学位論文要旨



No 215596
著者(漢字) 土谷,恵
著者(英字)
著者(カナ) ツチヤ,メグミ
標題(和) 中世寺院の社会と芸能
標題(洋)
報告番号 215596
報告番号 乙15596
学位授与日 2003.03.12
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第15596号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 五味,文彦
 東京大学 教授 村井,章介
 東京大学 教授 佐藤,信
 東京大学 教授 末木,文美士
 史料編纂所 教授 近藤,成一
内容要旨 要旨を表示する

 中世の社会における寺院の存在は大きく、中世の社会は寺院を除いては語れない。

 本論文は、中世社会において重要な位置を占めていた寺院社会の多様性をとらえ、その実像を明らかにすることを目的として、寺院の組織構造を探ることを第一のテーマとし、寺院社会における諸階層の一部を明らかにすることと、中世寺院によって担われた芸能を明らかにすることを第二のテーマとしたものである。具体的には、第一のテーマでは、醍醐寺をとりあげてその組織構造の特質を探り、第二のテーマでは、寺院の諸階層のうち、童の存在に注目してその存在形態を探り、童によって担われた舞楽(童舞)を中心に、中世寺院における芸能のあり方を明らかにしようとしたものである。

 このうち第一のテーマでは、今までの寺院史研究の成果に大きな影響を受けている。寺院史研究といえば、黒田俊雄氏が1963年に「権門体制論」を、1975年に「顕密体制論」と「寺社勢力論」を発表されて以来、飛躍的に発展してきた分野であるが、本論文は先行する多くの寺院史研究のうち、ことに東大寺に関する稲葉伸道氏・永村眞氏・久野修義氏の研究に多くを学んでいる。

 本論文第一部「醍醐寺の組織と社会」では、これらの研究に触発されて、今までに研究の少なかった醍醐寺を対象に選び、その組織構造を探っている。醍醐寺の組織構造について検討することは、個別寺院の組織構造の解明にとどまらぬ問題を含んでいると考える。醍醐寺の長官は座主だが、中世の醍醐座主は東大寺別当や東寺長者を兼任し、法流の上でも醍醐寺は真言宗小野流の中核にあったからである。さらに醍醐寺には700余函の文書・記録・聖教類が伝来しており、そのすべてを活用できる状況にはないが、現在までに醍醐寺によって調査と所蔵史料のデータベース化が進められており、研究の条件は整い始めている。

 そこで本論文第一部第一章「中世初頭の醍醐寺と座主職」では、醍醐寺に伝来する史料を可能な限り活用して、中世初頭の座主職について、師資相伝という特質を探った。そして康治2年の定海譲状から座主の権限を検討し、座主房たる三宝院の構造を、経蔵と宝蔵という二つの蔵の存在から探り、座主と子院の関係についても検討した。そこで浮かび上がってきたのは、東大寺と異なる醍醐寺の特質が、座主房の性格と構造にあり、座主と三綱らの寺官組織との関係にあるということであった。

 次いで第二章「房政所と寺家政所-十二世紀前半の醍醐寺と東大寺-」では、十二世紀前半の醍醐寺検校であった定海房三宝院の構造を考察した。これは稲葉伸道氏・永村眞氏・久野修義氏の東大寺の研究に触発されて書いたもので、具体的には、東大寺別当・東寺一長者を兼任していた定海の寺務兼任の体制と定海房三宝院の構造を、醍醐寺・東大寺に伝わる史料をもとに、定海房に仕えた醍醐寺・東大寺・東寺の僧の存在とその活動から検討したものである。

 第三章「座主房の組織と運営-中世前期の醍醐寺三宝院-」は、第一章と第二章を受けて、三宝院の構造をさらに探ったものである。三宝院は醍醐寺を代表する子院であり、中世前期には代々の座主房として継承されてきた。その座主房三宝院の構造を、座主房方の「年中行事」を主な史料として、座主房の構成員とその諸階層、房政所と御厨子所という房の家政機関、家政機関の場と空間、座主成賢による座主房組織の再編などを検討したものである。そこで浮かび上がってきたのは、座主房のメンバーと家政機関のあり方の具体相であり、貴族の家の家政機関との共通性や房の独自性であった。

 以上の三篇は、醍醐寺の組織と構造のうち、座主職と座主房三宝院の構造を主に明らかにしたものであり、醍醐寺の組織全般に及ぶものではないが、座主房の構成員の名称と諸階層、家政機関の存在は、他寺の寺務の房や門跡寺院の門主の房にも共通する要素であり、その具体相を描いたことは、中世寺院の組織構造を考察する上で重要な意味を持つと考える。

