学位論文要旨



No 215597
著者(漢字) 奥村,隆
著者(英字)
著者(カナ) オクムラ,タカシ
標題(和) 文明化と暴力の社会理論 : ノルベルト・エリアスの問いをめぐって
標題(洋)
報告番号 215597
報告番号 乙15597
学位授与日 2003.03.12
学位種別 論文博士
学位種類 博士(社会学)
学位記番号 第15597号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 庄司,興吉
 東京大学 教授 似田貝,香門
 東京大学 教授 盛山,和夫
 名古屋大学 教授 西原,和久
 法政大学 教授 徳安,彰
内容要旨 要旨を表示する

 本稿は、社会学者ノルベルト・エリアス(Norbert Elias, 1897〜1990)の社会学的研究の成果を、彼が問い続けた問いを軸に再構成する試みである。その問いは「文明化」と「暴力」という現象をめぐるものであり、本稿はこの試みを通して、この重要な現象に一定の解明を加えることをめざす。

 1897年ドイツに生まれたエリアスは、1970年代まで「忘れられた社会学者」だった。1969年に著書『文明化の過程』(1939年初版)が再刊されると、ヨーロッパ人のふるまいが礼儀正しくなる「文明化」を礼儀作法書を資料に記述し、国家形成などの社会変動から説明したこの本は、急速に高い評価を得る。同時に、この本はフランス革命前までの「平穏化」だけ描き、その後の革命・戦争・虐殺などの「暴力」を無視している、ヨーロッパ文明のエスノセントリックな賞揚ではないか、との批判も受ける。日本では、彼は社会学者による検討をほとんど受けず、1990年代でも「忘れられた」存在だった。

 こうした評価と批判は妥当なのだろうか。じつはこの本は、ユダヤ人の彼が1930年代に亡命したロンドンで、当時の「ヨーロッパ文明の危機」を目前に「文明」とはそもそもなにかを検討しようとしたものだった。また彼はこの本の刊行後1940・41年に、故国に残した両親を(とくに母親をアウシュヴィッツで)失う。彼自身の「暴力」の経験は、その社会学に影響を与えなかったのだろうか。本稿は『文明化の過程』をはじめとする彼の業績をていねいに検討し、より正確なエリアス像を描き出すことを目的とする。[序章]

 エリアスは『文明化の過程』第一部で、「文明化」という概念は「ヨーロッパの自己意識」、自ら「誇り」と思うことをまとめたものだという。この意識を持つ限り、「文明化された人間」はなにをしているかと問うても「誇り」の内容を答えてしまう。彼は、「文化」概念が政治・経済から排除され貴族とは別の内面の誇りを求めたドイツ市民層の、「文明化」概念が宮廷内改革派として「真の文明化」を求めたフランス市民層の、「階層の自己意識」として発生したことを解明し、そこから「誇り」を剥ぎ取る。そして、この「自己意識」発生以前の「礼儀」に焦点を当て、ふるまいの変化をありのまま描こうとする。

 第二部で彼は、エラスムス『少年礼儀作法論』(1530年)などの礼儀作法書を検討し、食事、排泄、性関係、感情・暴力の表出などにおいて、それらを人と人のあいだに置き他者から制御を受ける「外的強制」から、個人の内部や他者に見えない舞台裏に閉じ込める「自己抑制」へと比重が変化したことを記述する。第三部以降ではフランスを事例に、「戦士社会」から「宮廷社会」への変動期に生じたこの変化を、相互依存する人々の編み合わせが複雑化すること、領主間の戦闘の結果「国家」が物理的暴力を独占し各身体が暴力をふるえない「平穏化」した国内空間が成立すること、貴族と市民の距離が小さくなり他と「区別」するためにふるまいの基準が高度化すること、から説明する。

 この研究は、「文明化」の「誇り」を剥ぎ取りその利点も「文明苦」も公平に描く態度において、エスノセントリズムから遠い。また、「文明化」が暴力的闘争の過程で生じ、国家の独占する暴力がその維持の要因であることを描いて、「文明化」が「暴力」を内包することを明確に示す。しかしこの本は、先に述べたふるまい自体を描くための方法的選択によって、「文明化の自己意識」以前に対象を限定せざるをえず、批判されるようにフランス革命以前で途絶する。末尾でエリアスは「文明化」がいつ崩壊するかわからないと示唆するが、その経路は具体的に論じられない。[第1章]

