学位論文要旨



No 215537
著者(漢字) 藤本,宗利
著者(英字)
著者(カナ) フジモト,ムネトシ
標題(和) 枕草子研究
標題(洋)
報告番号 215537
報告番号 乙15537
学位授与日 2003.01.29
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第15537号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 多田,一臣
 東京大学 助教授 藤原,克巳
 東京大学 助教授 渡部,泰明
 東京大学 教授 竹内,整一
 東京大学 教授 佐藤,信
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は、『枕草子』の表現の特色を考察することにより、作品の本質に迫ろうとするものである。

 従来この作品は、作者論的な視座から論じられることが多かった。すなわち作者の美意識や嗜好牲、観察力や価値観・知識才学など、様々な角度から作品を眺めていき、結果としてそこに、書き手である清少納言像を描出するという方法である。しかしながらそれらの諸論の大部分は、収斂していく予定の作者像-あるいは才気煥発で感性にすぐれた、あるいは傲岸不遜で才学を鼻にかけた、あるいはまた定子中宮の価値観に全身的に自らを委ねる、没主体的な作者としての「清少納言」というイメージに合致させるべく、作品の該当する部分を切り出して提示するという、傾向を持つものであったことは否めない。ここではこのような作者イメージから『枕草子』を解放すると同時に、作者の思考・人格を映し出すものとしての作品理解から脱し、言語表現としての作品の機構を分析していこうと試みている。

 本論文は、I「類聚・随想的章段の本質」(一〜四)、II「『枕草子』の文章表現」(五〜九〉、III「日記的章段の方法」(一○〜一三)、IV「他作品との交差」(一四〜一八)、V「様々な視座から」(一九〜二五)の五章から成る。各々の内容について、以下順を追って述べたい。

 Iの一「「春は曙」の空白の構造」は、あまりにも名高い初段を対象に、「書かれたもの」と「書かれなかったもの」との関係について考察し、「書かれなかったもの」が必ずしも作者の美の体系から排斥されたものとは言えず、かえって読書行為においては、その不在性が強く印象づけられるということを主張する論。すなわち「春は曙・夏は夜」という表現が、同時代読者にとっては必然的に、桜花や時鳥の空白の発見に導かれていかざるを得ない構造を、『古今和歌集』を中心とする和歌の表現との対照によって明らかにして、伝統性の枠に拠りつつそれを踏みはずしていく作品の特質を論じた。さらに冬における雪の存在が、春の桜・夏の時鳥・秋の紅葉の非在をいっそうきわだて、それにより読者の通念的美意識を攪乱させる方法に注目すべきと説いた。

 続く二の「「虫は」における伝統性と独創性」においては、羅列される虫の名称の中に和歌に伝統的な虫と、漢詩文には詠まれるが和歌には馴染みの薄い虫、さらには文学的素材としての先行例を全く有さぬ出とが混在している事実を実証。『枕草子』における新しさが、伝統性と非伝統性の絶妙な均衡によって生ずるものとした。また三「類聚的章段の特質-「木の花は」をめぐって」では、それまで当時の貴族趣味や伝統的美意識の枠組を、一歩も超えるものではないと評されてきた花木群について、同時代までの文学作品中の用例を細かに検討することで、梨と桐とが文学的素材としていかに逸脱したものであったかを実証した。そのうえで伝統的な花木である梅〜橘が、和歌的な表現を踏みはずすような描かれ方をしている点を、特に橘の条を例に詳述し、この章段がいかに当時の読みの通念をはぐらかすものであったかを説く。

 このような読みのはぐらかしの方法がいっそう顕著に看て取れるのが、「〜もの」型章段であり、四「「〜もの」型章段における「ずれ」の方法」では、「あてなるもの」を中心にその表現方法を考察。題が予想させる作品の展開を、作品自体がずらしていく特性を論じている。

 以上の諸論から、一般に「随筆」という既製概念に縛られて、作者が自身の思わくをつづったものと考えられてきた類聚・随想的章段が、実は読者の通念を攪乱する機能を有した、挑発的な仕掛という本質を露呈する。

