学位論文要旨



No 215569
著者(漢字) 権,五曄
著者(英字)
著者(カナ) コン,オヨプ
標題(和) 広開土王碑文と東アジアの天下思想
標題(洋)
報告番号 215569
報告番号 乙15569
学位授与日 2003.02.27
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第15569号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 神野志,隆光
 東京大学 教授 竹内,信夫
 東京大学 教授 大澤,吉博
 東京大学 教授 義江,彰夫
 早稲田大学 教授 李,成市
内容要旨 要旨を表示する

 広開土王碑は王の死去3年後にあたる414年にその子である長寿王によって建立されたもので、碑の4面には約1775字の銘文が記されている。その銘文は三部で構成されており、第一部では高句麗の建国由来と天帝の血統によって貫かれる王統譜を、第二部では広開土王が征討戦を通じて周辺国を王化させた勲績譚を、第三部では祖先陵を守る子孫に関した守墓制を語っている。

 この碑文の中心となる第二部が広開土王の勲績を称えたことから、今までの多くの研究は、そこから同代の史実を読みとることに研究の焦点を置いた。しかし碑文には史実とは噛み合わない部分もあり、また王統譜や高句麗の建国譚についての記述もあることから、広開土王碑は史実を語ったというよりは、広開土王の勲績譚を媒介に王室の正統性を語ったテキストと見るべきである。

 従来の研究は、碑文の「於是立碑銘記勲績以示後世」を便宜的に受け入れ、広開土王の勳績が記された第二部の部分に研究の焦点をあてていたが、それは碑文が神話と事実の接続によって構成されたことや、祖先と子孫を貫いた王統についてのべたこと及び碑文自体の論理によって成立したということを考慮していなかった点で、根本的な問題を抱える。

 したがって、本論文では碑文が王統の正統性を確保するためのテキスト(天下の成り立ちや王統譜の由来をかたることで未来を保障するという意味での)であったという認識に基づいて、碑文を読み直していきたい。そのためには、天下において高句麗が絶対的な位置を占めたこと、天下の統治が天帝の子孫に限られたこと、周辺国の位置が朝貢によって決められたこと、高句麗が全ての交流を独占したことなどの意味を検討していかなければならない。また碑文は有機的に結ばれた三部全体によって意味をなすということに注目すべきである。

 そのため、本論文はまず第一章で、碑文の部分部分から史実を求める既存の研究から離れて、碑文自体を読み解く立場を明確にした。

 広開土王碑に関する研究は「倭」が登場する「辛卯年」条に集中していた。それは「辛卯年」条を『古事記』や『日本書紀』などの記述から、韓半島の南部が「倭」の「屬国」であったとする日本側とそれを否定する韓国側の反駁でなっており、両国は碑文を自国に有利に読もうとした。碑文から読み出す結果は相反的であっても、その方法においては同じであった。

 しかし、このような碑文理解は根本的な問題を持つ。端的に言えば、碑文の一部に囚われ、碑文全体を把握できていない。「辛卯年」条に集中する研究の流れを懸念して、全体を読み解くべきであるとの意見もあったが、それはあくまでも第二部に限られた全体であった。

 部分が碑文全体の中で意味をなすことは、広開土王の征討に関する部分からも確認できる。広開土王の周辺国に対する征討は、碑文で「旧是」とする時点から高句麗の「屬民」であった領域に限られており、それは周辺国の朝貢誓約によって終わる。そのため征討による領土の獲得はなかった。これは、第一部と第二部を通じて読んだ時に理解できることであり、第二部だけを部分的に読んでは碑文の理解から逸れることを示唆する。このように第一章では神話的に語った第一部と広開土王の勳績譚を語った第二部、祖先陵の守墓制を語った第三部を通じて読むことの意義について論じた。

 次に第二章では、碑文全体を貫く王統譜の検討を通じて、天帝に繋がる子孫の正統性について考察した。碑文では「始祖鄒牟王から十七世孫広開土王」までを王統譜としたが、その前後に天帝と長壽王があることから、実際的には「天帝から長壽王」までの王統譜と見るべきである。碑文の理解はその全ての王統譜を引き受けた長壽王の立場を考えることから始まる。またこの王統譜の検討を通じて、碑文から歴史的な事実だけを読み取る研究方法の限界性を確かめることができる。

 碑文において時間は「昔」と「旧」に区別されており、「昔」は建国以前の神話的な時間を、「旧」は高句麗の「天下」が構成された以後の時間を意味する。天地間の秩序が定立していなかった「昔」には、河伯のような地上神によって地上が統治されており、天地間の往来も自由であった。それは天帝と河伯女郎との神婚によって確かめられる。

 そのような空間は、高句麗の天下が成立した「旧」の時点から変化し、地上は高句麗をとりまく、「碑麗」・「百殘」・「新羅」・「東夫餘」などの周辺国によって成立することとなる。高句麗を中心とした「天下」の完成である。その「天下」は鄒牟王の代に完成し、以後子孫による領土拡張はない。子孫はただ「天下」を継承し維持するだけであるが、王統譜を通じて祖先と子孫の同質性は保障されていた。また王統譜で中継王が省略されたということは、その省略された中継王をも含んで、天帝の血統が後世に継がれることを意味する。その王統を最後に継承するのが、当代の王、長壽王であった。