 この研究を可能にしたエリアスの社会学は、独特の方法的態度を持つ。すなわち、ヨーロッパ近代の「自明な自己経験」である「閉ざされた人間(homo clausus)」を前提とするのではなく、問いの対象とする態度である。エリアスは「個人対社会」の構図に代えて、人と人とが相互依存する「関係態(Figuration)」を出発点にし、そこから個人や社会が発生・物象化する「過程」をとらえる社会学を構想する。本稿は、この態度を生み出した、大学での医学専攻や戦争・インフレーションの経験、哲学とくに新カント派との対決、フロイトの決定的影響を描くとともに、「個人の行為」から出発するマックス・ヴェーバーとの対比を「権力」概念を軸に行い、エリアス社会学の方法的特質を解明する。[第2章]

 さて、エリアスは、亡命先のイギリスでの不遇と、両親の死の経験による長い沈黙の後、1960年代前後から、「暴力」や、「文明化」と逆方向に見える「脱文明化」に接近する試みを始める。『文明化の過程』が例外的に受容されていたオランダで60〜70年代に礼儀や性規範が弛緩する「インフォーマル化」を考察した共同研究、54年から在籍したイギリス・レスター大学での暴力とその制御を焦点とする「スポーツ」の共同研究(同大学での「フーリガン」研究に引き継がれる)、レスター近郊地域での非行と労働者間の差別をめぐる共同研究、などである。本稿はこれらを再構成し、エリアスと共同研究者たちが、「文明化」のなかで階級などにより異なるハビトゥスが生まれ、さまざまな位置に「暴力」が発生するという構図に「文明化の過程」像を修正する姿を描く。[第3章]

 しかし、彼はもうひとつの研究を残す。1961年のアイヒマン裁判以降断続的に書かれた論考を、死の前年89年に編集刊行した『ドイツ人論』である。きわめて錯綜したこの晩年の作品で、彼は母親の命を奪ったナチズムや1970年代のテロリズムなどドイツの「暴力」に解明を加える。『文明化の過程』第二部以降と同じ「ふるまい」の水準で、国家統一=国家の暴力独占が遅れ、貴族と市民が交じり合わなかったドイツで「決闘」など戦士的行動基準が残り、1871年の統一後市民層に広がったと、彼は論じる。「外的強制」に依存するこのハビトゥスが暴力を可能にしたと、ある程度はいえるだろう。だがこの本がより強く照準するのは、むしろ『文明化の過程』第一部で検討を中断した「自己意識」の水準である。

 彼は、ドイツ市民層が「文化」=人類に妥当する「ヒューマニズム」から「ナショナリズム」の自己意識へと移ることを描く。暴力独占の存在する国内空間だけに生きていた彼らが、「民主化」により国家間の空間を担うとき後者に近づく。とくにドイツでは、神聖ローマ帝国以来の敗北と縮小の歴史による「傷つきやすい」自己意識、分裂を恐れて「完全」で「理想主義的」なナショナリズムを抱く傾向(より安定的な国家形成過程の結果、葛藤を可能にする議会制と両立しえたイギリスのそれと対照的に)が生じる。この理想は統一以後膨張するが、第一次大戦の敗戦で「挫折」する。その後だれも提供できなかった「新しい誇り」を与えたのがヒトラーであり、その「夢の帝国」は「認識のショック」から人々を守る「集団的幻想の繭」として機能する。国家間で自己意識が相互エスカレートする過程、ワイマール期にテロリズムが拡大する過程などを描きながら、エリアスは「挫折」によって膨張したこの「夢」=「他民族を排除したドイツ」を部分的にでも実現するためにユダヤ人の虐殺が行われたと指摘する。

 ナチズムの暴力についてのこのエリアスの解明は十分なものとはいえない。なぜユダヤ人が対象となったか、「文明化」されたふるまい自体が暴力とどう関係するかを彼は十分に論じない。しかし彼は、ドイツでの「文明化」の条件を具体的に検討してそのどこに「暴力」の発生可能性が生じるかを論じ、とくに「文明化された人間」が抱く「自己意識」「誇り」がどのように「文明化されたふるまい」の基準を乗り越えて「暴力」を生むかを記述する。「文明化」の外部でなく過程の内部から「野蛮」が生じる具体的条件を、彼は解明しようとするのだ。彼は、70年代西ドイツのテロリズムにも「自己意識」から考察を加える。当時の若者はナチズムという過去に「国民のスティグマ」を感じていたが、年長世代はこれを隠蔽する。この「罪責感」を浄化するために「市民的マルクス主義」の理想は先鋭化し、現実に着地できないまま暴力を発生させた、というのだ。「自己意識」の世代的・長期的連鎖の過程、ここに彼は暴力の発生経路を見出す。[第4章]

