学位論文要旨



No 215679
著者(漢字) 須田,敏彦
著者(英字)
著者(カナ) スダ,トシヒコ
標題(和) インドの農村金融改革の成果に関する実証的研究
標題(洋)
報告番号 215679
報告番号 乙15679
学位授与日 2003.05.12
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第15679号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 泉田,洋一
 東京大学 教授 原,洋之介
 東京大学 教授 生源寺,眞一
 東京大学 教授 本間,正義
 東京大学 助教授 中嶋,康博
内容要旨 要旨を表示する

独立以来強固な計画経済体制をとってきたインドでは、1991年からIMFや世銀の構造調整プログラムに主導され経済自由化に向けた改革が始まった。以来、農業・農村金融の改革もその一環として進められてきた。

本論文は、このような経緯で始まった1990年代のインドにおける農村金融改革の理念と改革の内容、そして現在までに達成された成果を整理した上で評価し、今後に残された課題を明らかにすることを目的としている。

まず、序章においては、インドの農村金融改革を分析する座標軸を明確にするために、農村金融改革のバックボーンとなる主要な3つの農村金融理論(FF説、RFM説、スティグリッツ説)の基本的枠組み、そこから導かれる諸政策、そして金融改革の成果を評価する基準を整理した。

次に第1章においては、現在のインドにおける農村金融システムの成立の経緯と主要金融機関のパフォーマンスの現状、および農村金融改革に関する主要な提言のポイントと改革の進捗状況を明らかにした。インドの現在の農村金融システムは主に信用農協と国有の商業銀行、そして貧困緩和を主な目的とする地域農村銀行(RRB)によって担われているが、改革が始まるまでそれらは経済発展と貧困緩和という国家的・社会的目的を達成するための(半)政府機関として育成され機能してきた。しかし、こうした国家主導型の金融システムはいわゆる「政府の失敗」を招き、自立性に乏しいだけでなく経済発展にもまた貧困緩和にも十分貢献できない非効率なシステムであった。

そのような中、90年代初頭にIMF・世銀の主導の下で始まった農村金融改革は、規制緩和によって政府の金融機関への介入を減らし、金融機関の自律性と経営の健全性を高めることを第1の目的としていた。金融改革の青写真として91年に出された「ナラシムハム第1レポート」は、金利の自由化、農業など優先部門(priority sector)への貸出目標枠の大幅な縮小、商業銀行の農村支店の切り離し、貧困層へのターゲット・ローンの段階的廃止など、金融機関の自主性と収益性を高める様々な提言を行ったのである。

しかし、インドの金融改革は全体としては順調に進行しているものの、農村金融改革に関する限り、改革当初の提言の多くはまだ実現されていないのが実態である。農村金融部門におけるこうした改革の遅れないし変更は、既得権を持つ保守派勢力の抵抗という政治力学では理解しきれない。90年代前半に商業銀行が農村での貸出を後退させたことに表れたように、市場原理にまかせただけでは農村部における効率的でアウトリーチの大きな金融市場の発展は期待できないことが明らかになったからである。

続く第2章においては、農村金融改革の事例として、数も多く農村の人々に最も近い金融機関である短期信用農協の制度改革の状況とその到達点を明らかにした。これまで主に政府資金を農村部に流すだけの役割を果たしていた信用農協も、金融改革の中で自立を求められるようになった。それは、預金動員等による自立した金融仲介機関への転換、そしてICA(国際協同組合同盟)の協同組合原則に基づく組合員の自主的組織への転換である。

改革の柱となったのは、金利の自由化などの規制緩和とともに、預金動員を促進するための預金保険制度の整備、預金動員をはじめ経営改善のために単位農協ごとに事業発展計画(BDP)を策定することなどである。その結果、経営自立の大きな障害となっている融資の低返済率にはまだ明らかな改善が見られないものの、預金動員は単位農協レベルにおいても大きな進展をみせつつある。

さらに第3章では、短期信用農協の改革が成功した事例研究として、西ベンガル州の一農協(G農協)が自立性を高めていく要因と、それが農村金融市場に与える影響を分析した。このG農協は、90年代に入って預金動員に成功し、政府資金を農家に供給するだけの半政府機関的な金融機関から、農村内部で動員した預金を原資に農村住人に融資する金融仲介機関への転換に成功した。動員した預金を原資として事業も多角化し、それとともに経営的にも自立することが可能になったのである。そしてG農協の金融仲介機関化は、農村部の金融市場構造を大きく変えている。G農協の金融仲介活動の活発化は、高利の金貸しや金融講を競争によって駆逐し、農村金融市場を近代的で効率的な市場に転換しつつある。

こうしたG農協の金融仲介機関への転換は、預金動員の成功によるところが大きい。そしてその成功の主要な要因は、農村金融改革の要とされる金利の自由化ではなく、預金保険制度の導入による預金の安全性の向上と、農協の事業発展計画の策定などに刺激されて生じた農協運動の活性化および農協に対する住民の信頼感の高まり、ということができよう。G農協の預金動員の成功と自立性の高い金融仲介機関への転換は、規制緩和によって実現したというより、市場を補完する制度(預金保険制度)の導入やインフラ整備、そして農協の自立性を高める適切な政府の支援の方が効果は大きかったと結論できるのである。

