学位論文要旨



No 215738
著者(漢字) 谷,弘詞
著者(英字)
著者(カナ) タニ,ヒロシ
標題(和) 分子挙動に基づく潤滑膜の被覆状態の解明と磁気ディスクの潤滑膜設計に関する研究
標題(洋)
報告番号 215738
報告番号 乙15738
学位授与日 2003.07.17
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第15738号
研究科 工学系研究科
専攻 産業機械工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 中尾,政之
 東京大学 教授 田中,正人
 東京大学 教授 光石,衛
 東京大学 助教授 濱口,哲也
 東京大学 講師 鈴木,健司
内容要旨 要旨を表示する

はじめに

情報化社会の進展にともない、コンピュータ処理される情報量は増大している。このような状況において外部記憶装置である磁気ディスク装置に要求されることは、大記憶容量・高速処理・高信頼性である。大記憶容量化には高記録密度化が必須であり、記録・再生磁場を高効率で電気信号に変換するために、ヘッド・ディスク間の隙間である磁気ヘッドの浮上量を低下させること(磁気ヘッドの低浮上化)が必要となる。しかし、磁気ヘッド浮上量が低下すると、磁気ヘッドと磁気ディスクとの接触頻度・摺動距離が増加し、摩擦力、摩耗が増加する。その結果、ヘッド・ディスク・インタフェース(HDIと略す)の信頼性は低下する。したがって、磁気ディスク装置の高記録密度と高信頼性を両立させるためには、信頼性を左右する主要因であるHDIの高信頼性化が必要とされる。HDIの高信頼性化のための1つの方法として、磁気ディスクには保護膜上にパーフルオロポリエーテル(PFPE)を材料とした1-2nmの極薄膜潤滑膜が形成される。そこで、長時間にわたり優れた潤滑性を維持できる潤滑膜を設計することが必要となる。しかし、この潤滑膜は1-2分子層であるため、潤滑膜を連続体として扱う従来の理論や実験結果を潤滑膜の設計に適用することは難しい。

本研究の第1の目的は、磁気ディスクの信頼性を向上させるため、潤滑性を維持する潤滑膜を論理的に設計する手法(これを潤滑膜設計手法と呼ぶ)を提案することである。そのために、磁気ディスクにおける潤滑膜の被覆状態変化機構を解明すること、また、磁気ディスク潤滑膜が潤滑状態を維持するための条件(これを潤滑条件と呼ぶ)を明らかにすることを目的とした。潤滑膜設計手法の提案という目的に対し、潤滑膜の被覆状態変化機構の解明と潤滑状態の解明という2つの課題がある。被覆状態変化機構を解明するためには、潤滑膜の被覆状態、および潤滑剤分子挙動の解明が必要となる。そこで、潤滑剤分子挙動に基づいて被覆状態変化の機構を解明するため、潤滑剤分子挙動と吸着エネルギの関係を表す潤滑剤分子移動確率を算出し、修復・摺動・スピンオフにおける潤滑剤分子の挙動をモデル化する。また、潤滑状態の解明には、境界潤滑における潤滑モデルが磁気ディスク潤滑膜に適用できるか否かの検証が必要となる。そして、その潤滑状態と被覆状態変化機構を考慮して潤滑条件を求める。その潤滑条件から潤滑膜設計手法を提案する。また、ヘッドのさらなる低浮上化によって厳しくなる摺動条件に対しても潤滑条件を満たす手段として、潤滑剤供給方式を提案する。

AFMを用いた潤滑膜観察結果に基づく吸着モデルの提案

磁気ディスクの潤滑膜を観察する手段として、フッ素コーティング被膜を形成した探針を用いたAFM観察手法を開発した。この手法によって、潤滑膜の表面被覆率測定、および潤滑膜の分子膜厚測定が可能となった。また、この手法で潤滑剤Z-DOLを塗布した磁気ディスクを観察し、表面被覆率の潤滑膜厚依存性を測定した。その結果、図1に示すように潤滑膜厚の増加とともに潤滑膜の表面被覆率が増加することが確認された。また、潤滑膜の第1層の分子膜厚は潤滑膜厚に依存せず一定であること、その分子膜厚は潤滑剤分子の平均分子回転直径とほぼ等しいこと、固定潤滑剤分子は保護膜表面のグレイン形状の凹部に選択的に吸着することがわかった。そして、これらの観察結果から、潤滑膜の吸着モデルを提案し、検証した。

