学位論文要旨



No 215648
著者(漢字) 犬塚,元
著者(英字)
著者(カナ) イヌヅカ,ハジメ
標題(和) デイヴィッド・ヒュームの政治学 : 伝統の継承と発展
標題(洋)
報告番号 215648
報告番号 乙15648
学位授与日 2003.03.17
学位種別 論文博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 第15648号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 福田,有広
 東京大学 教授 平石,直昭
 東京大学 助教授 苅部,直
 東京大学 助教授 宇野,重規
 東京大学 助教授 森,政稔
内容要旨 要旨を表示する

 本論文は、デイヴィッド・ヒューム (David Hume, 1711-1776) が、彼以前の政治学を継承しながら、なおかつ、それを独自に発展させた政治学を展開したことを解明する。

 初期近代ヨーロッパにおける共和主義の系譜が明らかにされたことを受けて、今日、18世紀英国の政治学史は、共和主義の政治学と、それを批判した政治学の対抗の歴史として広く理解されている。ここで、ヒュームは後者の代表として、すなわち商業社会にふさわしい政治学を展開した思想家とされる。しかし、こうした解釈は、ヒュームがマキアヴェッリやハリントンを高く評価し、彼らの政治学を継承しようとしたことを適切に説明できない。共和主義の政治学と、商業社会の政治学の対抗という見取り図は、ヒューム自身のものではなかったのである。ヒュームは政治学の歴史を、政治機構論の政治学と道徳論の政治学という二つの大きな伝統から構成されるとした。前者の政治学、すなわち、人間が利己的存在であることを前提としたうえで政治機構の巧みな整備によって人間の共存を目指す政治機構論の政治学こそ、ヒュームが継承すべきとみなした政治学の伝統であった。

 三つの章から構成される第1部は、ヒュームの政治学における古代ギリシア・ローマ世界の意義を究明するものである。すなわち、彼が自らの政治学を展開するにあたって、古代世界における政治経験、ならびに、そうした古代の経験に基づいて構築されてきた政治学の議論を踏まえていたことをまず明らかにする。

 第1章は、18世紀英国における古代ローマ史の解釈の諸相を検討する。18世紀の英国においては多くのローマ史解釈が展開されたが、それは、自国をローマ共和政になぞらえる傾向が極めて強かったがゆえであった。ローマの混合政体や党派対立が自国の政治を論じる素材とされたのである。この点において、貴族と平民の対立を高く評価したマキアヴァッリの『リヴィウス論』と、このマキアヴァッリの解釈を批判し、悪しき混合政体ゆえの党派対立がローマを滅したとしたハリントンの『オシアナ共和国』とは、この時代に依然として大きな影響力をもっていた。ウォルター・モイルは、マキアヴェッリとハリントンの解釈の接合を試みた。ボリングブルックは、党派対立ゆえに崩壊したローマの混合政体を、ゲルマン人の国制を起源にもつ党派対立のなき英国の混合政体と対照した。他方、「習俗」の観点からの解釈の典型は、エドワード・モンタギューであった。彼は、「奢侈」によって「習俗」が腐敗したことがローマの党派対立や崩壊の原因であると論じ、これをもって英国の教訓とした。

 第2章は、ヒュームの古代ローマ論や古代社会論がこうした同時代の議論に対する応答であったことを明らかにする。ヒュームが古代世界に見いだしたのは、商業活動が低調であったことに加えて、やはり激烈な党派対立であった。彼は、ローマの崩壊の原因を「奢侈」とする議論を批判する。崩壊の原因は、一方において征服による版図の拡大であり、他方において不適切な政治機構であるというのが彼の解釈である。ローマ共和政においては、均衡を維持する制度的工夫がなかったがゆえに混合政体は民主政へと変質し、代表制なき民主政が無秩序を招き帝政へと帰着したというのである。

