学位論文要旨



No 215681
著者(漢字) 明石,光一郎
著者(英字)
著者(カナ) アカシ,コウイチロウ
標題(和) 農業・農村の外部効果に関する理論的・実証的研究
標題(洋)
報告番号 215681
報告番号 乙15681
学位授与日 2003.05.12
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第15681号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 生源寺,眞一
 東京大学 教授 本間,正義
 東京大学 教授 泉田,洋一
 東京大学 教授 大賀,圭治
 東京大学 助教授 中嶋,康博
内容要旨 要旨を表示する

本論文は,農業・農村の持つ外部効果を経済学のツールにより理論的・実証的に分析することを目的としている。本論文は,大きく3つのパーツに分けられる。第I部(2章,3章)は農業・農村の持つ正の外部効果を取り扱った。第II部(4〜6章)は農業と貿易を環境破壊(農業のもつ負の外部効果)と絡めて議論した。近年,農産物輸出国から農産物貿易自由化要求が強く主張されるようになっている。その背景には,人口密度の高い先進国(日本やEU)においては農業は環境破壊者であり,農業保護削減(すなわち農産物自由化)により農業生産は縮小し,環境は地域的にも地球規模でも改善するという論理がある。しかし上述の論理は農業・農村のもつ正の外部効果を殆ど考慮していない。これら輸出国の論理に従って農産物市場を完全に開放したら,日本農業はほぼ壊滅し,それとともに農業・農村のもつ正の外部効果も縮小もしくは消滅してしまうであろう。かかる問題意識の下,農産物自由化論の批判的検討を行った。第III部(7,8章)は負の外部性すなわち環境破壊に着目し,その加害者と被害者に対する政策的措置を考察した。以下に本論文で得られた結論を示す。

第2章では,農業・農村の持つ社会環境保全機能に焦点を当て,とくに社会の安定性,持続性,復元性に関わる機能を社会安定化機能と定義した。つぎに,その諸類型について以下のように分類・整理し,考察を行った。

(1)労働市場安定化機能,(2)高齢者の保護機能,(3)避難所機能,(4)安全維持(防犯)機能。

その結果,わが国の農業・農村はこれまで多くの研究者が指摘している主な公益的機能(国土保全機能,アメニティ機能)以外に,わが国の社会のために重要な役割を果たしていることを確認した。

第3章では,第2章の結論をうけて,わが国の農村の持つ社会安定化機能のひとつと考えられる安全維持機能の存在を検証するために,農家人口比率と刑法犯発率の関係について都道府県別横断面デ−タを用いて計量分析を行い,以下の結論を得た。

(1)従来より農村では都市と比較すると犯罪が少ないことが指摘されてはいたが,年齢構成や検挙率や失業率等の犯罪発生率に影響を及ぼすと考えられる要因を除外しても,農村では都市と比較して犯罪発生率が低いことが示された(農村の安全維持機能)。(2)検挙率に影響を及ぼすと考えられる住民一人当り警察費や犯罪率の影響を除いても,農村では都市よりも検挙率が高いことが示された(農村の安全維持機能)。(3)警察予算の県別の配分についても,住民一人当たり警察費に影響すると考えられる犯罪率や住民一人当り一般財政支出額の影響を除いても,農村では都市と比較して住民一人当たり警察費が少ないことが示された(農村の警察費用節約機能)。

第4章は「農業保護・支持の削減は生産者の生産意欲を減退させ,資材多投入の生産が維持されなくなるため,環境に正の影響を与える」というOECD農業委員会・環境政策委員会合同作業部会により出された見解の妥当性を検討し,以下の結論を得た。

(1)世界の第多数の農家は,企業というよりは企業と家計の側面を併せ持つ企業・家計複合体として捉えるべきである。(2)かかる企業家計複合体である農家は,農外雇用機会が乏しい雇用不足経済下で生産物価格が低下したときに,農外就業により必要最低限の所得を確保できない場合には,価格低下を生産量の増大で補おうとする自己防衛的投資行動を行う。この場合,農産物価格の低下は,OECDの命題とは異なり,資本財(肥料・農薬)投入を増加させて環境を悪化させる可能性がある。

第5章ではキム・アンダーソン論文の再検討を行った。アンダーソンは,食料貿易を自由化すれば,食料生産基地は保護水準が高くて肥料集約度の高い先進国からそれらの低い途上国へ移動すると考えられるが,その移動に伴い,化学肥料や農薬の使用量が減少するため,環境は改善すると主張した。彼の論文はOECDの報告書でもとりあげられ,食料貿易自由化論のひとつの根拠としても引用された。

