学位論文要旨



No 215680
著者(漢字) 永松,美希
著者(英字)
著者(カナ) ナガマツ,ミキ
標題(和) EUの有機牛乳アグリフードシステムの展開に関する研究
標題(洋)
報告番号 215680
報告番号 乙15680
学位授与日 2003.05.12
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第15680号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 生源寺,眞一
 東京大学 教授 八木,宏典
 東京大学 教授 谷口,信和
 東京大学 助教授 松本,武祝
 東京大学 助教授 中嶋,康博
内容要旨 要旨を表示する

有機農業は長く草の根運動として実践されてきたが、最近では多くの消費者が安全な食品と環境に配慮した農業を求めるようになり、有機食品の世界的市場が急速に拡大しつつある。市場販売額は1990年代以降年5〜40%という成長率を維持し、98年の135億ドルが2000年には推計で260億ドルとわずか2年間で倍増した。特に乳製品はEUの消費者にとって必需品であることから、有機乳製品は有機食品市場の1割を占め、その供給は主に農業と食品産業の提携=アグリフードシステムによってなされている。

本論文では、FAOが食品安全管理システムのモデルとして評価する有機食品の中でも最もEUにおいて開発が進んでいる有機牛乳に焦点を当て、アグリフードシステム論を採用してその開発実態の分析と今後の課題について論じた。

第1部は有機牛乳アグリフードシステムを分析するための手法であるアグリフードシステムに関する理論とEUの食品産業及び乳業酪農部門の現状について分析した。

第1章は、研究方法論としてのアグリフードシステム論の展開について分析した。アグリフードシステム論は農業と食品産業の主体間における提携を分析する新しい手法である。この新しい理論であるアグリフードシステムの概念規定を行い、アグリフードシステム論の基礎理論となったサプライチェーンマネジメント理論との関連について分析した。EUのアグリフードチェーンの主導主体が食品製造業から小売業へと移行してきているため、研究も小売業主導チェーンの分析へと移行してきている。EU委員会および加盟各国もアグリフードチェーンの研究開発を助成する政策を開始している。以上の展開をもとに本論文の分析対象である有機牛乳アグリフードシステム研究の先進的側面について論述した。EUの有機牛乳アグリフードチェーンの進展にはEU共通農業政策における有機農業を促進する農業環境政策への政策転換が反映している。消費者保護政策からいえば、有機食品アグリフードシステムは食品安全システムに最も適合し、さらに家畜のアニマルウェルフェアの結合した先進的なシステムであると位置づけられる。

第2章ではEUの食品産業と酪農乳業の構造変化について整理した。EUでは92年の市場統合に伴い食品産業界の構造変化が進んだ。その変化の特徴は、第一に製造業と小売業における合併と集中、第二に合併と集中の結果による国際化、第三に小売業におけるプライベートブランドの拡大そしてアグリフードチェーンの各段階の企業間の事業提携の強化であった。

合併集中により競争が激化している小売業は、特にチルド食品等の生鮮食料品チェーンと有機食品の開発に力を入れている。

第2部はEU6か国の有機牛乳アグリフードシステムの現状と展開を分析した。

第1章はWTO体制下で有機食品の世界市場形成を目指すFAO/WHO合同コーデックス食品規格国際委員会の有機畜産物に関するガイドラインとEUの有機畜産規則の検討によって有機牛乳の定義を行った。

第2章では有機農業を提唱したルドルフシュタイナーとアルバートハワードの業績から世界有機農業運動連盟IFOAMの活動に至る有機農業運動の歴史的展開を論述し、現在のEUの有機酪農がどのように形成されているかを分析した。EUの有機農地面積は全農地面積の3%弱であるが、加盟国によって比率は大きく異なり、有機農業への転換割合に相違が見られる。有機認証牛乳の国内産牛乳に占める割合もオーストリアの14%、デンマークの7%のように高い国と、イギリス、オランダ、フランス等の1%未満の国と格差が存在するが、各国とも共通して有機農業振興を重要な政策に据えてきている。

ドイツ、オランダ、デンマーク、スイス、イギリス、オーストリアの6か国の有機牛乳アグリフードシステムの実態分析を行うため、チェーンを主導する主体別に3類型化した。すなわち有機食品専門店の販売割合が最も多い有機専門店主導型、生協が最も多い協同組合主導型、スーパーマーケットが最も多いスーパーマーケット主導型の3類型である。

有機食品アグリフードチェーンは有機農業発祥初期から形成されており、その古典的なチェーンの1つが有機食品専門店主導型である。そこで第3章では、この有機食品専門店主導型のドイツと隣国の加工型畜産国オランダについて分析した。

