学位論文要旨



No 215754
著者(漢字) 伊東,宏
著者(英字)
著者(カナ) イトウ,ヒロシ
標題(和) 東京湾および多摩川河口域における Hemicyclops 属カイアシ類 (Poecilostomatoida, Clausidiidae) の生態
標題(洋)
報告番号 215754
報告番号 乙15754
学位授与日 2003.09.09
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第15754号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 西田,周平
 東京大学 教授 寺崎,誠
 東京大学 教授 木暮,一啓
 東京大学 助教授 津田,敦
 東邦大学 教授 風呂田,利夫
内容要旨 要旨を表示する

Hemicyclops属は、Poecilostomatoida目、Clausidiidae科に属する、体長0.8〜3 mm程のカイアシ類で、極地方を除く世界各地から39種が知られている。本属カイアシ類はPoecilostomatoida目の中では最も原始的なグループと考えられており、主に干潟などに生息する無脊椎動物の体表や巣孔から報告されている。その生態的知見は乏しく、種の記載で生息地や宿主(棲み場所)の知見が得られているほか、一部の種で発育段階が記載され、生活史初期、特にコペポディドI期(Saphirella型カイアシ類)における浮遊生活が知られているに過ぎない。本属カイアシ類の生態学的研究は、Poecilostomatoida目カイアシ類の進化を考える上で重要であるばかりでなく、近年注目される干潟の種多様性と共生(ここでは他の動物の巣孔内で宿主である動物と共に生活することを共生と呼んだ)を論議する上で、貴重な情報を与えるものと考えられる。本研究では、本属カイアシ類の生態的特徴である共生生活や生活史初期における浮遊生活が、種多様性の形成・維持や干潟など環境変動の激しい生息場での個体群維持にどのように関与しているかに焦点をあてながら、東京湾および多摩川河口域に生息するHemicyclops属カイアシ類について種多様性、分布生態および生活史の解明を行うとともに、共生生活の意義についても論議した。

東京湾および多摩川河口域におけるSaphirella型カイアシ類とその成体の種多様性および分布生態

Hemicyclops属カイアシ類の種多様性を把握する目的で、プランクトン生活期のSaphirella型カイアシ類の分布と共生生活期の成体の生息状況を1986〜1992年に東京湾で、1999〜2000年に多摩川で調査し、飼育実験などにより適宜、両者の親子関係を解明した。

東京湾では8種のSaphirella型カイアシ類がプランクトン中に出現し、うち5種がHemicyclops属、2種がConchyliurus属と同定された(他1種は不明)。Hemicyclops属のうち3種はH. gomsoensis、H. japonicus、H. saxatilisのコペポディドI期と判明した。最も個体数密度が高かったSaphirella型カイアシ類はH. japonicusであり、その成体は湾内海底より採集されたが、棲み場所を提供する宿主は不明である。

多摩川河口域では6種のSaphirella型カイアシ類がプランクトン中に出現し、うち5種がHemicyclops属、1種がConchyliurus属と同定された。Hemicyclops属5種のうち、H. japonicus は東京湾から運ばれたものと考えられたが、他4種は多摩川河口域の干潟において成体の定住が確認され、H. gomsoensisがアナジャコ、H. tanakaiはニホンスナモグリ、H. spinulosusはイトメ、H. ctenidisはゴカイを主な棲み場所(宿主)としていると考えられた。

Hemicyclops gomsoensis およびH. spinulosusの生活史

Hemicyclops属カイアシ類の生活史を明らかにするため、1998年5月〜2000年5月、多摩川河口干潟において、アナジャコおよびヤマトオサガニの巣孔からH. gomsoensisとH. spinulosus を採集し、生活環、個体群の季節変化、環境との関係、生殖生態の解明を行った。

H. gomsoensisおよびH. spinulosusは、いずれも卵期を成体の雌が保有する卵嚢内で過ごし、ノープリウス期に河川水中で浮遊生活を行い、コペポディドI期に宿主の巣孔に入り、その後は共生生活を行う。2種は春から秋にかけて再生産を行い(ノ−プリウス出現期:前種,4〜1月; 後種、4〜10月)世代を繰り返すが、冬季には再生産を停止し秋季最後に発生した世代により翌年春まで個体群を維持する。巣孔内の個体数密度は高温時に高くなった〔最高値:前種, 824個体/1000ml(アナジャコ巣孔);後種, 132個体/巣孔(ヤマトオサガニ巣孔)〕が、そのような時期でも増水により著しい塩分の低下(<5 psu)が起こると低くなった。