続いて第4章では、貧困層への金融サービス提供を目的とするマイクロファイナンス・プログラムの分析を行う。90年代初頭には、従来のプログラムに代わる新しいマイクロファイナンス・プログラムとしてSHGプログラムが始まり、現在のところ貧困緩和への貢献と金融プログラムとしての健全性の両面において大きな成果をあげ、政府の全面的な支援を受けて急速に拡大している。

この成功の主要な要因として、一つにはこのプログラムが貯蓄形成とタイムリーで低利な融資という貧困層の金融ニーズを満たしていることがまずあげられる。第2の要因として、顧客である貧困層のグループ化によって取引費用を削減でき、また95%程度という高い返済率も実現できるため、金融機関にとっても収益を生むプログラムであることがあげられる。

SHGプログラムの普及には制度づくりと普及のために多くの資金や手間が必要であり、政府やNGOの支援が不可欠だが、一旦プログラムが機能し始めると、自立した金融プログラムとして持続していく。適切な制度、あるいは適切なインセンティブを組み込まれた金融プログラムならば、貧困層も十分に金融機関の顧客になりえることをこのプログラムの成功は意味しているといえよう。

それでは、90年代以降のインドの農村金融改革はどのように評価されるべきか。既に見たように、農村金融改革全体を貫いている基本的な考えは、国家や社会が目指す経済発展や貧困緩和にとって農村金融システムは重要かつ有効な手段であるが、その持続的有効性は自立した健全な金融機関のみが担えるというものである。様々な改革は、それぞれの金融機関そして金融システム全体の自立性を高めることを第1の目的として行われてきたといってよい。そしてその最も有効な手段は規制緩和による市場原理の活用であると考えられてきた。その意味で、90年代のインドの農村金融改革は、明らかにRFM理論を指針として行われたものであった。

しかし、都市地域で活動する金融機関の自由化が比較的順調に進んでいるのに対し、農村・農業金融に関しては全体として自由化が遅れている。そして規制緩和だけでなく、市場を補完する制度づくりや金融機関への介入の継続あるいは新たな介入が見られるのである。自立性向上に成功した信用農協の事例やマイクロファイナンスの成功要因を分析すると、その成功の主要な要因は規制緩和ではなく、むしろ政府の適切な制度づくりや自立性向上に向けた支援であったといえそうである。

とはいっても、自立した信用農協や成功しているマイクロファイナンスは決して市場原理に反した活動をしているのではなく、新しい制度や政府の適切な支援がそれまでなかった市場を創り出したということができるだろう。その意味で、政治的原理で動いてきたこれまでのインドの農村金融システムを、主に市場原理が支配するシステムに転換するには、金融市場が円滑に機能するような市場補完的な様々な制度づくりが不可欠であるというスティグリッツら新制度派の主張には説得力がある。改革初期の農村金融改革案の遅れは必ずしも単なる遅れではなく、市場を補完する制度なしに規制緩和だけしても効率的で広がりのある金融市場は自然に生まれないという現実を反映したものだといえる。

とはいうものの、インドの農村金融改革が今のところ順調に進んでいるとは決して言えない。第1の課題は、農村金融機関の自立を妨げている低返済率の改善である。低返済率の背景には、安易なポピュリスト的返済減免措置によって、借りた金は返すのが当然だという金融規律が失われているという現実がある。

第2の課題は、信用農協の早急な立てなおしである。G農協のように自立性と金融仲介機能を高めている農協が一部に見られるものの、全体として農協の自立性はまだ低い。行政主導による信用農協改革は今後も継続する必要があろう。

そして第3の課題は、マイクロファイナンスの堅実でしかもなるべく早い全国的普及である。そのためには、政府やNGO、そして金融機関の今以上の積極的な取り組みが不可欠である。

以上見てきたように、効率的で公正な金融市場を農村において生み出すための農村金融改革は、単なる規制緩和による自由化によっては達成できない問題である。その実現のためには、適切な制度づくりとそれを確実に実行し、かつ農村住民の主体的参加を引き出すような高い行政能力が不可欠である。かつて軟性国家と呼ばれたインドにとって、後者の問題が最大の課題といえるかもしれない。インドの農村金融改革はまだ途中段階にあり、その帰趨は政府が必要な役割を果たせるかどうかにかかっているといえるだろう。

審査要旨 要旨を表示する

周知のように、インドでは、独立以来社会主義的計画経済体制がとられてきたが、湾岸戦争などによる経済危機の影響を受け、1991年からIMFや世銀に主導された経済自由化政策が導入されている。その自由化政策の一環として農業・農村金融改革が推し進められているが、本論文は、そのインドにおける農村金融改革について、理念、改革内容、そして現在までに達成された成果を、緻密な現地調査によって、分析・評価したものである。

まず序章において既存の農村金融理論のレビューを行い、インド農村金融改革分析の評価軸を明確にした。レビューは、農業開発銀行などを通じて低利資金を農村に注入する伝統的施策、80年代以降に広まった市場機能重視型の新しい農村金融理論、および情報の不完全性という視点から市場メカニズムへの過度の信頼を疑問視する見解の3者を、バランスよく的確にまとめている。また市場と政府の関係というコントロバーシャルな点についても言及がなされ、市場の機能を活かしつつも情報の不完全性を克服する点において様々な工夫が必要なことが強調されている。

第1章は、インドにおける農村金融システム形成の経緯、主要金融機関の現状、および農村金融改革のポイントと改革の進捗状況を明らかにするものである。まずインドの農村金融は主に、信用農協、国有商業銀行、そして貧困緩和を担う地域農村銀行によって構成されていることを示し、これらの機関は、改革前までは経済発展と貧困緩和という国家目的を達成するための(半)政府機関として機能してきたとする。しかし、こうした国家主導型の金融システムは「政府の失敗」を招き、自立性に乏しいだけでなく経済発展にもまた貧困緩和にも十分貢献できない不効率なシステムであったことが指摘される。

90年代初頭にIMF・世銀の主導の下で始まったインドの農村金融改革は、規制緩和によって政府による金融市場介入を減らし、金融機関の自立性と経営の健全性を高めることを第1の目的としていた。その目的のもと、金利自由化、農業などの優先部門貸出目標枠の大幅な縮小、商業銀行の農村支店の切り離し、貧困層へのターゲット・ローンの段階的廃止など、金融機関の自主性と収益性を高める様々な施策が立案されたとされる。ただし、申請者は進捗状況の細目を計画と照らし合わせて検討し、インドの金融改革は全体としては順調に進行しているものの、農村金融改革に関する限り、まだ当初の計画通りには達成されていないことを明らかにしている。その理由として、既得権を持つ保守派勢力の抵抗という政治力学もあるが、市場原理のみでは農村部における効率的で到達度の大きな金融市場の発展は期待できないためであることが挙げられている。

続く第2章においては、農村金融改革の事例として、数も多く農村の人々に最も近い金融機関である短期信用農協が取り上げられている。まず、これまで主に政府資金を農村部に流すだけの役割を果たしていた信用農協の転換の経緯が具体的にトレースされている。預金保険制度の整備、事業発展計画の策定などのポイントが指摘され、その成果として、融資の低回収率にはまだ明らかな改善が見られないものの、預金動員は単位農協レベルにおいても大きな進展をみせつつあることが示された。

第3章では、改革の成功事例として西ベンガル州の農協を取り上げている。この農協は、90年代に入って預金動員に成功し、政府資金を農家に供給するだけの半政府機関的な金融機関から金融仲介機関への転換に成功したとされる。成果として、事業多角化がなされ経営としての自立が可能となったこと、高利の金貸しや金融講が駆逐されたことが実証されている。その成功を支えた要因として、預金保険制度の導入による預金の安全性の向上、農協運動の活性化、および農協に対する住民の信頼感の高まりが重要であると指摘されている。結局、自立性の高い金融仲介機関への転換は、規制緩和とともに、市場を補完する制度の導入やインフラ整備、そして農協の自立性を高める適切な政策の方が効果は大きかったと結論している。

第4章では、貧困層への金融サービス提供を目的として90年代初頭に導入されたインドのSHG(Self Help Group)マイクロファイナンス・プログラムが取り上げられている。このプログラムの特徴、融資の実際が検討され、NGOと政府の支援を受けながら、貧困緩和への貢献と金融としての健全性の両面において大きな成果をあげていることが実証されている。プログラムの成功要因として、貯蓄形成とタイムリーで低利な融資という貧困層の金融ニーズを満たしていること、顧客である貧困層のグループ化、高い返済率実現による収益確保といった点が強調されている。

第5章の結論部分では、90年代以降のインドの農村金融改革が以下のように評価されている。改革の基本は、規制緩和による市場原理の活用であり、そのことを通じた金融機関および金融システムの持続性の強化である。同時に、市場補完的な制度作りなり自立性向上へむけた政策支援が決定的に重要であった。政治的原理で動いてきたこれまでのインドの農村金融システムを、主に市場原理が支配するシステムに転換するには、市場の担い手である金融機関の自立と同時に、金融市場が円滑に機能するような市場補完的な様々な制度づくりが不可欠であったと。この評価は妥当かつ重要な結論であり、市場の機能を過度に評価する近年の風潮に対する批判を含意するものである。

以上本論文は、研究蓄積の少ないインド農村金融を対象にして、その改革の経緯と成果を綿密な現地調査によって検討したものである。そして、市場機能を生かすためには市場補完的な制度の創設と政府の支援策が不可欠であること示したことは、学術上また政策上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)として十分に価値のあるものと認めた。

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