5章ではアンダーソンの主張の妥当性を検討し,その主張は理論的にも現実的にも必ずしも正しくないことを明らかにした。まず理論的には,アンダーソンが行った単位面積当たり肥料投入量の比較は無意味であり,トータルとしての肥料投入量の増減を知るためには生産物単位当たり肥料投入量を比較しなければならないことを明らかにした。

つぎに現実のデータより,生産物単位当たり肥料投入量の途上国と先進国における較差はさほど大きくなく,かつ縮小傾向にあることを明らかにした。従って先進国から途上国へ食料生産基地が移動しても,トータルとしての肥料投入量は減少しないと考えられる。

つぎにアンダーソンの提示した生産基地の移動が生じた場合に,現実に世界全体の肥料投入量がどの程度変化するかをシミュレーションした。その結果,先進国のみが農産物自由化した場合には約0.1%,先進国と途上国の双方が自由化した場合には約1%,世界の肥料投入量は減少することを示した。この結果はアンダーソンの主張を否定するものといえる。

第6章では農産物輸出国の農産物貿易自由化要求の理論的背景に存在する「自由貿易は望ましい」というリカードやヘクシャー・オリーンによる素朴な貿易理論に対する批判的検討を行った。現実世界におけるコメなどの穀物に代表される基礎的食料の持つ特殊性,穀物市場の非完全競争性,農業に使用される生産要素の移動の不可逆性を考慮した結果,従来の貿易理論は該当しないという立場にたった。すなわち,国家は貿易に介入し戦略的行動をとるものとし,また基礎的食料生産においては,生産要素の移動は不可逆的であるとした。かかる仮定の下,2国2財モデルにおいて,貿易品目に基礎的食料が含まれている場合について,2段階ゲーム理論により当事者となる国家の最適通商戦略を分析した。

その結果,自由貿易命題は現実的でなく,基礎的食料に比較優位を持つ国は貿易自由化という名目で国際分業体制を構築し,他国における食料生産産業の淘汰を待って,輸出禁止等のカードを使って自国に有利な交易条件を設定し,自国の経済厚生を高めることが最適戦略となることを示した。

第7章では外部性の加害者への課税について考察した。環境汚染が深刻な場合に,政策当局は汚染者に対して課税等の措置を講じて汚染排出量の削減をはかることができる。汚染者が汚染排出量を減少させるのに際して,生産削減と汚染処理の2つの方法を使用する場合に,経済をパレート効率的にするピグー税の水準の導出法について考察した。

これまで英国の経済学者D.ピアスらが,生産削減と汚染処理の統合モデルを構築し,パレート効率性を達成するピグー税の水準を導出していた。7章ではまず,ピアスらの提示するピグー税を採用した場合,資源配分はパレート効率的とはならないことを明らかにした。つぎに,ピアスらのモデルを修正し,パレート効率的な資源配分を達成する税率を求める手法を提示した。これまで誤った税率の導出法が一部のジャーナルや大学レベルのテキストに掲載されてきた事実を考慮すると,7章の提示した手法は実用面のみならず,pedagogicな観点からも有用であると思われる。

第8章では外部性による環境破壊の被害者への補償について考察した。アメリカの環境経済学者ボ−モルとオ−ツはその著書において,環境汚染の被害者への補償について経済学的分析により以下の主張をしている。

(1)被害者への補償がなくても,汚染者にピグー税を課すだけで,経済はパレート効率性を達成できる。(2)被害者への活動水準に応じた補償は(一般には活動水準が高い程被害額も大きいと考えられる),パレート効率性の達成を阻害するので行うべきではない。(3)被害者への活動水準に応じない補償としては,一括補償があるが,これは無意味である。

8章では,彼らの主張は,経済理論上は全面的には正しくないことを証明するとともに,以下の事を示すことにより,被害者に対する補償の可能性を拡張することに成功した。

(1)被害者への活動水準に応じた補償は,価格体系を歪めない限りパレート効率性の達成を阻害しない。(2)一括補償は決して無意味ではない。少なくとも,ピグー税が意味があるならば,一括補償も同程度に意味のある税システムである。ただし,この結論はボ−モルとオ−ツの結論と同様,被害者の被害が測定可能である場合を対象とするものである。

