学位論文要旨



No 215646
著者(漢字) 湯浅,啓史
著者(英字)
著者(カナ) ユアサ,ヒロフミ
標題(和) ラット胃に出現する腸型形質に関する実験病理学的研究
標題(洋)
報告番号 215646
報告番号 乙15646
学位授与日 2003.03.14
学位種別 論文博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 第15646号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 土井,邦雄
 東京大学 教授 吉川,泰弘
 東京大学 教授 佐々木,伸雄
 東京大学 助教授 中山,裕之
 残留農薬研究所 常務理事 真板,敬三
内容要旨 要旨を表示する

 胃の形態学的変化は様々な病態と関連しており、特に胃がんや異型性などの悪性疾患と発現する細胞の形質変化については様々な報告がなされている。現在、ヒトの病態の発現機序を検索するには、動物を用いて実験的にその病態発生を検討する方法が一般的である。ヒト胃がんのモデル動物としては、N-methy1-N-nito-N'-nitrosoguanidine(MNNG)を飲水に混入して投与するラット胃発がん系が確立され、十分な検討が加えられているが、胃がんや異型性と関連が深いとされる胃の細胞の形質発現に関しては未だ十分な検討はなされていない。そこで、ヒト胃の悪性疾患の病態解明の一助とすべく、ラット胃の形質発現について検討を行った。得られた結果は下記の通りである。

ラット腸型アルカリホスファターゼの胃の形質指標としての有用性の検討

 ラット腸粘膜より抽出した腸型アルカリホスファターゼ(I-ALP)に対するウサギポリクローナル抗体を作製し、諸臓器についてその局在性を評価した。

 正常な消化管組織では、I-ALPは十二指腸、空腸および回腸粘膜の微絨毛にある細胞の刷子縁に強く反応が認められたが、小腸の陰窩には認められなかった。また、大腸では近位部で非常に弱い発現がみられ、胃および大腸遠位部では発現は認められなかった。消化管以外では、近位尿細管上皮の刷子縁に強い反応がみられた。胎盤では組織化学的にアルカリホスファターゼ活性が認められるものの、免疫組織化学では反応は認められなかった。さらに、ヒトおよびマウスの小腸で交差反応が認められた。

 胃発がん系により処置したラットでは、上記正常組織に加え、胃の腸上皮化生および腺癌に陽性反応が認められた。胃の腸上皮化生部では正常小腸組織と同様に、腺窩の上方1/3部分に強い陽性反応が認められたが、腺窩底部には反応は認められなかった。また、胃腺癌組織では、高分化型腺癌の小腸吸収上皮様細胞の刷子縁相当部に強い反応が認められた。小腸に発生した高分化型腫瘍でも、腫瘍細胞にI-ALPの発現が認められた。

 今回作製したラットI-ALPに対する抗体は腎臓に交差性を示したが、ヒトでもI-ALPが腎尿細管のセグメントに特異的に発現しているとの報告があり、ラットでも同様にI-ALPが腎臓に存在すると考えられた。したがって、我々が作製したラットI-ALPに対するウサギポリクローナル抗体は、ラット小腸の分化した吸収上皮細胞を特異的に同定する指標となることが示された。さらに、ラット胃発がん系での検討では、小腸の腫瘍で陽性反応が認められることから、細胞の腫瘍化によってI-ALPの形質は消失しないことが証明された。また、胃に発生する腫瘍のうち高分化型腺癌(いわゆる腸型胃がん)でI-ALPが存在することは、腫瘍細胞が起源組織の形質以外の形質を獲得するという面で興味深い事象である。この様な形質の獲得が、腫瘍性病変とみなされない胃の腸上皮でも存在することは、細胞の腫瘍化とI-ALP発現という小腸形質の獲得とは独立したメカニズムにより起こっていることを示唆している。

胃粘膜の形質としてのカテプシンEの発現とその消失

 胃粘膜の形質を掌握するためには更なる指標が必要であるため、カテプシンEの有用性について検討した。すなわち、正常ラットおよび胃発がん系により処置したラットについて、組織化学および免疫組織化学的にカテプシンEの局在性を調べた。その結果、カテプシンEは正常ラットの胃底腺および幽門腺粘膜の被覆上皮、胃底腺粘膜の副細胞および幽門腺粘膜の幽門腺細胞に局在し、小腸粘膜では認められなかった。胃発がん系により処置したラットでは、胃粘膜に発生した腸上皮化生部でカテプシンEの陽性反応は消失したが、小腸の再生性病変部では弱い反応が認められた。一方、腫瘍性の変化で、高分化型腺癌のうち、ガラクトースオキシダーゼシッフ法により組織化学的に胃の形質を示す腫瘍細胞では、カテプシンEの存在が認められたが、杯細胞を含み小腸の形質を有する高分化型腺癌ではカテプシンEの存在は認められなかった。

 以上の結果から、カテプシンEは胃の特異的指標となり得ることが明らかになるとともに、カテプシンEの陽性反応が胃の粘膜を起源組織とする腸上皮化生あるいは腫瘍性病変で消失することから、胃の細胞形質を把握するための有用な指標となることが示された。

MNNG誘発胃がんにおける腸型形質の発現と増殖活性

 ヒトの胃がんのうち、腺管を形成する高分化型胃がんでは腸型の形質を示すことが多いことが知られている。しかし、胃発がん系で処置したラットに発生した胃がんでは、高分化型胃がんでも胃型形質が主体を占めており、一部に腸型の形質を有することが多い。この様なラットの胃がん組織を上述した形質指標を用いて詳細に調べるとともに、胃型および腸型腫瘍組織での細胞増殖率の違いを検討した。

 その結果、胃がん組織はいくつかの増殖単位に区分することが可能であり、個々の増殖単位は胃型と腸型に分けることができた。この増殖単位には細胞増殖率の高い腺管と増殖率の低い腺管が存在し、細胞増殖率の低い腺管では胃型あるいは腸型の形質が形態的に強く発現していた。また、同一の腫瘍内に胃型および腸型の増殖単位を有する腫瘍について、それぞれの細胞増殖率を比較した場合、腸型の増殖単位で常に高い値を示した。

 これらのことから、胃型として発生した胃がん組織が時間経過とともに腸型の形質を獲得するものと考えられた。さらに、腫瘍が経時的に進展するに従い、細胞増殖率の高い腸型組織が優勢な組織像を占める可能性を示唆するもので、ヒトの腫瘍の進展の速度とモデル動物のそれを比較した場合、組織型と腫瘍の細胞形質の関係を考察する上で興味深い結果である。

ラットのX線誘発腸上皮化生の形質変化

 胃の腸上皮化生は、ヒトでは胃がんとの関係が広く論議されているが、ラットでの詳細な検索報告はない。そこで、2回のX線照射により誘発したラット胃の腸上皮化生について、照射2週間後より77週間後まで経時的に腸上皮化生の推移と形質発現の状況を検討した。さらに、照射8週間後の時点で腸上皮化生腺管をマイクロダイセクション法により単離し、K-ras、H-rasおよびp53についてPCR-SSCP法により変異の有無を検索した。

 胃の粘膜はX線照射後に広範囲にわたって一時的に変性を起こし、照射2から4週間後には再生性の変化を示した。腸上皮化生腺管の総数は再生性の変化に伴い一時的に増加したが、照射8週間後には低下し、その後77週にかけて徐々に増加した。再生性の粘膜に認められた腸上皮化生は固有胃腺内に杯細胞が存在する胃腸混合型が主体であった。その後、胃腸混合型化生腺管数は、化生腺管を構成する細胞総てが腸型形質を示す腸単独型腺管の増加とともに減少し、照射24週間以降の観察期間を通じて一定の発現数を示した。腸単独型化生腺管は、照射8週間後から出現し、照射77週間後にかけて増加した。

 腸上皮化生腺管の存在様式として、照射2週間後の時点では化生腺管は孤立していたが、照射後の期間を経過するに従い、2つ以上の化生腺管が集合した化生腺管巣の増加が認められた。この化生腺管巣は、主に腸単独型のみで構成されるか、あるいは腸単独型腺管に胃腸混合型腺管を交えて構成されるかのいずれかであり、胃腸混合型のみからなる化生腺管巣はまれであった。

 PCR-SSCP解析の結果では、これら化生腺管および正常部より抽出した遺伝子に変異は認められなかったことから、ラット胃に腫瘍を誘発しない量のX線を照射しても、ヒト胃がんで認められている遺伝子の変異は起こらないことが示唆された。

 以上の結果から、ラットの胃の腸上皮化生の発現とK-ras、H-rasあるいはp53遺伝子の変異は独立した事象であることが示唆され、また、腸上皮化生はX線照射を中止しても発生し続け、その増数の主体は孤立する化生腺管の増加ではなく、腸単独型腸上皮化生を主体とする化生腺管巣の形成であることが示された。また、胃腸混合型化生腺管数の照射8週間後からの減少は、胃腸混合型化生腺管が正常腺管または腸単独型化生腺管へ移行したことを示唆するものであり、化生腺管の総数の推移を考慮した場合には、胃腸混合型から腸単独型へ移行した可能性が高い。これらのことは、胃の腸上皮化生の発生は胃がんに関連する遺伝子変異によって起こるものではなく、腸上皮化生そのものが周辺の正常胃組織に影響を及ぼして既存の化生腺管周囲に化生腺管を増加させている可能性を示唆するものである。

