学位論文要旨



No 215578
著者(漢字) 西川,芳昭
著者(英字)
著者(カナ) ニシカワ,ヨシアキ
標題(和) 作物遺伝資源の管理と参加型開発 : 農業における生物多様性問題と技術協カ
標題(洋)
報告番号 215578
報告番号 乙15578
学位授与日 2003.03.03
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第15578号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大賀,圭治
 東京大学 教授 杉山,信男
 東京大学 教授 黒倉,壽
 東京大学 助教授 川島,博之
 東京大学 助教授 木南,章
内容要旨 要旨を表示する

 作物遺伝資源は農業における生物多様性を構成する重要な要素であり、人類の歴史とともに利用されてきたが、近年開発の進行に伴い消失の危機にさらされている。1992年に合意された生物多様性条約では、利用することを通じて生物多様性を保全し、その利益を衡平に配分するという概念が取り入れられた。2001年に合意されたFAOによる食糧農業のための植物遺伝資源条約においても、世界中で相互依存性の高い作物遺伝資源の利用促進と利益配分が重要な目的とされている。作物遺伝資源の場合、産業としての農業による生産性の向上と生産の増大を追求する利用と、途上国の大多数の農民や先進国の条件不利地におけるような生業的な農業による利用とに大きく分けられる。作物遺伝資源を利用した農業・農村開発を行うためには、持続可能な開発の枠組みの中で保全と利用が結合した管理を地域内外のステークホールダーが参画できる具体的なしくみを創りだす事が重要である。

 わが国の実施する政府開発援助は、長年にわたって世界一の規模で行われ、作物遺伝資源に関する協力は、農業生産に関する開発・研究協力の主要テーマの一つとなっている。国際的な食糧・農業協力における理念は、従来は国全体の経済成長の成果が食糧・栄養面を含めた住民の生活水準の向上をもたらすという見方であったが、昨今は「人間中心の開発」を「住民参加型」によって進めることによって食糧安全保障の達成を図っていくことが重要であり、そのために各国が協調すべきであるという考え方に変わってきている。

 本研究では、このような背景を踏まえて、作物遺伝資源を中心とした農業における生物多様性の管理を、参加型開発と結びつけ、開発途上国の社会開発、特に農民の人間開発を実現させる国際技術協力の新しい方策を提案した。特に、地域で実践されている作物遺伝資源管理およびそれらに対する外部からの介入としての国際技術協力を、作物遺伝資源の保全・利用・利益配分に関するグローバルシステムの中で、非金銭的利益配分として位置づける可能性を仮説として提案し、事例分析を通して実証した。

 参加型開発は、ともすればもっぱら事業実施の効率化のために利用されたり、理念として述べられたりするだけで、参加する各アクターに対する具体的な開発の効果が評価されない場合も多い。作物遺伝資源管理における参加型開発は、具体的な資源に対する農民やその他のステークホールダーの関わり方が変化することで質的な評価が可能である。本論文では、作物遺伝資源の管理に関して多様な組織の参加の形態について、「農民やその他のステークホールダーがどのように多様性の管理に参画できるか」を評価の基準にした。フィールド調査による質的情報の収集と分析を中心に、それぞれのしくみが具体的にどのように参加を促しているかを明らかにした。

 まず、各国の生物多様性戦略の中で科学者が作物遺伝資源をどのように利用しようとしているかが、実際の事業実施のしくみに大きな影響を与えていることが示された。具体的には、研究所中心の商業的利用、国連資金の導入による生態系保全、NGOによる農民参加による地域での利用等の事例が明らかになった。

 第二に、農民による利用を通じた参加型により作物遺伝資源管理と農村開発を促進する多様な介在組織の存在が明らかになった。

 アイルランドのシードセイバーズは、会員組織の市民団体として、地域内の失われつつある遺伝資源の収集保全を行うと同時に、すでに地域から失われた遺伝資源をジーンバンクから再導入し、増殖と配布を行っている。参加するメンバーの自発性および自律性、専門技術および資金調達の多様性、教育・啓発との統合、政府事業との多様な関係がNPOとしての介在組織の特色として明らかにされた。

 広島県農業ジーンバンクの例からは、近代的育種を念頭においたインフラ施設が、地域農民と直接連携する機会が与えられたときに、地方品種の地域内における新しい利活用に貢献できることが明らかにされた。ジーンバンクの施設が存在し、農民とジーンバンクを介在する普及員OBや農協が参加することによって参加型遺伝資源管理が実現している。農民が自家採種する能力を復活したことも特筆すべきであろう。その際に、農業以外の栄養士会のようなアクターまでを参加に巻き込み連携を行った工夫は特に評価できる。

 第三に、植物遺伝資源に関する国際技術協力の主要な実施機関であるドイツ技術協力公社(GTZ)と我が国の国際協力事業団(JICA)が実施する協力の内容を比較分析し、特にGTZが参加型開発の手法を具体的に取り入れていることを示した。

 ドイツは、従来のジーンバンクのインフラ整備中心の協力から、多様なステークホールダーのインセンティブを利用した参加型の農業農村開発へと、その戦略を転換させている。このステークホールダーは農民と研究者のほか、政治家や消費者までを含むすべての遺伝資源に関わる者となっている。さらに、従来の多投入のいわゆる近代農業に対する代替的農業開発の手段としての生物多様性利用も積極的に行われつつある。

 GTZの実施体制として二つの点が注目に値する。第一は、セクター別の専門部署において遺伝資源の専門担当者を置いており、彼女たちが地域別部署の実施する個別農業・農村開発プロジェクトの種子・遺伝資源関係の情報を一括整理し、また参加型開発や遺伝資源管理に関する国際的な動向や個別プロジェクトから蓄積されたノウハウを個別プロジェクトに還元している。第二は、プロジェクトの運営にあたっては生物科学の研究者・技術者がイニシアティブを取るのではなく、開発の専門家がファシリテーターとして採用されている。開発専門家が活躍する場の少ない日本と比較して、技術協力の考え方に対する日独の根本的な違いがここに現れている。

 参加型開発を取り入れることによって、従来は科学者が中心になって実施してきた遺伝資源管理事業に、農民が単なる受益者としてではなく、協働の参画者として加わるようになった。また、科学技術の卓越性が無条件に受け入れられる前提から、農民の知恵や価値の把握の重要性が外部からの介入者にも理解されるようになった。これは開発におけるパラダイムの転換である。

 JICAの技術協力も先進国である我が国から開発途上国への単なる科学技術の移転を行う協力から、途上国の人材や組織・機関の能力向上を協力目標に掲げる協カへと変化している。しかしながら、ドイツが実施しているような、関係する利害関係者(ステークホールダー)が、自発的に開発に参与する力をつけさせる協力は、我が国の作物遺伝資源に関する技術協力にはまだ見られない。

 これは、JICAの協力が、相手国政府機関との合意文書に基づき、公的機関のカウンターパートに技術移転をするというシステムに起因する限界かも知れないが、一方では農村開発調査では参加型開発の考え方が浸透しつつある。さらに、地方自治体やNGOとの連携も始まっている。JICAが持ちつつあるこのようなノウハウを作物遺伝資源管理という研究色が強いと認識されている分野にどう応用するかが問われており、GTZから学ぶことが多い。

 最後に、これらの分析に基づいて現在構築されつつあるグローバルシステムの中で、開発途上地域や条件不利地における農業・農村開発において農民のエンパワーメントを通じた作物遺伝資源の利用による非金銭的利益配分を実現する技術協力のあり方を提言した。

 グローバルシステムを実現するには、オプション価値を重視するような従来のジーンバンクと近代育種による金銭的利益配分と、農民が自らの意思で必要な作物の遺伝資源の利用ができるようなローカルなプロジェクトをファシリテートする非金銭的利益配分である技術協力との両方が必要である。そして、これらを並存させるためにも橋渡しを行う組織制度の整備が各国内部でもまた国際協力の場でも求められる。ドイツが実施している技術協力のあり方はこのような取り組みへの出発点と考えられる。

 本研究は一貫して質的情報の分析に基づいて新しい組織制度のあり方と、その確立のための技術協力の手法を参加型開発との関連で議論した。実際のプロジェクトの実施においては、OECD等による評価基準を満たす必要があり、財務経済的な持続可能性を担保するためにはさらなる数値的な分析も求められる。また、参加または合意にかかるコストは決して小さいとは言えず、参加による便益に関しての数値的な分析も必要である。しかし、本論における事例分析では、社会開発を通じた個人やコミュニティのエンパワーメントを希求し、農業・農村開発や住民の福祉の向上を目指すときには、その結果を地域ごとに展開されるプロジェクトにおける対応の具体的な形として示すことが重要であることを明らかにしている。