 ローマ共和政に混合政体の失敗とともに、激烈な党派対立や民会の暴走を見いだす点において、ヒュームの議論はハリントンと共通した。第3章ではハリントンの政治学との関連を明らかにする。ローマの混合政体の欠陥を回避すべく政治機構を構築したハリントンの『オシアナ共和国』を、ヒュームは「唯一価値のある」政治機構案とみなし、これをもとに「完全な共和国の案」を提示した。ヒュームは、元老院と民会からなる二院制の立法機構を混合政体の中核とみなす点において、ハリントンの議論をそのまま継承する。ヒュームが修正したのは、第一に民会の構成であり、第二に党派対立の位置付けである。ハリントンは党派対立なき「平等な共和国」を目指し、そのために農地法と輪番制を必須の制度としたが、ヒュームはこうした制度を却下する。党派対立の発生を除去することは不可能であり、自由な国家では望ましくもないとみなしたヒュームは、むしろ対立に制度的表現を与え、政治機構のなかに組み込むことを望ましいと考えた。それが「対立者の会議」構想であった。このようにヒュームは、ハリントンの政治学を共和主義の政治学ではなく政治機構論の政治学として理解したうえで、それを継承し独自に発展させたのである。こうした理解は、それを君主政に適用することも可能にした。ヒュームは自らの「完全な共和国」案を提示した後、ここから英国の「制限君主政」の改革案を導き出している。

 論文の後半、第2部・第3部は、ヒュームの時代区分における「近代」をめぐる彼の政治学を検討する。主たるテーマは、モンテスキューの政治学との関連である。近代ヨーロッパ世界を代表する政体を穏和な君主政とみなす点において、ヒュームの議論は、同時代を生き彼がその才能を高く評価したモンテスキューと共通する。しかし、古代の共和政と近代の君主政との隔絶を強調し、後者の淵源をゲルマン人の国制に求めるモンテスキューの近代ヨーロッパ理解を、ヒュームは批判した。

 第2部が分析するのは、ヒュームの『イングランド史』である。彼は、英国の国制は過去から一貫して混合政体であったとする古来の国制論を批判して、イングランドの歴史を政治社会の二段階の発展史として描く。ここにおいて、ゴシック国制や封建国制は、貴族が王権を抑制する混合政体ではなく、多くの貴族が割拠して実力支配をおこなう社会にすぎなかったと規定される。イングランドにおいて政治権力の一元的支配を確立したのはチューダー絶対王政であり、ここにおいて初めて法規範が一元化された。ヒュームはこの時点をもって、政治社会の発展史の第一段階の達成とみなす。それは、政治社会がその「本質」である「権力」を獲得した状態である。この認識は、統治を生命と財産の保障と捉える自然法学を継承したものであった。他方において、政治社会の第二の発展段階とは、政治社会の「完成」の契機たる「自由」を獲得する過程である。ヒュームは、「権力」と対比した意味におけるこの「自由」を、政治機構において政治権力が分割された混合政体の意味で用いている。「権力」を達成した絶対王政が混合政体へと発展する過程こそ、彼がスチュアート朝に見いだしたものであった。なお、『イングランド史』の歴史叙述の特質は、附録において検討する。

 第3部は、『論集』に展開された、近代ヨーロッパ世界をめぐる政治学を検討する。第5章は英国の混合政体をめぐるヒュームの認識を扱う。彼は、『イングランド史』の歴史叙述の見取り図とした「権力」と「自由」の二元論を、混合政体の説明に応用する。彼は、混合政体においては「権力」と「自由」の両契機が制度的に表現されると捉え、この二元的部分の間の緊張と均衡によってこの政体が維持されると理解する。ヒュームは、混合政体の均衡を論じるにあたって、「腐敗」を指弾する道徳論的な政治学が無意味であることを示す。彼の見るところ、英国の混合政体の均衡を維持しているのは、庶民院議員の利己心に訴えかける君主の「影響力」であった。人間の利己心が政治機構のなかでいかに方向付けられているか、ということこそ政治学が着目すべきだというのである。