 以上のように、小腸上皮の指標としてのラットI-ALPならびに胃上皮の指標としてのカテプシンEは、正常組織および腫瘍性組織において有用な非粘液性の細胞指標であることが示唆された。これらの細胞指標を用いてラットの胃に誘発した胃がん組.織を検討したところ、同一腫瘍内での細胞増殖率は、常に胃型に比べ腸型で高いことから、最初胃型腫瘍として発生した腫瘍組織は、腫瘍進展に伴い腸型が優勢な組織像に移行する可能性が考えられた。次に、X線照射により誘発したラット胃の腸上皮化生では、X線照射直後に発生する胃腸混合型の孤立性腸上皮化生は、時間経過とともに減少し、代わって腸単独型の化生腺管巣が増加したことから、胃腸混合型から腸単独型へ、あるいは正常腺管から化生腺管への形質の変化がおこる可能性が示唆された。この様に、今回の研究で、胃の悪性疾患の前駆病変と考えられている腸型形質の発現が、様々な病態に付随して発生する二次的な形質変換である可能性が示されたことは、ヒトの胃がんの発現機序を考える上で非常に興味深く、また、重要な知見である。

審査要旨 要旨を表示する

 ヒト胃の悪性疾患の病態解明の一助とすべく、ラットのN-methy1-N-nitro-N'-nitrosoguanidine誘発およびX線誘発異胃がんモデルを用いて胃の上皮の形質変化について検討した。得られた結果は下記の通りである。

 (1)作製したラット腸型アルカリホスファターゼ(I-ALP)に対する抗体は、正常動物では、小腸の刷子縁および腎臓の近位尿細管と強く、大腸近位部と非常に弱く反応した。また、胃発がん系により処置したラットでは、胃の腸上皮化生および腺癌ならびに小腸の高分化型腺癌細胞の刷子縁に強い反応が認められた。したがって、作製した抗体は、ラット小腸の吸収上皮を特異的に同定することが示された。胃の腸上皮化生および高分化型腺癌でI-ALPが存在することは、腫瘍細胞が起源組織の形質以外の形質を獲得するという面で興味深い事象である。

 (2)正常ラットおよび胃発がんラットについて、組織化学および免疫組織化学的にカテプシンEの局在性を調べた。その結果、カテプシンEは正常ラットの胃の被覆上皮、副細胞および幽門腺細胞に局在し、小腸粘膜では認められなかった。胃発がんラットでは、胃の腸上皮化生部で反応は消失したが、小腸の再生性病変部では弱い反応が認められた。高分化型腺癌のうち、胃の形質を示す腫瘍細胞ではカテプシンEの存在が認められたが、小腸の形質を有する腫瘍細胞ではカテプシンEの存在は認められなかった。したがって、カテプシンEは胃上皮の特異的指標となり得ることが明らかになるとともに、胃での腸型形質発現により消失することが示された。

 (3)胃発がんラットでは、ヒト胃がんとは異なり高分化型胃がんでも胃型形質が主体を占めることが多い。この様なラットの胃がん組織の形質と細胞増殖率について検討した。その結果、胃がん組織は胃型と腸型の増殖単位に区分でき、同一の腫瘍内に存在するそれぞれの増殖単位の細胞増殖率を比較した場合、腸型の増殖単位が常に高い値を示した。これらのことから、胃型として発生した胃がん組織が時間経過とともに腸型の形質を獲得して、腫瘍進展に伴い腸型組織が優勢になることを示唆された。

 (4)X線照射により誘発したラット胃の腸上皮化生の形質と数的推移を経時的に検討した。また照射8週間後における腸上皮化生部のK-ras、H-rasおよびp53の変異をPCR-SSCP法により検索した。その結果、胃粘膜はX線照射直後に再生性の変化を示し、腸上皮化生腺管の総数は一時的に増加したが、照射8週間後では化生腺管数は減少し、その後77週にかけて徐々に再び増加した。再生性の粘膜では胃腸混合型の孤立した化生腺管が主体であったが、照射24週間以降は腸単独型化生腺管が集合した化生腺管巣が増加した。化生腺管より抽出した遺伝子に変異は認められなかった。以上の結果から、ラットの胃の腸上皮化生とK-ras、H-rasあるいはp53遺伝子の変異は独立した事象であることが示唆され、また、腸上皮化生はX線照射を中止しても発生し続け、その増数は、腸単独型化生腺管を主体とする化生腺管巣の形成であることが示された。

本研究により、胃の悪性疾患における腸型形質の発現は様々な病態に付随して発生する二次的な形質転換であり、その発現は周囲環境の影響を受けている可能性が示唆された。この成果はヒト胃がんの発現機序を考える上で興味深く、重要な知見である。よって審査委員一同は本論文が博士(獣医学)の学位を授与するに値するものと認めた。

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