学位論文要旨



No 215655
著者(漢字) 串田,愛
著者(英字)
著者(カナ) クシダ,アイ
標題(和) 温度応答性培養皿を用いて酵素を用いずに回収した細胞及び細胞シートの研究
標題(洋) Studies on the cells and cell sheets recovered nonenzymatically from temperature-responsive culture dishes
報告番号 215655
報告番号 乙15655
学位授与日 2003.04.17
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第15655号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 林,利彦
 東京大学 教授 久保田,俊一郎
 東京大学 助教授 松田,良一
 東京大学 助教授 安田,賢二
 東京女子医科大学 講師 大和,雅之
内容要旨 要旨を表示する

生化学、分子生物学、細胞生物学などの生命科学にとって細胞培養技術は切っても切りはなすことの出来ない重要な要素技術である。細胞周期、アポトーシス、免疫など様々な生命現象を追究する基礎研究分野において培養細胞が用いられているが、近年、組織工学、再生医療、細胞療法など、臨床の現場に培養細胞を用いるための研究も精力的に行われている。これらの研究の成功は細胞培養に依存すると言っても過言ではない。しかし、生体内から取り出した細胞をin vitroで培養する手法を確立し、分化機能を発現させることが出来たとしても、それを培養表面からそのまま回収し用いるという方法は確立されていない。通常、培養皿からの細胞の回収にはトリプシンなどのタンパク質分解酵素を用いる。しかし、この方法は、培養した細胞を一つ一つバラバラにするため、細胞が再び分化機能を獲得するためにはさらに培養を行わなくてはならない。また、細胞によってはトリプシン処理により障害を受け、増殖能や分化能を失うこともある。

そこで申請者は培養した細胞を、タンパク質分解酵素を用いることなしに、非侵襲的に回収する技術に着目した。申請者の所属する研究所ではこれまでに、温度変化に応答して表面の性質を変化させる温度応答性培養皿を開発している。温度応答性高分子、ポリ(N-イソプロピルアクリルアミド)(PIPAAm)を電子線照射により、組織培養用のポリスチレン製培養皿上に共有結合的に固定化させ温度応答性培養皿を作製する。この培養皿表面は37℃の培養条件では疎水性を示し、高分子固有の下限臨界溶液温度(LCST)である32℃以下では、直ちに水和し、親水性になる。細胞は一般的に比較的疎水性の表面に接着する。したがって、37℃ではPIPAAm培養皿上で様々な種類の細胞が、高分子をグラフトしていない通常の培養皿と同様に接着・伸展・増殖する。しかし、培養温度をLCST以下に下げると、PIPAAm培養皿表面は親水性となり、細胞は脱着する。温度を下げるだけでPIPAAm培養皿から回収された血管内皮細胞や肝実質細胞は、トリプシン処理で回収されたものと比較し、高度に分化機能を維持していた。また、種々の細胞機能阻害剤を用いた実験から、この脱着には、ATP(エネルギー代謝)、チロシンリン酸化(細胞内情報伝達)、アクチンの重合・脱重合(細胞骨格の再組織化)が必要であることが示されている。

