学位論文要旨



No 215734
著者(漢字) 福嶋,はるみ
著者(英字)
著者(カナ) フクシマ,ハルミ
標題(和) 糖尿病例における白内障手術後副腎皮質ステロイド薬結膜下投与 : 抗炎症効果と血糖値上昇作用の検討
標題(洋)
報告番号 215734
報告番号 乙15734
学位授与日 2003.07.16
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第15734号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大内,尉義
 東京大学 助教授 門脇,孝
 東京大学 助教授 川島,秀俊
 東京大学 講師 森屋,恭爾
 東京大学 講師 小川,利久
内容要旨 要旨を表示する

【研究目的】

近年の糖尿病患者の増加に伴い糖尿病症例に対する眼科手術件数は年々増加している。眼科学領域の手術として最も手術件数が多く年間25万件行われる白内障手術においては、糖尿病患者であっても局所麻酔で施行されるため術後の血糖値への影響は小さいが、糖尿病網膜症の有無に関わらず血液房水関門が術前から破綻しているため、術後の炎症が強く出る、あるいは遷延化するとされてきた。そのため、術後の炎症抑制の目的で、白内障手術の終了時に副腎皮質ステロイド薬の結膜下注射(以下結注)がほぼルーチンに行われている。しかし近年の白内障手術の術式および手術装置の進歩により、手術侵襲は非常に小さくなってきている。それでもステロイドの結注は必要であろうか。また血糖値への影響はないのであろうか。本研究の目的は、糖尿病患者に対する、現在最も多く行われている超音波水晶体乳化吸引術 (phacoemulsification and aspiration ; PEA) による白内障手術時の、副腎皮質ステロイド薬結注の有用性を、抗炎症作用と血糖値上昇作用の両面から、定量的に、患者眼および動物実験モデルで検討することである。

【研究方法】

増殖糖尿病網膜症を有さない糖尿病患者に対する、PEAによる白内障手術における、手術終了時の副腎皮質ステロイド薬の結注の術後炎症抑制効果の検討。対象は同一術者により、同一術式で白内障を受けた糖尿病患者、104人104眼である。白内障および非増殖糖尿病網膜症以外の眼疾患(緑内障、ぶどう膜炎、増殖糖尿病網膜症など)を有する例は対象から除外した。また、術前に副腎皮質ステロイド薬または非ステロイド性抗炎症薬の局所投与ないし全身投与を受けている例、および術中合併症(後嚢破損など)を生じた例も対象から除外した。対象を術前に無作為に2群に分割し、一群の患者には1%硫酸ゲンタマイシン(商標名 : ゲンタシン)0.5mlおよび副腎皮質ステロイド薬である0.4%リン酸デキサメタゾン(商標名 : デカドロン)0.3mlを結注し、もう一方の群には1%硫酸ゲンタマイシン0.5mlのみ結注した。術後の投薬も全例同一とした。術後炎症の指標として、興和社性レーザーフレアメーター(商標名 : FM-500)にて、手術前日、手術1日後、2日後、5日後、7日後、14日後に前房内フレア値を測定した。

糖尿病患者に対する白内障手術終了時の副腎皮質ステロイド薬の結注の、血糖値上昇作用の検討。白内障手術目的で入院した糖尿病患者19人を対象とし、8時に朝食摂取(通常量)、昼食止めの上、14時から16時の間に白内障手術を行い、18時に夕食摂取(通常量)させた。観察期間中の内科的治療は一切変更しなかったが、手術当日の朝のみ経口血糖降下剤を中止、または朝のインスリンを通常量の1/2〜1/3とした。手術は全例同一術式で、点眼麻酔にて施行した。精神的なストレスによる血糖上昇作用を最小限に押さえるため、手術時間が30分以上かかった症例は対象から除外した。術前に対象患者を無作為に2群に分割し、白内障手術終了時に、一群の患者には0.4%リン酸デキサメタゾン(商標名 : デカドロン)0.3mlを結注し、もう一方の群の患者には生理食塩水0.3mlを結注した。術後の投薬は全例同一内容とし、手術の前日、当日、翌日の3日間、血糖値を1日4回(毎食前と眠前)測定した。

ストレプトゾトシン (STZ) により高血糖状態を導入したラットを用いた、ステロイド結注の血糖上昇作用の検討。6週齢の Wistar ラットのオス20匹を実験対象とし、無作為に2群に分割し、一方を糖尿病群 (STZ群)、他方を非糖尿病群(対照群)とした。糖尿病群に割り当てられたラットに対しSTZ投与で糖尿病を導入した後、結注実験を行った。STZ投与7日後、ラットを12時間絶食させ、STZ群および対照群のそれぞれ半数に0.4%塩酸デキサメタゾン0.1mlを結注し、残りの半数に生理食塩水を0.1ml結注した。これらの結注はすべて右眼に行った。7日後、ステロイドを結注した群と生理食塩水を結注した群を入れ替え、左眼に対して同じ手法で結注実験を行った。血糖値は、結注前、結注後3、6、12、18、24時間後に測定した。対象のラットはすべて、観察期間中絶食を続けた。

【結果】

術前および術後のどの時点においても、ステロイド結注群と非結注群との2群間で前房内フレア値に統計学的有意差は認められなかった。

術前はどの時間帯においても両群の血糖値に差がなかったが、手術当日の就眠前の血糖値のみ、ステロイド結注群の血糖値が非結注群の血糖値と比較して有意に高かった(p=0.0078、対応のないt検定)。また両群とも手術当日就眠前の血糖値が前日および翌日の同時刻の血糖値と比較して高かったが、ステロイド結注群のみ統計学的に有意な差であった。

STZ群において、ステロイド結注 (p=0.0013) および生理食塩水結注 (p=0.0037) はいずれも結注3時間後に著明な血糖値上昇を示した。一方対照群では、ステロイドでも生理食塩水でも、結注後に有意な血糖値上昇は示さなかった。STZ群において、結注後3時間から24時間までいずれの時期においても、生理食塩水結注に比してステロイド結注の場合で、血糖値が有意に高かった。対照群においても、同様の有意差が認められた。

【考察】

従来、前房内炎症の程度を判定するには細隙灯検査により主観的に判断するしか方法がなかったが、近年レーザーフレア(セル)メーターという装置が開発され、前房内炎症の程度をフレア濃度としてin vivoで非接触・非侵襲で定量可能となった。今回の検討により、増殖糖尿病網膜症を有さない糖尿病患者において、熟練者が合併症なくPEAで行った白内障手術では、術後前房内炎症の抑制に対して、副腎皮質ステロイド薬の結注は効果がなく、副腎皮質ステロイド薬と非ステロイド抗炎症薬の術後点眼投与のみで炎症を十分に制御できることが示された。

白内障手術は、局所麻酔下で短時間(20分程度)で終わるため、精神的・肉体的ストレスは少なく、血糖値への影響はごく小さいと考えられてきた。また白内障手術の終了時の副腎皮質ステロイド薬の結注は、局所投与であることから、従来全身への影響は軽視されてきた。しかし、実際には容易に全身循環に入り血糖値へ影響していると考えられる。今回の検討では、糖尿病患者に対して小切開PEAによる白内障手術を行い、手術終了時に一度だけ副腎皮質ステロイド薬を結注して、術後の血糖値の変化を検討した。両群共に、手術当日の就眠前血糖値の上昇が認められたが、ステロイド非結注群では手術の精神的・肉体的ストレスによる血糖値上昇、結注群ではストレスによる血糖値上昇とステロイド結注の影響の両方が寄与したもの、と考えられる。両群共に手術のストレスは等しくかかっているのであるから、結注群と非結注群の術後血糖値上昇分の差は、ステロイド結注の影響と判断してよいと考えられ、そこに統計学的有意差が認められたことで、ステロイド結注により術後の血糖値が上昇することが示された。しかし翌日朝食前の血糖値では両群に差はなくなっており、一回のみのステロイド結注による血糖値上昇は一時的なものであることも示された。

人間における検討では、体格、糖尿病罹病期間、食事内容など様々な要因に血糖値が影響を受け、ステロイド結注の純粋な効果を検討するのは困難である。そこで、遺伝的背景がそろったラットを用い、週齢と体重をそろえ、薬剤 (STZ) でほぼ同じ血糖値レベルの糖尿病状態を作り出し、食餌の条件も完全に等しくして、ステロイド結注の血糖上昇作用を検討した。生理食塩水の結注だけでもSTZ群では3時間後の血糖値が上昇したが、対照群では血糖値上昇が認められなかった。この結果は、結注という操作がラットにとってストレスであるからと考えられる。STZ群においても対照群においても、ステロイド結注後の血糖値は、24時間後まで生理食塩水結注後に比べ有意に高かった。この結果により、ラットに対するステロイドの結注は結注後24時間にわたって血糖値上昇作用をもたらすことが示された。

