学位論文要旨



No 215576
著者(漢字) 中村,康則
著者(英字)
著者(カナ) ナカムラ,ヤスノリ
標題(和) Lactobacillus helveticus発酵乳の血圧降下ペプチドに関する研究
標題(洋)
報告番号 215576
報告番号 乙15576
学位授与日 2003.03.03
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第15576号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 上野川,修一
 東京大学 教授 大久保,明
 東京大学 教授 清水,誠
 東京大学 教授 田之倉,優
 東京大学 助教授 八村,敏志
内容要旨 要旨を表示する

 Lactobacillus helveticus発酵乳の血圧降下ペプチドに関する研究

 食品蛋白に由来する機能性ペプチドが多く知られているが、中でも乳蛋白を原料とした報告は多く、機能性ペプチドの潜在性が高い素材と言える。乳蛋白の酵素分解物より見出された、生理機能の異なる、いくつものペプチドが報告されている。しかし、食品中から見出した例は少ない。乳酸菌Lactobacillus helveticusで発酵して出来る発酵乳を、自然発症高血圧ラット(SHR)へ経口投与すると、血圧を降下させることが報告されている。また、L. helveticusは、他の乳酸菌にくらべ蛋白分解活性が強く、多くのペプチド、アミノ酸を乳中に産生する。L. helveticusで調整した発酵乳には、アンジオテンシン変換酵素(ACE)阻害活性が認められることから、ACE阻害ペプチドの存在が推察された。しかし、これまでに、発酵乳からACE阻害ペプチドを見出し、さらにin vivoの効果、作用機序を検討し、発酵乳そのものがヒトにおいて実用性があるかどうかを評価した報告はない。

 そこで、本研究では、まず第一に、L. helveticus発酵乳中のACE阻害ペプチドの精製と同定を行った。さらに、特定したペプチドが血圧降下作用を発揮するか検討し、ペプチドがどのような機序により発酵中に生成されるのか検討した。第二に、L. helveticus発酵乳の血圧降下作用を理論的に説明するために、発酵乳を摂取したSHRラットの組織ACE活性の変化を調べ、さらに、その変化がACE阻害ペプチドによるものか検討した。第三に、実用化できるものであるか否かを明らかにするためL. helveticus発酵乳がヒトで効果を発揮するかどうか検討した。

 ACEは、10個のアミノ酸より成るアンジオテンシンIのC末端His-Leuを除去し、血圧上昇ペプチドであるアンジオテンシンIIの生成を触媒するカルボキシジジペプチダーゼである。生体の血圧調節において、昇圧に働くレニン・アンジオテンシン系に位置する酵素である。L. helveticusで乳を発酵する過程で、ACE阻害活性は、対数増殖期後期から安定期にかけて顕著に上昇した。ACE阻害活性を指標に、逆相系およびゲル濾過カラムを用いた4ステップのHPLC操作により2種のピークを単離した。発酵乳中のACE阻害活性の大半が両ピークに起因し、2つのピークから全体の74.4%に相当する活性を回収した。ピークIのアミノ酸組成は、Valが1に対しPro2.03であり、さらに配列分析の結果から、Val-Pro-Proであることが判明した。同様に、ピークIIは、Ile-Pro-Proと同定された。

 SHRラットに対してL. helveticus発酵乳、VPPおよびIPPペプチドを、それぞれACE阻害活性で等しい量(ラット体重1kgあたり発酵乳5ml、VPP0.6mg、IPP0.3mg)を経口投与し血圧をモニターした結果、同程度に投与後数時間にわたり血圧降下を観察した(図1)。

 また、両ペプチドをラット体重1kgあたり5mgまで投与した時の血圧降下作用は、用量依存的であった。これらの結果から、VPPおよびIPPが、L. helveticus発酵乳の血圧降下作用において重要な役割を担っていると考えられた。一方、体重あたり10mgのVPPとIPPの混合物を、正常血圧を示すWistar-Kyotoラット(WKYラット)に投与したが、血圧には影響を与えなかった。よって、VPPおよびIPPの血圧降下作用は、高血圧の状態に対して特異的に作用すると考えられた。

