学位論文要旨



No 215715
著者(漢字) 長井,誠
著者(英字)
著者(カナ) ナガイ,マコト
標題(和) 牛ウイルス性下痢ウイルス遺伝子の多様性に関する研究
標題(洋)
報告番号 215715
報告番号 乙15715
学位授与日 2003.06.17
学位種別 論文博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 第15715号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 明石,博臣
 東京大学 教授 吉川,泰弘
 東京大学 助教授 原澤,亮
 東京大学 助教授 遠矢,幸伸
 東京大学 講師 小原,恭子
内容要旨 要旨を表示する

牛ウイルス性下痢ウイルス(BVDV)はフラビウイルス科のペスチウイルス属に分類され、豚コレラウイルス、ボーダー病ウイルスとともに畜産経営に損失をもたらす重要な病原体である。健康な牛がBVDVの感染を受けると症状を示さない場合が多いが、1990年代の前半に北米で出血性病変、激しい血小板減少および高い死亡率を特徴とした損耗率の高いBVDV感染症が発生した。この流行から分離されたBVDVは、従来のBVDV(BVDV 1)とは遺伝子型および抗原性状が異なることからBVDV 1とは区別され、BVDV 2と名付けられた。BVDVは容易に垂直感染を起こし、胎子に様々な障害を引き起こす。胎子が後期の組織発生が進行しつつある胎齢100〜150日に感染を受けた場合、水頭症、小脳形成不全などの先天異常や発育遅延などがみられ、免疫応答能を獲得する前の胎齢90〜100日以前に感染した場合、流産やミイラ化胎子が発生する。また、胎齢初期の感染では感染ウイルスに対する免疫寛容が誘発され、持続感染(PI)牛が誕生する。PI牛は重要な感染源であるばかりではなく、発病するとほとんどが死亡する粘膜病の高リスク群となる。BVDVは培養細胞に対する病原性の有無から細胞病原性(cp)と非細胞病原性(ncp)の2タイプに分けられている。粘膜病からはcpおよびncp両タイプのウイルスが分離されるが、cpウイルスは普通粘膜病以外から分離されない。粘膜病はPI牛以外から発生しないことから、cpウイルスは持続感染しているncpウイルスが変異または組換えを起こすことにより生じると考えられている。BVDVは多様な遺伝子型および抗原性状を示すが、わが国のBVDVについて遺伝子型および抗原性状を関連づけて調べた報告や遺伝子型別を詳細に行った報告はない。そこで著者は、わが国でこれまでに分離されたBVDVについて、遺伝子型および抗原性状について詳細な解析を実施した。

1989年から1991年に石川県および栃木県で分離された4株(OY-89株、SW-90株、KZ91-CP株およびKZ91-NCP株)は、従来のわが国のBVDVとは抗原性状が異なり、新しい血清型と考えられた。これらの株の5'非コード領域(NCR)の塩基配列を調べたところ、これらの株はBVDV 1ではなくBVDV 2に相同性の高い塩基配列を示した。わが国におけるBVDV 2の浸潤状況は不明であったが、今回初めてわが国にBVDV 2が浸潤していることが明らかになった。BVDV 2 (KZ91-CP株) を用いて石川県内において牛、豚、めん羊、山羊および鹿の抗体調査を実施したところ、BVDV 2特異抗体は成牛1,625頭中16頭(1.0%)に認められたに過ぎず、BVDV 2の流行はごく一部に限られていることが明らかになった。

わが国で分離されたBVDV 62株について5'NCRの部分的な配列を決定し、系統樹解析を実施したところ、わが国のBVDVはBVDV 1とBVDV 2に分類され、BVDV 1はさらに4つのサブグループに分類された(図1)。わが国のBVDVは、ほとんどがBVDV 1a(46.8%)およびBVDV 1b(43.5%)に分類され、BVDV 1の他のサブグループおよびBVDV 2は少なかった。BVDV 1aの中の3株はブーツストラップ値98%でBVDV 1aとは異なった分岐を示し、抗原性状もBVDV 1aとは異なることからBVDV 1a内のサブグループ(BVDV 1a')とした。KS86-1ncp株およびこれと似た抗原性状を示すウイルス株は、わが国のBVDVの中では抗原性状が異なることからK群と呼ばれている。このグループはBauleらがBVDV 1cと定義したグループと相同性が高かった。So CP/75株はいずれの株ともクラスターを形成しなかった。各遺伝子型の代表株に対する免疫血清を作成し、交差中和試験を実施したところ、遺伝子型に分けられたグループ内の株はグループ代表株に対する免疫血清に中和されたが、他のグループの免疫血清に対する反応性は弱かった。