 第6章は、ヒュームが近代ヨーロッパ世界を代表する政体とみなした「文明化された君主政」をめぐる議論を検討する。この政体は、近代ヨーロッパ世界において政治社会の第一段階を達成した君主政である。ヒュームは、マキアヴェッリに依拠しながら「文明化された君主政」とアジア的「専制政」を区分し、両者の相違点を、貴族を中心とした社会階層の存在に求めた。こうした認識はヒュームの政治学をモンテスキューの政治学に接近させるものであったが、両者は貴族の位置付けにおいて意見を異にした。モンテスキューが戦士の徳を称揚し、これを君主政の原理たる「名誉」としたのに対して、ヒュームは自らの歴史認識にもとづいてこうした議論を拒否した。ヒュームもまた貴族の「名誉」を重視したが、それは、宮廷などの社交世界において洗練された行動様式と結びつく限りにおける名誉である。彼が近代ヨーロッパ世界の習俗を描くにあたって排除したのは、封建貴族の精神ばかりではない。キリスト教は来世の栄光を追求するあまり、現世における「名誉」を等閑に付す。従って、世俗の社交空間のなか人間の名誉欲求をもとに形成された道徳規範を破壊する。これがヒュームの判断であった。ここにおいて彼はマキアヴェッリの『リヴィウス論』に指針を求めている。

 本論文が解明したのは、ヒュームが、政治学の伝統を引き継ぎながら、それを発展させることを通じて、政治学に新しい貢献をなしたことである。ハリントンの政治学を政治機構論の伝統の一つとみなして継承したヒュームは、党派対立を格納した政治機構を提示することによって、政治対立について新しい視座を提示した。さらに彼は、こうした混合政体論の政治学と自然法学とを接合することによって、「権力」と「自由」を政治社会の二つの構成要素として捉え直し、これに基づいて政治社会の発展史を描き出した。マキアヴェッリの政治学を発展させたものが、「文明化された君主政」論であり、政治社会を支える世俗の行動規範についての議論であった。ヒュームは、自らの政治学を、古代以来の政治学の伝統の延長に確固として位置付けたのである。

審査要旨 要旨を表示する

 本論文は、デイヴィッド・ヒューム(David Hume, 1711-1776)の政治学につき、ヒューム自身の政治学史理解に即して分析することでその全体像を描き切った作品である。

政治学の歴史を書くにあたって、どのような方針が正しいのか、政治学史家は争っている。問題の一つは、政治学史を哲学史に依存した形で叙述することの是非にある。もちろんこれは、実際に誰を分析の対象に取り上げるか、それが哲学史上の大人物にあたるかどうかによっても状況は大きく変わってくる。たしかに、1970年代、ジョン・ポーコックが政治学史の新しい書き方を世に問うたとき、取り上げたのはマキアヴェリであり、ハリントンとその後継者であり、十八世紀については英国の一連の政治論争のパンフレット、モンテスキュー、ジェファソンやフェデラリストであった。

この点、デイヴィッド・ヒュームは対照的な存在である。ヒュームは、『人間本性論The Treatise of Human Nature』を哲学史に残しており、彼の哲学は、ロックやバークレイに遡る経験論哲学の系譜や、ホッブズ、グロチウス、プーフェンドルフ、ハチソンが連なる道徳哲学の系譜の下で理解されてきた。こうした解釈の影響下、ヒュームの政治学もまた、『人間本性論』の人間像を前提に、グロチウスなどの自然法学の伝統との関係を手がかりに分析されてきたのである。

本論文は、そうした解釈態度に正面から異を唱える。そしてヒュームについても、哲学史とは別の角度から政治学を解明しようとする。「デイヴィッド・ヒュームの政治学:伝統の継承と発展」というタイトルは、著者の意気込みをよく示している。ヒュームの政治学を論じるには、哲学の伝統でなしに、政治学の伝統にこそ注目しなくてはならないというのだからである。