外部効果は市場を経由せず人の効用に直接作用するだけでなく,市場財の価格体系を変化させることによっても,消費者の経済厚生を変化させる。補論では,価格体系の変化による厚生変化の指標である補償変分と等価変分を求める新しい手法を開発した。補論1では、スルツキーの需要関数の積分により上記指標を近似する手法を提示した。補論2ではハウスマンの開発した手法を,1財モデルからm財モデルへと拡張した。

審査要旨 要旨を表示する

農業生産と農村のコミュニティには、通常は市場経済にカウントされることのない正負両面の外部効果が存在する。CVMなどの手法を用いた近年の研究によれば、こうした外部効果は国民の厚生水準の形成に無視できない影響を与えている。本論文は、正の外部効果の有する社会安定化機能、外部効果と農産物貿易の関係、負の外部効果をめぐる補償の問題に着目して、外部効果の社会経済的な意義について、ミクロ経済学のフレームワークのもとで理論的・実証的に吟味したものである。論文は、序章(問題の提起)と終章(結論の要約)を含む本文9章と、厚生変化の測度である補償変分と等価変分の測定手法に関するふたつの補論から構成されている。

序章の問題の提起を受けて、第2章では農業・農村の正の外部効果に含まれるさまざまな社会環境保全機能について、その類型区分を試みている。既往の研究がどちらかと言えば国土保全や景観形成といった物的な外部効果を重視してきたのに対して、申請者は社会的な側面における外部効果の意義をあわせて強調する。このうち社会安定化機能に焦点を絞ったうえで、この主張の妥当性を客観的なデータによって提示したのが第3章である。すなわち、申請者は社会の安定度の指標として犯罪発生率を取り上げ、さまざまな要因を慎重にコントロールしたうえで、農家人口率と犯罪発生率のあいだに高度に有意な逆相関が存在することを検証した。

第4章と第5章では、集約的な農業に伴う環境に対する負荷の問題を、農産物の自由貿易との関わりで検討している。まず第4章では、自由貿易によって肥料集約度の高い先進国から低い途上国に農業の立地移動が生じることでトータルの環境負荷が軽減されるとしたキム・アンダーソンの所説を、主として理論的な構造の面から再確認する。そのうえで第5章では、これまでほぼ通説とみなされてきたアンダーソンの主張が、理論上の前提について初歩的な錯覚に基づいていることを論証するとともに、実際のデータによるシミュレーションの結果、立地移動による肥料投入の変化がほとんどネグリジブルな量にとどまることを示した。

第6章は、前2章と関係の深いリカードやヘクシャー・オリーンなどによる自由貿易優越命題の理論的な吟味を試みている。自由貿易命題の成否がいくつかの前提条件に依存することはよく知られているが、申請者は基礎的食料の絶対的な必需財としての特性、穀物市場の寡占化傾向、農業に投入される土地の移動不能性を考慮するとき、自由貿易が長期的には一部の国の利益に沿った帰結を生じる可能性を示した。すなわち、2段階のゲーム理論の応用によって導き出された食料生産に比較優位を有する国の最適戦略は、自由貿易下で他国の農業の淘汰を待ったうえで、寡占構造に支えられた有利な交易条件を設定し、自国の経済厚生を高めることであった。

第7章と第8章では、負の外部効果のコントロールと被害補償について、既往の経済理論を批判的に吟味している。第7章では、ピアスによる最適汚染水準の達成条件を再検討し、生産削減と汚染処理の組み合わせに関して理論上の誤りを指摘した。ピアスのモデルは標準的なテキストにも採用されており、申請者の指摘は農業環境汚染のコントロールの手法設計のみならず、環境経済学の基礎理論からみても興味深い。続く第8章では、農業による水質汚染などに代表される負の外部効果について、被害者補償理論の観点から吟味している。とくにボウモルとオーツの所説を基礎に、パレート効率性を損なうことなく、被害者補償の範囲と手法を拡張できることを示した。

以上を要するに、本論文は農業と農村に発生している正負の外部効果の諸側面に着目し、ミクロ経済学の理論を厳格に適用することによって、その社会的な意義を明瞭な論理構成のもとに位置付けたものである。なかでも社会的な側面に拡張された正の外部効果について実証的な裏付けを与えた点や、農業貿易と環境負荷の関係や最適汚染量のコントロールについて、通説に含まれていた問題点を明確に指摘した点を特徴とする。この意味において本論文は、農業・農村の外部効果の実証研究と環境経済学の基礎理論の双方について、学術上、応用上寄与するところが少なくない。よって、審査員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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