学位論文要旨



No 215570
著者(漢字) 山本,巍
著者(英字)
著者(カナ) ヤマモト,タカシ
標題(和) ロゴスと深淵 : ギリシア哲学探究
標題(洋)
報告番号 215570
報告番号 乙15570
学位授与日 2003.02.27
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第15570号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岡部,雄三
 東京大学 教授 大貫,隆
 東京大学 教授 北川,東子
 東京大学 教授 宮本,久雄
 東京大学 教授 山脇,直司
内容要旨 要旨を表示する

 古代ギリシア人は民族の根本経験として、存在を立ち現れと理解した。明瞭な輪郭の形において立ち現れる、誰にも隠れなき顕現態こそが存在することの意味と経験した。ギリシア絵画も彫刻も明瞭な形姿を描き刻んだ。同時にギリシア人は言葉(ロゴス)の造形力を信じて、自らを「言葉をもつ動物」と理解したが、世界のこと・人間のことを言葉で明確に浮き彫りにして明晰に知ることを求めたからである。ギリシア人が集会のための広場(アゴラ)とオリンピックを初めとするスポーツや悲劇のコンクールのような、あらゆる種類の競争(アゴーン)を考案したわけである。集会と競争が社会的機能を果たしたのである。

 こうして肉体の面であれ精神の面であれ自らがいかなるものであるかを、自他共通に開かれた空間ではっきりした形に浮き彫りにしようと、己を作品に刻んだ。周辺から立ち上がり、他と異なり個となる個体化の遂行である。そして「集会と戦場で」(ホメロス『イリアス』)衆を圧して際立つことに成功したものが英雄となる。ギリシア人ほど無邪気に英雄を賞賛した民族はいない。「出る杭は打たれる」とは程遠い。

 古代ギリシア哲学をわれわれが人間と世界を理解するモデルとして受け止め、本論文は、一つにはソクラテスの対話問答法(ディアレクティケー)の分析から、思考とは何であるか、そこでのこころの構造、無限ほどにも離間する自己と他者の間の構造を示した。今一つは自然を介して自然を超えるアリストテレスの哲学の構造を、自然の中から立ち上がる人間を中心に解析した。

 ギリシア人の存在=立ち現れ論は表面主義と言い換えてもよい。立ち現れるのは表面に、である。おもて(表)に現れるからであり、内面は見え「ない」面に他ならない。そこからギリシア人の文化は、表面的で薄っぺらだという批判も生まれてきた。つまり表面と内面の区別のない子供の文化である(子供の成長過程で内面性が生まれてくるのは、言葉を習得する後でのことであり、ウットゲンシュタインも言うとおり、「騙す、振りをするためには多くのことを学ばなければならない」)。その表面主義の文化に、表面と内面との隙間を剥離させたソピストが登場した。知恵を見せかける言葉の技術・弁論術を振るい始めたからである。ソクラテスが生きたのはそうした時代である。

 ソクラテスの対話問答法は、「君」と「わたし」の間だけの問うては答え、答えては問う吟味と論駁による探究であったが、それは各自のこころの表面に思いとして立ち現れたことを言葉によって互いに擦り合わせ磨く方式以外ではなかった。こころの内面への逃避を許さず、ただこころの表面に言葉のヤスリをかけることであった。内面や深いことを神秘めかして語ることはソクラテスには人間が受け入れることのできる形に薄めた絶望以外のことではなかった。「言え。そして思いとして君のこころに立ち現れていること以外のことを言うなかれ(me para doxan sou)」が問答法の原則であった。言葉を通して吟味を尽くす問答法は、言うことを試みる「こころ見」の意義を担っていたのである。