 また従来はもっぱら、作者の衒学的性格という方向から、批評の対象となっていた典拠の問題についても、文章表現の様式として解析しようとしたのが、五「「木の花は」の漢籍典拠の特質」と六「「花の木ならぬは」における和歌引用の特性」の論。五は特に梨の条における自詩の引用を中心に、六ではゆずり葉や白樫・楠などの項目における古歌の引用を中心に、その仕組を考察。通常では美的価値を認知されていない素材について、その興趣を言挙げする際に、読者の共感を得るための方便として、詩歌の典拠表現がなされるという特質を明らかにする。

 続く七「「五月の御精進のほど」の歌語り-和歌を相対化する下蕨」では、時鳥を聴きに山里を訪ねるというきわめて美的な行為に、食材としての蕨の価値を相対化させることで、和歌の規範性を問い返して見せるあり方に言及。八「『枕草子』の地名-歌枕からの逸脱」においても、「山は」の段が含む正体不明の山名が、古来有名な歌枕と同列に並べられている事実に着目。和歌のもつ「秩序」や「伝統」に対しての挑発と説く。このように、規範的な実とその枠組から逸脱するものとを対照させて描くという方法は、「暁に帰らむ人は」の段などにあってはいっそう尖鋭化された形で顕われる。すなわち理想の恋人像をもどく現実の男の不風流さとして戯画化されるわけだが、その方法を考察したのが九「『枕草子』における戯画化の方法-もどかれる後朝」の論である。

 以上の如くI・IIでは主に類聚・随想的章段を対象として、その方法を考察してきた。

 一方IIIでは日記的章段をとりあげ、その表現のあり方を考察する。一〇「「里にまかでたるに」段の本質-橘則光との交流をめぐって」では、前夫則光との間のやりとりを、一二「『枕草子』の宮廷文学的性格-「とりのそら音」をめぐって」では、藤原行成との交流を、各々の表現について細かく分析、従来ともすれば、才走った作者の浅薄さという評価ばかりが先行して、看過されがちであった歌語りという視座から一段を捉え返し、そこに宮廷文学的本質が色濃く感じられる点に注目している。

 また-「日記的章段の沈黙の構造-「上にさぶらふ御猫は」をめぐって」と一三「「三条の宮におはしますころ」の歌語り」においては、語句の重出や引歌などの表現をつぶさに見ていくことによって、表面には露わにされない中関白家衰亡の悲哀が、背景に透けて見える仕組を指摘。古来批判の対象とされてきた主家一門の零落を書かないという事実が、作者の勝ち気な性格などに帰されるべき問題ではなく、あたかも初段がそこに存在しない花や時鳥を浮かび上がらせるのと同様に、書かないことによっていっそう、中宮の悲しくも美しい生の軌跡を、読者に印象深く想起させるという方法であったと説く。

 さらに視点を変えて、IVではこうした『枕草子』の表現の特質をきわだてるべく、他作品の表現について考察を加えてみた。中でも一五「「みやび」の半面-都的・宮廷的なるものとしての」は、罪を得て流されていく藤原伊周の姿を、光源氏に喩える『栄花物語』の表現を採り挙げ、『伊勢物語』の「みやび」とのかかわりから、中関白家の文化の質へと考察を拡げていくもの。また一七「『源氏物語』の「食ふ」」-横笛巻を中心に」は、『源氏』中の「食ふ」の全用例と、その語が集中する横笛巻の薫の描写部分との考察を通じて、秩序と逸脱について論ずる。

 最終章Vでは、『枕草子』の特質を、より立体的に眺めるために、様々な視座からのアプローチを試みている。二〇「省筆の魅力」は、『枕草子』中のきわめて短い章段を対象に、その鑑賞方法を俳句・俳画の楽しみ方に喩えた論。一方、二一「『枕草子』と「源氏物語』-文字による絵画と文字による映画」においては、「野分のまたの日」を例にして、読書行為を絵画によって比喩した。共に『枕草子』に描出された世界が、省筆によって形成されており、あたかも平安朝の物語絵の鑑賞の如く、その読書行為においては、書かれていないドラマを重ね合わせることで、十全に味わえるような構造であることを指摘する。

 また二三「駿馬の骨-清少納言の晩年をめぐって」は、『清少納言集』に見える晩年の詠歌や、『赤染衛門集』に残された少納言への贈歌からうかがえる、宮廷を退いた後の静かなわび住まいと、『古事談』や『無名草子』に伝えられる零落説話との隔たりを論じ、『枕草子』受容の一面を考察する。

 さらに二四「『枕草子』の新しい読み-教材としての『枕草子』」は、中学・高校の古典教材としてのあり方をさぐる論。二五「『枕草子』研究の現在-主要参考文献を紹介しながら」は、研究史の中にこの作品の享受のありようを跡づけようとする試みである。

 本文研究と作者論的研究の行き詰まりから、一時期その停滞ぶりを言われた『枕草子』研究が、新たな表現研究の地平を拓きつつある近年の状況を概観。あわせて、その中に自らの位置を確認して、論の結びに代えた。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、『源氏物語』に比して、近年やや停滞していた観のある『枕草子』研究に新生面を切り拓いた画期的な論考である。全体は「I類聚・随想的章段の本質」「II『枕草子』の文章表現」「III日記的章段の方法」「IV他作品との交差」「V様々な視座から」の5部25章からなる。

 近年『枕草子』研究が停滞していた最大の理由は、『源氏物語』を最高峰とする平安時代文学史の申で、『枕草子』独自の文学的達成を客観的に評価し定位する視座や方法が確立されてこなかったところにある。たとえば、『枕草子』にみずみずしい感覚の冴えが見られることは従来も指摘されるところだが、その指摘も印象批評的な水準に留まるものでしかなかった。それに対して、本論文の「I類聚・随想的章段の本質」「II『枕草子』の文章表現」では、『枕草子』が、和歌的な美意識の規範をしたたかに踏まえた上で、それを意図的にずらし、非和歌的な即物性や漢詩のもつ写実性をも取り込んで、果敢な美意識の革新を遂行している様相を、緻密な分析を通じて明らかにしている。その際、読者の予想を裏切る表現をあえて試みることで、読者の知に揺さぶりをかける仕組みが、本書の随所に用意されていることを指摘する。『枕草子』を、通念的・規範的な「美」に対する「もどき」の文学として位置づけたところに、本論文の視点の新しさがある。また「III日記的章段の方法」では、これまで主家の没落にほとんど言及することがないとされてきた目記的章段について新見を提示する。すなわち、あくまでも明るく描かれた記事の背後に、当時の読者なら当然中宮定子の属する中関白家を襲った悲劇を透視し、それを重ね合せて読まざるをえないような表現が張りめぐらされていること、そうした悲劇の中で定子の高貴さがいよいよ際立って印象づけられる仕掛けになっていることを明らかにする。『栄華物語』には、定子の父道隆の没後、兄伊周の失脚を経て、道長が政権を完全に掌握したあとも、定子サロンの風雅を慕って訪れる公達が絶えなかったことが記されるが、本論文は、その定子サロンの風雅のありかた、さらにはその風雅の演出に深く関わった清少納言の役割を具体的かつ鮮やかに浮かび上がらせている。従来、ややもすると、中宮定子や宮廷貴紳への無批判な讃美、漢詩文を踏まえた当意即妙の機知への自讃に終始すると見なされがちであった『枕草子』だが、そうした固定的な評価を打破した功績はきわめて大きい。さらに「IV他作品との交差」では、『枕草子』の表現の達成を、『伊勢物語』『源氏物語』などと対照しながら、平安朝文学の表現史に定位することを試みている。また「V様々な視座から」では、上記諸論の研究成果を、さまざまな角度から敷衍しつつ、高校の古典教育に生かす実践的な試みを行っている。

 本論文で藤本氏が明らかにした『枕草子』の表現の達成は、先行する曾禰好忠の和歌との関わりや『後拾遺和歌集』以後の和歌史への展望を射程に入れることで、よりダイナミックな表現史の構築に結びつく可能性をもっている。それらを視野に収めなかった点は惜しまれるが、本論文によって、『枕草子』研究の確かな礎が築かれたことはきわめて高く評価される。よって審査委員会は本論文が博士(文学)の学位に値するとの結論に達した。

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