学位論文要旨



No 215619
著者(漢字) 松本,益明
著者(英字)
著者(カナ) マツモト,マスアキ
標題(和) 白金(111)表面上の一酸化窒素吸着構造の研究
標題(洋) Study of the adsorption structure of nitric oxide on Pt(111)
報告番号 215619
報告番号 乙15619
学位授与日 2003.03.12
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第15619号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岡野,達雄
 東京大学 教授 前田,康二
 東京大学 教授 市川,昌和
 東京大学 助教授 福谷,克之
 東京大学 助教授 高橋,敏男
内容要旨 要旨を表示する

 窒素酸化物は自動車排気ガスの主要成分であり、その還元による排気ガスの清浄化は地球環境を保全するために必要不可欠である。反応は気体として放置しただけではゆっくりとしか進まないため、通常は触媒を用いて反応を促進する必要がある。そのような触媒としては、現在白金(Pt)、ロジウム(Rh)、パラジウム(Pd)を主成分とする三元触媒が用いられている。近年の地球温暖化問題に対処するため、二酸化炭素を削減する必要性から、ガソリンに生物資源から抽出したアルコールを混ぜた燃料が用いられつつあるが、そのような燃料ではかえって窒素酸化物の放出は増えると予想され、第三世界における自動車の急速な利用拡大と合わせて、より効率的な触媒の開発が急務であると考えられる。さらに、白金は次世代の動力源として期待される燃料電池においても触媒として用いられており、高価な白金をできるだけ節約するためにも、その高効率化が必要であると考えられる。これまで、触媒の研究は巨視的な化学反応の面から盛んに研究されてきたが、その反応の詳細を調べるためにはもっと微視的な視点で捉えること、すなわち反応を細かく素過程に分解し、それぞれの反応素過程がどの様に起こっているかを捕えることが必要である。しかしながら、本研究で研究対象としたPt(111)表面上の一酸化窒素(NO)については、その吸着構造に関してさえまだ議論がなされており、未解決であった。吸着は分子が表面に入って最初に起こる反応素過程であり、吸着構造の解明はその後に起こる様々な反応を理解するためにも重要な情報であると考えられる。また、吸着構造を制御することができれば、反応全体を制御することも可能となるだろうと期待される。

 表面における吸着状態を調べるためには様々な手法が用いられているが、一つの手法によって得られる情報には限りがあるため、正確な吸着構造の解明にはいくつかの手法を組合せて用いる必要がある。本研究においては、昇温脱離法(TDS)、低速電子回折法(LEED)、走査トンネル顕微鏡法(STM)、高分解能電子損失分光法(HREELS)、反射吸収赤外分光法(RAIRS)を用い、10-100Kに冷却したPt(111)基板上に吸着したNOの構造を調べた。TDSによって表面上に吸着した吸着種の種類とその脱離の活性化エネルギーに関する情報を得、被覆率の曝露量(ドーズ量)依存性を調べることが可能である。実験の結果、表面上には3種類の吸着種が存在すること、被覆率はドーズ量にほぼ比例して増大することが分かった。LEED回折点強度もこれら3種類の吸着種の吸着に応じて変化しており、ほぼ3つの吸着相が存在することが分かった。STMでは原子分解能での表面観察が可能であるが、この系のSTMによる観察は、これまで成功例がなく、本研究において初めて可能となった。NOの被覆率の増大に伴い、その存在を示す輝点の数が増大し、島を形成していく様子が観測され、さらに詳細な解析を行なうことによりやはり3種類の高さの異なる吸着種の存在が確認された。これらの吸着種については、出現する順番からTDSとの対応を行い、α、β、γと名付けた。ただし、STMでは基板と分子の同時観察が不可能であり、それらの吸着位置については相対的な情報のみを得ることができた。HREELSやRAIRSといった振動分光法によっては、表面に存在する分子の伸縮、回転などの様子が観測される。これらの実験は過去においても行なわれており、これまで考えられてきたモデルの基礎となってきた。その際には表面の分子振動とニトロシル錯体での振動とが比較されたが、このような方法は近年疑問視されるようになってきており、これまでのモデルでは説明のつかない実験結果も多い。また同等の現象を捕えているにもかかわらず、HREELSとRAIRSの結果には矛盾が存在した。本研究では最新の分光機器を用いることにより、以前より高感度、高分解能での測定を行なった。その結果、これまでは高被覆率において完全に消失すると考えられてきたRAIRSでの振動ピークが非常に弱いながらも残っていることがわかり、HREELSとRAIRSにおいてほとんどの点で一致する結果を得ることができた。