 今後開発途上国を始め、先進国を含めた条件不利地等において参加型の作物遺伝資源管理が展開されるには、本論文で明らかにした多様な価値把握とそれらを利用した多様な組織制度のしくみ、ステークホールダーの参加を促す方法等を、研究者・援助実施者等外部から介入する関係者が明確に理解したうえで事業を実施することが必要である。

審査要旨 要旨を表示する

 西川芳昭氏の博士候補論文は、最新の開発学の思想である人間開発、参加型開発の視点から、作物遺伝資源の管理に関する組織制度および開発協力の現状とあるべき方向について論じたものであり、植物遺伝資源の生物学的な特色とその価値についての環境経済学の議論を踏まえて、これまで理念または手法論で語られることが多かった参加型開発を、作物遺伝資源という具体的な事例を用いて分析している。

 本論文の具体的な特色ないし新規性は以下の通りである。

 第1に、植物遺伝資源の保全、利用について、今後の世界的な枠組みのあり方という観点から、国内外の新しい管理の組織制度確立の試みを豊富なフィールド事例調査と文献調査をもとに丁寧に分析し、論じている。

 特にドイツと日本の生物多様性の保全のための技術協力の比較では、ドイツの国際協力プロジェクトでは生物科学の研究者に加えて社会開発の専門家も多く参画し、参加型開発に意識的に取り組んでいる実態を分析し、遺伝資源管理事業に農民が単なる受益者としてではなく、協働の参画者として加わり、農民の知恵や価値の把握を開発協力に組み込むという、いわば「開発におけるパラダイムの転換」が実現していることを明らかにしている。

 第2に、植物遺伝資源の所有権限(オーナーシップ)に対する見方のユニークさである。植物遺伝資源については、その所有権限のあり方について市場原理主義的立場からの議論と、それを公共財あるいは「人類共有の財産」であるとする議論が理念的に真っ向から対立している中で、西川論文は、生物多様性条約が認める国家主権やWTOよる品種や遺伝情報の個人による所有が現実に存在していることを踏まえた上で、農民のオーナーシップを拡大できる管理のための現実的な組織制度のあり方について具体例を挙げて論じている。

 論文では、農民参加型の作物遺伝資源の保全・利用分野の国際技術協力を、作物遺伝資源に関するグローバルシステムの中における、非金銭的利益配分として位置づけたうえで、作物遺伝資源管理における利益配分では、従来からのオプション価値を重視する近代育種による品種開発に基づくジーンバンク施設を通じた金銭的利益配分システムと併せて、農民が自らの意思で必要な作物の遺伝資源の利用ができるような非金銭的利益配分システムの二つのシステムの共存が可能であり、かつ必要であることを世界各国の豊富な事例分析により、説得的に展開している。

 第3は農村開発の現場での実践の視点である。ドイツのGTZおよび日本のJICAや各国のNGOなど遺伝資源の保全、利用事業実施組織の戦略を詳細に分析し、今後の事業のあり方や連携・協働のあり方の方向を示している。

 特に、日本のJICAによる技術協力では、開発途上国への単なる科学技術の移転から、途上国の人材や組織・機関の能力向上を協力目標に掲げる方向へと変化はしてきているが、ドイツが実施しているような、関係する利害関係者(ステークホールダー)が、自発的に開発に参与する力をつけさせる協力はまだ行われていないことを、日独の比較分析を通じて明らかにし、今後の開発協力事業のあり方を示唆している。

 第4は多様性の利用の側面である育種について、近代的な政府主導的な育種制度の現実を踏まえた上で、先進国における有機農業における植物遺伝資源利用や途上国、先進国双方における農民の参加による植物多様性の管理を結び付けた新しいあり方を分析している。

 以上のように、本論文は参加型開発の哲学からのあるべき姿、あるいは理想論を掲げつつ、現存する世界の組織制度の発展形態として近未来の農業における生物多様性の管理のあり方を提言しており、国際開発学、国際環境経済学に期待される学会・社会への貢献するものと評価できる。

 なお、本論文は、学会誌等掲載の英文論文2篇、邦文論文4編の内容を展開するとともに、著書1冊の内容のエッセンスをまとめたものであり、これらの研究成果は日本国際地域開発学会、日本熱帯農業学会等ですでに評価が確立していると認められる。

 したがって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/51212