学位論文要旨



No 215653
著者(漢字) 池本,毅
著者(英字)
著者(カナ) イケモト,タケシ
標題(和) 機能性素材としての香気成分配糖体の化学的研究
標題(洋)
報告番号 215653
報告番号 乙15653
学位授与日 2003.04.10
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第15653号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 北原,武
 東京大学 教授 大久保,明
 東京大学 教授 清水,誠
 静岡大学 教授 渡辺,修治
 東京大学 助教授 渡邉,秀典
内容要旨 要旨を表示する

動植物から微生物にいたる様々な生物が、植物の光合成によって固定・蓄積される糖類を生命活動のエネルギーとして活用している。近年では糖脂質や糖タンパクなどの複合糖質の機能性が解明され、糖質の生体内における重要性が再認識されてきている。配糖体は動植物界に広く存在する糖誘導体の一つであり、生物学的にも重要な作用を有しているものも多く存在する。香気成分をアグリコン部とする配糖体がバラ花弁に存在することが確認されて以来、様々な花や果実から200種以上の香気成分をアグリコンとする配糖体が単離され、それらの植物器官における分布状態や植物体内における役割の解明などに関する研究も進められている。一方、日本酒や柑橘類果皮に含まれるethyl D-glucosideは、その起源によってそれぞれの異性体が存在することが報告されている。しかしながら香気成分の配糖体やethyl D-glucosideの応用に関する検討はなされていない。筆者はこれらの配糖体を香気成分配糖体と定義し、その特性を化学的に解明することによって新たな機能性素材として応用することが可能であると考え、本研究を行なった。

Ethyl D-glucosides (1)の特性に関する化学的研究

<Ethyl β-D-glucoside (2)がエタノール水溶液の溶液構造に及ぼす影響>

ウィスキーなどの蒸留酒は熟成することにより、エタノールの刺激や刺激臭が緩和される。この期間に溶液構造が大きく変化することが示差走査熱量測定(DSC測定)や核磁気共鳴装置分析(NMR測定)によって確認されている。これらの測定方法を用いて、糖誘導体がエタノール水溶液の溶液構造に及ぼす影響を調べた結果、添加する糖誘導体の種類によってエタノール水溶液の溶液構造が大きく変化すること、中でもethyl β-D-glucoside (2)添加時には17O-NMR測定における水シグナル半値幅の減少、1H-NMR測定における水酸基シグナルの融合、またDSC測定における水とアルコール共融ピークの増大など熟成後のエタノール水溶液と同様の現象を確認した。さらに、この溶液構造の変化がアルコール刺激に及ぼす影響を調べる目的で行なった赤血球膜溶血性試験においても、2添加時にはヘモグロビンの溶出が顕著に抑制されることを確認した。この現象は2の異性体であるα体(3)や他の糖誘導体を添加した時には何ら確認できなかった。これらの結果は水の安定な構造の一つとされるトリデマイト構造と類似の構造を持つD-glucoseにエチル基がβ結合した2の構造に起因していると推察した。

<Ethyl α-D-glucoside (3)のあれ肌改善作用について>

日本酒は古くから化粧水としても用いられてきたが、その作用や有効成分に関する研究はなされていない。日本酒濃縮物の皮膚への作用をマウスUVBあれ肌モデルにおける経皮水分蒸散量(TEWL値)を指標に評価した結果、日本酒濃縮物には紫外線によるあれ肌を改善する作用があることを確認した。そこで日本酒に含まれる配糖体ethyl α-D-glucoside (3)とその異性体であるβ体(2)の作用を比較した。その結果3塗布時にだけ、日本酒濃縮物と同様にTEWL値の上昇が抑制されることを確認した。さらに2および3の表皮細胞に対する作用を調べてみると、3だけが濃度依存的に角化促進作用を示すことを確認した。このTEWL値の上昇は表皮細胞の増殖亢進と角化不全化が原因であることから、3のあれ肌予防・改善作用は表皮細胞の増殖と角化のバランスを調整することによるものと考察した。

香気成分配糖体の機能性素材としての研究

<香気成分配糖体が花の芳香特性に及ぼす影響について>

花は香気成分の前駆体物質を酵素分解することによって、持続的また概日リズムを持って香気成分を生成すると考えられている。芳香バラの主香気成分2-phenylethanolの前駆体である2-phenylethyl β-D-glucoside (4)の水溶液に、芳香の弱いバラの切り花品種Rote roseを挿しておくと花から放出される2-phenylethanol量が約600倍に、また2-phentlethyl acetateなどの他の香気成分も著しく増加することをヘッドスペースガス分析(HS分析)により確認した。これらの生成量は4の添加濃度に依存すること、また異性体であるα体(5)添加時にも4には及ばないものの香気成分量が増加することも確認した。 また不快臭を有するカスミ草Gypssphila elegansに4を吸収させると不快臭が改善した。HS分析において2-phenylethanolが1000倍以上に増加するだけでなく、不快臭の原因と判断したiso valeric acidや2-methylbutyric acid は25分の1まで低減することを確認した。これらの脂肪酸量の低減は吸水による4の花への移行量に影響されることも確認した。これらの現象の理由を解明するには至らなかったために、結果として4や5を用いることで切り花の芳香が増強することを確認するに止まったが、配糖体が花の芳香生成メカニズムにおける役割を改めて確認した結果であると考えた。

<香気成分配糖体のデオドラント剤としての機能性について>

体臭は皮脂腺からの分泌物を皮膚常在菌類が代謝するときに生成する低級脂肪酸が不快臭の原因である。そこでデオドラント剤には制汗剤、抗菌剤とともに不快臭をマスキングする目的で香料が用いられているが、揮発性の高い香料物質では経時的に強まる体臭を長時間マスキングすることは困難である。そこで花の香気成分前駆体である配糖体の応用を検討した。4、5やraspberry ketone β-D-glucoside (6), eugenyl β-D-glucoside (7)などの数種類の香気成分配糖体をそれぞれ添加した培地で皮膚細菌類を培養し、生成する香気成分量をGC分析した。また配糖体溶液を身体各部に塗布した時に生成した香気成分については経時的にHS分析を行なった。その結果、どちらの試験においてもβ-D-glucoside誘導体から最も多量に香気成分が生成することを確認した。In situ実験においては頭皮や足部など皮膚細菌の密度が高い部位において生成量が多いことを確認した。以上のことから香気成分配糖体は皮膚細菌によって皮膚上で代謝分解され、香気成分が生成したものと判断した。さらに抗菌作用を有するeugenol (2-methoxy-4- (2-propenyl)phenol) をアグリコンとするeugenyl β-D-glucoside (7)を塗布した場合には24時間後においてもeugenolが生成していること、そして十分なマスキング効果が有ることも確認した。

<香気成分配糖体のメラニン生成抑制効果について>

太陽光に含まれる紫外線を浴びることによって皮膚の基底層にあるメラノサイトにおいてメラニン合成が高まる。このメラニン顆粒が蓄積することにより生じる皮膚の色素沈着は美容上大きな問題である。フェノール系化合物の中には、このメラニンの生成抑制効果を有するものが多く知られているが、安全性や安定性に欠けるものも多い。そこでフェノール性香気成分の配糖体のメラニン生成抑制作用について検討した。6, 7およびglucovanillinのB16メラノーマ細胞におけるメラニン生成抑制作用を調べた結果、6は陽性対象物質として用いたarbutin (hydroqinone β-D-glucoside) 以上に強い抑制効果を示した。しかしながら6と糖骨格が異なるD-galactoside体やD-xyloside体には効果はなかった。さらにアルキル鎖長の異なる4種類の4-alkylphenyl β-D-glucosideの抑制効果を調べた結果、6と類似構造を有する4-butylphenyl β-D-glucosideが最も強い抑制効果を示した。また表皮細胞の培養系に6を添加するとアグリコンであるraspberry ketone (4-(p-hydroxyphenyl)-2-butanone)が経時的に増加することをHPLC分析により確認した。さらにraspberry ketoneには6以上に強いメラニン生成抑制効果や活性酸素消去作用があることも確認した。以上のことから6の活性本体はraspberry ketoneであると推察した。Arbutinは皮膚中で分解反応を受けることなく、配糖体自体が活性本体であると報告されているが、6は代謝を受けることによって作用が発現するものと考えた。皮膚中における6の挙動については今後の課題であるが、塗布することにより活性物質を持続的に皮膚中に供給し得る6は新たな機能性素材としての可能性を示唆するものと考えた。