 さらに、低温で吸着させた後に、200-250K程度に加熱することにより、非常にきれいなNOの2×2構造を形成させることに成功した。このような表面ではSTMによってαとβの2種類の吸着種が存在することが、またHREELSによってそれらに対応したN-O間の伸縮振動がそれぞれ1444cm-1と1710cm-1とに存在することが確認され、非常に弱く吸着し、秩序性の悪いγ吸着種のみを効果的に除去することが可能であるということを示した。さらにSTMの探針から電子を照射する実験を行ない、2eVの電子を用いてβ吸着種のみの選択的な除去が可能であることを発見した。さらに高エネルギーの4-6eVの電子照射によってα吸着種も除去されるが、この場合には過去の光励起脱離実験との対応から、脱離ではなく、解離が起きていると予想され、解離の結果として生じる窒素原子と考えられるSTM像を観測することに成功した。

 次に、これらの新しく得られた知見を元に、LEEDの動力学的な解析を行なった。低速電子の回折においては、多重散乱が起こるため、動力学的解析が必要であり、フーリエ変換によって直接構造を得ることができない。そのため、LEED回折点強度の入射電子エネルギー依存性(いわゆるI-V curve)の計算を行ない、これと実験的に得られたI-V curveとの比較といった作業を、考えられる全てのモデルに対してパラメーターを変化させながら反復する必要があり、上に書いたような他の手法による情報がないと計算量が膨大となってしまう。本研究ではSTM像と被覆率の対応からα吸着種の被覆率を0.25ML(1ML=1.5×1015cm-1)であるとし、いくつかの対称性の良い吸着位置(サイト)への吸着モデルを仮定して動力学的解析を行なった。その結果は過去の報告と一致し、α吸着種は3配位の面心立方型のくぼみ位置(3-fold fcc hollow site)へ吸着していることが示された。さらに高被覆率の0.5MLおよび0.75MLについても同様に解析を行なった結果、0.5MLにおいては上のα吸着種に加え、β吸着種が1配位の直上位置(1-fold atop site)に吸着していること、この分子は表面垂直方向から50度も傾いているということが分かった。また、0.75MLにおいては、さらにγ吸着種が3配位の六方最密型のくぼみ位置(3-fold hcp hollow site)に吸着していることが分かった。これらの結果は同時期に行なわれた密度凡関数法を用いた理論的研究の結果とよく一致した。基板のfcc hollow siteとhcp hollow siteは似たような構造であり、清浄表面上へのNOの吸着エネルギーは近いことが理論計算により示されているが、飽和被覆率においては、atop siteに吸着したβ吸着種がγ吸着種側に傾いているために、γ吸着種を不安定にしていると考えられる。また、同位体を用いたRAIRSにより表面吸着種間の双極子相互作用について調べ、α吸着種の振動ピーク強度がβ吸着種の吸着によって大きく減衰することを示した。さらに化学的相互作用による減衰が加わる結果、高被覆率においてα吸着種の振動ピークがほとんど消失してしまうと考えられる。従来の構造モデルは振動分光法を元にしていたが、このような吸着種間の相互作用が考慮されていなかったために誤った結論に達していたと思われる。

 本研究において得られた結果をまとめると表のようになる。ここに示したように被覆率の変化に応じて3つのサイトが順番にα、β、γ吸着種に占有されるモデルが吸着構造として最適である。

 NOxの還元反応ではPtやPdの上よりもRh上において反応が進んでいると考えられているが、その理由は不明である。実際Rh上では200K程度以上で解離吸着が観測されるが、PtやPdにおいては分子吸着のみが観測されている。最近の研究により、Pd上のNO吸着構造が本研究で得られたPt上での構造とよく似ていることが分かってきた。従って、NOの表面での反応がその吸着構造に大きく依存していると予想される。

 本研究におけるSTM実験ではPt(111)表面上にNOが高被覆率で凝集して吸着している様子が観測された。Rh上においても高い密度のNO、N、Oの存在下においてはNOの解離が阻害されることが分かっており、Pt上で観測された凝集状態がNOの解離を阻害している可能性がある。同位体を用いたTDSの実験によって、γ吸着種の吸着により、気相分子と表面との反応が阻害されることが分かったため、γ吸着種を除去することによって表面での反応が促進されると考えられる。さらに、α吸着種とβ吸着種間の相互作用は大きく、引力的であるため凝集しやすい。従ってβ及びγ吸着種を除去することが可能であればNOの解離反応が促進される可能性がある。しかしながらαとβ吸着種の脱離温度は接近しているため、熱的にα吸着種だけが存在する表面を作るのは困難である。それに対して、電子や光による刺激ではαとβ吸着種を比較的明瞭に分けることが可能である。これらのことから、電子や光を利用して吸着状態を制御することによってPtやPdの表面上での解離などの反応を促進させることが可能であると考えられ、触媒としての機能の向上も期待できる。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は「Study of the adsorption structure of nitric oxide on Pt(111)(白金(111)表面上の一酸化窒素吸着構造の研究)」と題し、白金単結晶表面上の一酸化窒素の吸着構造に関する著者の研究成果をまとめたものである。本研究では、金属表面上での気体分子の吸着脱離過程の内、自動車排気ガス触媒として広く実用されている白金表面と一酸化窒素の表面分子反応に着目し、特にその基礎となる一酸化窒素の吸着構造の解明を目的として研究を行ったものである。白金(111)表面における一酸化窒素の吸着構造に関しては、著者以前にも多数の研究結果が報告されていたが、振動分光法と低速電子線回折法による結果を矛盾なく説明できる吸着構造モデルは見出されていなかった。著者は、従来の様々な実験手法に加えて、走査トンネル顕微鏡法による吸着構造の観察と低速電子線回折強度の動力学的解析を詳細に行うことにより、従来の構造モデルに替わる新しい構造モデルの確立に成功した。