 しかしソクラテスが人間の直面する深淵を知らなかったのではない。「最大のこと(善美のこと)」つまりわれわれの生死に直結する人生最重要な、生きることの意義も目的も根拠も何も知らない、従って神に比すれば人間の知恵は無かほとんど無に等しい、としていたからである(無知の知)。そうであればこそ、己の周りに種々の事実を取り集めては己を根拠と錯誤しかねないわれわれ人間は、か細く弱い人間の言語を問答法の吟味にかけ、絶えず幻影を己から削り落とす必要がある。対話問答と人間の根本の無知の相関から見ると、従来プラトン解釈では初期の対話篇とされ、あるいは偽作扱いされたり重要視されなかった対話篇『ヒピアス大』が対話問答についての対話問答という、実に興味ある性格があることが理解される。音は見えず、色は聞こえず、音と色は通約性がない。しかし両方とも美しいと語ることができる。美は通約不能なものをも超える普遍全体性がある。問答する「君」と「わたし」は通約不能なほど鉄壁の孤独に隔てられまた護られている。しかしソクラテスは人間各自を決して最初で最後のもの(arche, principium、原理)とはしなかった。自分のこころが究極だとはしなかったのである。ヒピアスが自分の国・家の内のこと(oikia; oikonomia; economics)しか関心がなかったのに対し(国家は大きな屋根に蔽われた、生きるための家にすぎない)、ソクラテスの立脚点は脱却不能な無知に刺し貫かれており、世界を覆う天蓋の「外」に向かってこころは破り開かれていた。こうして美(という形の根拠)は誰をもその都度の現実脈絡において充実させるad hocな全体性でありつつ、それを破り超える超越力動性だったのである。

 アリストテレスの哲学は『形而上学』冒頭の「すべての人間は自然本性上知ることを欲求する」に凝縮している。人間はワザワザ人工の技を尽くして知ることが自然本性であり、従って人工の力で自然を超えることが自然な存在である。続いてさまざまなタイプの知の段階生成論(感覚→記憶→経験→技術知)でが展開する。その示すことは、知ることは個々の断片的偶然的事実を知ることでなく、事実を事実としつらえている根拠を説明する原理を知ることであり、それは必然性において、現象としての事実を丸ごと全体として知ることである。こうした知を自然本性として負わされているこころとは全体化の原理である。全体を隈なく知りたいとするのが人間である。

 こうして特定領域、特定脈絡で「ad hocな全体」を知ることが専門分野それぞれの学問であり、その上に無条件に全体そのものを求める哲学が非連続の内に登場することになる。「哲学の初め」である。哲学とは自己を「虚焦点」にして存在全体、世界全体の意味を問い探究することである。大地に二本足で立ち天を仰ぎ地平を見はるかす人間はその身体構造の上でも垂直超越性に開かれている。

 ところで身体は両義的でもあった。すなわち身体は、soma, corpus, body, corps, Korperの各国語で身体と物体が同じ言葉であるように、物体と両義的である。身体は他の「もの」たちと並ぶ。身体は並列化原理である。こうして人間もただのものである。ラテン語のhumanusはhumusからであった。そしてものの力の大小の掟の下にある。われわれ人間も生きものも自然と人工の力に薙ぎ倒されること珍しくないどころか日常茶飯である(傷つき易さ)。人間は「無くて無いもの」の相貌を帯びる根源受動性にある。

 しかし同じ身分で相並ぶことあればこそ、もののあり様を身体の感覚器官で知ることもまた可能である。そしてその感覚は人間の自然な能力であった。人間は自然世界と身体的連帯にあり、相関性以外ではない。目前の一木一草から天の星々に至るまでわれわれと肉の連帯にある。そして世界は人間にその在り様を自ら示すように、そのような人間を自然の一部として含んでいるのである。世界は人間の世界である(今一つの人間原理)。自然は解答ではなく、標であり発端であり問いである。最小限の知覚の中にも最大の謎がある所以である。

 あの「存在=立ち現れ」の根源理解の系は、思いとして誰にも立ち現れていることは「ある」とする実在原理であった。そして人々の間で共有されてきた見解や伝統の意義を初めて洞察したのがアリストテレスである。つまりすべての人あるいは多くの人に死角なく思いとして立ち現れていることは、安易に信じ込むべきではないが簡単に無視すべきでもなく、そうなるにはそうなる所以のことが何かあり、それは探究されるべきだとしたのである。