しかもそのとき、著者は、ヒュームが受けとめた政治学の伝統につき、その伝統がいかなるものであったかをいわば自明のこととしてヒュームを読み解くことを厳しく戒める。解釈者が前提とする政治学史をヒュームもまた共有していたとは限らないからである。そこで著者は、ヒューム自身がとらえた政治学史を分析することで、既存の政治学史の枠組みを相対化するという方法を採る。そしてその方法を基礎に、著者は従来の解釈の限界を打ち破り、ヒュームの政治学の全貌を明らかにすることになる。

ヒュームの著作は幅広い領域に及び、哲学の原理論には『人間本性論』(1739-1740)、『人間知性論』(1748)、『道徳原理論』(1751)があり、『道徳・政治・文学論集』(以下『論集』)(1758)は古代論から時事評論まで含む評論集である。『イングランド史』(1754-62)は全六巻に及ぶ大著であり、宗教論には『宗教の自然史』(1757)がある。著者は、全著作を渉猟した上で、本論文の構成については主に『論集』と『イングランド史』に着目した三部構成としている。まず、序論に続く第一部では、『論集』の古代論や「完全な共和国」論文を中心にヒュームがとらえた政治学史を読みとり、古代の政治学に対するヒュームの態度を解明する。次に、第二部では『イングランド史』を検討してヒュームの英国国制史観を確定するとともに、政治社会の発展過程に関するヒュームの二段階論を剔抉する。そして第三部では、『論集』の時事評論や文明論と『イングランド史』とを併せ読み、近代の君主政に関するヒュームの議論を解明し、政治学史上のヒュームの位置を決定している(なお、結語の後に付録を置き、『イングランド史』の歴史叙述の特徴についての検討を収める)。

以下、本論文の梗概を記す。

まず、序論においては、著者はヒューム自身の政治学史理解に即した形で先行研究の解釈態度を批判する。社会契約説批判に注目して『人間本性論』(とりわけその第三部)を中心に政治学を解釈する立場に対しては、ヒュームが社会契約説を政治学の中の異端と見ていたことを根拠にこれを斥ける。また、『富と徳』というホントとイグナティエフの代表的な研究書のタイトルに集約される二元的対比――戦争か商業か、土地か貨幣か、徳かマナーか、古代か近代か、という対比――を前提とした上で後者の陣営にヒュームを捉える立場についても、その二元論がヒューム自身の描いた対抗関係とは懸け離れていることを指摘して批判する。そして、ヒュームにとって政治学史上の主要な対抗関係は道徳論か政治機構論かであったとし、それを論証すべく、本論に入る。

第一部「古代世界と政治学、古代世界の政治学」では、まず、同時代の他の議論や、『論集』の古代論を手がかりに、ヒュームの政治学における古代ギリシア・ローマの意義を明らかにする。そして、この周到な手続きを踏んだ上で、『論集』の「完全な共和国」論文の意義をジェイムズ・ハリントンの『オセアナ共和国』との詳細な比較を通じて解明する。すなわち、第一部の前半では、ひとまずヒュームを離れ、同時代人による、古代共和政ローマの扱いが検討される。当時の英国では、政治状況を共和政ローマとの類比で論じる風潮が強まり、ローマにおける貴族・平民の対立をプラスに評価したマキアヴェリの『リヴィウス論』と、マキアヴェリを批判したハリントンの『オセアナ』が広く読まれていた。そうした知的状況の中で、ボリングブルックはローマと英国の相違を強調し、ローマの混合政体は党派対立ゆえに崩壊したが、英国の混合政体はゲルマン人起源であるがゆえに党派対立を生み出さぬ安定した政体であると称揚した。一方、エドワード・モンタギューの議論は、ローマと英国を並列し、奢侈による習俗の腐敗がローマの混乱の原因であったとして英国の現状に警鐘を鳴らすものであった。

こうした一連の議論の特徴を踏まえた上で、著者は分析の対象をヒュームに転じ、『論集』の古代論は同時代の議論に対する応答であったことを指摘する。すなわち、ヒュームはローマ共和政崩壊の原因を政治機構上の不備と版図の拡大に求めたが、これは、習俗に注目する議論や英国国制を無前提に賞賛する議論に反論するものであり、ヒュームの姿勢はむしろ、十七世紀のハリントンの姿勢に通ずるものであったというのである。さらに、この認識を前提として初めて、ヒュームが「完全な共和国」論文でハリントンの『オセアナ』を高く評価したことが理解できるというのが著者の立場である。ヒュームは、元老院と民会の二院制立法機構を政治機構の中心に据える点を基本的に継承している。その上で、党派対立の扱いについては、これをハリントンのように封じ込めるのではなく、むしろマキアヴェリに立ち戻って対立を許容する態度をとり、さらに進んで「対立者会議」という形で制度的表現を与え、政治機構の中に取り込む道をとったという。

第一部の示す重要な知見は三点に整理されよう。第一に、ヒュームの政治学史理解は、古代の政治学に近代の政治学がとって代わりヒュームがその先頭に立つというものではなく、むしろ、古代以来の政治学の伝統の中に、個人の道徳的資質の管理に関心を払ういわば道徳論的政治学と、利己的な個人を前提とした上で政治機構の構成に注意を払って問題に対処する機構論的政治学の二つの伝統を見いだすものであり、ヒューム自身は、ハリントンに連なる後者の伝統に身を置くものであったということである。第二に、ヒュームはこうして見いだした伝統を継承した上で、党派対立という多元性を、身分対立に立脚させるのではなく、政治機構の中で制度的に基礎づけるという政治学上の革新を成し遂げたことである。そして第三に、この政治機構論は、共和政のみならず君主政にも適用可能なものであったということである。

つづく第二部・第三部では、転じてヒュームの近代観が検討される。まず、第二部「『イングランド史』の政治学」では『イングランド史』を分析対象とし、ヒュームのイングランド国制史を二段階に分けて詳述している。イングランドは記憶を越えた遥か昔から卓越した国制を有していたという古来の国制論につき、ヒュームは極めて批判的であり、ゴシック国制ないし封建国制は、貴族が割拠して実力支配を貫徹する社会、つまり政治社会成立以前の段階であったと把握していたという。ヒュームにとり、政治権力の一元的支配、法規範の一元化が達成され、イングランドに政治社会が成立したのはチューダー期であったのである。

しかし、この段階は、政治社会がヒュームの言うところの統治の「本質」たる「権力」を確立して生命・財産の保障を実現した、いわば第一段階に過ぎなかった。第二段階、つまり統治の「完成」たる「自由」の段階に至るには名誉革命を待たねばならなかった。そして、この二段階論こそ、ヒュームの政治学の性格をよく示していると著者は主張する。つまり、第一段階の達成を強調するのは、社会秩序の維持、生命や財産の保障に関心を払う自然法学の伝統にヒュームが連なっていたことの証左であり、そしてその点に留まらず、第二段階を設定して議論したのは、ハリントンを経由して政治機構論の政治学の伝統をヒュームが継承すればこそだったというのである。すなわち、ヒュームの政治学とはこの二つの議論を政治社会の二段階論で接合したものであったというのが著者の評価である。これまでの研究において、『イングランド史』に着目してヒュームの政治学を分析して注目されたのはダンカン・フォーブス(1975)であったが、著者からすれば、フォーブズの研究は「権力」の段階の議論に終始する一面的なものであったということになる。

では名誉革命の段階でイングランド国制はいかなる変容を遂げたのか。それが、『イングランド史』の叙述を『論集』の議論と照合し、近代世界における英国国制の意義についてのヒュームの理解を分析した、本論文第三部「近代ヨーロッパ世界の政治学」の課題である。ヒュームの見るところ、近代ヨーロッパの特色は、フランス・英国をはじめ、各地に「文明化された君主政 a civilized monarchy」を成立させたことにあった。これは、アジア型の「専制」とは異なり、法規範が一元化され、国民の生命・財産が君主の恣意には晒されない体制であった。