本論文は二部、全五章から構成されている。第一部では温度応答性培養皿からの細胞および細胞シートの脱着のメカニズムについて考察している。第一章では、温度応答性培養皿上で血管内皮細胞がコンフレントに達した際に温度をLCST以下に下げると、細胞は、細胞-細胞間が連結した一枚の細胞シートとして脱着することを示した。また、抗フィブロネクチン(FN)抗体を用いた組織学的・生化学的検討から、低温処理による細胞脱着は、温度応答性高分子とFNなどの細胞外マトリックスとの間の相互作用が減少することにより生じること、脱着した細胞外マトリックスは細胞底面に接着したまま回収される(図1)ことが明らかとなり、別の表面へ細胞シートを接着させる際に「糊」として働く可能性が示唆された。さらに第二章では、あらかじめFN分子を温度応答性培養皿に吸着させ、低温処理を行った。細胞が存在しているか否かでFNの挙動を比較したところ、温度応答性培養皿上に吸着したFNは、培養皿表面が親水性に変化しても、細胞なしには脱着しないということが明らかとなった。第三章ではイヌ腎上皮由来細胞株MDCK細胞を用い、MDCK細胞シートの脱着挙動を観察した。MDCK細胞は播種後2週間目までは脱着しなかったが、それ以降、培養日数に応じた脱着の加速が見られた。この細胞はコンフレントに達した後も増殖し、細胞一個あたりの接着面積が小さくなっていく。また培養日数と細胞外マトリックスの沈着について検討したが、この細胞シートの脱着の加速は、細胞が小さくなること、すなわち細胞自身の収縮力の増加に一番相関していると思われた。以上、三つの章から得られた結果より、細胞および細胞シートの温度応答性培養皿からの脱着には、培養皿表面の親水性化だけでなく、細胞自身のエネルギーが必須であることが明らかとなった。細胞は培養皿上に接着・伸展すると細胞骨格に起因した牽引力を生じる。37℃ではこの牽引力と、PIPAAm鎖と細胞外マトリックスとの相互作用とが均衡を保っており、細胞は接着している。しかし、温度がLCST以下になり、PIPAAm鎖が水和し表面が親水性になると、その均衡が崩れ、細胞は自らの牽引力により収縮し脱着するのであると考えられる。

第二部では温度応答性培養皿からの脱着には細胞自身のエネルギーが必須であるという知見をもとに、細胞シートの剥離性の向上を目指し、支持体として親水性のPVDF膜を用い、細胞シートを回収・移動・再接着させる手法「細胞シートの二次元マニピュレーション法」(図2)を開発し、その非侵襲性を検討した。第四章では、この二次元マニピュレーション法をMDCK細胞シートの回収に適用した。MDCK細胞は血管内皮細胞と比較し、細胞の脱着に必要な低温処理時間が長い。このことはMDCK細胞の脱着エネルギーが温度応答性培養皿から細胞が脱着するためには不十分であることを示唆する。二次元マニピュレーション法では、支持体で脱着力の弱さを補助することにより、MDCK細胞シートの回収に必要な低温処理時間を短縮することが出来た。また、移動後も細胞間接着を制御するβ-カテニンは細胞間接着部位に局在し、細胞間接着装置は移動後も維持されていた。透過電子顕微鏡観察により、移動後の細胞シートからも、細胞極性を持つ上皮細胞に見られる微絨毛やタイトジャンクション(TJ)が観察された。第五章では、細胞シートの二次元マニピュレーション法の非侵襲性を上皮細胞に特徴的なTJ、細胞極性の観点から検討した。イムノブロッティングにより、TJを構成するオクルジンは、トリプシン処理により細胞を回収した場合は分解されてしまうが、二次元マニピュレーション法では維持されていることが確認された。また、MDCK細胞およびヒト近位尿細管細胞を用い、共焦点レーザー顕微鏡観察により、Na+/K+-ATPase、グルコーストランスポータ、アクアポリンなどの局在を検討したところ、それぞれの局在を維持したまま、非侵襲的に上皮細胞シートを回収・移動できることが明らかとなった。

以上、本論文では、温度応答性培養皿からの細胞および細胞シートの脱着のメカニズムについて生化学的、細胞生物学的に解明し、その知見をもとに、脱着した細胞シートを他の培養表面に移動・再接着させるという新奇な手法を確立した。そしてその手法の非侵襲性を確認した。

現在、二次元マニピュレーション技術による細胞シートの非侵襲的回収は、表皮角化細胞、心筋細胞、角膜上皮細胞をはじめとした様々な細胞種で実現されている。表皮角化細胞シートを従来のディスパーゼにより培養皿から回収すると、細胞-細胞間接着分子であるE-カドヘリンや細胞外マトリックスのラミニン5が分解されており、そのことが移植後の感染や定着能の低下を引き起こすと思われる。しかし、温度応答性培養皿から回収した細胞シートでは、これらが維持されており、この表皮角化細胞シートの臨床応用への有効性が示唆される。