 さてわれわれの足下にずーと大地が広がり、頭上の丸い天空を太陽は東に上り西に沈む。そして夜には星々が天球を回転する。そのように誰にも見える。宇宙は天球を天蓋として閉鎖しており、その宇宙の中心に地球があり人間がいるように見える。アリストテレスのこの宇宙像はガリレオの地動説によって揺るがされ、漆黒の空間に浮かぶ青く小さな地球の姿が宇宙船から見えた事実によって決定打を受けた。もはや地球は宇宙の中心ではない。しかしそれにもかかわらず、宇宙時代になってもわれわれ人間はこの地球で生命を始めたことに自然に由来する、したがって人間が設えたのでも選んだのでもない多くの条件(限界条件)を負っていなければならない。男と女からそして女から生まれ、空気を必要とし食物を食べなければならない。身の丈五、六尺の四肢を動かして運動しなければならないし、視聴可能な範囲の色と音を見聞きする以外ではない。そしてIQは50から200程度の頭であり、6,70年の寿命なのである。つまりわれわれ人間は既に人間に負わされている精神面身体面の条件を大枠としてここから、何事であれ経験し考え生きていく以外ではない。宇宙船の中に小さな地球を実現するように、広大無辺の宇宙をわれわれ人間は宇宙船地球号に乗って進むだけである。こうしてわれわれ人間には、地球は宇宙の唯一のthe centerではないが、しかし相変わらずあるいはにもかかわらず一層a centerなのである。そして人間は人間であり人間以外ではない。現代の相対性理論は重力によって空間が歪むと教えるが、人間の重さが過大であって、無辺に広がる平坦なはずの宇宙空間が(ブラックホールのように)曲率無限大に歪んで人間の周りに球形に凝縮したといってよい。人間抜きにしては、いかに広大無限を誇っても宇宙は単に質料の残廃にすぎない。

 それは、世界は無限の可能性の中のほんの小さな一つが現実化しただけに思われるけれども(原初偶然性)、そしてわれわれ人間も人間以外であってもよかったのに、われわれの今あるこの現実は唯一の現実、唯一回性の現実として小揺るぎもしない!との宣言である。そしてその視点から、われわれにはどれほど場当たりに見え、偶然に思え、意味も価値もないように見える小さな現実さえ、宇宙全体の美と秩序に匹敵することを証示しつつ、あらゆる生物と人間の、緩やかでありながら確固とし、脆弱でありながら強靱な生命活動の分析に邁進したのがアリストテレスであった。

 アリストテレスの生物体系は静的であって、ダーウィンの進化論で駆逐されたと浅薄に言われることも多い。しかしアリストテレスは時間系の思考を根本からとらなかった。時間は何かの静止した状態か、何への運動かに縛られており、前者ではすべてはがちがちに固定定着した状態にすぎず、後者ではすべてはある終極・目的のための手段・過程としてのみ意義と価値が認められるだけである。しかしアリストテレスは、どんな生き物も静動を超える生命の現実活動の全体性に満たされ、他のものの手段にも過程にも還元不能なかけがえない現存、と見たのである。そして豊穣そのものである多種多様な生物の頂点に人間が位置することとなる。それは時間系の要素を抜いて、宇宙進化の先端に人間が立っていることである。しかしそれは脳天気なだけの人間中心主義でも自然の賛歌でもなかった。根源受動性が人間の縛りであり、人間もただのものであり、またどんな英雄も侮辱され、引きこもり、一寸先は見えず、人目はばからず泣き、他人に膝を屈して嘆願するものとならざるをえない人間の弱さに浸透され、そして生物も人間も弊履のごとく抹殺される可能性から保護されてはいないことを承認してのことだからである。生命の現実は死にピタリと裏打ちされた、表裏皮膜の間に偶然性の影もない全面肯定の狭き道を探るのみであった。それがアリストテレスのエネルゲイア理解であった。

 世界を人間の世界とする人間、宇宙の先端に立つ人間であるとは、宇宙の中に世界の中に眠り込まないで目覚めていること、つまり空無に面した不安の中でしかし揺るがず、未知なる何かに探究の手をさし伸ばすことである。かく見ると、アリストテレスの哲学の根本がソクラテスのそれに響いていることを理解するであろう。

