学位論文要旨



No 215702
著者(漢字) 木本,哲也
著者(英字)
著者(カナ) キモト,テツヤ
標題(和) カルシウム信号によるステロイドホルモン合成制御に関する研究
標題(洋)
報告番号 215702
報告番号 乙15702
学位授与日 2003.05.29
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第15702号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 川戸,佳
 東京大学 教授 石浦,章一
 東京大学 教授 里見,大作
 東京大学 教授 跡見,順子
 東京大学 助教授 小倉,尚志
内容要旨 要旨を表示する

ステロイドホルモンは、主に副腎皮質や精巣の細胞で産生される。特に副腎皮質束状層細胞は、肝糖新生促進、炎症抑制などの作用をもつステロイドホルモン(糖質コルチコイド)を産生することにより、生体の恒常性維持とストレス防御を担っている。束状層細胞のステロイドホルモン産生は、下垂体前葉より分泌され血流によって副腎に供給される副腎皮質刺激ホルモン(ACTH)によって促進される。ACTHはペプチドホルモンであり細胞膜を通過できないので、ACTHのもたらす細胞外ステロイド産生亢進信号は、束状層細胞の細胞膜に存在する特異的な受容体を介して細胞内のセカンドメッセンジャー系を駆動することによって細胞内に伝達されるものと考えられる。これまでACTHに対するセカンドメッセンジャーはcAMPであると信じられてきたが、生理濃度(1 -10 pM)のACTHで副腎皮質細胞を刺激すると、cAMPの増加を伴わずステロイドホルモン産生が亢進する。よって、生理濃度のACTHに対するセカンドメッセンジャーはcAMPではないと考えられ、その正体はこれまで不明のままであった。細胞外のカルシウムを除去すると、束状層細胞において生理濃度のACTHがもたらすステロイド産生亢進作用は消失する。よって、カルシウムは生理濃度のACTHによるステロイドホルモン産生亢進において重要な役割を果たすものと考えられる。しかし、カルシウム感受性蛍光色素を用いた束状層細胞内のカルシウム濃度変動(カルシウム信号)測定において、これまでACTHの投与に対するカルシウム信号の発生は観察されてこなかった。そのため、カルシウム信号はACTHに対するセカンドメッセンジャーとみなされずカルシウムの役割は不明のままであった。

そこで本研究は、まず従来束状層細胞のカルシウム信号観察に用いられてきた方法により、本当に束状層細胞のカルシウム信号測定が可能なのか否かを検討することから開始した。その結果、従来の方法ではステロイドホルモンを産生する細胞のカルシウム信号計測は不可能であることを見出した。更に、束状層ステロイドホルモン産生細胞のカルシウム信号測定を可能とし、これにより、生理濃度のACTHが束状層ステロイドホルモン産生細胞でセカンドメッセンジャーとしてのカルシウム信号を発生させることを発見した。本論文では、以上の研究で得られた知見を報告し、カルシウム信号のステロイドホルモン産生制御における役割を議論する。

更に本研究では、脳海馬のニューロステロイド合成について検討した。ニューロステロイドは脳で合成されるステロイドであり、記憶学習の効率を制御する。しかし、空間記憶学習の中枢である海馬においては、ニューロステロイドの作用様式を理解する上で重要なステロイドの合成部位が明らかにされていなかった。よって本研究では、まずステロイド合成酵素の海馬での分布を検討した。また、これまでほとんど明らかにされていなかったニューロステロイドの合成制御機構について検討し、神経伝達物質受容体を介したカルシウム流入によってニューロステロイドの産生が亢進することを発見した。本論文では、以上の海馬における研究で得られた知見をも報告し、脳独自のステロイド合成制御様式に関して議論する。