わが国のBVDVをさらに詳しく分類し世界各地の株と比較するため、5'NCR、Npro、E2、NS3およびNS5B〜3'NCRの5つの遺伝子領域(図2) において系統樹解析を実施した。それぞれの領域の系統樹は互いによく似たグループ分類を示したが、5'NCRの解析でBVDV 1 a'と定義したグループは5'NCR以外ではBVDV 1aとは異なった分岐を示し、NproおよびE2領域においてBecherらがBVDV 1cと定義したグループと相同性を示した。5'NCRでBauleらのBVDV 1cと相同性を示したK群のウイルス株はNproおよびE2領域においてBecherらがBVDV 1eに定義した英国で分離された鹿からの分離株(BVDV Deer-GB-1)と相同性を示した。2001年の分離株であるIS25CP/01株およびIS26NCP/01株は、わが国の分離株の中では大きく異なった分岐を示したが、E2領域の解析においてヨーロッパのいくつかの株と類似した分岐を示した。So CP/75株は、いずれの領域においても他のグループと分岐をともにしなかった。KS86-1cp株および190CP株は感染実験により粘膜病を発症した牛から分離された(Shimizuら,1989)。KS86-1cp株ではE2、NS3、NS5B〜3'NCR は持続感染していた株とほぼ同一な塩基配列を示したが、5'NCRは重感染させた株と同一な配列を示した。一方、190CP株は5'NCR、NproおよびE2領域は持続感染していた株とほぼ同一な塩基配列を示したが、NS5B〜3'NCRは重感染させた株と同一な塩基配列を示した。また、GenBankデータベースで検索した細胞病原性株ILLC株および非細胞病原性株ILLNC株(米国分離株)は、5'NCR、Npro、E2およびNS5B〜3'NCR領域は1bへの分岐を示したが、NS3領域は1aに分岐した(表 1)。これらの株は解析した領域によってサブグループ分類が異なることから、サブグループの異なる株の組換えによるゲノムを保有するものと思われた。

5カ所の遺伝子解析の結果から、190CP株の遺伝子相同性組換えは既報のとおりNS3領域内に存在することが推察されたが、BVDV KS86-1cp株はこれまでに報告のない構造蛋白コード領域で組換えを起こしていることが予想された。そこで著者は、KS86-1cp株の遺伝子組換え領域を特定するためNose株、KS86-1ncp株およびKS86-1cp株ゲノムの全塩基配列を決定し遺伝子構造の比較を行った。ノーザンブロット解析から、Nose株およびKS86-1cp株のゲノムはKS86-1ncp株よりも若干長く、決定した全塩基配列の結果(KS86-1ncp株:12,306bp、Nose株:13,196bp、KS86-1cp株:13,203bp)と一致した。また、Nose株およびKS86-1cp株のC蛋白遺伝子領域に宿主細胞由来遺伝子の挿入とNproおよびC蛋白遺伝子の重複が認められた。さらに、KS86-1ncp株、 Nose株およびKS86-1cp株の遺伝子の比較から、KS86-1cp株のゲノムは宿主細胞由来遺伝子およびその上流(5'NCR、NproおよびC蛋白領域)はNose株、下流(重複しているNpro、C蛋白遺伝子、それに続く蛋白コード領域および3'NCR)はKS86-1ncp株に由来するキメラ体であることがわかった(図3)。KS86-1cp株は、KS86-1ncp株の抗原性を維持することで免疫寛容状態を持続し、さらにNose株由来の遺伝子を得ることで病原性を獲得したものと考えられた。

BVDV日本分離株の5'NCRにおける分子系統樹

解析を行った遺伝子領域

表1 解析した領域によるKS86-1cp、190CP、ILLCおよびILLNCのグループ別

図3 (a) KS86-1ncp、NoseおよびKS86-1cpのウイルスRNAの構造

(b) KS86-1ncpおよびNoseの組換え部位の塩基配列

審査要旨 要旨を表示する

牛ウイルス性下痢ウイルス(BVDV)はフラビウイルス科ペスチウイルス属に分類され、養牛経営に損失をもたらす重要な病原体である。BVDVは多様な遺伝子型および抗原性状を示し、北米では近年、損耗率が高く従来のBVDV(BVDV-1)とは遺伝子型の異なるBVDV(BVDV-2)が報告されている。また、致死的な病型である粘膜病から分離される細胞病原性(cp)株は、ウイルス遺伝子組換えによって生じることが明らかにされている。本研究は、日本で分離されたBVDVの遺伝子型および抗原性状の多様性を明らかにすること、遺伝子組換えの可能性が示唆された株について組換えメカニズムを解明することで細胞病原性獲得機序に関する知見を得ることを目的としている。本論文は、以下の4章により構成される。