ドイツは19世紀末から存続する自然食品店のリフォルムハウスや新しいチェーンの自然食品店も多数存在しており、その隣国であるオランダもドイツの影響でリフォルムハウスや自然食品店が多い。ドイツはEU最大の歴史ある有機食品市場であるため、各有機農業団体や有機食品製造会社、スーパーマーケットが独自のブランドを持ち、有機農業団体のイデオロギーの違いもあり市場に混乱が見られた。

オランダは加工型畜産国ゆえの畜産糞尿問題や過放牧解決のため有機酪農へ転換を推進し始めており、消費者の意識も環境重視に転換しつつある。農産物輸出国だけあって輸出に関しても意欲的な生産者が多い。有機食品市場開拓のため包括的な有機農業コーディネート団体プラットホームビオロジカがアグリフードチェーン開発に積極的であった。

第4章では生活協同組合主導国を分析した。有機酪農先進国デンマークとエコロジカル農法に転換するスイスである。

デンマークは有機農業法を1987年に制定して国家戦略的に有機酪農を推進すると同時に、生協が有機牛乳に関して農業協同組合系乳業会社と協同組合間提携を開始したことで有機酪農が拡大した。現在では有機牛乳生産量が国内需要を大幅に上回っている。

スイスも国が全面的な減農薬・減化学肥料栽培(IP農法)への転換を推進しており、アルプスの景観保全や生物多様性保護の視点から有機酪農を推進している。さらに有機農業研究所Fiblによる有機農業の研究も進められており、生協のコープやミグロも生産者と提携し有機食品の販売に力を入れている。

第5章は有機農産物が市場化される牽引力となっているスーパーマーケットチェーン主導型の2つの国、スーパーマーケットの形態が最も進んでいると見られているイギリスと山岳酪農国オーストリアを分析した。

イギリスはプライベートブランド商品の研究開発が特に進んでおり、有機食品プライベートブランドの開発も各スーパーマーケットが戦略的に取り入れている。なかでもセインズベリーは独自に有機牛乳にプレミアムを支払うシステムを構築している。

オーストリアは有機酪農への転換が比較的容易な山岳酪農国である。政府が95年のEU加盟を契機に有機農業補助事業を開始したことで有機酪農への転換が加速し、現在EUで最も有機酪農が拡大している国である。大手スーパーマーケットチェーン・ビラがプライベートブランド有機食品を開発したことで有機ブームが起こっている。しかし慣行牛乳でも十分クリーンなイメージがあるため、市場が停滞している。

第6章は有機酪農の生産経営方式の研究開発、牛乳・乳製品加工に関する有機食品基準の設定と認証機関の設立及びエコラベルの開発、慣行牛乳・乳製品と有機牛乳とのコスト比較並びに収益比較、有機牛乳プレミアム価格と市場の需給バランス、転換補助金等の直接支払いによる有機牛乳振興政策の5つの課題について各国別に特質を比較整理し、有機牛乳の流通販売チャネルの開発については有機牛乳アグリフードチェーンの類型別に特質の整理を行った。

終章では今後の有機牛乳アグリフードシステム開発の方向と今後の研究課題を論述した。

EUの有機牛乳アグリフードチェーンはイギリスやオーストリアのようなスーパーマーケット主導型が主流になると考えられる。デンマークやスイスの生協主導型はその経営戦略がスーパーマーケット主導型と類似しており、また、有機食品専門店主導型のドイツやオランダも、スーパーマーケット主導型に移行しつつある。しかし、当面はスーパーマーケット主導型が寡占するのではなく、3つのタイプのチェーンの競合が存続すると考えられる。

いずれにしろ、有機牛乳アグリフードシステムの開発は、消費者の食品安全性への要求の高まりを背景として、コーデックスガイドライン等の国際有機畜産基準によるより厳格な検査認証制度によって、世界市場経済システムのなかで拡大してゆかざるをえないであろう。一方で、有機農業の本来の目的である地域自給経済システムの再生を目指して農業者、消費者の市民パートナーシップ事業による有機畜産を開発してゆく道も広がるだろう。

消費者にとって食の安全は極めて重要な問題である。EUは消費者の食の安全性確保を最優先の課題としており、ヨーロッパ食品安全機構EFSA(European Food Safety Authority)の設立が決定され整備がされつつある。本研究の今後の課題は、有機食品アグリフードシステム研究と食品安全システム研究とを結合させる領域に発展させることである。