この点、英国国制は、一歩進んだ体制であったとヒュームは見る。つまり、「文明化された君主政」にさらに混合政体を組み込んだ希有な体制であった。国王に庶民院が対抗する国制が確立され、国民に政治的自由を保障していたからである。つまりヒュームは十八世紀の英国国制を理解するにあたって、『イングランド史』の叙述の見取り図であった「権力」と「自由」の二段階論を混合政体論にも適用して用いていたというのが本論文の指摘である。当時の英国国制は、国王と庶民院が「権力」と「自由」の要素をそれぞれ制度的に表現した混合政体であり、名誉革命が重要なのは、それが「古来の国制」を復興したためではなく、むしろ「近代の君主政」よりも高次の段階を達成したゆえであるというのがヒュームの理解であったというのである。

そこでヒュームの関心事は、何がこの混合政体を保持しているのか、つまり国王と庶民院の間の緊張と均衡を何が維持しているのかに向けられる。そしてその秘密は、庶民院の国王に対する警戒心の存在に加え、国王が官職の提供を通じて庶民院議員個々人の利害に影響力を行使していることにあるというのがヒュームの答えであった。君主政理解にあっても、政治機構が個々人の利害をいかに扱うかという観点をヒュームが欠かさなかったというのが著者の整理である。

それでは「文明化された君主政」の議論においてヒュームはどれほどモンテスキューに接近したのであろうか。著者は第三部の最後でこの問題に取り組んでいる。ヒュームは、マキアヴェリの『君主論』に学んでヨーロッパの「文明化された君主政」とアジアの「専制」を区別し、その違いを、ヨーロッパには貴族を中心とした社会階層が存在することに求めており、その点ではたしかにモンテスキューの三政体分類に通じるところが認められる。しかし、モンテスキューが封建貴族の戦士の徳を賞賛し、名誉が君主政の原理だとしたのに対し、ヒュームは、封建貴族については法規範の一元化を妨げ、国制の撹乱要因であったとしてむしろ断罪する。貴族の名誉心が重要なのは、宮廷などの社交世界において洗練された行動様式と結びついて、近代ヨーロッパ世界の習俗の確立に寄与した限りにおいてであり、戦士の徳や名誉は近代の君主政を支える習俗とは無縁であると考えたのである。つまり両者の違いは、モンテスキューが封建国制の延長上に英国国制をとらえたのに対し、ハリントンの弟子、ヒュームは封建国制を政治社会以前の段階であるとして斥けたうえで、「文明化された君主政」をその次の段階に位置付けたことに帰着する。

また、キリスト教を君主政を支える習俗から除外した点ではバークと比してもヒュームは異色であり、キリスト教は来世の栄光を説くあまり現世での名誉心を否定し、ひいては社交世界の道徳規範を堀り崩すと厳しく指弾する態度はマキアヴェリの『リヴィウス論』に従うものであると指摘される。

このように見てくると、ヒュームは、伝統を拒否して再出発を図った政治学者ではなく、むしろ、伝統を引き継ぎ、これを発展させることで革新をもたらした政治学者であったことが明らかになる。ハリントンの政治学については、これを政治機構論の伝統上に位置付けて吸収し、他方、同時にマキアヴェリの『リヴィウス論』に学んで党派対立についてはこれを許容し制度化する政治機構を案出するに至った。また、自然法学と政治機構論の関係については、これを「権力」と「自由」という二要素に整理して政治社会の発展史を叙述した。さらに、「文明化された君主政」の議論はマキアヴェリの『君主論』を引き継ぐものであった。著者は結語におけるこうした整理をもって、本論文を締めくくっている。以上が本論文の梗概である。

本論文の長所は、ヒューム自身の政治学史理解に着目することで、先行研究の解釈枠組みを相対化し、ヒュームの政治学の全体像を描出する確固たる視点を獲得することに成功した点にある。著者は、その視点を十二分に活用し、以下の確実な貢献を生み出した。

まず、第一の貢献は、ヒュームの個々の作品について新たな解釈を提出したことである。すなわち、『論集』の「完全な共和国」論文については、これを古代型の共和主義に対する近代派の応答であるとする近年の解釈を排し、むしろ道徳論の政治学に対する、政治機構論の政治学の側の議論であることを明らかにしている。また、『イングランド史』については、それが単にイングランドの古来の国制がヨーロッパ全体のパタンを踏んだ過程を跡づける歴史、いわば「文明化された君主政」の成立史に留まる作品ではなく、むしろ、フランスなど他のヨーロッパ諸王政とは違った、独自の政体、混合政体へとイングランドの国制がさらに発展し、正義や秩序のみならず自由をも実現する段階に到達する過程を叙述した作品であったことを示している。

次に、第二の貢献は、『人間本性論』『論集』『イングランド史』を含め、全著作を貫くヒュームの政治学の全体像を確立したことである。すなわち、生命・財産の保障という基本的なニーズを満たすための自然法学に、高次の目標たる政治的自由を確保すべく、政治機構上の配慮を求める混合政体論を――文明の発展史という媒介項を設けて――接合したのがヒュームの政治学であったことを明らかにしたのである。ヒュームは決して伝統的な政治学を拒否した人物ではなく、むしろ積極的に継承して発展させた政治学者であったという解釈は、従来のヒューム像を一新するものである。

そして第三の貢献は、マキアヴェリ、ハリントン、モンテスキューとの関係の中で、ヒュームの政治学史上の位置を確定し、ひいては、十八世紀英国政治思想史の新たな読み方を提起したことである。まず、ハリントンとの関係では、ヒュームが土地所有変動論ではなく政治機構論に着目した点でネオ・ハリントニアンとは一線を画しており、ヒュームこそが十八世紀におけるハリントンの正統な後継者であることを明らかにしている。また、封建国制については、これを混合政体とは認めないハリントン特有の視点を引き継いだ点に着目し、あくまで封建貴族に自由の守り手を期待するモンテスキューとのシャープなコントラストを見いだすことにも著者は成功している。さらに、アジア的な専制から「文明化された君主政」を区別し、しかもその文明の要素からキリスト教を切り捨てる態度については、マキアヴェリの色濃い影響を読みとっている。もちろん、十八世紀英国政治思想史研究において、マキアヴェリやハリントンの影響はこれまでも再三強調されてはきた。しかし、本論文の知見は従来の解釈とは全く異なった形で両者が十八世紀に関わったことを示すものであり、十八世紀英国政治思想史全体にかかわる、新たな解釈枠組みを提示した点でも注目される。

一方、本論文の短所は以下の二点である。

第一点は、『人間本性論』についてのまとまった解釈が示されていないことである。もちろんこれは、著者が、哲学史中心のアプローチを回避したがゆえのやむを得ない結果であることは理解される。しかし、上述の新しい視点からヒュームの政治学を新しく描き切った後で、その観点からは『人間本性論』はいかなる形で解釈されるのかという問題が残されている。つまり、従来とは逆の順序、政治学から哲学へという順で『人間本性論』を読んだときに、ヒュームの哲学はいかなる相貌を帯びるのかという問題である。

第二点は、ヒューム以降、とりわけ十九世紀の政治学史の展開の見通しがほとんど示されていないことである。これは、十八世紀以前の扱いと著しい対照をなしている。もとより、政治学史の論文において、当該思想家以降の歴史の見取り図まで当然に求められるものではない。しかし著者は、古典古代の政治学、就中その政体論に学ぶという伝統の掉尾にヒュームを位置づけており、ヒュームの後に、あるいは世紀の変わり目に政治学史の伝統が断絶を迎えることを前提として随所で議論を進めている。そうであれば、その断絶につき、暗示に留めることなく、むしろ著者の見解を積極的に提示しておくことが求められたように思われる。

しかし、以上の難点も、決して本論文の学問上の意義を揺るがすものではない。すなわち、ヒューム研究及び十八世紀英国政治思想史研究において、著者はここに新たな水準を画しており、それを疑うことは困難である。よって本論文は、博士(法学)の学位にふさわしい内容と認められる。

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