5'NCRにおいてBVDV-2の塩基配列と相同性を示すBVDVの分離と石川県におけるBVDV-2の浸潤状況

1989年から1991年に石川県および栃木県で分離されたKZ91-CP株など4株は、交差中和試験の結果、従来のわが国のBVDVとは抗原性状が異なることが明らかとなった。これらの株の5'NCRの塩基配列を調べたところ、これらの株はBVDV-1ではなくBVDV-2に相同性の高い塩基配列を示したため、BVDV-2に分類されると考えられた。わが国におけるBVDV-2の確認は今回が初めてである。BVDV-2(KZ91-CP株)を用いて石川県内の各家畜の抗体調査を実施したところ、BVDV-2特異抗体は成牛1,625頭中16頭(1.0%)に認められたに過ぎず、BVDV-2の流行はごく一部に限られていることが明らかになった。

わが国で分離されたBVDVの遺伝子および抗原性状の多様性

わが国で分離されたBVDV62株について5'非翻訳領域(5'NCR)の部分的な配列を決定し、系統樹解析を実施したところ、わが国のBVDVはBVDV-1とBVDV-2に分類された。BVDV-1はさらにサブグループに分類され、ほとんどがBVDV-1a(46.8%)およびBVDV-1b(43.5%)に分類された。BVDV-1aの中の3株は、分岐や抗原性状がBVDV-1aとは異なることからBVDV-1a内のサブグループ(BVDV-1a')とした。わが国において血清学的にK群と分類されているグループは独立したクラスターを形成した。So CP/75株は独立した分岐を示した。各遺伝子型の代表株に対する免疫血清で行った交差中和試験では、遺伝子型で分けられたグループ内の株はグループ代表株に対する免疫血清に強く中和されたが、他のグループの免疫血清に対する反応性は弱かった。このことから、5'NCRのグループ分けで抗原性状の多様性を反映することは可能と考えられた。

わが国で分離されたBVDVの異なる5つの遺伝子領域における系統樹解析

わが国のBVDVをさらに詳しく分類するため、5'NCR、Npro、E2、NS3およびNS5B〜3'NCRの5つの遺伝子領域において系統樹解析を実施した。それぞれの領域の系統樹は互いによく似たグループ分類を示した。わが国のBVDV-1は5'NCR以外では6つのサブグループが認められた。実験感染で発生させた粘膜病から分離されたKS86-1cp(Kcp)株および190CP株、GenBankデータベースで検索したcp株ILLC株および非細胞病原性(ncp)株ILLNC株(米国分離株)は、解析した領域によって遺伝子型が異なっていた。このことから、これらの株はサブグループの異なる株の組換えによるゲノムを保有するものと思われた。

BVDV cp株の構造蛋白コード領域に挿入されていた宿主細胞由来遺伝子と遺伝子相同性組換え

第3章でKcp株はこれまでに報告のない構造蛋白コード領域で組換えを起こしていることが予想されたことから、Kcp株の遺伝子組換え領域を特定するため持続感染していたKS86-1ncp(Kncp)株、重感染させたNose株およびKcp株ゲノムの全塩基配列を決定し遺伝子構造の比較を行った。ノーザンブロット解析から、Nose株およびKcp株のゲノムはKncp株よりも若干長く、決定した全塩基配列の結果(Kncp株:12,306、Nose株:13,196、Kcp株:13,203)と一致した。また、Nose株およびKcp株のC蛋白遺伝子領域に宿主細胞由来遺伝子の挿入とNproおよびC蛋白遺伝子の重複が認められた。さらに、Kncp株、Nose株およびKcp株の遺伝子の比較から、Kcp株のゲノムは宿主細胞由来遺伝子およびその上流(5'NCR、NproおよびC蛋白領域)はNose株、下流(重複しているNpro、C蛋白遺伝子、それに続く蛋白コード領域および3'NCR)はKncp株に由来するキメラ体であることがわかった。Kcp株は、Kncp株の抗原性を維持することで免疫寛容状態を持続し、さらにNose株由来の遺伝子を得ることで病原性を獲得したものと考えられた。

以上本論文は、わが国のBVDV遺伝子の多様性を明らかにし、さらに、世界的にこれまで報告のなかったユニークな遺伝子組換えを発見することでBVDVの細胞病原性獲得機序の新知見を与えたもので、学術上貢献することが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(獣医学)論文として価値あるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク