学位論文要旨



No 215551
著者(漢字) 上野,佳奈子
著者(英字)
著者(カナ) ウエノ,カナコ
標題(和) ホール音場に対する演奏家の評価に関する研究
標題(洋)
報告番号 215551
報告番号 乙15551
学位授与日 2003.02.13
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第15551号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 橘,秀樹
 東京大学 教授 加藤,信介
 東京大学 助教授 坂本,慎一
 東京大学 助教授 西出,和彦
 東京大学 助教授 平手,小太郎
 東京大学 助教授 曲渕,英邦
内容要旨 要旨を表示する

 従来、コンサートホールの音響研究においては客席での聴取条件、聴衆の立場でのホールの評価に主眼がおかれ、多くの研究が行われてきた。その一方で、ホールが音楽芸術を共有する空間であることを考えれば、これを創造する立場である演奏家にとってのホールの価値を知ることは非常に重要な課題である。

 音響分野において人間の心理的側面に着目した研究を行う場合、精神物理学的測定法をはじめとする心理学的測定法が多く用いられる。このような聴感実験は、主に、人間の生得的な聴覚特性、音刺激によって得られる感覚に基づく心理的反応を調べるもので、刺激-反応モデルに基づくアプローチとして位置付けられ、ここでは人間は音に対するセンサーとして扱われている。しかし、本研究は、演奏という能動的な行為において知覚されるホール音場の評価を題材とするものであり、この種の方法を適用することはできない。演奏家の評価を研究の対象とする上では、社会的・文化的背景によって異なる心理評価、それぞれの活動場面において異なって知覚される対象の特徴を科学的に論じるために、従来の枠組みにとらわれないアプローチが必要とされている。

 このような認識から、本研究では以下に示す二つの観点に着目した。

 第一に、人間と音場との間に相互作用的な関係を想定する。すなわち、人間は音場を受動的に聞くだけでなく、同時に音場に対して能動的な働きかけを行っている。これはごく一般的に言えることではあるが、演奏家の場合には特に、ホール内の音場に自らの内部にある音楽的イメージを創出するという活動を行っており、人間と環境との相互作用的関係を見過ごすことはできない。

 第二に、人間が対象(場)に見出す意味は、上述のような能動的な働きかけを通じて抽出され、さらに、その対象との関わりの積み重ねによって変化すると考える。すなわち、同一の対象に向き合った場合でも、その対象のどのような特徴を知覚し、どのような意味を読み取るかは、どのような行為において対象と関わるか、関わってきたかに依存する。この前提によって、同一の対象を表現する場合であっても、異なる行為によって対象と関わる人間、対象との関わりの履歴が異なる人間を調べた場合には、異なる言語が抽出されるという仮説が導かれる。

 これらの観点、すなわち、対象との関わり方が異なれば対象に見出す"価値"は異なるという視点を軸として、本研究では、演奏家と音響研究者という二つの社会に着目し、これらの社会における価値を考察する手段として"言語の構造"に着目する。それぞれの社会について、人間が活動において対象(場)から意味を生成するシステムを考察した上で、それぞれが生み出す言語の構造を示す。さらに、二つの言語・社会の接点を調べることによって、演奏家が望むホールの特徴を音響研究者の言語である音響指標によって記述することを試みる。

 ここで、人間の行為や意識、知のはたらきを分析的に記述し理解するために、本論文では人間の知のモデルとして暗黙知理論、記号論という二つの理論を援用して考察を行う。 上述の検討を行う上で、本研究では演奏家と音響研究者のコミュニケーションの場として、無響室内に三次元音場シミュレーションシステムを構築して用いた。システムの概要を下図に示す。このシステムは、実際の音場を実験室内で三次元的に再生することを目的に考案した6チャンネル収音・再生システムをステージ音場のシミュレーションに応用したものである。

 音場シミュレーションシステムの概要としては、実時間のたたみ込み演算装置によって、演奏音に対するステージ上の音響効果をリアルタイムで無響室内に再生する。たたみ込み演算のフィルタ係数としては、実際のホール・ステージ上で単一指向性マイクロホンにより90度ごとの6方向について測定した方向別インパルス応答を用い、無響室内に設置した6チャンネルのスピーカシステムにより再生する。この音場シミュレーションシステムを用いることによって、音場中心位置で演奏家が演奏を行った場合に、演奏音に対するホールの響きがリアルタイムで演奏位置に再生される。

 まず、第2章、第3章において、演奏家、音響研究者のそれぞれの社会がホールの特徴を記号化するシステムをモデル化して示し、言語の構造の抽出を試みる。

 第2章では、インタビューを通して得られた演奏家のコメントに基づいて、ホールにおける演奏活動中に演奏家がホールを知覚するメカニズム、並びに演奏家が知覚したホールの特徴を言語として抽出し、その構造を共有するために必要な過程について、暗黙知理論並びに記号論の概念を用いて考察した。つぎに、その結果に基づいて、前述の実験システム(無響室内シミュレーション音場)において実験的検討を行った。その結果、演奏家の演奏中における意識に関連する三つの軸を想定することによって、演奏家から抽出された言語表現が整理でき、また演奏家社会に共通な言語構造がモデル化できることが見出された。同時に、各演奏家の言語の構造については、演奏行為におけるそれぞれの役割・意識などとの対応がみられることが示された。このような知見に加えて、演奏家の評価を一般化して捉える上での課題の考察を行い、演奏家にとって望ましいホールの特徴をまとめた。

 第3章では、第2章との対比において、音響研究者の行為を演奏家の行為と等価なシステムとして捉えることを試み、音響研究者がホールに対峙した場合、すなわち音響技術を用いて測定・分析を行った場合に、そこから意味を抽出する過程をモデル化して示した。つぎに、演奏家に対するホールの応答(伝達関数)を記号化して示すために、ステージ上の音源近傍点における室のインパルス応答を測定する音響測定システムを構築して、国内15のホールにおいて測定を行った。この結果から、ホールの音響条件の違いに対応する伝達関数の差異を表すための音響指標について、ディジタル信号処理及び聴感実験を行うことによって検討した。これらの検討を通して、演奏家自身に対するホールの音響特性を記述する上で有効かつ独立な指標を整理した。

 第4章では、第2章と第3章の結果を踏まえて、演奏家と音響研究者という二つの社会の記号体系の接点を実験的手法により探った。

 個々の演奏家独自の視点や感覚を抽出して分析するための主観評価実験法としては、個別尺度法による評価・分析並びに、実験条件下で演奏家とのコミュニケーションを行うことによって評価を抽出する方法を用いた。実験音場としては、前述の三次元音場シミュレーションシステムを利用し、実物ホールの音響特性を実験室内に再現した条件及び、実測データを人為的に加工した条件を用いた。このような実験条件の下で演奏家にホールでの演奏を想定して自由に演奏してもらい、そこで得られた評価を前述の方法によって抽出した。その結果として、演奏家の表現語と音響研究者にとって制御可能な記号である音響指標との関係を示した。

 本研究で採用した実験方法の特徴として、実験下に人間の環境に対する能動的な働きかけという行為を導入したこと、被験者の感覚量を実験者の予見や仮説に従って抽出するのではなく、個々の人間の言語によって各々が捉えた環境の特徴を抽出したことが挙げられる。このように、それぞれの人間の対象との関わり合いを再現した上で各々の人間固有の評価を抽出し、その個人差や共通性を論じる方法によって、扱いが難しいと予見された演奏家の評価に科学的にアプローチする可能性が見出され、この種の実験によって工学的知見を得ることが可能であることが示された。本研究で採用した心理実験法は、既往の聴感実験法の常識に反する面もあるが、人間の環境に対する能動的な関わり合いにおいて、人間が環境に対して求める特徴を調べるためには、必要かつ有効な方法であると考えられる。

 以上の研究の結果から、演奏家にとっては、意図する音楽的イメージを表現し聴衆に伝えるということがホールにおいて実現すべき行為として重要であること、この行為において、ホールの音響的特徴が密接に関係することが示された。このような演奏家にとってのホールの価値を音響特性によって記述した場合には、従来重要視されていたステージ周壁の初期反射音よりもむしろ、ホしル全体からの残響普及び客席後壁からの遅れ時間の長い反射音(後期反射音)の影響に注目すべきことが示唆された。前者(残響音)の条件については、音楽表現を創る上での表現方法に密接に関わる様子が演奏家から聞かれ、特に他の奏者と共演する局面において、音の融合を助ける反面互いの音の聞きやすさを阻害する要因となる恐れが指摘された。後者(後期反射音)については、演奏家が演奏行為の最終的な目的として指摘している"聴衆への伝達"という要素に関係し、適度な後期反射音に対して得られる感覚が、演奏家が客席に自らの音楽表現が伝わっているという実感を得ることに関係する可能性が見出された。

 このように、演奏家と音響研究者という二つの社会の価値(言語)をつなぐ知見が得られたことは、本研究で行った研究方法の妥当性を示している。このような方法を用いた検討を蓄積することによって、さまざまなの言語間の関係、すなわち、演奏家の要求に応えるホールの音響特性が明らかになっていくと考えられる。また、今回用いたアプローチを場と関わる人間の意識が軽視できないさまざまな問題に応用することによって、人間が対象との能動的な関わり合いにおいて対象に見出す価値を科学的に論じ、工学的知見を導くことが可能となると考えられる。

図 実験システムの概要

(ステージ上での測定)

(実験室内における音場シミュレーション)

審査要旨 要旨を表示する

 「ホール音場に対する演奏家の評価に関する研究」と題するこの論文では、演奏家に望まれるコンサートホールの音響性能を音響工学的な視点から明らかにすることを目的として、実験室内に構築した三次元音響シミュレーションシステムを利用して演奏家と音響研究者との対話の場を設定することによって演奏家の主観的印象とホールの音響条件との関係を調べ、それと同時に、演奏という能動的な行為に伴って為される場(ホール音場)の評価のあり方を暗黙知理論及び記号論の導入によって考察したものである。

 まず第1章では、コンサートホールの音響に関する研究の状況、演奏家の主観評価を調べるという課題が有する特殊性を概説した上で、この研究の目的としては、コンサートホールの音響設計に対する工学的知見を得ると同時に、演奏という能動的な行為に伴う場の知覚とそれに対する評価を抽出するための方法論を導くこととしている。音楽芸術と工学技術の接点を探るという研究課題に取り組むに当たっての視点としては、特定の社会の言語構造にはその社会の価値システムが表出するという記号論的な視点を研究の根幹に据え、演奏家と音響研究者という二つの社会の言語の構造分析に着眼点を置いている。

 第2章では、ホールに対する演奏家の意識を理解することを目的として、ホールの音響効果に関する演奏家の言語構造について考察している。演奏活動中の演奏家の知覚ならびにそれを表現するための演奏家の言語構造を抽出する過程について、暗黙知理論ならびに記号論の概念を援用して考察し、さらに実験的検討によって演奏家の言語構造を調べている。その結果、演奏中の演奏家の意識に関して"個人(単位で)の演奏のしやすさ"、"共演者との関係"、"聴衆への伝達"という三つの軸を想定することによって演奏家の言語表現が整理され、また演奏家集団に共通な言語構造がモデル化できることを示している。

 第3章では、音響研究者にとって操作可能な建築音響特性を記号化することを目的として、ホール・ステージ上の音響条件を記述する指標を定量化している。実際のホールにおける測定結果をもとに、ディジタル信号処理ならびに聴感実験によって音響的特徴を抽出・整理した結果、ホール空間全体が生成する残響音の量および残響減衰の長さ、ステージ周壁からの初期反射音の量、客席後部からの後期反射音の聞こえという4つの要因を挙げ、それらをホールの音響条件の差異を記述する上で独立かつ有効な要素として提案している。

 第4章では、楽器の演奏音に対してホールの音響条件を実時間でシミュレートする実験システムとして、音響実験室内に三次元音場シミュレーションシステムを新たに構築し、これを用いて演奏家が演奏中にもつ感覚と音場の音響特性との関係を調べている。このシステムのシミュレーション精度に関しては、プロの演奏家の言述を通して、実験条件の変化に対して実際のホールの差異に対応する感覚が得られることが示され、合成音場を用いた実験的検討の有効性が確認されている。また心理実験の方法としては、演奏行為における意識に対応して知覚される音響的特徴を探るための方法として、それぞれの演奏家固有の言語によって演奏時の感覚を抽出する試みを行っている。

 以上の検討の結果としては、従来演奏家のための音響設計要素として重要視されてきたステージ周壁からの初期反射音よりも、むしろホール全体からの残響音および客席後部からの遅れ時間の長い反射音(後期反射音)の効果の方が重要であることを明らかにしている。特に、これまで有害とされてきた後期反射音については、演奏家が演奏行為の最終的な目的として指摘している"聴衆への音の伝達"という点で、後期反射音が適度な遅れ時間と強度をもつ場合には、演奏家が自らの音楽表現が客席に確実に伝わっているという実感(手応え)を得ることに寄与することを見出しており、これは今後のホールの音響設計では十分に考慮されるべき点であろう。

 第5章では、この研究を全体にわたって総括し、得られた知見と同時に研究方法の妥当性を論じている。

 以上に述べたように、本研究の成果としては、これまで多分に経験に頼らざるを得なかったホールの音響設計法に対して、新たな科学的アプローチの端緒を見出している。またホールにおける演奏活動というきわめて心理学的な行為に関する研究の方法として、従来の音響心理学的方法の枠組みにとらわれずに認知論的モデルを導入し、その有効性を示している。このように、本研究では芸術と工学という対極的ともいえる分野を科学的な手法で繋ぐことのできる可能性を示し、工学的また音響心理学的な面で大きな成果を上げている。

 よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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