本研究は香気成分配糖体の特性を化学的に解明することにより、機能性素材としての応用可能性を探索した結果をまとめたものである。得られた結果に基づきethyl D-glucosides やraspberry ketone β-D-glucosideは皮膚化粧料、eugenyl β-D-glucosideはデオドラント商品に既に応用研究が為されている。植物は香気成分以外にも様々な物質を配糖体として蓄積していることが知られているが、これらの配糖体の特性を研究することによってさらに新しい機能性素材の開発が可能になるものと考える。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、機能性素材の開発を目指した香気成分配糖体の化学的研究に関するもので3部よりなる。配糖体は動植物界に広く存在し、生物学的にも重要な作用を有しているものも多い。花や果実には様々な香気成分の配糖体が前駆体として存在することが報告されている。また柑橘類果皮や日本酒中にはethyl D-glucoside の両異性体が存在することが確認されている。しかしながら、香気成分配糖体やethyl D-glucosideの特性についての化学的な研究はなされていない。筆者はこの点に着目し、これらの特性を化学的に解明し、機能性素材としての応用することを目的として研究を行なった。

第1部で研究の背景について概説した後、第2部(2章よりなる)ではethyl D-glucosideについて行った化学的な特性の解析について述べている。筆者はまず、糖誘導体がエタノール水溶液の溶液構造に及ぼす影響を、示差走査熱量測定(DSC測定)と核磁気共鳴装置分析(NMR測定)で調べた。その結果、ethyl β-D-glucoside (1)添加時には熟成したエタノール水溶液と類似の溶液構造が形成され、アルコール刺激も緩和されることが明らかになった。これに対し、異性体であるethyl α-D-glucoside (2)や他の糖誘導体を添加した時には何ら作用はなかった。これはD-glucoseにエチル基がβ結合した1が、水のトリデマイト構造と類似していることに起因していると推察した。一方、日本酒に含まれる2にはあれ肌を改善する作用があることを動物実験により確認した。さらに2は表皮細胞に対して角化促進作用を示したが、1には全ての試験において何ら有効な作用は見出されなかった。

第3部は3章で構成されている。まず第1章でバラの主香気成分2-phenylethanolの配糖体である2-phenylethyl β-D-glucoside (3)が切り花の芳香に及ぼす影響を調べた結果について述べている。バラ品種Rote roseを3の水溶液に挿しておくと花から放出される2-phenylethanolだけではなく、他の香気成分も著しく増加することを確認した。また異性体であるα体添加時にも香気成分量は増加した。さらに興味深いことに、カスミ草Gypssphila elegansに3を吸収させると香気成分が増加することに加え、カスミ草が元来有する不快臭成分の低級脂肪酸類量が低減することを確認した。この理由は未解明であるが、本知見により、配糖体の花芳香メカニズムにおける新たな研究方針が提起された。

第3部第2章では香気成分配糖体のデオドラント作用、美白作用について行った検討結果について述べている。香気成分配糖体は皮膚細菌類により代謝され香気成分を生成することをin vitroおよびin situ実験により確認した。中でもβ-D-glucoside誘導体が代謝されやすい構造であると判断し、eugenyl β-D-glucoside (4)を用いた実用試験で、4に高いデオドラント効果があることを見出した。

次いで第3章では香気成分配糖体のB16メラノーマ細胞におけるメラニン生成抑制作用について述べている。その結果raspberry ketone β-D-glucoside (5)には既存の美白剤であるarbutin (hydroquinone β-D-glucoside) 以上の抑制効果があることを見出した。その活性本体はアグリコン部であるraspberry ketoneであることを確認したが、塗布することにより活性物質を持続的に皮膚中に供給し得る5は配糖体が活性本体であるarbutinとは異なる機能性素材としての可能性を示唆するものと考えられた。

以上筆者は、香気成分配糖体の特性を化学的に解明することにより、機能性素材としての様々な可能性や新知見を見出している。実際にこれらの配糖体は化粧品の添加剤として実用化に至っており学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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