 本論文は7章から構成されている。

 第1章は、序論であり、本研究の位置付けについて述べている。自動車排気ガス触媒としての白金と一酸化窒素の表面分子反応、従来の研究結果とその問題点などを要約している。

 第2章は、本研究で利用した実験装置と実験技術について記述している。昇温脱離法(TDS)、低速電子線回折法(LEED)、走査トンネル顕微鏡法(STM)、高分解能低速電子分光法(HREELS)、及び反射型赤外吸収分光法(RAIRS)の本研究における適用方法、試料表面の調製方法などが詳述されている。

 第3章は、低速電子線回折による構造解析について述べたものである。吸着構造パラメータの精密な決定に利用したLEEDのI-V特性の動力学的回折理論に基づく解析方法の基礎と具体的な計算手順を前半において詳述し、後半では、HREELSやRAIRSで適用可能な電子の非弾性散乱過程に関する基本的な理論について述べている。

 第4章は、実験結果の記述に充てられている。昇温脱離法(TDS)では、一酸化窒素の吸着脱離過程にα、β、γの3つのサイトが関与していることを示唆する結果を得た。また、低温面に飽和吸着させた後、アニール処理を行うことで、α、β相のみからなる安定構造を創り出せることを見出した。LEEDによる周期構造の観察、STMを用いた実空間像の観察、高分解能電子エネルギー損失分光法(HREELS)や反射赤外吸収分光法(RAIRS)による分子振動の観察を、一酸化窒素の吸着量を変化させて測定し、回折像、実空間像、振動スペクトルと一酸化窒素の吸着サイトとの相関を論じた。最終的に決定された吸着構造モデルでは、0.25単分子吸着密度までは3配位面心立方ホローサイト(αサイト)に吸着し、吸着分子密度が、0.5単分子吸着密度、0.75単分子吸着密度に達すると、1配位オントップサイト(βサイト)と3配位体心立方ホローサイト(γサイト)への吸着がそれぞれ始まると結論している。

 第5章は実験結果に基づく吸着構造モデルを参照したLEEDの1-V特性の動力学的解析について述べている。解析の結果、第4章で述べた吸着構造モデルをベースとすることにより、LEEDのI-V特性の実験データと動力学的解析結果が極めて良く一致することを示し、吸着構造の詳細パラメータが決定された。また、βサイトの一酸化窒素分子は、表面法線に対して、50°傾斜して吸着することも結論された。

 第6章は、著者の提唱する吸着構造モデルの考察を行っている。著者のモデルは、第一原理計算による理論的予測とよい一致をみている。また、この系に関する様々な実験結果が、本モデルにより矛盾なく説明できることが論じられている。同位体を用いたTDS及びRAIRSの実験結果が解析され、γ吸着サイトが占有されることにより一酸化窒素分子の移動や交換反応が阻害されてしまうことを示した。さらに、従来の赤外吸収分光データの解釈では、ピーク強度と吸着サイト占有量を直接結び付けていたが、吸着子間の相互作用による低周波数ピークの減衰効果により、解釈すべきであることを示した。

 第7章は結論であり、各章で得られた結果をまとめ、本研究の成果を要約している。

 以上を要するに、著者は白金(111)表面上の一酸化窒素の吸着構造を、低速電子回折法、走査トンネル顕微鏡法、および振動分光法などの表面研究手法を相補的に駆使して研究し、これまでいくつかの矛盾を含んでいたモデルに替わる新しい吸着構造モデルを確立した。新しいモデルは、第一原理計算による理論モデルとも極めて良い一致をみた。また、一酸化窒素の表面分子反応や光励起脱離効果などの研究において見出されていたいくつかの現象についても、著者のモデルにより合理的な理解が可能であることが示された。本研究の成果は、白金表面における一酸化窒素の吸着脱離過程のみならず他の系の理解にも応用可能であり、表面物理学および関連する工学分野への大きな貢献をなしたものと言える。

 よって本論文は、博士(工学)の学位申請論文として合格と認められる。

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