【まとめ】

PEAが白内障手術法の主流となった現在も、多くの術者が白内障手術の終了時に副腎皮質ステロイド薬の結注をルーチンに行っている。かっての白内障手術では術後の炎症が強いために必須の手技であったし、その抗炎症効果も広く認められていた。また白内障手術がPEAで行われるようになって術後の炎症が著明に減少しても、糖尿病患者では非糖尿病患者に比べ炎症が強く出やすいため、ステロイド結注が必須と信じられてきた。一方で、その全身への影響に関しては軽視されてきた。

だが今回、検討 (1) において、増殖糖尿病網膜症を有さない糖尿病患者において、術後前房内炎症の抑制に対して、副腎皮質ステロイド薬の結注は効果がないことを示した。検討 (2) においては、糖尿病患者において、小切開創PEAによる白内障手術の終了時に副腎皮質ステロイド薬を結注すると、術後に一過性の、しかし有意な血糖値上昇をもたらすことを示した。さらに検討 (3) において、ステロイド結注の血糖上昇効果が結注後24時間にわたって持続することをSTZで糖尿病を導入したラットにおいて示した。

ルーチンに行われることの多い白内障手術終了時の副腎皮質ステロイド薬の結注であるが、増殖糖尿病網膜症や術中合併症を持たない症例では術後の抗炎症効果がないことが示され、一方糖尿病患者において術後の血糖値上昇をもたらすことが示された以上、安易に行うことはやめ、そのメリットがデメリットを上回ると考えられる場合に限り施行するべきべきである。また糖尿病患者にステロイドを結注した場合は、その後の血糖値の変動を注意深くみるべきであると考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、眼科学領域の手術として最も件数が多い白内障手術において、術後の前房内炎症を抑制する目的でルーチンに施行されることの多い副腎皮質ステロイド薬の結膜下注射(以下結注)の有用性を、抗炎症作用と血糖値上昇作用の両面から、定量的に、患者眼および動物実験モデルで検討することを試みたものであり、下記の結果を得ている。

増殖糖尿病網膜症を有さない糖尿病患者に対して、超音波水晶体乳化吸引術による白内障手術を行った場合に、手術終了時の副腎皮質ステロイド薬の結注が、術後炎症を抑制する効果があるかどうかを検討した。同一術者により同一術式で白内障手術を受けた糖尿病患者を、手術終了時に副腎皮質ステロイド薬の結注を受けた群と受けなかった群とに二分し、術後炎症の指標として前房内フレア値を測定した。その結果、術前および術後のどの時点においても、ステロイド結注群と非結注群との2群間で前房内フレア値に統計学的有意差は認められず、副腎皮質ステロイド薬の結注は術後炎症の抑制に効果がないことが示された。

糖尿病患者に対する白内障手術終了時の副腎皮質ステロイド薬の結注が、血糖値に与える影響を検討した。白内障手術目的で入院した糖尿病患者を手術終了時に副腎皮質ステロイド薬の結注を受けた群と受けなかった群とに二分し、手術前後の血糖値を測定した。その結果、ステロイド結注群の手術当日の就眠前血糖値が、非結注群のそれと比較して有意に高く、副腎皮質ステロイド薬の結注により術後の血糖値が上昇することが示された。

ストレプトゾトシン (STZ) により高血糖状態を導入したラットを用い、副腎皮質ステロイド薬結注の血糖上昇作用を検討した。ラットを糖尿病群(STZ群)と非糖尿病群(対照群)とに二分し、糖尿病群にはSTZ投与で糖尿病を導入した後、STZ群および対照群のそれぞれ半数に0.4%塩酸デキサメタゾン0.1mlを結注し、残りの半数に生理食塩水を0.1ml結注した。血糖値は、結注前、結注後3、6、12、18、24時間後に測定した。その結果、STZ群において、ステロイド結注 (p=0.0013) および生理食塩水結注 (p=0.0037) はいずれも結注3時間後に著明な血糖値上昇を示した。一方対照群では、ステロイドでも生理食塩水でも、結注後に有意な血糖値上昇は示さなかった。またSTZ群においても対照群においても、結注後3時間から24時間までずっと、生理食塩水結注に比してステロイド結注の場合に血糖値が有意に高かった。ラットに対するステロイドの結注は結注後24時間にわたって血糖値上昇作用をもたらすことが示された。

以上、本論文は副腎皮質ステロイド薬結注が侵襲の少ない現在の白内障手術においては抗炎症効果を有さず、一方糖尿病患者において術後の血糖値上昇をもたらすことを明らかにした。増加傾向にある糖尿病患者に対するより安全な手術方法の確立に重要な貢献をなすなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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