学位論文要旨



No 215536
著者(漢字) 中,暢子
著者(英字)
著者(カナ) ナカ,ノブコ
標題(和) 亜酸化銅における歪みトラップ中の励起子の二光子分光
標題(洋) Two-Photon Spectroscopy on Excitons in Strain-Induced Traps in Cu2O
報告番号 215536
報告番号 乙15536
学位授与日 2003.01.27
学位種別 論文博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 第15536号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 末元,徹
 東京工業大学 教授 上田,正仁
 東京大学 教授 五神,真
 東京大学 教授 酒井,英行
 東京大学 助教授 山本,智
内容要旨 要旨を表示する

 中性アルカリ原子におけるボース・アインシュタイン凝縮体(BEC)の生成は基礎物理学の飛躍的な進歩をもたらしたのみならず,それらを利用したいわゆる原子レーザーや計量標準といった応用面にも発展をみせている.一方,固体中における電子的素励起である励起子についてボース凝縮の可能性が理論的に予測されてから久しいが,ごく最近結合量子井戸中の間接励起子の巨視的な秩序と解釈される実験結果が報告され,関心が再び高まっている.しかし,この報告で示されている現象はBECの決定的な証拠ではなく,BECの問題は未だ懸案のままである.本研究は,BECの実験的証拠と当初解釈された事実が報告されながらなおその解釈をめぐってさまざまな議論が続いてきた直接型半導体,亜酸化銅における励起子系を取り上げ,その決着に向けて,二光子共鳴励起により波数ゼロ近傍に選択的に作られる励起子系のトラップ中での特性を分光学的に詳しく調査しその有効性を吟味したものである.

 亜酸化銅の励起子は双極子禁制ギャップに由来して長い寿命を持つ.これはBECの実現に有利な点のひとつとされるが,同時に大きな拡散長の起源ともなる.そのため励起子は結晶中を動き回り,実効的な励起子密度を低下させることが知られている.この問題を避けるため,不均-歪みによる励起子エネルギーの変化を利用した「歪みトラップ」への励起子の捕捉が1983年に提案され,BECに向けた研究が行われたことがある.しかし,その実験では一光子励起が用いられたためレーザーが与える剰余エネルギーにより熱い励起子がまず生成され,その熱化速度も十分でないためにBECは生成されていない.また,このように作られる熱い励起子間の二体衝突(オージェ)係数は理論的に予測される値よりも数桁大きくBECの生成を妨げるということが近年の詳しい定量的実験から報告され,議論が再び沸騰してきた.

 そこで本研究では,我々のグループで以前,塩化第一銅の励起子分子系に適用されたことのある二光子励起による波数がほぼゼロの冷たい励起子系を生成する方法に注目した.その概念図を図1に示す.この方法ではフォノンを生成することなく運動エネルギーの極めて小さい低温の励起子を,スピン状態を揃えて選択的に生成することができる.さらに,その鋭い共鳴と結晶中の励起子エネルギーが歪みによって場所に依存していることにより,極めて高い空間選択性が得られるものと期待した.

 本実験では,亜酸化銅天然結晶から切りとり表面を研磨した立方体の試料の上面にストレッサーを圧着することによって,励起子トラップを生成した.超流動状態の液体ヘリウム中でストレスの大きさを調整できる試料ホルダーを作製し,さらにストレッサーの形状や結晶方位に工夫を凝らし,従来の単一トラップだけでなく二重トラップや円筒型トラップを実現した.また複数ある天然結晶の評価を系統的に行い,結晶ごとに異なる発光特性を活かすため実験の目的に応じてそれらを使い分けている.なお最終的な実験の多くは,最も純度が高いと判断された試料に三次元閉じ込めの調和型トラップを生成して行われた.

 二光子励起の空間選択性の特徴が活かされた本研究の成果としてまず,歪みトラップの三次元形状診断法の開発が挙げられる.図2(a)はスピン-重項状態であるオルソ励起子の二光子励起下における直接発光によって,オルソ励起子に対する等ポテンシャル面を二次元面内で可視化した例である.この二次元面をどう切り取るかはレーザー光の照射位置によって選択することができるため,この方法を繰り返すと三次元の診断が可能である.図ではストレスの印加によって三重縮退しているオルソ励起子準位の縮退が解け,このうちストレスに対して赤方シフトする下枝ブランチが深さ4.3meV(温度に換算して50K)の2つのポテンシャル井戸を生成していることが分かる.一方,これまで圧力軸に沿った一次元的形状のみで議論されていた理論を拡張し,二次元断面での励起子の等ポテンシャル面の数値計算を行い,実験結果をほぼ完全に再現できることを見い出した(図2(b)).これによりトラップ形状やポテンシャル勾配を正確に見積もることが可能になった.これは,励起子密度の議論に決定的となる励起子体積の評価を高い精度で可能にした意味で重要な進歩である.

 さて,この物質における議論を複雑にしている別の原因は,励起子寿命や拡散長の試料依存性があり報告値のばらつきが大きい点である.本研究において,トラップ中に二光子共鳴励起によって注入される励起子の動的特性がはじめて系統的に測定され,二光子励起の新たな側面として以下のことが見い出された.

 (1)オルソ励起子の二光子共鳴励起下ではこれまで検出されることのなかったスピン三重項状態であるパラ励起子からの発光が検出され,波数ゼロ近傍のオルソ励起子からも下方転換によりパラ励起子が間接的に作られることが分かった.パラ励起子の寿命と拡散定数はトラップへの捕捉に十分な大きさであることが確認された.

 (2)トラップの縁に生成されたオルソ励起子がトラップの底へ向かってドリフトする様子が,実空間とスペクトル空間の双方において初めて観測された.このドリフト成分の解析によって波数ゼロ近傍のオルソ励起子の拡散定数が決定された.その値はこれまで予想されていたよりもはるかに大きくパラ励起子のものと同程度であったが,オルソ励起子の寿命が短いことから拡散長に換算するとトラップへの捕捉には十分でない.しかしながら,オルソ励起子から間接的に作られるパラ励起子の生成場所を制御する意味でのトラップの有用性が明らかになった.

 このように二光子励起下でのトラップの有効性を確かめたのち,高密度領域での実験を行った.図3(a)は二重トラップ配置におけるオルソ励起子のフォノン線とパラ励起子の直接発光のスペクトルの入射強度依存性を示す.これらの発光のスペクトル形状は,トラップ中での励起子の空間分布と有効温度を反映することが知られている.すなわち,スペクトル幅が広いことは励起子がポテンシャルエネルギーの高いトラップの上方にまで分布し,その温度が上がっていることを示す。詳しい解析によってパラ励起子の温度は,入射強度を増すと3Kから5Kへと徐々に上昇していることが分かった.このことから,密度に依存した熱化過程の存在がうかがえる.一方,発光強度を入射強度の関数としてプロットしたものが挿入図である(黒印:オルソ励起子,白印:パラ励起子).オルソ励起子は二光子励起過程に期待される二乗則にほぼ従うのに対し,パラ励起子には強い飽和が見られる.以上のことから,パラ励起子間の二体衝突が熱化の起源となっていることが推測される.これまでに考えられてきた励起子間の衝突(オージェ)過程は,衝突する励起子の一方が非輻射崩壊し,もう一方がイオン化するというモデルである.このイオン化ののち再生成される励起子はスピンがランダム化すると考えられており,パラ励起子間の衝突からもオルソ励起子が間接的に作られることになる.ところが,我々の結果はオルソ励起子の再生成が無視できる程度であり,イオン化は極めて少ないことが分かる.結論として,衝突したパラ励起子の半数のほとんどがイオン化しないままトラップの外へ逃げ出し運動エネルギーを運び去る「蒸発冷却」過程として働いていることが分かった.また,ごくわずかなイオン化によってもたらされる加熱エネルギーとの均衡によって,パラ励起子の密度に依存する有効温度が決定されることも分かった.

 一方,より深い単一トラップでは興味深い現象が観測された.すなわち,パラ励起子の直接スペクトルの形状が,同じ入射強度の範囲でも3Kのまま一定となり(図3(b)),さらに強い飽和が見られた.トラップの体積を考慮して推定された励起子密度と合わせると,パラ励起子の初期の位相空間密度は0.1以上であるとの評価を得た。そこで空間分布を詳しく調べたところ,密度の高いほど分布幅が狭くなる結果が得られ,ボース統計性の現れであると結論される.しかしBECに至る高密度化には結晶表面の損傷の回避など,実験上の改良が必要である.

 本研究では,励起子の共鳴励起が行われるが,この過程に付随して起きる散乱過程の効果や二光子振動子強度の主量子数依存性といった基礎事項についても,レーザー共振器の改良により得られた狭線幅の赤外レーザー光を利用することなどによって,高い精度で吟味することができた.このように,本研究は亜酸化銅における低温励起子の基礎的性質や試料の特性を踏まえて,冷たい励起子の新しい生成法を開拓し,トラップの形状評価や励起子の動的特性,トラップ中での加熱・冷却機構の理解からその有用性を示したものである.

図1.一光子励起(左),二光子励起(右)により調和型トラップ中に注入される励起子の分布の概念図.

図2.トラップの形状診断(a)実験(b)計算値.

数字はゼロストレス下の励起子エネルギーからの離調(meV)を示す.

図3.オルソ励起子のフォノン線(低エネルギー側のピーク)とパラ励起子の直接発光(高エネルギー側のピーク)のスペクトルの入射光強度依存性.

(a)二重トラップ,(b)単一トラップの場合.