H. gomsoensisはH. spinulosusに比べて多くの卵(1卵嚢中の卵数:前種, 69; 後種,51)を長期にわたり生み、そのコペポディドI期の個体数密度は、多摩川河口域のプランクトン中に出現する本属カイアシ類の中では最も高く、河口干潟の場所(上流〜下流、高潮位〜低潮位)や宿主の種類が異なるさまざまな巣孔に加入している。加入後の個体群には、巣孔の構造的安定性、規模、水温、塩分など環境要因の違いにより、密度やステージ組成、体長に違いを生ずるが、利用可能な巣孔を広範に利用することで、大規模かつ持続的な個体群を形成していると考えられる。本種では飼育実験により低塩分(<10 psu)での生残率や卵嚢形成が低下し、消化管内容物の観察により、珪藻類など干潟のミクロ・メイオベントスを摂餌していることが分かった。

H. spinulosusでは、雌に偏った性比、雄の多型、交尾前ガードといった、H. gomsoensisにはない生殖生態が認められた。これらは、ムラサキイガイの外套腔を棲み場所とするMidicola pontica (Poecilostomatoida目, Myicolidae科)で知られている、先住個体の有無や性に支配される性決定メカニズム、雄の多型形成メカニズムを想定すると理解が容易であり、イトメの巣孔という狭く閉鎖的で他個体との遭遇の機会が乏しい可能性のある棲み場所で確実に配偶相手を確保するために発達した戦略と考えられる。

Hemicyclops属カイアシ類における捕食者回避戦略としての巣孔共生

共生生活における捕食者回避戦略の生態学的意味を明らかにする目的で、1998〜2000年の4〜9月に多摩川河口域で魚類を採集しその消化管内容物を観察するとともに、1999、2000年の6〜7月に疑似巣孔を用いた捕食者回避の室内実験を行った。多摩川河口干潟で、アナジャコやヤマトオサガニの巣孔を利用するH. gomsoensisは、野外および室内実験のいずれにおいても、巣孔を利用することにより、多摩川河口域で最も卓越するマハゼの捕食を回避していると考えられたが、巣孔へ侵入することができるマサゴハゼの捕食を受けていた。一方、狭い多毛類の巣孔を利用するH. spinulosus、H. ctenidisは、野外で採集されたマサゴハゼからは全く捕食されていなかったが、多毛類を頻繁に捕食するマハゼに捕食されていた。Hemicyclops属カイアシ類における巣孔共生は、捕食者を回避する戦略としての意義が大きいと考えられるが、捕食者の種類により、有効な場合とそうでない場合がみられ、Hemicyclops属カイアシ類の各種は捕食者回避戦略としてさまざまな棲み場所(=宿主)を開拓したと考えられる。

巣孔共生の生態的意義と種多様性形成・維持機構

本属カイアシ類の巣孔共生の意義は上述のとおり捕食者回避戦略が重要と考えられるが、これに加えて、多摩川河口域のH. gomsoensis では、巣孔共生により増水時の低塩分水を回避している例が認められた。無給餌条件下での本種の生残率は10 psu以上であれば低塩分の影響をほとんど受けないが、0psuでは直ちに死亡する。多摩川河口域では増水時に河川水が0psu近くになっても、調査した巣孔、特にアナジャコの巣孔では塩分がある程度(>5 psu)保たれており、H. gomsoensisの成体は生残していた。アナジャコの巣孔ではアナジャコ自身の水流形成により内部の海水交換が行われているが、増水時には低塩分水を避けるため海水交換の制限を行う可能性がある。H. gomsoensisはこのような宿主による不適環境回避の恩恵を受けていると考えられる。Poecilostomatoida目カイアシ類には、宿主の体、体液および分泌物を餌料としているものがあるが、多摩川河口域のアナジャコの巣孔から採集されたH. gomsoensisの消化管内容物では珪藻類の出現頻度が高かった。実験室においても宿主無しに、羽状目珪藻を餌料としてこれらのカイアシ類を飼育できたことを考慮すると、餌料の確保が巣孔共生の主要因とは考えられない。しかしアナジャコの巣孔の内壁からは、干潟表面と変わらない水準のクロロフィル−aが検出されており、H. gomsoensisにとって、生活に必要な餌条件を満たしていると考えられる。

多摩川河口域に定住する4種のHemicyclops属カイアシ類が主な棲み場所を違えている例が示すように、異なる宿主との共生生活により、棲み場所というニッチの分割・シフトを行い、共存(種多様性の維持)がなされていると考えられる。しかしその巣孔共生の主な意義は捕食者回避戦略であり、さまざま巣孔利用=捕食者回避戦略が開発された(種多様性が形成された)背景にはさまざまな捕食者の存在が考えられる。多摩川河口域の4種のうち、捕食者回避戦略を検討した3種では、巣孔共生による捕食者回避戦略は系統類縁関係と対応して発達したと考えられ、これが種分化(種多様性の形成)における重要な生態的要素となった可能性が考えられる。またこれらの種について卵の数をみるとより発達した回避戦略をもつ種ほど卵数は減少する傾向にあり、種間における個体数の関係はプランクトンとして出現するCI期でも同様であり、他の生物で知られるように防御能力と繁殖能力の間にトレードオフの関係が存在するのかも知れない。