潤滑状態の検証と潤滑剤分子挙動モデルの提案

磁気ディスクのピンオンディスク試験を行い、摺動部の潤滑膜厚の変化と潤滑膜の表面被覆率・分子膜厚を測定し、表面被覆率が1以上であれば、潤滑状態を維持することを検証した。そして、潤滑剤が固体表面に吸着し強固に固定されて被覆することで、固体接触を防止し潤滑性を向上させるという境界潤滑における潤滑モデルを磁気ディスクの潤滑膜に適用できることを検証した。

また、吸着モデルに基づいて潤滑剤分子の移動確率を算出した。そして、潤滑剤分子に力が作用しない場合、摩擦力が作用する場合、遠心力・半径方向エアシアが作用する場合のそれぞれについて、修復モデル・摩擦移動モデル・スピンオフモデルとして提案した。

磁気ディスク潤滑膜の修復モデルの検証

インターバル静止時間を組み込んだドラッグ試験を行い、潤滑膜の修復が潤滑性を向上させることを実験により示した。また、実験結果と修復モデルに基づくモンテカルロ法を用いた計算結果との比較から、修復モデルが妥当であることを検証した。その結論として、以下のことが導かれた。(1) 潤滑膜の修復速度や修復時間の違いによって潤滑性は異なる。修復速度が大きい方が、潤滑性は大きい。(2) エッチング部の潤滑膜厚の経時変化を修復モデルに基づいたモンテカルロ法を用いた計算結果と対比して、実験結果と計算結果が一致していることにより修復モデルの妥当性を検証した。

磁気ディスク潤滑膜の摩擦移動モデルの検証

浮上量が小さい磁気ヘッドで磁気ディスク面をシーク試験したときの潤滑膜厚減少の実験値と計算値との一致から、摩擦移動モデルの妥当性を検証した。また、潤滑剤の種類が異なる場合と磁気ディスクの面粗さが異なる場合についてCSS試験とドラッグ試験を行った実験結果とモンテカルロ計算結果との比較から検証し、摩擦移動モデルが妥当であることを検証した。その結論として、次のことが導かれた。(1) 磁気ディスクの突起高さが大きくなると接触面圧が増加し、摩擦力が増加するため、潤滑膜の膜厚減少速度は急激に大きくなる。(2) 潤滑膜の膜厚減少速度は潤滑膜の吸着エネルギが増加するに従い小さくなる。(3) 浮上量が小さい磁気ヘッドで磁気ディスク面をシーク試験したときの潤滑膜厚減少の実験値と計算値とが一致していることから、摩擦移動モデルの妥当性を検証した。

磁気ディスク潤滑膜のスピンオフモデルの検証

潤滑膜のスピンオフ速度の温度依存性・回転数依存性・吸着エネルギ依存性を実験で示した。次に、実験結果とスピンオフモデルに基づくモンテカルロ計算結果との比較から、スピンオフモデルの妥当性を検証した。その結論として以下のことが導かれた。(1) 環境温度が高温であるほど、磁気ディスクの回転数が高速回転であるほど、潤滑膜の吸着エネルギが小さいほど、スピンオフは大きいことを実験により確認した。(2) スピンオフモデルに基づくモンテカルロ計算の計算結果は、実験結果と測定値のばらつきの範囲で一致している。この結果よりスピンオフモデルの妥当性を検証した。

潤滑条件と潤滑膜設計手法の提案・検証

潤滑膜が潤滑性を維持するための条件として潤滑条件を提案した。潤滑条件は、スピンオフ・摺動・修復によって潤滑膜の被覆状態が変化しても、表面被覆率θが1以上となる条件である。潤滑条件は下記の式で表される。〓 〓

次に、潤滑条件を満たす潤滑膜を設計するための手法として、潤滑膜設計手法を提案した。潤滑膜設計手法は、以下の通りである。(1)保証時間経過時の潤滑膜厚 hspin (trot)を求める。(2)潤滑膜厚を変数として磁気ディスクの摩耗試験を行い、保護膜が摩耗しない最低の潤滑膜厚を求め、これを許容膜厚hcとする。そして、次式を満たすことを確認する。〓