細胞培養技術は生体内のホメオスタシスの影響を取り除き、純粋に細胞の機能だけを観察することができるという利点がある。しかし、実際は、細胞を分離してしまったことで生体内にはない現象を見ているというおそれがある。細胞は生体内で、細胞-細胞間や細胞外マトリックスからの情報伝達、すなわち、その置かれている環境により、分化機能を発揮していると思われる。組織という単位がその環境に相当するのではないだろうか。組織学的に観察すると、組織は、異なる種類の分化した細胞がそれぞれ形成する細胞シートが、細胞外マトリックスを介して重なり合い、折れ曲がったり、管を形成したりすることによってできている。そこでバラバラの細胞からではなく、細胞シートを基本単位として積層していくことが組織構造の再構築への第一歩であると確信している。実際に、申請者の所属している研究室では肝実質細胞シートと血管内皮細胞シートを積層共培養することで、肝実質細胞の長期培養および機能亢進を実現することが出来た。温度応答性培養皿を用いた細胞シート二次元マニピュレーション法は、組織工学・再生医療の分野だけでなく、細胞培養技術が必要な全ての生命科学分野に新しい培養法として有用な技術であると思われる。

温度応答性培養皿から低温処理により脱着した血管内皮細胞シート37℃で接着・伸展・増殖しコンフレントに達した後、培養温度を20℃に下げると、細胞は細胞シートとして温度応答性培養皿から脱着する。FN(緑)と核(紫)の二重染色像。培養の間に細胞が合成・沈着した細胞外マトリックスも細胞シートの底面に接着したまま脱着している。

細胞シートの二次元マニピュレーション法

二次元マニピュレーション後のMDCK細胞シート二重染色(a;F-アクチン, β-カテニン)により、移動後も細胞-細胞間接着装置は維持されていることが確認できた。また、細胞極性を持つ分化上皮細胞に特徴的な頭頂面側の微絨毛、TJ(dの矢印)も観察された。(c; bar=1 μm, d; cの四角い囲みの拡大像, bar=0.5 μm)

審査要旨 要旨を表示する

組織工学、再生医療、細胞療法など、臨床の現場に培養細胞を用いる研究が精力的に行われている。生体から取り出した細胞をin vitroで培養し、分化機能を発現させることが出来たとしても、培養した状態のまま回収する方法は確立されていない。細胞の回収にトリプシンなどのタンパク質分解酵素を用いる方法では、培養細胞間の接着が悪くなり、生体組織より劣った機能を有するものしか得られない。申請者は培養した細胞を、タンパク質分解酵素を用いることなしに、非侵襲的に回収する技術に着目した。申請者の所属する研究所では、温度応答性高分子、ポリ(N-イソプロピルアクリルアミド)(PIPAAm)を電子線照射により、組織培養用のポリスチレン製培養皿上に共有結合的に固定化させ温度応答性培養皿を開発している。この培養皿表面は37℃の培養条件では疎水性を示し、高分子固有の下限臨界溶液温度(LCST)である32℃以下では、親水性になる。細胞は一般的に比較的疎水性の表面に接着する。37℃ではPIPAAm培養皿上で様々な種類の細胞が通常の培養皿と同様に接着・伸展・増殖する。しかし、培養温度をLCST以下に下げると、PIPAAm培養皿表面は親水性となり、細胞は脱着する。本研究はこのような細胞脱着の新しい技術を用いて回収した細胞および細胞シートの特徴および脱着を適切に行うための生化学的要因について検討を行ったものである。以下に本論文の概略を述べる。

