学位論文要旨



No 215670
著者(漢字) 原,貴行
著者(英字)
著者(カナ) ハラ,タカユキ
標題(和) マウス中大脳動脈塞栓モデルにおける血栓溶解療法後の脳梗塞進展および遺伝子発現
標題(洋) Effect of thrombolysis on the dynamics of infarct evolution and gene expression after middle cerebral artery clot embolism in mice
報告番号 215670
報告番号 乙15670
学位授与日 2003.04.23
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第15670号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 飯野,正光
 東京大学 教授 上野,照剛
 東京大学 教授 山本,一彦
 東京大学 助教授 菅澤,正
 東京大学 講師 楠,進
内容要旨 要旨を表示する

はじめに

急性期脳梗塞の治療として recombinant tissue-type plasminogen activator (rt-PA) 投与による血流再開(再潅流)が発症後3時間であれば有効であることが報告されている。一方で再潅流(reperfusion)そのものがフリーラジカルの産生、炎症反応の誘起等で障害を引き起こすことが基礎実験から確認されており、この再潅流障害 reperfusion injury を抑制することでrt-PAによる血栓溶解療法の効果をさらに高めることが予想され、現在までに多くの薬剤が開発されてきた。しかし動物実験で有効性を確認されたそれら薬剤のほとんどが臨床試験では効果なしと判定されている。その原因の一つとして動物の脳梗塞モデルと実際の人間の脳梗塞の違いが挙げられる。

局所脳虚血の実験にラット・マウスで広く用いられているモデルとして血管内にシリコンコートした塞栓子(thread)を挿入し中大脳動脈の起始部を閉塞し、一定期間の後除去して再潅流を引き起こすモデル (intraluminal thread occlusion model) があるが、これは人間の脳梗塞とは発生機序および再潅流の様式においてかなりの隔たりがある。そこで今回さらに human stroke に近いモデルをマウスで確立し虚血時および再潅流時での脳循環・代謝状態および代表的な遺伝子発現を評価した。

研究方法

雄のC57/Bl6Jマウスで体重が20gから30gのものを用いた。塞栓物質としては他家血0.4mlをトロンビン0.08mlと混合し内径0.28mmのPE10チューブに注入し37℃で2時間その後4℃で22時間保存した。その後生理食塩水中で赤血球を洗浄し、顕微鏡下でいわゆる fibrin rich segment を選び4mmのものを4つ用意した。この血栓をあらかじめ装填しておいたPE10カテーテルをマウスの外頸動脈に導入し内頸動脈にむけて注入し局所脳虚血を作成した。虚血を作成して1時間後に血栓を注入したカテーテルから10mg/kgのrt-PAを30分かけ注入し血栓溶解・再潅流を試みた。非治療群には同量の溶解液(Vehicle)を用いた。治療開始前(1時間脳塞栓)、治療開始後1時間、3時間、6時間および24時間後にマウスを液体窒素にて固定し、脳を取り出した後クリオスタットで厚さ20μmの凍結切片を作成し、以下のパラメータをそれぞれ附記した方法で測定した。

脳血流量(Cerebral Blood Flow : CBF) : 14C-iodoantipyrine (IAP) オートラジオグラフィー法。

脳蛋白合成能(Cerebral Protein Synthesis : CPS) : 3H-leucine によるオートラジオグラフィー法。

エネルギー代謝:ATP特異的 bioluminescence 法。

アポトーシス検出 : terminal transferase biotinylated-UTP nick end labeling (TUNEL) 法。

遺伝子発現:c-fos, junB, heat shock protein 70 (hsp70) および neuron specific enolase (NSE) mRNA に対する in situ hybridization 法

組織学的変化:銀染色(Silver impregnation)。

結果

血流・代謝パラメータの変化:虚血作成後1時間には蛋白合成能(CPS)、エネルギー代謝(ATP)とも虚血側のMCA領域で低下しているが蛋白合成能低下の範囲はエネルギー代謝のそれに対し10%程度大きく、いわゆる metabolic penumbra が存在していた。この部分はrt-PAによる血行再開がない場合(非治療群)は時間経過とともに縮小し、24時間後にはほぼ消失した。虚血導入後1時間でrt-PAを投与した群では血流再開とともにATPは回復、24時間後までに2次的な低下も認められなかった。CPSはATPよりはずっと遅いものの24時間後には部分的ではあるがやはり改善が認められていた。

遺伝子発現

Immediate early genes (IEGs) : c-fos, junB はいわゆる正常代謝領域(CPS, ATPとも保たれている領域)に主に発現していた。非治療群ではこれらmRNAの発現は遷延しており24時間後にも5匹中2匹で同部位に発現していた。治療群で血流が再開した後も3時間後までは発現がつづいていたがそののち消退し6時間後にはすべてのマウスで発現が停止していた。

heat shock protein 70 (hsp70) mRNA:非治療群ではhsp70 mRNAの発現は metabolic penumbra の領域に厳密に一致して発現し、その消失とともに停止したが、治療群では再潅流に伴うCPS/ATP-mismatch の部分に強く発現し、これは24時間後まで継続した。

Neuron specific enolase (NSE) mRNA : NSE mRNA は虚血後ゆっくりと低下するがその変化(時間経過および領域)は治療群・非治療群とも組織学的な変化と一致していた。

考察

Hossmann らによると、蛋白合成能低下の血流閾値は55ml/mg/minであるのに対しATP産生のそれは20ml/min/mgである。つまり血流量がこの間にある脳組織は蛋白合成は抑制されているがエネルギー代謝は保たれているということになる。今回我々が作成したマウスの局所脳虚血モデルにおいても虚血中心部(infarct core)は血流が20ml/min/mg以下になっており蛋白合成もエネルギー代謝も抑制されていると思われ、その近傍では血流量が少しずつ多くなり、蛋白合成能のみが障害されている領域も存在しそれが metabolic penumbra として捉えられている。しかし血流再開やその他なんらかの治療なしにはこの部分は次第に消失してゆくことが今回の実験では明らかとなった。一方でrt-PAによる血栓溶解療法で血流が再開した場合においてはこれらの代謝パラメータも顕著な回復をしめした。最初にエネルギー代謝(ATP産生)が、それに数時間遅れて蛋白合成能も回復しはじめ、これは24時間後まで保たれていた。この代謝の改善のダイナミックスは同一動物における transient thread occlusion model のそれとは大きく違っており、これが今回の研究で得られたもっとも重要な知見である。Transient thread occlusion mode1 の場合には thread を引き抜くことで急速に血流が再開され、それに伴いATP産生の回復も thrombolysis より早く起こり一旦は完全に回復したように思われるが、数時間後に2次的な脱落が始まり結局最終的には最初の lesion とほとんど同じとなる(secondary energy failure phenomenon)。また蛋白合成能はほとんど回復を認めないことが過去の研究から報告されている。この secondary energy failure phenomenon が今回の脳塞栓モデルで認められない理由としては虚血後の hypoperfusion が血栓溶解モデルの方で軽度であることが挙げられる。

遺伝子発現に関しては、c-fos, junBといった immediate early genes の発現、特に虚血巣周囲の正常代謝領域における発現は peri-infarct deporalization を反映していると言われており、虚血後1時間におけるこれら遺伝子の発現はこの段階で peri-infarct deporalizationが起きていることを間接的に示している。その後rt-PAによる血栓溶解、血流再開通なしではこれらの遺伝子発現が遷延しているのに対し、thrombolysis を行った群では治療後3時間で正常化していることから thrombolysis による血流再開は組織の repolarization を起こし、梗塞の進展を止めているものと思われる。Molecular chaperon として働き、変性した蛋白の発見と修復を担っていると言われるheat shock protein 70のmRNAはいわゆる metabolic penumbra と言われる領域に発現しており、組織の代謝状態を間接的に知りうるよいマーカーとなりうるが、非治療群では発現領域は最終的に死に至り、rt-PA投与群では代謝パラメータの回復につながっていることから、この遺伝子の発現そのものは最終的な転帰を予見するものとはなり得ない。

結語

以上のように同一動物においても、モデルが異なると脳梗塞進展にも大きな違いが認められており、今後トランスジェニック・マウスを用いて脳梗塞のメカニズムを探ったり、新たな治療薬の開発を行う際にはそれぞれのモデルにおける違いを認識する必要がある。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は近年ヒトの脳梗塞に対する治療として血栓溶解療法が確立されてきていること、および基礎実験による脳虚血・再潅流のモデルと実際のヒトの脳梗塞および血栓溶解療法による再潅流とはかなり異なっていることから、マウスにおいてヒトの脳虚血・再潅流により近いモデルを確立し、虚血・再潅流における血流・代謝状態の変化や代表的な遺伝子発現を明らかにすることを試みたものであり、下記の結果を得ている。

マウスの内頸動脈に他家血を用いて作成した血栓を注入することにより脳塞栓症を作成し、再潅流群では注入後1時間後に組み替え組織プラスミノーゲンアクチベータ(rt-PA)を投与して血栓溶解を行った。それによりrt-PA非投与群では再潅流が起こらず、rt-PA投与群で起こることが脳血流計によってそれぞれ89%と83%の確立で確認され、新しく作成したこのモデルの再現性が示された。

虚血作成後1時間には脳血流量(CBF)は中大脳動脈領域において対側の20%以下まで低下し、それに伴い蛋白合成能(CPS)、エネルギー代謝(ATP)とも虚血側のMCA領域で低下しているが確認された。ただし蛋白合成能低下の範囲はエネルギー代謝のそれに対し10%程度大きく、いわゆるmetabolic penumbra が存在していた。この部分はrt-PAによる再潅流がない場合(非治療群)は時間経過とともに縮小し、24時間後にはほぼ消失した。この代謝パラメータの変化はいままで広く用いられてきた塞栓糸を用いた脳虚血モデルによる結果と比較した場合、同様であった。

Rt-PAを投与した群ではCBFの改善とともにATPは回復、24時間後までに2次的な低下も認められなかった。CPSはATPよりはずっと遅いものの24時間後には部分的ではあるがやはり改善が認められた。この代謝パラメータの変化は塞栓糸を用いた脳虚血モデルでの結果とは、「2次的なエネルギー代謝の低下が認められない点」および「蛋白合成能も回復する点」の2点において大きく異なっていた。

オートラジオグラフィーを用いたCBF測定では本モデルにおいては再潅流により虚血前の90%までCBFが回復したが、塞栓糸のモデルでは70%までにとどまっており、この再潅流後のCBFの違いが3. の代謝パラメータの変化の違いに寄与している可能性が示された。

Immediate early genes のc-fos、junBは虚血側のいわゆる正常代謝領域(CPS, ATPとも保たれている領域)に主に発現していた。非治療群ではこれらmRNAの発現は遷延しており24時間後にも5匹中2匹で同部位に発現していた。Rt-PA投与群では血流が再開した後も3時間後までは発現がつづいていたがそののち消退し6時間後にはすべてのマウスで発現が停止しており、rt-PA投与群における虚血周囲の脱分極(peri-infarct depolarization)の早期消退が間接的に示された。

Heat shock protein 70 (hsp70) mRNA は非治療群では metabolic penumbra の領域に厳密に一致して発現し、その消失とともに停止したが、rt-PA投与群では再潅流に伴う CPS/ATP-mismatch の部分に強く発現し、これは24時間後まで継続した。これにより、再潅流の有無に関わらずHsp70 mRNAの発現はその組織の代謝状態を間接的に知りうるよいマーカーとなることが示された。

以上より、本研究で新しく作成したヒトにより近い脳虚血・再潅流モデルでは今まで広く用いられてきた塞栓糸のモデルと比較して代謝パラメータの変化に大きな違いがあることが示された。またrt-PAによる血栓溶解療法後にc-fos、junBおよびhsp70 mRNAといった代表的な遺伝子が代謝パラメータと密接に関連して発現していることが初めて示された。これらの知見は今後の脳梗塞の治療薬の開発に重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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