(3)潤滑膜設計の対象とする動作(CSS動作やシーク動作)を潤滑膜がスピンオフしない時間tの間行う。(4)試験後の潤滑膜厚h(t)を測定し、結果を次の3つの場合にあてはめ、修復と摺動による潤滑膜厚変化のバランス状態を確認する。(1)hspin (trot)h (t)の場合:〓試験結果が(1)、(2)に当てはまる場合、潤滑状態を満足する。試験結果が(3)に当てはまる場合、磁気ディスク装置の稼働中に潤滑膜厚が減少するため、潤滑条件を満足しない。この場合は、潤滑剤の種類や保護膜質を見直し吸着エネルギを調整し、再度上記の設計を繰り返すことで最適化を図る。さらに、潤滑膜設計手法に基づき設計した磁気ディスクは潤滑条件を満たしていることを、検証した。

潤滑剤供給方式の提案

潤滑剤供給方式を提案し、実験により検証した。その結果、潤滑剤供給方式は、磁気ディスクの潤滑膜厚が少なくなった部分に潤滑剤ガスを吸着させることで、スピンオフ量を少なくし修復速度を増加させるため、潤滑条件を満足させる1つの手段として極めて有効であることが上記の実験結果で確認された。

本研究成果の適用範囲と他分野への応用例

本研究で提案した潤滑膜設計手法がHDIの摺動条件に近い摺動条件における潤滑膜に応用できることを、マイクロマシンを例として示した。

結論

本研究では、AFM 観察手法により、磁気ディスク潤滑膜の被覆状態を明らかにし、修復・摺動・スピンオフによる潤滑膜の被覆状態変化機構を潤滑剤分子の挙動に基づき解明した。その結果から、潤滑膜が潤滑状態を維持するための条件として、潤滑条件を明らかにした。また、潤滑条件を満たす潤滑膜を設計するための実際的な手法として潤滑膜設計手法を提案した。この潤滑膜設計手法を適用することで効率的に潤滑膜を設計できることになる。

潤滑膜厚の増加に伴う潤滑膜の表面被覆率増加(フッ素コーティング探針を用いた潤滑膜の被覆状態のAFM観察例)

審査要旨 要旨を表示する

本論文は「分子挙動に基づく潤滑膜の被覆状態の解明と磁気ディスクの潤滑膜設計に関する研究」と題して、10章で構成される。

情報化社会の進展とともに、磁気ディスク装置の記憶容量は増加の一途をたどっている。大記憶容量化のために必要となる記憶密度の向上には、記録・再生磁場を高効率で電気信号に変換するために、磁気ディスクと磁気ヘッドのすきまの低減(ヘッド低浮上化)が必須である。しかし、このヘッド低浮上化は磁気ディスクとヘッドとの接触頻度を増加させるため、ヘッド・ディスク・インタフェースの信頼性を低下させる。そこで、様々な手段によりこの信頼性を長時間維持することが行われている。その一つとして、磁気ディスク上に液体潤滑膜が形成される。磁気ディスク上の潤滑膜は1~2nmの極薄膜でありながら、磁気ディスクの耐摩耗性維持には必要不可欠である。しかし、この潤滑膜が潤滑性を長時間維持するように潤滑膜を論理的に設計する手法(潤滑膜設計手法)は明確にされていない。このような現状から、本研究は潤滑膜の被覆状態および被覆状態変化の機構を潤滑剤分子の挙動に基づき明らかにすること、および磁気ディスク潤滑膜が潤滑状態を維持するための条件(潤滑条件)を明らかにすることを目的として行われたものである。そのための方法として、潤滑膜をナノメータオーダの空間分解能で観察する手法を開発し、潤滑膜の観察結果から潤滑膜の吸着モデルを提案している。その吸着モデルから潤滑剤分子の挙動に基づき被覆状態変化の機構として修復モデル・摩擦移動モデル・スピンオフモデルを導き検証している。さらに前述の手法により潤滑状態にある潤滑膜の観察結果から潤滑条件を明らかにしている。そして被覆状態変化機構と潤滑条件に基づいて潤滑膜設計手法を提案し検証している。

第1章は、「序論」であり、研究の背景と目的、本論文の構成について述べられている。研究の背景では、磁気ディスクの潤滑膜の被覆状態や被覆状態の変化に関する従来の研究について紹介し、従来の研究では潤滑膜の被覆状態および被覆状態変化の機構が十分解明されていないこと指摘している。そして、それらの問題点から本研究の目的を導いている。