審査要旨 要旨を表示する

有機農業と有機食品をめぐる先進国の市場環境が、90年代に入って大きく変化しつつある。とくにEU諸国では食の安全に対する消費者の強い関心を背景に、有機食品の国際市場が成長し、食品産業の有機食品部門への参入が活発化している。本論文は、有機牛乳と有機乳製品(以下、有機牛乳)に着目し、農業経営から食品加工を経て流通に至る供給システム(以下、フードシステム)を研究の対象としている。有機農業の歴史や農業協同組合の制度基盤の違いなどを反映して、同じ差別化食品でありながら、有機牛乳のフードシステムは地域によって異なった展開をみせる。本論文は、EU5カ国とスイスの計6カ国を取り上げて、有機牛乳フードシステムの代表的な類型を識別するとともに、その成立の根拠を実証的に明らかにしたものである。

論文は、研究問題を整理した序章と今後の課題を述べた終章を含め、全9章からなる。

第1章では、食をめぐる新しい研究パラダイムであるフードシステム論の展開をレビューし、ヨーロッパにおける実証研究の到達点を整理している。また、農業経営と食品産業の特徴的なつながりを強調するさいには、アグリフードシステムの概念を用いることを提唱した。

第2章では、EUの酪農と食品産業の特徴について、集中度を中心とする産業組織論の尺度を用いて整理した。注目すべき動向として、乳業メーカーの多国籍化と寡占化や、大規模量販店への市場集中の進行が指摘された。第3章と第4章は、有機牛乳フードシステムをめぐる制度と政策の展開をトレースしている。第3章ではケーススタディの対象国における有機畜産規則の制定からコーデックスによる共通ガイドラインの策定に至るプロセスを整理し、第4章では同様に国レベルの有機酪農奨励政策と共通農業政策における振興策を取り上げて、それぞれの進捗状況について横断的に比較している。

第5章は、有機食品専門店に主導された有機牛乳フードシステムの典型として、ドイツのケースが克明に分析される。すなわち、ルドルフ・シュタイナーの思想的影響下にあった有機農業の歴史がヨーロッパ最大の有機食品市場の形成につながり、流通についても伝統的で小規模な有機専門店のシェアが高い構造を生んでいる。有機牛乳の場合も、農場から少数の乳業メーカーに集約されたチェインが小売段階でふたたび細かくセグメントされる砂時計構造を特徴とする。さらに第5章では、同じく専門店主導のシステムのもとにあるオランダについて、有機酪農と慣行酪農の生産性と収益性の詳細な比較を試み、有機酪農が総合的に20%高い所得形成力を有することを検証した。

第6章は、協同組合がチャネルリーダーであるデンマークとスイスを分析する。デンマークでは多国籍乳業メーカーを擁する大規模農協がリーダーであり、スイスではミグロとコープに代表される生協が有機牛乳フードシステムをリードしている。もっとも、デンマークにおいても小売は全国を商圏とする生協の店舗を主体としており、しかも、店舗の形態はスイスの生協と同様にスーパーマーケット方式である。つまり、協同組合主導の有機牛乳フードシステムは大型量販店主導のそれと共通点も多い。

第7章で分析する大型量販店主導型システムの代表はイギリスであり、国内の有機牛乳生産者や加工メーカーと量販店のあいだで直接に継続的取引関係が形成されている点に特徴をもつ。分析を通じて、量販店はメーカーに対する拮抗力の領域を超えて、フードシステムの構造形成そのものをリードしている点が明らかにされた。典型例であるセインズベリーは、生産者を傘下に組織化するのみならず、国外の製品にも関与する有機専門卸売をみずから設立している。既存の卸の機能が比較的小さい点は、もうひとつの量販店主導国オーストラリアの食品市場にも共通している。

最後に第8章では、5章から7章において特徴が明らかにされた複数の有機牛乳フードシステムについて、表示や基準のありかた、コストと収益性、価格と助成金などの切り口から横断的な比較と、さらに深めるべき論点の整理を行っている。

以上を要するに、本論文は近年のフードシステム論の成果をヨーロッパの有機牛乳に応用したものであり、6カ国のシステムの比較分析を通じて3つの基本類型を識別するとともに、それぞれの歴史的・制度的な背景を明らかにしている。本論文によって提示された比較システム分析の手法は、他の農産物にも適用可能である。加えて比較の過程で得られたファインディングスは、わが国の酪農品や畜産物のフードシステムや政策手段のありかたにも、数々の示唆を与えている。このように本論文の成果は学術上、応用上寄与するところが少なくない。よって、審査員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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