 次いで第二のテーマのうち、童の存在形態について考察したのが第二部「中世寺院の童と芸能」のうちの第四章「中世寺院の童と兒」である。この論文は、1980年代に発展してきた中世史における童研究を前提としたものであり、黒田日出男氏や網野善彦氏の絵画史料の分析を中心とした研究に大きく影響を受けたものである。そして、今までの研究が童の呼称や存在形態を充分に明らかにしないままに、童の聖性を強調することに疑問を持ち、絵画史料に説話や寺院史料という様々な史料を繋ぎ合わせて行く方法をとりながら、中世寺院の童の存在形態を具体的に明らかにし、その役割や本質を探っていったものである。寺院史料に見る童たちの代表は、兒・中童子・大童子であった。彼らは僧に仕え、房や院家に所属する存在であり、その分類は出自に基づくものであった。大童子が大人になっても童姿のままで奉仕することを余儀なくされた背後には、童の階層分化があったのである。これらの寺院童の諸階層の分析については、先に第三章において検討した座主房の構成員と諸階層についての関心を出発点としている。

 次いで中世寺院の童によって担われた芸能をとりあげたのが第二部の第五章から第八章である。それは第四章「中世寺院の童と兒」を受けて、中世寺院の童研究の一環として書いたものであり、芸能史研究に触発されたものである。従来の芸能史研究は、寺院における法会について、それ自体を芸能ととらえ、寺院が法会を通して様々な芸能を開花させてきたことを指摘してきた。その一方で、寺院における芸能としてこれまでに注目されてきたのは、修正会・修二会の芸能や延年などであり、中世寺院における舞楽については、四天王寺を除いては注目されてこなかった。本論文は、それらの先行研究に対し、中世初頭の舞楽の世界を寺院の側から考察し、中世初頭が舞楽にとってどのような時代であったのかを具体的に跡付けたものである。そして舞楽の中でも童によって担われた童舞に注目し、中世寺院の童舞の世界を文献史料や絵画史料から明らかにしたものである。童舞については、これまでに専論は少なく、その実像は明らかではなかった。それを寺院の法会の中でとらえ、芸能史上における位置付けを考えたのが第五章から第八章に至る論文である。

 第五章「中世醍醐寺の桜会」は、醍醐寺の年中行事法会である桜会(清瀧会)の全体像を、醍醐寺に伝来する史料から明らかにしようとしたものであるが、主たる関心は、鎌倉時代の説話や絵巻にも見える桜会の童舞にある。童舞を桜会という法会の中でとらえ、童舞の法会における位置とその本質を探ったものである。そして中世前期の寺院の芸能の花は童舞であり、中世前期は寺院の芸能にとって童舞の時代であったことを論じている。

 第六章「中世寺院の兒と童舞」は、第四章「中世寺院の童と兒」と第五章「中世醍醐寺の桜会」を受けて、男色の視点から兒と童舞をとらえなおしたものである。

 第七章「舞楽の中世」は、今までの研究によって衰退期ととらえられてきた十二世紀初頭以降の舞楽について考察したもので、舞楽にとって中世初頭がどのような時代であったのかを史料から具体的に跡付けたものである。まず先例の舞楽として、堂塔供養の大法会における舞楽を探り、次いで十二世紀半ばに崇徳院の周辺に見られた新儀の舞楽の存在を指摘する。そして舞楽の中世は寺院によってもたらされたものであり、その中心は寺院年中行事の舞楽法要であり、その中の新たな童舞であったことを指摘している。

 第八章「慈円の童舞」は、慈円に率いられた童舞について、その実像を検討したものであり、あわせて天台系寺院の童舞について探ったものである。

 以上の第六章から第八章に至る論文では、中世初頭は、芸能の世界では童舞の時代とも呼びうるものであり、今までに舞楽の衰退期ととらえられてきた十二世紀前半以降は、実は大寺杜を中心とした舞楽の隆盛期であり、その花が童舞であったことを指摘している。

 第九章は、絵巻物の中に童の舞う姿を探し、それを手がかりに天童と呼ばれた童たちの姿を探し、さらに持幡童の肖像とその原像を仏画や文献史料の中に探ったものである。絵巻物から仏画の世界に童の姿を求めた論文であり、これも中世寺院の童と芸能の研究の一環として書いたものである。