審査要旨 要旨を表示する

 古代ギリシアの哲学は、そのはじまりから「存在」の哲学であった。しかも、存在は思惟と堅く結びつき、したがって存在は理性(ヌース)ないしことば(ロゴス)による了解に依存している、と考えられた。存在を思惟することは、理性的動物としての人間の特権であり責任とされたのである。ところで、存在は、ただ単に「ある」のではない。ギリシア人は、存在をむしろ「立ちあらわれ」と理解していた。存在のこのような現前理解は、時代が下るにつれ存在の非現前と必然的に結合していく。したがって、存在は決してその姿をあらわさない「深淵」をたたえている、ともされていくのである。

 山本氏は、ヨーロッパの存在論的哲学の淵源である古代ギリシア哲学に見られる存在理解のダイナミズムを、とくにソクラテスないしプラトンと、アリストテレスの哲学の透徹した読解を介しつつ、「ロゴス」と「深淵」という二つの柱を立てることによって剔出することに成功している。その中心に置かれているのは、「人間」である。その際、氏は、二つのテーゼを提出する。一つは「人は人が隣にいるかのように生きてはならない」というテーゼであり、一つは「人は人が隣にいないかのように生きてはならない」というテーゼである。前者は他の個体と並列しない局所特異点としての人間であり、後者は虚焦点としての人間であって、歴史、自然等を含む世界は後者の事柄とされる。したがって、氏の論は、いかにして人間の個体化の遂行が徹底的に行われるかを一方に見据えながら、他方において人間はいかにして公共社会や自然万象へと披かれていく存在となりうるかを探究するものであり、哲学的人間論として現代のアクチュアルな問題と深くかかわっているといえる。

 本論は、八章から構成されている。最初の二章は主にソクラテスが、三章以下は主にアリストテレスが取り上げられる。以下、氏の議論を要約する。一章「鉄の孤独と対話問答法-プラトン『大ヒピアス』から」では、各人の異なりを前提とする特殊言語としての「わたしのことば」が対話者相互の問答によっていかにして普遍的な「われわれ言語」へと披かれ導かれていきうるかがプラトンの対話篇『大ヒピアス』を例にとって論じられる。そして、普遍的な真理理解の地平を得ることの至難さが指摘されるとともに、同対話篇のテーマである美に関し個々の美しさを突破するイデアとしての美の力動性が指摘され、それがソクラテスの対話問答法の目ざすところと並行していることが論証される。二章「こころの内は外-ソクラテスの対話の現実」では、古代ギリシア人は存在を露わな立ち現れと理解し、したがって存在の背後に何か隠れたものがあることを認めなかったことが指摘される。そして、ソクラテスの対話問答法とは、このような表面主義の伝統を踏まえて、ともすれば聖域化されがちな内面への退行を許さず、存在の真理を可能なかぎり言語化する努力を人間に求める、こころの表面と限界にあくまでもこだわった、新しい表面主義を形成したものであることが明らかとされる。

