想されるエントロピー変化より、実際には1/100程度のはるかに小さな変化しか示さない、といった現象の原因はよく分かっていない。ここでは水の部分モル分率が急激な低下を示すエタノールの希薄溶液(1-3mol%)に着目し、増強SRSスペクトルの変化から、アルコールを添加した際の微視的な水素結合ネットワーク構造の変化を考察した。その結果、通常の水に比べて、弱い水素結合の減少が観測された。一方、理論的に予測されているような、氷状の構造の形成については観測されなかった。スペクトルの変化から、エタノール分子のOH基が、水素結合ネットワークの欠陥構造に入り込み、氷状構造に頼らずに柔軟に補強することで、水分子の部分モル体積の減少を引き起こしていることが示唆された。また疎水基についてはネットワークが作る空洞構造に収納されていると考えた。比較的小さなアルコール分子の水和では、ネットワークの欠陥構造と、水分子の水素結合の作るネットワーク構造による空洞が、重要な働きをしていることが示唆された。

 (3) 不均一系(空気/水界面)における水への展開

 固体と水の界面や、気体と水の界面といった、不均一な環境における水の微視的な構造の理解は、基礎科学的・応用面でも大変重要な知見を与える。そのため電気化学や触媒化学、大気化学や環境化学といった様々な分野で精力的に研究がなされている。そこで、本節では、今回見いだされた過渡増強現象を空気/水界面で誘起させ、SRSスペクトルを分光計測した。その結果、界面固有の水構造を反映するピークの取得に成功した。通常、界面領域の水の構造を議論する際は和周波発生法が用いられるが、その測定にはIRレーザーが必要であり、かつスペクトルの取得に最低でも数分かかる。一方、本現象を適用した際、界面領域固有の水分子の振動スペクトルを、励起1パルス分(0.1秒)で取得でき、かつ非常に強いスペクトルを得られることから、今後、新しい界面分光法としての応用が期待される。

 (4) 有機混合溶媒への適用

 上記の研究はすべて水か水溶液で行なったものであるが、このような増強現象は有機溶媒系でも見られるかどうか、検討した。芳香族系としてベンゼンやその誘導体、またアルカンの代表としてn-ヘキサン、ハロゲン化炭化水素としてクロロホルム等、様々な有機溶媒を試みた。この節では、最も興味深い結果が得られたベンゼンートルエン混合溶媒系について集中的に実験及び考察を進めた。ベンゼンとトルエンを任意の割合で混合させ、混合溶液中にレーザー誘起プラズマを生成した際、それぞれの純溶媒中では弱いかほとんど観測されなかった、ベンゼン環のCH伸縮振動が混合系について異常増強することを見いだした。時間分解分光測定により、観測されたCH伸縮振動は主にベンゼン分子のものに帰属されたが、その時間応答はトルエン分子のものに近いものであった。また増強は、他に同時に観測されている最も強いベンゼン骨格の呼吸振動のものと違い、励起直後に最も強く観測された。このことから、プラズマ化により生成したイオン種、とりわけ、ベンゼンよりイオン化エネルギーの低いトルエンカチオンとベンゼン分子が相互作用した結果、主としてベンゼン分子のCH伸縮振動のSRSが増強されているものと推察し、理論計算によって検証を行った。その結果、強励起によって生成したトルエンカチオンとベンゼンとの間に共鳴電荷移動が起こり、このことがCH伸縮振動のラマン散乱断面積を増強させていることが示唆された。水や水溶液系での研究では主に発生した電子が増強効果に強く寄与していることが示唆されたが、ここでは、電子を放出した親カチオン種が増強にからむ増強効果としても興味深い。またイオンを含む高い励起状態にある有機分子間の相互作用についてはまだ研究例が少なく、特に溶液中ではよく分かっていないのが現状であり、そのような観点からも本現象は興味深いと考えられる。

 以上、本論文は強励起条件下でのSRSの過渡的異常増強現象の発見および解析、その分光学的応用について論じたものである。時間問分解分光研究の結果、これまで詳細が不明であった光誘起相転移についてピコ秒の時間領域での水の構造変化から新たな知見を得た。また増強されたSRSを用いて、水中での電子-水分子相互作用や、アルコールの微視的な水和構造、空気/水界面といった不均一な溶液環境における水構造といったいくつかの溶液化学上の重要な課題にとりくみ、それぞれにおいて新しい知見を得ることができた。さらに混合溶媒系において、カチオン種がからむ芳香族系化合物間の相互作用に由来する増強効果も見いだした。強い励起条件下において発生した過渡種による特異な光学物性の発現は、強光子場で溶液化学という観点からも興味深く、萌芽的・開拓的な研究成果といえる。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、物質が強いレーザー電場によってプラズマに相転移するような励起条件下での水の誘導ラマン散乱(Stimulated Raman Scattering)の異常増強現象の発見と、その機構の考察、そして増強現象の溶液化学への応用について述べたものである。このような強いレーザー電場と物質の相互作用は、核融合等等のプラズマ物理、高輝度X線発生、レーザー加工技術、レーザー医療等の分野で長年研究がなされているが、物質、特に溶液との相互作用はまだ十分には開拓されていない領域である。本論文では、この領域の基礎科学、応用技術に焦点を当て、新規な非線形光学現象の発見とその溶液化学への具体的な応用について以下の3章に大別して論じている。

 第1章では、本研究の端緒となる強励起条件下での水の誘導ラマン散乱光の増強現象の発見について述べられている。具体的には水中に強いレーザーパルス光を適切なエネルギー密度で集光照射し、固体微粒子の選択的プラズマ化を誘起している際、微粒子のプラズマ化に伴い、溶媒である水分子のOH伸縮振動領域の誘導ラマン散乱(SRS)が過渡的に異常増強する現象を見出した。時間分解分光測定から、SRS光はプラズマヘ相転移する直前、まだ液相にある段階で平均として約40ピコ秒、過渡的に増強していることをっきとめた。一方、水を含む液体について、強い光によってプラズマヘ相転移する機構そのもの自体もまだよく分かっておらず、特に液相からプラズマ相への相転移に至るピコ秒からナノ秒における現象についてはほとんど未解明である。本研究では、上記の増強SRSがこの時間領域で放射されている点、また水のOH伸縮振動領域のスペクトルが水の微視的構造(水素結合環境)を鋭敏に反映することに着目し、増強SRSの時間分解スペクトルを詳細に検討した結果、水が高圧氷中におかれたような状態を経由してプラズマに相転移することを見いだした。

 第2章では、上記のSRSの過渡異常増強の機構を考察している。申請者は上記現象で重要な相転移初期のピコ秒の時間領域に焦点をあて、ピコ秒時間領域でのより精密な実験系を組み、時間分解計測した。その結果、後方SRS中に、前方SRS中には見られなかった特徴的なピークを見いだした。得られたピークは水中における電子-水相互作用に由来するものと帰属された。水中に溶けた電子は1962年に分光学的に検知されたが、水中で電子と相互作用する水分子の振動スペクトルは40年間得られていなかった。電子と相互作用する水分子の振動スペクトルは、電子の水和の問題や、水中での電子移動反応、とりわけ生体中でのエネルギー移動等の問題に重要な情報をもたらすため、本研究が初の振動スペクトルを与えたことが特筆される。この点に関しては、次章でより詳しく検討されている。SRSの増強といった観点から興味深い点としては、電子との相互作用に起因するピークが通常の水分子に由来するピークに比べて、強度的に圧倒的に大きいことであった。このことから、過渡的な異常増強の機構について、強いレーザーパルスによって水中に多量に生成した電子が、水分子の非線形分極率を増強しているものと考察した。

 第3章では、過渡増強SRS現象の溶液化学への応用、具体的には、電子やアルコール分子の水和の問題、不均一系における水の構造分析、有機溶媒系への応用の4項目について述べられている。本研究で観測された過渡増強SRSスペクトルは、水の微視的環境に鋭敏な0H伸縮振動領域で観測されるため、水や水溶液の微視的構造や分子レベルでの相互作用について新たな情報が得られることが期待できる。まず、水中における電子-水分子相互作用について温度依存性、同位体効果を調べることで、水中では少なくとも2種類の区別できる水分子-電子相互作用が存在することを明らかにした。次に、重要な溶液でありながら、まだ熱力学的特性や微視的構造に謎の多いアルコール水溶液の微視的水和環境の解明に本現象を適用した。具体的には水の部分モル分率が急激な低下を示すエタノールの希薄溶液(1-3mol%)に着目し考察した。その結果、通常の水に比べて、弱い水素結合の減少が観測された。一方、理論的に予測されているような、氷状の構造の形成については観測されなかった。スペクトルの変化から、エタノール分子のOH基が、水素結合ネットワークの欠陥構造に入り込み、氷状構造に頼らずに柔軟に補強することで、水分子の部分モル体積の減少を引き起こしていることが示唆された。また疎水基についてはネットワークが作る空洞構造に収納されていると考えた。比較的小さなアルコール分子の水和では、ネットワークの欠陥構造と、水分子の水素結合の作るネットワーク構造による空洞が、重要な働きをしていることが示唆された。自然界の至るところで水和現象は重要な役割を果たしているが、水和に関して、欠陥構造の補強と水素結合ネットワークがつくる空洞構造の役割について焦点をあてているところが新しい点である。さらに本手法を空気・水界面にも適用し、界面特有の水構造を反映するスペクトルの取得に成功している。固体と水の界面や、気体と水の界面といった、不均一な環境における水の微視的な構造の理解は、基礎科学的・応用面でも大変重要な知見を与える。そのため電気化学や触媒化学、大気化学や環境化学といった様々な分野で精力的に研究がなされている。通常、界面領域の水の構造を議論する際は和周波発生法が用いられるが、その測定にはIRレーザーが必要であり、かつスペクトルの取得に最低でも数分かかる。一方、本現象を適用した際、界面領域固有の水分子の振動スペクトルを、励起1パルス分(O.1秒)で取得でき、かつ非常に強いスペクトルを得られることから、今後、新しい界面分光法としての応用が期待される。他にも本現象を有機溶媒にも適用し、高励起状態間の分子間相互作用に基づくSRS増強現象を見いだしている。有機溶媒分子間の相互作用の研究は化学反応の理解の上で欠かせないが、高励起状態にある有機分子間の相互作用は未開拓の領域であり、本研究は新しい切り口を与えている。

 以上、本論文は強いレーザー電場と物質の相互作用、特に未開拓な領域であった溶液との相互作用に光をあて、その結果、水分子のSRSの過渡的異常増強現象の発見、およびその分光学的応用について論じたものである。さらにこれまで詳細が不明であった光誘起相転移についてピコ秒の時間領域で新たな知見を与えた。また増強されたSRSを用いて、水中での電子-水分子相互作用や、アルコールの微視的な水和構造、空気/水界面といった不均一な溶液環境における水構造といった溶液化学上の重要な課題にとりくみ、それぞれにおいて新しい知見を与えた。レーザーを用いた強い励起条件下における化学は、新しい反応場としての応用、物質のレーザー加工等、レーザー医療等、応用的側面としても重要な課題であり、かつ発生した過渡種の化学・物性は基礎科学的にも興味深く、本研究は萌芽的・開拓的な研究成果を与えている。

 以上のことから、本論文は工学博士の学位にふさわしい内容をもつものと判断した。

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