 以上の第一部・第二部を合わせて、本論文が全体としてめざすところは、これまでの寺院史研究に童の社会史、芸能史研究の視点をいれた、寺院社会に関する社会生活史であり、寺院社会の多様性とその実像を具体的に明らかにすることをめざしている。本論文のキーワードは、醍醐寺・童・芸能であり、いずれも先行研究の豊かな部分の研究ではない。史料に基づいてそれぞれの実像を解き明かすことに興味があり、かつそのことに目的をおいた論文であり、新たな史料と視点から中世の寺院社会と芸能をとらえることを試みたものである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は日本中世の寺院社会の構造を明らかにするとともに、その寺院社会を舞台とする芸能の在り方を究明している。中世の寺院社会は中世社会の縮図ともいえる存在だが、極めて複雑であるとともに、関連する書籍や史料が大量に残されていることもあって、解明は容易に進まなかった。

 それは宗教史研究が教学・宗派の析究を中心に進められてきたことにもよろうが、そうしたなかで黒囲俊雄氏や網野善彦氏らが寺院の制度や組織構造の研究の意義を説いて以来、飛躍的に研究が進められるようになってきている。土谷氏はその研究の動向に基づいて、醍醐寺を対象に、寺院社会を構成する諸階層の存在形態、ならびに寺院社会で担われた芸能の実態を明らかにすることを本論文で目指している。

 全体は二部九章からなり、第一部は醍醐寺の組織と社会の姿を、史料を丹念に読みこんで明らかにしている。第一章では、醍醐寺の頂点にあった座主について、その師資相伝の在り方を指摘した上で、座主が拠点とした房である三宝院の構造を明らかにしている。

 続く第二章では、その座主房の構成と醍醐寺の寺家の政所の構成との違いを明らかにしつつ、寺院社会の複雑な制度と人間関係を鋭く指摘している。そして第三章では、座主房の組織と運営を人的関係や空間構成から描き出している。

 以上の第一部の分析によって、これまで不明な部分の多かった醍醐寺の寺院構造が明らかにされ、東大寺や東寺などを対象にして進められてきた寺院研究に新知見を追加するとともに、今後の寺院史研究において確かなる地歩を築いた点でも高く評価される。

 第二部は、寺院社会の芸能の重要な担い手であった童の存在形態を明らかにするとともに、童舞の芸能の実態を探っている。まず第四章では、寺院史料に見える童について、これまでの研究を鋭く批判し、児・上童・中童子・大童子などの呼称とその身分・出身階層・役割を究明しており、中世寺院の童の画期的な研究として評価されたものである。

 続く第五章は、醍醐寺の桜会における童舞を扱ったもので、勝覚が醍醐寺の鎮守である清龍宮の法会として始めた桜会の成立・展開を多くの史料の分析から明らかにし、その法会での舞楽法要における童舞の位置づけを指摘している。説話集や絵巻によく見える桜会とその童舞の様相を明らかにした重要な論考として、多くの研究に引かれている。そして第六章では、その童舞の背景にある童と僧との性愛の世界を究明して、寺院社会の一側面を摘出している。

 第七章は、童舞に発して中世の舞楽がどのように行われたのかを、広く舞楽法要の在り方から探り、さらに第八章では、醍醐寺の桜会の影響を受けた天台宗の慈円が、童舞を興隆させるようになった事情を探って、それが後鳥羽院の王権と仏法との相愛を目指したものであったことを指摘している。そして最後の第九章では、絵巻や仏画に描かれている舞童・天童の図を読み解いて、寺院社会における童の性格と位置とを明らかにしている。

 以上の第二部の分析によって、中世の寺院の童の存在形態と童舞の全貌が明らかにされたことで、これまでの童研究は大きく塗り替えられ、また中世の芸能について新たな視点が提出されたものとして高く評価されている。特に漠然と「聖なるもの」として捉えられてきた童の実態を明快に指摘した点は、今後の研究では常に踏まえておかねばならなくなったといえよう。

 こうして本論文は、従来の寺院史研究で不明だった部分を丹念な史料の分析によって実証的に明らかにすることで、寺院社会の研究に新たな方向性を示し、また芸能についても新たな事実と視点を提出したことで、寺院史のみならず文学・美術・芸能史の研究にも大きな影響をあたえつつある。

 ただ扱っている対象が、主に醍醐寺で、それも座主房を中心としたものであり、芸能においても童と童舞であるなど、研究対象が比較的限定されており、また深めてゆくべき課題も多いが、本審査委員会は、上記のような顕著な成果に鑑みて、本論文が博士(文学)に十分値するものとの結論を得た。

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