本論文は二部、全五章から構成されている。第一部では温度応答性培養皿からの細胞および細胞シートの脱着のメカニズムに関するものである。第一章では、LCST以下の温度に下げることにより、温度応答性培養皿上でコンフレントに達した血管内皮細胞層を細胞-細胞間が連結した一枚の細胞シートとして回収されるが、脱着するのは、温度応答性高分子とフィブロネクチン(FN)などの細胞外マトリックスとの間の相互作用が減少することにより生じることを示した。すなわち、抗FN抗体を用いた組織学的・生化学的検討からFNを細胞底面に接着した状態で細胞層は脱着することが明らかとなった。したがって、別の表面へ細胞シートを接着させる際に新たな接着剤を必要としない可能性がある。第二章では、あらかじめFN分子を温度応答性培養皿に吸着させ、低温処理を行った。しかし、細胞なしにはFNは脱着してこないことが明らかとなった。第三章ではイヌ腎上皮由来細胞株MDCK細胞を用い、MDCK細胞シートの脱着挙動を観察した。MDCK細胞は播種後2週間目までは温度を下げても培養皿より、脱着しなかった。しかし、培養日数が増すと共に次第に脱着が容易になる。MDCK細胞はコンフレントに達した後も増殖し、細胞一個あたりの接着面積が小さくなっていく。すなわち、MDCK細胞シートの脱着は細胞の底面積に逆相関した。以上、三つの章から得られた結果を統一的に考察すると、細胞シートの温度応答性培養皿からの脱着には、培養皿表面の親水性化だけでなく、細胞自身の代謝、主に細胞骨格に起因した収縮力が重要に関係することが明らかとなった。細胞は培養皿上に接着・伸展すると細胞骨格に起因した牽引力を生じる。37℃ではこの牽引力と、PIPAAm鎖と細胞外マトリックスとの相互作用とが均衡を保っており、細胞は接着している。しかし、温度がLCST以下になり、PIPAAm鎖が水和し表面が親水性になると、その均衡が崩れ、細胞は自らの牽引力により収縮し脱着するのである。

温度応答性培養皿からの脱着には細胞自身の収縮力が必須であるという知見をもとに、第二部では細胞シートの剥離性の向上を目指し、支持体として親水性のPVDF膜を用い、細胞シートを回収・移動・再接着させる手法「細胞シートの二次元マニピュレーション法」の開発を検討した。第四章では、この二次元マニピュレーション法をMDCK細胞シートの回収に適用した。MDCK細胞は血管内皮細胞と比較し、細胞の脱着の低温処理に長い時間を要する。MDCK細胞の収縮力が弱いことに起因することを示唆する。支持体をMDCK細胞シート上面にくっつけて、外力も付加することにより、細胞シートの脱着を容易にすることが出来た。シートを脱着し別の表面に移動した後もβ-カテニンは細胞間接着部位に局在しており、透過電子顕微鏡観察により、微絨毛やタイトジャンクション(TJ)が観察された。第五章では、細胞シートの二次元マニピュレーション法の有効性をさらに詳細に検討した。TJを構成するオクルジンは、トリプシン処理により回収した場合は分解されていたが、二次元マニピュレーション法では維持されていた。共焦点レーザー顕微鏡観察により、Na+/K+-ATPase、グルコーストランスポータ、アクアポリンなどの局在を検討したところ、それぞれの局在が維持されていた。

以上、本論文の成果はインタクトな機能を有する細胞シートを操作できることを示したもので、組織構造の再構築への新しい道を開いたものと評価できる。一方、細胞外マトリックスの構成するミクロ細胞環境が細胞分化の誘導・維持・復元さらには細胞の極性に基本的に関わることを解明する上でも有効な方法論を提供する可能性を秘めている。本研究は学位に相応しい内容を有するものと、審査委員会は認定した。本論文の研究成果は他の研究者との共同によるものであるが、申請者の貢献度が最も高いと評価される。串田愛氏の申請した学位論文について、審査委員は投票により評価を行い、合格とされた。したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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