 三章「人間の位置-自然と性の脈絡で」では、人間を決定的に規定していると一般に考えれられる性と自然の問題が考察されるとともに、しかしアリストテレスにおいては理性のみがこれらを超越する力動性そのものと理解されており、人間存在が血縁や自然世界も消え失せ、身体の知覚能力の臨界点をも超えた、いわば永遠の底からこそ立ち現れてくることが指摘される。これを受けて四章「言語から実在へ-アリストテレスと人間原理」では、自然万象と人間における個体化の構造が分析され、万物の頂点に位置すると考えられた人間とは、自然的世界に属しながらもこれを統合する存在であり、それはこころと身体の相即的作用と並行していることが指摘されるとともに、それを可能にしているのは実は一切の経験的事実を超えた理性の思考に拠ることが明らかにされる。五章「哲学の「初め」と局所言語空間-『形而上学』第一巻第一章〜第三章」では、知ることを本性上求める人間が追求するその知とは、存在をめぐる真理の洞察の謂であって、すべてのものが単純にそこで消え去る消滅点の探究であり、また世界と人間全体の根拠を知ろうとする衝迫であることが論じられ、ことばの途絶える極点としてのそれが実は哲学のことばが誕生する生起点でもあることが指摘される。六章「中間者の現実-アリストテレスの視点から」では、真理を無条件な全体として探究するこのような哲学が人間にとって不可能性として存在していることを見据えつつも、にもかかわらず無限大と無限小の中間に位置する人間にとって自己が宇宙の揺るぐことのない中心であり、全宇宙のエネルギーはこの人間に惜しみなく注がれており、みずからを虚焦点として存在全体の意味と根拠を探究しうることが、エネルゲイア論を踏まえて主張される。七章「「一」と現実-アリストテレスからの接近」では、アリストテレスの動物研究が種としての動物それぞれを局所的に「一」なる全体として浮かび上がらせる試みであることが示され、一方人間に関しては通約も還元も不可能な一である自律的個体が結集することによって民主的な理想国家の可能性が説かれたことが指摘される。しかし、一たる自由な個人の実現は、かえって一という現実に人間が耐ええず、つねに多へと解消する性向が人間存在の根本にある逆説的事実が洞察される。八章「人間とこれを超えるもの-ギリシア哲学からの前途瞥見」では、これまでの議論を踏まえ、真理が隠れているから人間は自由にふるまえるのであり、そこに人間の学としての倫理学が成立することが論じられるが、にもかかわらず善悪未生の全体の観照によってこそ人間はほんとうの人間となりうる、人間は人間を超えてこそ人間となりうる、とするアリストテレスの哲学の真髄が探究される。

 本論文は、以上のように古代ギリシア哲学を智への愛である哲学ならしめたものが何であるかをプラトンとアリストテレスの著作をきわめて精緻にかつ柔軟に読み解き読みほぐすことによって具体的に明らかにしたものであり、独創的な知見を随所に示しつつ、従来にないまったく新しい古典文献学的理解と解釈を提示しており、哲学することとはどういうことかを如実に実践している論といえる。したがって、本論文はプラトンやアリストテレス思想の祖述にとどまる単なる思想解説などではなく、これらの哲学者がまさに目指したところのものを今という場において哲学的にさらに推し進めていく知のダイナミズムに溢れており、学界に多大な寄与をする画期的な論攷と高く評価できる。また、生と死の問題を正面から取り上げ、しかもそれをヴィトゲンシュタインなどの現代哲学ばかりではなく、日本や中国の詩文をも数多くかつ的確に引用しながら実存的に深め探究した清新な構築にみちあふれており、まさに思索の原点へと立ち返らせる得がたい書となっている。さらに、哲学を狭い個人の思索に閉じ込めず、哲学する個を広く公共空間のなかへ披かしめようとする積極的な姿勢はいわゆる公共哲学への道筋を時代に先駆けて示しており、氏の哲学的思索の深さと幅広さを如実に現わしているといえる。

 なお、本論文に対し、将来的な展望も含めて次のような問題が審査委員から提示され応答された。第一に、人間存在の中心にあるとされたロゴスを病気その他なんらかの理由で欠損した人間に対してギリシア哲学はどのような態度をとるのかという疑問点に関しては、ギリシア哲学では実践的生による判断ではなく、むしろ観照的な生による判断が人間にとって本質的な意義をもつと考えられており、そこに現代にとって積極的な意義が存することが確認された。第二に、本論文には聖書から比較的多くの引用が見られるがキリスト教の問題はギリシア哲学とどう結びついているのかという指摘がなされ、これに対してはイエスという人格の特異性の重要さが確認された。また、個体ないし個人がポジティヴにとらえられすぎているきらいがあるのではないか、という指摘もあった。しかし、本論文が、学界に画期的な学問的貢献をすることは確かであり、指摘された箇所は本論文の暇瑾とするにあたらないというのが審査委員全員の意見であった。

 したがって、本審査委員会は、全員一致して、本論文を博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

UTokyo Repositoryリンク