本論文ではまず、これまでの副腎皮質束状層細胞内カルシウム信号測定に際して用いられてきた方法によってカルシウム信号計測が可能か否かを検討した結果を報告する。細胞内へのカルシウム感受性蛍光色素の導入は、細胞外にカルシウム感受性蛍光色素のアセトキシメチルエステル体(AM体)を添加することによって行った。細胞質に導入されたAM体色素は、エステラーゼによってAM部が切断されることによりカルシウムとの結合能を回復し、カルシウム依存性に蛍光が変化する状態となる。これにより、細胞内カルシウム信号を蛍光信号の時間変化として計測できるようになる。色素の細胞内への取り込み促進のため、これまでプルロニックF-127が色素導入補助剤として広く用いられてきた。しかし、プルロニックF-127(0.02%)とカルシウム感受性蛍光色素calcium green-1のAM体(calcium green-1/AM, 3μM)を含む培地中でウシ副腎皮質束状層細胞を10分間インキュベートし、洗浄後ビデオ蛍光顕微イメージングシステムを用いて蛍光観察したところ、自家蛍光より強い蛍光を発する細胞は全体の約2.3%に過ぎないことが明らかとなった。イオノマイシンを投与して細胞質カルシウム濃度を上昇させると、自家蛍光より大きな蛍光を発した細胞では蛍光強度上昇が見られたが、その他の細胞では蛍光強度上昇は観察されなかった。これは、細胞質カルシウム濃度上昇を蛍光信号として計測可能な細胞がごく一部に留まることを意味している。Calcium green-1/AM負荷後に自家蛍光より強い蛍光を呈した細胞では、45μM ATPによる刺激に対しカルシウム信号が観察された。AM体色素の負荷によりカルシウム信号の蛍光測定が可能な細胞と可能でない細胞の違いを検討するため、ステロイドホルモン合成酵素(チトクロムP450sccなど)、脂肪顆粒などの分布を、カルシウム信号を確認した細胞において観察した。その結果、ATP刺激に対してカルシウム信号を発した細胞はP450sccなどを持たず脂肪顆粒も少ない細胞、すなわちステロイドホルモンを産生しない細胞であることが明らかとなった。また、AM体色素負荷後に自家蛍光レベルの蛍光を呈した細胞は、ステロイドホルモン合成酵素をもち、かつ多量の脂肪顆粒を含んでいたことから、ステロイドホルモン合成細胞であると判別された。

本論文では更に、プルロニックF-127の代わりに微量のトリトンX-100、またはクレモフォアELを用いることにより、束状層ステロイドホルモン産生細胞においてもカルシウム信号の計測が可能となることを見出したので、これを報告する。これは、calcium green-1/AMを0.01%のトリトンX-100、または0.03%のクレモフォアELの存在下で負荷した束状層ステロイドホルモン産生細胞において、イオノマイシン投与によって蛍光上昇が観察されることによって確認された。これにより、束状層ステロイドホルモン産生細胞でのカルシウム信号の計測が可能となり、ACTH刺激によってカルシウム信号が発することが発見された。

1 pM ACTHで束状層ステロイドホルモン産生細胞を刺激すると、カルシウムオシレーション、カルシウム濃度の階段状の上昇、階段状上昇とオシレーションの混合型、の3パターンのカルシウム信号が観察された。カルシウム信号を発する細胞の割合は、ACTHの濃度に対してシグモイド状の依存性を示し、プレグネノロン産生のACTH濃度に対する依存性を示す曲線と、10 pM以下でよい平行性を示した。副腎皮質細胞においてACTH受容体に結合し、cAMPを増加させずにステロイドホルモン産生を増加させるo-ニトロフェニルスルフェニルACTH(NPS-ACTH)で束状層ステロイドホルモン産生細胞を刺激した際にもACTH刺激の場合と同様のカルシウム信号が観察されたことから、束状層ステロイドホルモン産生細胞ではcAMPの増加によらずカルシウム信号が発生することが確認された。NPS-ACTHに対しても、カルシウム信号を発する細胞の割合はNPS-ACTH濃度に対しシグモイド状の依存性を示し、これはプレグネノロン産生のNPS-ACTH濃度に対する依存性を示す曲線と、1 nM以下でよい平行性を示した。束状層ステロイドホルモン産生細胞におけるカルシウムオシレーションは、EGTAによって細胞外カルシウムをキレートすると消失した。また、カルシウムオシレーションはタプシガルギンによっても消失したことから、カルシウムオシレーションの発生・維持には細胞外からのカルシウム流入と細胞内カルシウムプールの両方が関与しているものと考えられる。ニカルジピンによって電位依存性カルシウムチャネルを阻害すると、1 pM ACTHの投与に対してカルシウム信号の発生は観察されたものの、カルシウム信号の後期相(刺激直後のカルシウムスパイクに引き続く平坦相)が刺激前より高く維持される細胞の割合が顕著に減少した。ニカルジピンは1 pM ACTHによるステロイドホルモン産生を顕著に抑制するので、カルシウム信号の後期相が高く維持されることは、ステロイドホルモン産生促進に重要であろうと考えられる。1 nM以下のNPS-ACTHによる刺激に対しても同様の結果が得られた。以上より、生理濃度のACTH、または1 nM以下のNPS-ACTHのステロイドホルモン産生促進作用を媒介するセカンドメッセンジャーは、カルシウム信号であると思われる。