 その面で長壽王は碑文において特別な位置を占める。長壽王は祖先王を継承する子孫王であると同時に、碑文を立てた現世の王でもあった。つまり長壽王は自らが溝築させた王統譜によって自己確認をなしたのである。

 このように第二章では、碑文が長壽王の正統性を確認するために構成されたテキストであったことを確認した。

 第三章では、高句麗の天下と、その圏外勢力として登場する「倭」と存在自体が無視された中国の持つ意味について考察した。

 碑文の天下は高句麗とその周辺国によって構成され、周辺国は朝貢の義務を持つ。したがって、高句麗に朝貢しなかった「北扶餘」・「任那加羅」・「安羅」・「肅愼」は国というよりは周辺国に含まれる勢力とみるべきである。それに対して「碑麗」・「百殘」・「新羅」・「東夫餘」は朝貢を通じて高句麗の天下に参与しており、その面で周辺国と認められる。

 朝貢はこの天下において、周辺国となる条件であるだけでなく、天下の秩序を維持するための方法でもあった。周辺国がこの朝貢義務を忠実に果す限り征討は必要のないものであった。また天下の全ての交流は高句麗を中心になされるべきで、百殘が「倭」と「和通」したことは、高句麗の天下秩序に叛いた行為であった。このように碑文の天下において周辺国は朝貢の義務を有し、高句麗以外の国と交流することは禁止された。

 ここで問題となるのは、「倭」と中国である。碑文に一番多く登場する「倭」が朝貢しなかったことから、「倭」を高句麗と対等な国とする見方もあるが、それは高句麗を中心とする碑文の論理に背く。つまり碑文の論理に沿って見ると、「倭」は王化されるべき国ではなく、天下の圏外にある国であった。碑文の「倭」は華夷思想によって区別されるが、王化思想によって包摂されるべき対象ではなかったのである。

 同様に碑文は実際には緊密な関係を持った中国を省略することで高句麗中心の天下を成立させた。中国の「天下」をモデルにした高句麗の「天下」に中国を登場させることや、独自性をもつ「倭」を認めることは、碑文の天下論理を崩すことになり、そのため碑文は中国を切り捨て、日本を天下の圏外にある国と見なした。

 最後に第四章では、碑文の天下思想が、高句麗の独自的なものではなく、中国のそれを真似たものであることを検討した。高句麗は中国を中心とした天下に、册封を通じて参加し、そこから学んだ世界観を国内に転用させ、広開土王碑の「天下」を溝築したのである。

 そのような天下思想は、同時代の「牟頭婁墓誌」や「中原高句麗碑」からも窺える。

 当時、中国との册封関係を通じて東アジアに参加した国は、中国の天下思想を以って自国の天下像を構築しようとしたのである。

 「倭」の場合も、中国の天下思想を取り入れ、自国の「天下」を構築した。それは五世紀の鉄刀に銘記された「治天下」という文字が、中国ではない「倭」を中心とした天下を意味することから窺い得る。その天下を完成したのが、『古事記』・『日本書紀』であった。

 以上のような分析を通じて、広開土王碑文が史実を語るためではなく、高句麗の正統性を確証するために構成された王室のテキストであることを明らかにした。碑文から史実を読み取ることは可能ではあるが、それが碑文の正しい理解とはならない。そのような見方は碑文そのものの論理から離れたもので、碑文とは別なものを生み出す。

 碑文を理解するためには、まずそれが王統の正統性を語るためのテキストであったことを認め、それに基づいた読み方をすべきである。そのためには碑文の一部分ではなく、全体を貫く碑文の論理を見出し、碑文自体が語る世界に注目しなければならない。本論文はそうした碑文理解を提起したものである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、「広開土王碑文」について、碑文の文章自体の内在的理解から、その本質把握への道を拓こうとしたものである。四世紀末〜五世紀初頭の高句麗の王、広開土王(在位391〜412)の勲績を後世に伝えるために、その子長壽王が414年に碑を建てた。高さ6.34メートル、基底部の四面の幅が1.43〜1.9メートルという巨大な碑に刻まれた文が「広開土王碑文」である。碑は現存するが、損傷が甚だしく、古い原石拓本に依拠した釈文によるほかない。その釈文作業自体にもなお課題をのこしているが、本論文は碑文解釈のあり方そのものを問い直し、新しい理解の方向を提起するものである。

 従来の研究は、碑文の語るところを歴史的事実としてとらえ、特に、「辛卯年」(391年にあたる)条記事--「而倭以辛卯年来渡□破百残□□新羅以為臣民」--をめぐって論議を重ねてきたのであった。そこでは、四世紀段階の「倭」の朝鮮半島進出を認めるか、高句麗が「倭」を撃破したと見るか、という古代史についての大論争を呼び起こした。本論文は、そうした論議のあり方を「史実」化のパラダイムとして批判し、根本的な転換をせまる。碑文は、碑文自体の論理にそくして理解すべきだというのであり、端的に言えば、高句麗王権の正統性のためのテキストとして碑文を理解すべきだというのである。「倭」の問題にそくして言えば、碑文の記事から「倭」にかかわる歴史的事実を導き出すのではなく、碑文テキストの全体理解として、神話的記述からはじまって広開土王を正統な王統譜のなかに定位して語るという全体が「倭」をいかにあらしめているか、を問うべきだというのが、本論文の方法的立場である。

 本論文は、そうした方法的立場を第一章「研究史批判と本論文の立場」で確認し、それを、第二章「正統性の論理」、第三章「広開土王碑文の世界」、第四章「東アジア世界と天下思想」を通じて具体化して展開し、「おわりに」をまとめとして置く。

 第二章「正統性の論理」は、神話的記述からはじまることを王権の正統性の保障としてとらえる。「天帝之子」鄒牟王が作った「天下」は、碑麗・「百残」・新羅・東夫餘を「属民」とする世界として、そもそも成り立ったことを語るととらえるのである。第三章「広開土王碑文の世界」は、広開土王の征討の意味を、高句麗に対して「百残」・新羅等が服属するという、その「天下」の秩序を実現・保持したものとして見るべきことを説く。そして、その見地から、「倭」は、秩序関係の圏外にあって、この秩序に侵入してくるが撃退されておわること、また、中国は、その「天下」とともにはありえない存在としてあらわれようがないことを、明らかにする。第四章「東アジア世界と天下思想」は、高句麗の「天下」が、中国古代帝国の作り出した世界モデルとしての「天下」にならって構築されたことを、他の資料(「牟頭婁墓誌」「中原高句麗碑」)とあわせてとらえ、それを日本古代国家にも共通する問題として見定める。古代東アジア世界において中国の存在は圧倒的であり、朝鮮諸国も日本も、中国王朝の冊封を受け、その世界(天下)に組み込まれていた。そのなかでみずから一つの世界であろうとすることが、独自な「天下」を作る--中国にならって作るしかない--ことに向かわせた。その正統性を保障するためのテキストとして、日本では『古事記』『日本書紀』がなされたが、「広開土王碑文」は、それと同じ意味をもつテキストとして位置づけられるのである。

 第二、三、四章を通じて、外に持ち出して歴史の事実に還元するのでなく、あくまでテキスト理解として問うという立場が貫かれ、碑文の内在的論理に沿って新しい碑文理解を開示したと言うことができる。

 本論文の評価される点は、第一に、研究史への方法的な批判が明確でかつ一貫していることである。それが、従来の研究史の見渡しとして、とくに韓国側の碑文研究についての整理とともに行われたことも特筆される。碑文については論考が文字通り山積するのであり、研究史の専著(佐伯有清『研究史広開土王碑』吉川弘文館、1974)もあるが、韓国側の研究についてはどうしても手薄であった。いま、その欠を補い、あらためて、日韓双方において、強固なパラダイム的規制が働いていたことがあきらかにされるとともに、「辛卯年」条は倭主導説・高句麗主導説のどちらの理解が正しいかというようなことではなく、古代史の基本資料と考えられてきた、そのこと自体の問題として、明確に批判的に問い返されることとなったのである。碑文の記述、特に広開土王の征討記事を、歴史的事実に還元することを問い返す、方法的問題提起として高く評価される。

 第二に、この問い返しが、従来の歴史的理解とは異なる、新しい碑文解釈を示しえていることである。碑麗・「百残」・新羅・東夫餘を「属民」とする、元来の世界秩序を実現・保持するという、広開土王の征討の分析は明晰である。また、「倭」を、高句麗の「天下」を構成するものではなく、その圏外にあるものとしてとらえることと、中国が碑文のなかに登場しない所以を高句麗の「天下」にとって組み入れがたいからだと見ることとは、従来の歴史研究がおちいってきた陥穽をこえた把握として評価されてよい。それは、文学研究のテキスト解釈が可能にしたものであり、文学研究からの歴史研究に対する提起ということもできる。

 第三に、「広開土王碑文」という、決して大きくはないテキストをめぐって考察するのであるが、このテキストのなかに跼蹐するのではなく、古代東アジア世界における、周辺国家の自己世界構築--みずからの独自な「天下」を、中国にならって作り、その正統性の保障のためのテキストを作ることに向かう--という、古代日本に共通する問題にまで掘り下げたことが注目される。『古事記』『日本書紀』のテキスト理解に関する研究の新展開がふまえられ、まさに比較的見地というのがふさわしい見渡しによって、碑文テキストが位置づけられたのである。それは、『古事記』『日本書紀』研究に対しても寄与するところとなる。

 ただ、問題点として、問題意識・方法意識が先行して論がすすめられテキストの分析が十分になされていないところがあること、また、テキスト理解としての立場に徹底しないで別の新しい史実を構成しようとするような方法的不徹底が残ることが指摘された。さらに、モノとしての碑に関する把握が欠けているということも不満が残るという問題も提起され、いくつかの点に関して本論文の碑文理解についての疑問も表明された。しかし、それらは本論文の価値を基本的に損なうものではないと認められる。

 したがって、本論文審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

UTokyo Repositoryリンク