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、結晶内部に作られた歪みトラップ中に2光子励起によって生成された励起子を閉じ込め、励起子系のボース凝縮相の観測に向けて分光学的な研究を行なったものである。

 近年、磁気光学トラップ中の中性アルカリ原子におけるボース・アインシュタイン凝縮体(BEC)の生成が実現し、超伝導や液体Heの超流動とならぶマクロな量子現象として基礎物理学的な観点から多大な関心を集めている。これに対して、固体における励起子もボース粒子であることから、以前から励起子系のボース凝縮相の可能性が議論されてきた。亜酸化銅(Cu2O)やGaAs量子井戸中の励起子系などについて様々の試みと、その兆候を示す実験結果が報告されているが、いずれも決定的な説得力には欠けているという問題があった。本論文では、BECを示すとされる実験が報告されて以来、その解釈を巡って議論が続いてきた亜酸化銅の励起子系をとりあげ、その決着に向けて歪みトラップ中の励起子系の特性を分光学的に詳細に調べ、その有効性を議論している。

 本論文は7章からなる。第1章では、序論として亜酸化銅におけるボース凝縮相の観測に向けた過去の研究について解説している。第2章では基礎的な光学特性として、1光子および2光子励起による励起子の「黄色発光」を高分解能発光分光によって調べ、試料の品質評価を行なった。第3章では2光子励起発光のスペクトルと励起スペクトル詳細に調べ、振動子強度の主量子数依存性を明らかにした。また超高分解能分光により発光過程と散乱過程(2倍高調波の発生)を分離観測することができた。以上の詳細な調査に基づき、周到な計画のもとに歪トラップを利用した研究へと進んだ。

 第4章では、結晶表面の外部からストレッサーを圧着して歪を発生することにより、固体中に励起子のトラップを作りだし、そこにおける励起子系の振舞いを調べた。2光子共鳴励起によるオルソ励起子(スピン一重項)の発光の空間分布をCCD上に結像して可視化するという画期的な方法を提案し、極めて明快にトラップの形状(等エネルギー面)を観測することに成功した。励起レーザーのビームを平面上で振ることにより任意の2次元面を切り出す手法を組み合せ、3次元的な診断が可能となった。結晶方位とストレッサーの形状(球面または円筒面)を変える事により、単一トラップ、二重トラップなどができることを示した。更に弾性体における歪みと、歪による電子バンド構造の変化の詳細な数値計算を行ない、実験結果をほぼ完璧に定量的に再現した。これによりトラップ形状やポテンシャルのエネルギーを正確に見積る事が可能になった。これは励起子密度の議論に決定的になる分布体積の評価を高い精度で行う事を可能にした点で重要な成果である。

 第5章では、このよく制御されたトラップを用いて、弱励起下における励起子の時間的空間的ダイナミクスを系統的に調べた。その結果、オルソ励起子の2光子励起下ではこれまで検出されなかったパラ励起子(スピン三重項)からの発光が検出され、波数ゼロ付近のオルソ励起子からもパラ励起子が生成されることがわかった。さらにパラ励起子の寿命と拡散定数は、トラップへの捕獲に十分な大きさであることが分かった。トラップの縁に作られたオルソ励起子がトラップ底へ向かってドリフトする様子が実空間とスペクトル空間の双方において初めて観測された。

 第6章では、強励起下で励起子の位相空間密度を上げてそのダイナミクスを調べた。2光子励起発光スペクトル形状の解析からパラ励起子系の温度を見積ったところ、励起強度の増加に伴って3Kから5Kまで変化しており、密度に依存した熱化過程の存在が示された。パラ励起子に強い飽和が見られることから、パラ励起子の衝突が飽和の原因と考えられるが、これまで考えられていたオージェ・イオン化とは考えにくい証拠があり、衝突によってエネルギーを受取った励起子がトラップから逃げ去る過程が存在すると推定された。これは中性原子トラップにおける「蒸発冷却」に類似の過程と考えられ、冷却手法の一つとして重要な可能性を示すものである。

 より深いトラップでは、パラ励起子のスペクトル幅が強励起下でも3K相当の低温に留まるという興味深い現象が発見された。空間分布は密度が高いときほど狭くなるという結果が得られ、ボース統計性の現れと結論された。トラップの体積を考慮して推定された励起子密度と合わせると、位相空間密度は0.1以上と評価され、ボース凝縮相の出現に極めて近いレベルに至っていることが明確に示された。第7章はまとめである。

 以上のように、この研究はCu2Oの励起子系の特性を巧みに利用して、歪トラップと2光子励起を組み合せる事によって高密度低温励起子系を生成する新しい手法と、これを空間的、エネルギー的に分解して評価する強力な手法も合わせて開発し、臨界条件に近い励起子系を実現することに成功したものであり、励起子系におけるボース凝縮相の探索と言う固体物理学上の重要問題について画期的な進展をもたらしたという点で、非常に高く評価される。また論文の構成は緻密で完成度も極めて高い。なお、論文提出後に、励起子がトラップ中心に凝縮したと思われる極めて興味深い実験結果を得たが、これは付録として収録されている。また本論文は、長澤信方教授(指導教官)および、河野俊介氏、蓮尾昌裕氏との共著論文の内容を含むが、ほとんど本人が独力で遂行したものと認められる。よって審査委員全員の一致により、提出された論文は「論文博士」の博士論文として十分であると認め、博士(理学)の学位を授与できると判断した。

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