次に本論文では、ラット脳の海馬におけるニューロステロイドの合成系について検討した結果を報告する。12週齢のオスウィスターラットの海馬におけるステロイド合成酵素群(チトクロムP450scc、NADPH-アドレノドキシン還元酵素、アドレノドキシン)、及びステロイド合成急性調節蛋白質(StAR)の分布を、それぞれに特異的な抗体を用いた免疫組織化学染色法により検討した。その結果、これらステロイド合成に必須の酵素・蛋白質が、海馬の神経細胞に局在していることを発見した。これまでニューロステロイドの合成を担うのは主にグリア細胞であると信じられてきたが、海馬においては神経細胞がニューロステロイド合成の主要な担い手であることが本研究によって明らかとなった。免疫染色に用いた抗体を使用して、12週齢のオスウィスターラットの海馬より調製したミトコンドリア試料に対してウエスタンブロッティングを行った結果、P450sccおよびNADPH-アドレノドキシン還元酵素に対しては約54 kDaの位置に単一のバンドが観察され、アドレノドキシンに対しては12 kDa付近に単一のバンドが観察された。これらのバンドは、全て陽性対照(ウシ副腎皮質より精製した精製抗原、ラット精巣のミトコンドリア、あるいは小脳ミトコンドリア)に対して観察されたものと同じ位置に観察されたことから、免疫染色において用いた抗体の特異性が確認された。陰性対照としてのラット肺より調製したミトコンドリアにおいては、いずれの抗体に対してもバンドは検出されなかった。一方、StARのウエスタンブロットにおいては、副腎皮質およびラット精巣のミトコンドリアに対して30 kDa付近に濃いバンドが観察されたのに対し、海馬ミトコンドリアに対しては37 kDa付近にバンドが観察され、30 kDa付近のバンドはごく薄いものだった。

海馬神経細胞にニューロステロイド合成系の存在が確認されたので、次に本研究では海馬のニューロステロイド合成制御機構に関する検討を行った。12週齢オスウィスターラットの海馬組織を100μMのN-メチル-D-アスパラギン酸(NMDA)で刺激すると、プレグネノロン濃度の増加が引き起こされた。NMDAによるプレグネノロン産生は、刺激開始後15分で確認できた。海馬組織のプレグネノロン濃度は、投与したNMDA濃度の増加に応じてシグモイド状に増加した。NMDAを投与しなかった海馬組織においては、プレグネノロン濃度の有意な増加は見られなかった。NMDAのプレグネノロン産生促進作用におけるEC50は約45μMであった。このNMDA投与によるプレグネノロン産生は、NMDA型グルタミン酸受容体(NMDA受容体)の特異的非競合阻害剤であるMK-801(50μM)、または競合阻害剤であるAP5(110μM)によってほぼ完全に抑制された。さらに、NMDA投与による海馬のプレグネノロン濃度増加は細胞外液のカルシウムをEGTAによってキレートした際にもほぼ完全に抑制されたことから、海馬のプレグネノロン産生はNMDA受容体を介して流入するカルシウムによって促進されるものと考えられる。NMDA刺激によるプレグネノロン濃度増加はP450sccの特異的阻害剤であるアミノグルテチミドによってほぼ完全に抑制されたので、海馬のプレグネノロン合成は確かにP450sccによってなされているものと確認された。NMDA刺激をおこなった海馬からミトコンドリアを調製してStARに対するウエスタンブロット解析を行った結果、100μM NMDAで30分刺激した海馬では、37 kDaのStARが減少し、ほぼそれに相当する量の30 kDa StARが増加した。StARはP450sccへの基質コレステロール供給を担いステロイド合成速度を制御すると考えられる。NMDA刺激によるStARの存在状態の変化はプレグネノロン濃度増加とよく一致するので、NMDA刺激によってStARが活性化されミトコンドリア内膜にコレステロールを供給したことを反映しているものと思われる。

審査要旨 要旨を表示する

副腎皮質束状層細胞では、副腎皮質刺激ホルモン(ACTH)の刺激に対して肝糖新生促進や炎症抑制などの作用をもつステロイドホルモンが産生されている。また最近、脳でも神経機能を急性に調節するニューロステロイドが産生されていることがわかってきた。しかし、これらステロイドの産生制御機構に関しては不明な点が多く残されており、その解明が待たれていた。

本論文「カルシウム信号によるステロイドホルモン合成制御に関する研究」では、これまで不可能であった副腎皮質束状層ステロイドホルモン産生細胞における細胞内カルシウム信号の実時間蛍光測定を可能とし、カルシウム信号が生理濃度のACTHに対するセカンドメッセンジャーとして機能することを解明した。また、この成果の上に脳海馬でのニューロステロイド産生機構の解明に取り組み、海馬神経細胞においてN-メチル-D-アスパラギン酸(NMDA)型グルタミン酸受容体を介したカルシウム信号がニューロステロイド産生を急性に亢進させることを明らかにした。

本研究ではまず、これまで用いられてきた方法によっては副腎皮質束状層ステロイドホルモン産生細胞におけるカルシウム信号の蛍光計測が不可能であったことを明らかにした。更に、微量のトリトンX-100またはクレモフォアELを色素導入補助剤として用いることにより、ウシ束状層ステロイドホルモン産生細胞においてカルシウム信号の実時間蛍光計測が可能となることを明らかにした。これにより、生理濃度(1-10 pM)のACTHによる刺激を与えると、束状層ステロイドホルモン産生細胞においてカルシウム信号が発生することを発見した。カルシウム信号を発する細胞の割合はACTHの濃度にシグモイド状に依存し、生理濃度領域のACTHに対してはステロイドホルモンの産生と極めてよい平行性を示した。また、ACTH受容体に結合し、cAMPを増加させずにステロイドホルモン産生を増加させるo-ニトロフェニルスルフェニルACTH(NPS-ACTH)で束状層ステロイドホルモン産生細胞を刺激した際にも、ACTH刺激の場合と同様のカルシウム信号が発生することも発見した。ACTHに対するセカンドメッセンジャーは長らくcAMPであると信じられてきたが、一方で生理濃度のACTHに対しては細胞内cAMP増加が見られないにも拘わらずステロイドホルモン産生の亢進が惹起される。よって生理濃度のACTHに対するセカンドメッセンジャーは不明であったが、本研究でのカルシウム信号の発見により、束状層ステロイドホルモン産生細胞においてステロイドホルモン産生を制御するセカンドメッセンジャーがカルシウム信号であることが解明された。

更に本研究では、脳海馬のニューロステロイド合成について検討した。脳のニューロステロイド合成酵素の量は末梢ステロイドホルモン産生器官の数百分の一以下と極めて少ないため、これまで海馬におけるニューロステロイド合成部位やニューロステロイドの合成制御機構は未解明であった。そこで本研究では、まずラット脳の海馬におけるニューロステロイド合成酵素の分布を免疫組織化学染色法及びウエスタンブロット解析により検討した。その結果、12週齢のオスウィスターラットの海馬においてステロイド合成酵素群(チトクロムP450scc、NADPH-アドレノドキシン還元酵素、アドレノドキシン)、及びステロイド合成急性調節蛋白質(StAR)が、海馬の神経細胞に局在していることを発見した。これまでニューロステロイドの合成を担うのは主にグリア細胞であると信じられてきたが、海馬においては神経細胞がニューロステロイド合成の主要な担い手であることが本研究によって明らかとなった。StARのウエスタンブロットにおいては、副腎皮質や精巣のミトコンドリアでは30 kDaのStARのみが観察されるのに対し、海馬ミトコンドリアでは37 kDaのStARが安定に存在することを発見した。本研究では更に、海馬組織を100μMのNMDAで刺激するとプレグネノロン濃度の増加が引き起こされることを発見した。このプレグネノロン産生は、NMDA受容体の特異的阻害剤であるMK-801とAP5、また細胞外液のカルシウムの除去によってほぼ完全に抑制されたので、海馬のプレグネノロン産生はNMDA受容体を介するカルシウム流入によって促進されることが解明された。本研究ではNMDA刺激を行った海馬のミトコンドリアでは、37 kDaのStARが減少し、ほぼそれに相当する量の30 kDa StARが増加することを明らかとし、同時にステロイド合成速度を制御すると考えられるStARの存在状態の変化がプレグネノロン濃度増加とよく一致することを解明した。これは、NMDA刺激によってStARが活性化されミトコンドリア内膜にコレステロールを供給したことを示すものと考えられる。

以上を要約すると、本研究は副腎皮質ステロイドホルモン産生細胞でのカルシウム信号の実時間蛍光計測を可能とし、生理濃度のACTHによる刺激に対するカルシウム信号を発見することにより、カルシウム信号のステロイドホルモン産生制御におけるセカンドメッセンジャーとしての役割を解明した。また、ほとんど明らかにされていなかったニューロステロイドの合成制御機構について検討し、脳海馬での主要なニューロステロイド産生部位が神経細胞であることを明らかにするとともに、NMDA受容体を介したカルシウム流入によるカルシウム信号がニューロステロイド産生を亢進させることを発見した。更に末梢とは異なるStARの存在様式を明らかにすることにより、脳独自のステロイド合成制御様式に関する新しい知見を得た。

以上の結果より、本研究は内分泌と脳の生物物理学の領域において重要な進展をもたらしたものと認められる。したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

なお、本論文の内容は既に学術誌に公表済みである。これらは共著論文であるが、論文提出者はその全てにおいて研究の主要部分に寄与したものであることを確認した。

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