第2章は、「AFMを用いた潤滑膜観察結果に基づく吸着モデルの提案」である。本研究で開発したフッ素コーティングしたAFM探針で潤滑膜表面を観察する手法で、潤滑膜の被覆状態が観察可能であること示している。そして、潤滑膜厚の増加とともに潤滑膜の表面被覆率が増加すること、潤滑膜の第1層の分子膜厚は潤滑膜厚に依存せず一定であること、その分子膜厚は潤滑剤分子の平均分子回転直径とほぼ等しいこと、固定潤滑剤分子は保護膜表面のグレイン形状の凹部に選択的に吸着することを観察結果で示している。さらに、その観察結果に基づき潤滑膜の吸着モデルを導いている。

第3章は、「潤滑状態の検証と潤滑剤分子挙動モデルの提案」であり、2章で示したAFM観察の手法により潤滑状態にある潤滑膜を観察して、表面被覆率が1以上であれば、潤滑状態を維持することを検証している。さらに、吸着モデルに基づいて潤滑剤分子の移動確率を算出し、潤滑剤分子に力が作用しない場合、摩擦力が作用する場合、遠心力・半径方向エアシア(空気流れのせん断力)が作用する場合のそれぞれについて、修復モデル・摩擦移動モデル・スピンオフモデルを導いている。

第4章は、「磁気ディスク潤滑膜の修復モデルの検証」である。まず、潤滑膜の修復が潤滑性に影響することを実験結果に基づき示している。次に、修復モデルに基づいてモンテカルロ法を用いて計算した修復による潤滑膜厚変化が実験結果と一致することを示し、修復モデルを検証している。

第5章は、「磁気ディスク潤滑膜の摩擦移動モデルの検証」であり、摩擦移動モデルに基づいてモンテカルロ法を用いて計算した潤滑膜に摩擦力が作用したときの潤滑膜厚減少が実験結果と一致することを示し、摩擦移動モデルを検証している。

第6章は、「磁気ディスク潤滑膜のスピンオフモデルの検証」であり、スピンオフモデルに基づいてモンテカルロ法を用いて計算した潤滑膜に遠心力・エアシアが作用したときの潤滑膜厚減少が実験結果と一致することを示し、スピンオフモデルを検証している。

第7章は、「潤滑条件と潤滑膜設計手法の提案・検証」である。まず、潤滑膜の被覆状態が変化しても表面被覆率が1以上であるための、修復量・摩擦移動量・スピンオフ量の相互関係で満たされるべき必要条件を潤滑条件として提案している。次に、その潤滑条件を満たす潤滑膜を設計するための潤滑膜設計手法を提案し検証している。

第8章は、「潤滑剤供給方式の提案」であり、潤滑条件を満足させる1つの手段として潤滑剤供給方式を提案している。そして、潤滑剤をヘッドのサスペンションへ滴下し、その潤滑剤をガスとして磁気ディスク面へ供給することによって、スピンオフ量を低減するとともに磁気ディスクの耐摩耗性を著しく向上させることが可能であることを実験結果に基づき示している。

第9章は、「本研究成果の適用範囲と他分野への応用例」であり、HDIにおける摺動条件を明確にして本研究成果の適用範囲を明確にするとともに、マイクロマシンへ潤滑膜設計指針が応用可能であることを示している。

第10章は、「結論」であり、上述した内容を総括している。

以上をまとめると、潤滑膜の被覆状態変化の機構として修復・摩擦移動・スピンオフの少なくとも3つの機構を考慮することが必要であり、それらの機構は潤滑剤分子挙動に基づいて分子の移動確率を計算することにより修復モデル・摩擦移動モデル・スピンオフモデルとして表される。さらに磁気ディスクの潤滑膜が潤滑性を維持するためには、それぞれの被覆状態変化量の相互関係が潤滑条件を満たすことが必要であり、その設計手法が潤滑膜設計手法として導かれる。

従来は、試行錯誤して要求を満たす潤滑膜を模索していたのに対して、潤滑剤分子の挙動に基づき潤滑膜の被覆状態変化機構を示し、その機構を前提とした潤滑膜の設計手法を明確に示した本研究は、薄膜潤滑膜を対象とするトライボロジおよび機械工学の発展に大きく寄与すると考える。

さらに、本研究で潤滑膜を観察する手法として開発されたフッ素コーティングした探針を用いたAFM測定は、薄膜有機液体の形態観察に広く応用できる手法である。また、潤滑剤分子の挙動に基づくモンテカルロ法による潤滑膜厚の計算方法は、薄膜液体膜の拡散などの予測などに広く応用できる。したがって、本研究は工学と他分野との融合領域の発展にも大きく貢献すると考える。

よって、本論分は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/51187