 こうしてエリアスは『文明化の過程』で「ふるまい」の、『ドイツ人論』で「自己意識」の長期的過程を描いたが、人間が「知識」を獲得する長期的過程をも描いている。そこで彼は、感情的に巻き込まれた「参加」の態度からそれを自己抑制した「距離化」への移行を論じ、現在「自然」に対してはこれが可能だが「社会」・「自分自身」に対しては達成されていないと述べる。死の直前まで取り組んでいた『シンボルの理論』では、言語的シンボルによって人類はより現実適合的な知識を獲得し生存が可能になってきたが、戦争や虐殺などの暴力の抑制についての知識はまだ学習していないという。われわれは「後期の野蛮人」であって、長い学習過程の途上にいるにすぎない、と。[第5章]

 本稿は、冒頭に挙げた従来のエリアス像から大きく隔たる像に辿り着いた。『文明化の過程』ですでに、彼は「文明化」が「暴力」を含むことを条件に存立することを解明する。この本はそれがどう顕在化するかを論じなかったが、彼は戦後の研究でその具体的条件に、とくに『ドイツ人論』で「自己意識」の連鎖という経路に接近する。この成果が、「文明化」と「暴力」という困難な課題を完全に解明したとはもちろんいえない。しかし、「文明化」のなかにある「暴力」への経路を、彼が明確に指し示したということはできるだろう。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、ドイツ出身の社会学者ノルベルト・エリアスの人と業績を対象にして、かれが生涯をかけて取り組んだ文明化と暴力をめぐる社会理論の形成過程、内容、意義、および限界を論じたものである。全体は序章と5つの章からなり、序章では、1970年代まで忘れられていたこの社会学者が、ナチズムによって両親を殺された経験を持つことなどにふれつつ、問題意識を詳述している。

 そのうえで第1章では、初期の文明化研究を取り上げ、エリアスのいう文明化とは、人びとが礼儀作法を身につけることによって自己を抑制し、「閉ざされた人間homo clausus」となることによって、社会全体に拡散していた暴力を国家に集中していく過程であったことを述べる。その過程の典型的な事例は、「宮廷社会」を発達させた革命前のフランスで、貴族から市民層へとこの過程が普及していくことによって、文明civilisationを重んずる社会ができていったのであるという。

 奥村は、エリアスがこの研究でとくに、社会を個人対社会という構図から見るのではなく、人と人とが相互に依存しあう関係体Figurationとして見ていることを重視し、第2章で、それが、新カント派出身のカッシーラーや精神分析のフロイトなどの影響であったことを指摘しつつ、マックス・ウェーバーの方法論的個人主義では得られない利点をもっとともに、逆にウェーバーの強調した理念の力や、フーコーが明らかにした監視と強制のメカニズムなどを把握できない弱点をもつことを指摘している。

 また、第3章では、エリアスの戦後の研究を扱い、かれが他の研究者と共同で、戦後のヨーロッパ社会では礼儀や性規範のインフォーマル化が進み、それを前提にした新しい自己抑制や民主化が問題となってきたこと、またとくにイギリスでは、暴力の捌け口がスポーツに求められ、フーリガニズムのような現象が発生してきたこと、などを明らかにした経過を述べ、これらがいわば脱文明化の研究の意味をもつことを指摘している。

 さらに第4章は、文明にたいして文化Kulturに誇りをかけてきたドイツ人にかんする、エリアスの研究の検討である。奥村によると、エリアスは、ナチズムや1960年代以降のテロリズムに現れたドイツ人の暴力を、フランスとは異なって貴族から市民層への文明化の伝播がおこなわれず、かといってイギリスのように葛藤の場としての議会制も形成されなかったドイツでの、人びとの、傷つきやすいがゆえにかえって理想主義に走りやすい自己意識とナショナリズムに起因するものと見なした。エリアスは、この研究をつうじて、文明化の理論でドイツ人固有の暴力をも説明できることを示したのであるという。

 以上をふまえて第5章では、晩年のエリアスが、人間社会の暴力の克服を、人びとが、参加しつつ互いに距離を取り合い、力よりもシンボルで、すなわち暴力よりも知識で、問題を解決するようになる長期の過程と見なしていたことを指摘している。奥村によれば、エリアスは、高度に文明化が進んだ社会に生きているつもりのわれわれは、まだ「後期の野蛮人」にすぎず、社会という関係態と人びとのふるまいや自己意識を暴力から解放するには、まだまだ多くの時間と努力が必要と考えていたのであるという。

 以上のように本論文は、社会学者エリアスの業績、およびそれに関連したり、比較の対象になる社会学者の業績などを丹念に読み、文明化と暴力の社会理論の現代における意義を検討した密度の高い、独創的な業績である。エリアスを対象にしたこのように包括的な研究は、日本ではもとより世界でもまだ数少ないので、本論文は、日本社会学にたいしてばかりでなく世界の社会学にたいしても、きわめて有意義な貢献といえいる。

 よって審査委員会は、本論文が博士(社会学)の学位を授与するに値するものと判定する。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/51163