 βカゼインのN末端側84-86番目にIPP、74-76番目にVPPが存在し、κカゼインのN末端側108-110番目にIPPが存在した。L. helveticusの細胞壁結合型プロテイナーゼは、αおよびβカゼインを分解するが、κカゼインを分解しにくい酵素であることから、両ペプチドは、βカゼインに由来すると考えられた。しかしながら、VPPとIPPは1:1で乳中に生成せず、常にVPPが多く、IPPは少なかった。L.helveticusの酵素系を解析した結果、細胞壁結合型プロテイナーゼの分解により生成するペプチド断片(f74-97)に、さらに未知のエンド型酵素、アミノペプチダーゼおよびX-プロリルジペプチジルアミノペプチダーゼが作用しVPR, IPPが生成すると推察された。また、ペプチド断片(f74-97)には、細胞壁結合型プロテイナーゼの切断点がもう1箇所あり、エンド型酵素が作用する前に切断を受けるとIPPまでの分解が進まなくなり、これによってIPP生成量は制限を受けていると考えられた。

 ACEは、様々な組織の血管内皮細胞中に存在する。そこで、L.helveticus発酵乳をSHRラットに与え飼育し血圧が低下した23週齢に、組織ACE活性を測定した結果、大動脈ACE活性が有意に半減することが判明した(図2)。

 SHRラットとWKYラットの各組織ACE活性を比較すると、SHRラットの大動脈ACE活性が約10倍亢進しており、本部位のACE活性の阻害が、L.helveticus発酵乳の血圧降下作用に重要な役割を果たしていると考えられた。発酵乳を投与したSHRラットの腹部大動脈の抽出物から、数種類のカラムクロマトグラフィーを行い、2種類のピークを検出した。一方、同ラットの血清をはじめ他の組織からはピークを検出しなかった。アミノ酸組成および配列分析の結果、2種のピークは、Val-Pro-ProおよびIle-Pro-Proと同定された。一般にProを着するペプチドは、ペプチダーゼ等の酵素分解をうけにくい。低分子ペプチドは、アミノ酸や長めのオリゴペプチドに比べ小腸において、より吸収されやすいことが報告されている。よって、経口摂取されたVPPおよびIPPペプチドは、消化酵素による分解をうけず、吸収され、インタクトな形で大動脈に到達し、ACE活性を減少させたと考えられた。

 これまでの結果より、ヒト高血圧患者が高血圧の予防・改善のために、L. helveticus発酵乳を食生活に取り入れることは効果的であると考えられた。そこで、降圧剤を服用しない軽症および中等症高血圧者(収縮期血圧140〜179mmHgおよび拡張期血圧90〜109mmHg)32名を対象として、L. helveticus発酵乳を摂取した時における有用性を検討した。その結果、L. helveticus発酵乳を摂取した群の収縮期血圧は、開始時に比べ摂取2週後に10,3mmHg、摂取4週後には12.5mmHg降下し、摂取した8週後まで持続した(図3)。一方、プラセボ群の収縮期血圧に大きな変化はみられず、摂取期間中の収縮期血圧において両群間に有意な差を認めた。拡張期血圧についても同様の傾向が観察された。

 以上、本研究をまとめると、L. helveticus発酵乳中より2種のACE阻害ペプチドVal-Pro-Pro, Ile-Pro-Proを単離・同定し、両ペプチドがSHRラットヘの経口投与で血圧降下作用を示すことを明かにした。L. helveticus発酵乳を摂取したSHRラットの大動脈ACE活性が減少し血圧が降下することを明かにし、さらに同部位よりVal-Pro-Pro、 Ile-Pro-Proペプチドを検出した。両ペプチドは、経口投与しても消化管内で消失することなく体内へ吸収され効果を発揮していると推察した。軽症および中等症高血圧者32名を対象とし、プラセボを対照としたダブルブラインド2群比較試験を実施した結果、L. helveticus発酵乳を摂取した群では、収縮期および拡張期血圧に有意な降下を認め、L. helveticus発酵乳が実用化できる食品であることを明かにした。

図1.SHRラットヘペプチドを経口投与した時の血圧変化

図2.L.helveticus発酵乳を投与したSHRラットの組織ACE活性

図3.L.helveticus発酵乳を摂取した軽症および中等症高血圧者の収縮期血圧(A)および拡張期血圧(B)の変化

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、Lactobacillus helveticus発酵乳の血圧降下ペプチドに関するもので、序論につづく三章よりなる。

 乳酸菌L. helveticusで発酵して出来る発酵乳に、血圧降下作用があることが動物実験で報告されヒトヘの応用が期待されている。しかし、成分の特定、作用機序といった一連の関連付けには至っていない。L. helveticus発酵乳には、アンジオテンシン変換酵素(ACE)阻害活性が検出されている。申請者は、この点に着目し、L. helveticus発酵乳の血圧降下作用とACE阻害ペプチドの関係について明らかにし、ヒトに応用できる食品であるかどうかを評価することを目的として以下の研究を行った。

 序論で、これまでに報告されている乳酸菌・発酵乳の血圧降下作用に関する研究ならびに本研究の背景と意義について言及した後、第一章ではL. helveticus発酵乳に含まれるACE阻害ペプチドについて言及している。まず、L. helveticusで乳を発酵する過程で、ACE阻害活性が対数増雅期後期から顕著に上昇することを明らかにした。ACE阻害活性を指標に、4ステップのHPLC操作により2種のピークを単離し、Val-Pro-Pro(VPP)及びIle-Pro-Pro(IPP)と同定した。発酵乳中のACE阻害活性の約75%は両物質に起因した。自然発症高血圧ラット(SHR)に対してL. helveticus発酵乳、VPPおよびIPPペプチドを、それぞれACE阻害活性で等しい量を経口投与した結果、同程度に投与後数時間にわたり血圧降下を示すことを明らかにした。さらに、両ペプチドはSHRラットに対して用量依存的な血圧低下を示すが、正常血圧を示すWistar-Kyotoラット(WKYラット)に対しては、血圧に影響を与えないことを明らかにした。また、両ペプチドの生成経路に関する検討の結果、細胞壁結合型プロテイナーゼによりβカゼインが分解を受け生成するVPP,IPPを含有するペプチド断片に、さらに未知のエンド型酵素、アミノペプチダーゼ及びX-プロリルジペプチジルアミノペプチダーゼが作用しVPP,IPPが生成すると考えられた。

 第二章では、VPP、IPPの作用機序について述べている。SHRラットとWKYラットの各組織ACE活性を比較すると、SHRラットの腹部木動脈ACE活性が約10倍亢進していることを明らかにした。L. helveticus発酵乳を投与したSHRラットでは、本部位のACE活性が有意に減少し、他の部位におけるACE活性には影響がなかった。L. helveticus発酵乳の血圧降下作用は、亢進する腹部大動脈ACE活性を阻害することにより起こると考えられた。発酵乳を投与したSHRラットの腹部大動脈の抽出物から、数種類のカラムクロマトグラフィーを行い、2種類のピークを検出し、VPP及びIPPと同定した。以上の結果より、経口摂取されたVPPおよびIPPペプチドが、消化酵素による分解をうけず、一部がインタクトな形で吸収され腹部大動脈に到達し、ACE活性を減少させ血圧降下に寄与することを明らかにした。

 第三章では、ヒト高血圧者に対するVPP及びIPPを含有するL. helveticus発酵乳の効果について述べている。降圧剤を服用しない高血圧者(収縮期血圧140〜179mmHgおよび拡張期血圧90〜109mmHg)32名を対象として、L. helveticus発酵乳を摂取した時における有用性を検討した。その結果、L. helveticus発酵乳を摂取した群の収縮期血圧は、開始時に比べ摂取2週後に10.3mmHg、摂取4週後には12.5mmHg降下し、摂取した8週後まで持続した。一方、プラセボ群の収縮期血圧に大きな変化はみられず、摂取期間中の収縮期血圧において両群間に有意な差を認めた。拡張期血圧についても同様の傾向が観察された。

 以上、本論文は、L. helveticus発酵乳中より2種のACE阻害ペプチドVPP及びIPPを単離・同定し、両ペプチドが発酵乳の血圧降下作用に中心的に働くことを示すと共に、その機序として両ペプチドが消化管内で消失することなく体内へ吸収され腹部大動脈ACE活性を減少させることを明らかにし、さらには、両ペプチドを含む発酵乳がヒト高血圧者において効果的であることを実証することに成功したものであって、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって、審査員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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