Hemicyclops属カイアシ類の生活史と干潟における環境適応

Hemicyclops属カイアシ類は、卵期を成体の雌が保有する卵嚢内で過ごし、ノープリウス期に河川水中で浮遊生活を行い、コペポディドI期に宿主の巣孔に入り、その後は共生生活を行う。このような浮遊期をもつ生活史は、より寄生生活に適応したPoecilostomatoida目カイアシ類にみられる、速やかに宿主へ到達する生活史とは対極をなし、幼生の分散・供給を行う上で有利な戦略と考えられる。多摩川河口干潟に本来東京湾海底に生息するH. japonicusの成体が出現した例、無酸素水塊が形成される東京湾湾奥の浚渫跡地に一時的にH. japonicusが生息するようになる例は、本属カイアシ類が生活史初期の浮遊生活により幼生の分散・供給を行い、局所的な個体群の壊滅を補填していることを示すものと考えられる。また本属カイアシ類における共生生活は、先述のように捕食者や一時的な不適環境の回避に役立っている。本属カイアシ類における、生活史初期の浮遊生活および共生生活は、干潟や富栄養海域の海底など環境変動の激しい生息場で個体群を維持するには極めて重要な生態特性といえる。

本研究のフィールドとなった多摩川河口は都市圏にあるにも関わらず多くの水鳥が飛来し、貴重種を含む汽水域特有の生物相がみられる。Hemicyclops属カイアシ類はここでさまざまの生物と関係(例えば、餌生物: 珪藻; 宿主: ヤマトオサガニ, アナジャコ, イトメなど; 捕食者: マハゼ, マサゴハゼなど)を持ちながら、生物群集の一部を構成していた。本属カイアシ類のコペポディドI期(Saphirella型カイアシ類)は内湾域などでプランクトン中に出現するが、それらはその海域および周辺における多様な生物相とそれを保証する環境の存在を示すものと考えられた。

以上、本研究により、東京湾および多摩川河口域におけるHemicyclops属カイアシ類の種多様性ならびにそれらの分布生態、生活史、巣孔共生の意義に関し、数多くの新知見が得られた。これらは、Poecilostomatoida目における多様性の創出に共生という生活様式が大きく寄与したことを示すとともに、内湾・河口域という変動の激しい生息環境における小型甲殻類の生活史戦略に関する新たな知見として海洋生態学に貢献するものと考えられる。河口干潟に生息する種では餌料生物、宿主、捕食者といった他の生物との関連が解明され、プランクトンとして出現するSaphirella型カイアシ類のもつ、内湾域の生物多様性を示す環境指標としての価値が認識された。今後、宿主との関係、個体群動態などについてさらに詳細な研究を進めることにより、本属カイアシ類が内湾・河口域生態系において果たす役割を解明することが重要である。

審査要旨 要旨を表示する

河口干潟は陸域、淡水域、海域の境界に位置する推移帯であり、環境変動の激しい場であると共に、河川流域や近傍の都市等における人間活動の影響が集中する場でもある。一方、多様な生物を擁する干潟生態系は内湾域における環境浄化系、魚類の生育場、鳥類の餌場、さらには人間が自然に接する場としても重要である。干潟の生物については主に大型の底生生物を中心に多くの研究があるが未知の部分も多い。とくに近年、これら底生生物が、より小型の多種多様な生物に住み場所を提供しており、後者では宿主を凌駕する種多様性が期待されること、またこれら生物間の相互作用が干潟生態系の理解に重要であることが指摘されている。本論文はこの点に注目し、東京湾および多摩川河口域の干潟をフィールドとし、底生生物の巣穴に生息するHemicyclops属カイアシ類の種組成、生活史、摂食生態、宿主および捕食者との関係を明らかにしたものであり、以下のとおりに要約される。

第1章では、既往の知見を総説し、Hemicyclops属の既知種39種の多くが多毛類やアナジャコ類の体表や巣穴から見出されていること、また一部の種では幼生期に浮遊生活を送り、コペポディドI期(特異な形態をもち「Saphirella型」幼生と呼ばれる)に底生生活に移行することを述べた。さらに、従来の研究における問題点を指摘し、研究の目的を明示した。

第2章では、Saphirella型幼生と成体の形態的関係と、これらの生息場所を明らかにすることを目的とし、東京湾のプランクトン試料から8種のSaphirella型幼生を見出した。このうち3種がH. gomsoensis、H. japonicus、H. saxatilisと判明し、H. japonicusでは、その成体が湾内海底の底生生物と共生することが示唆された。多摩川河口域からは6種のSaphirella型幼生を見出し、うち4種については干潟における成体の定住を確認し、H. gomsoensisはアナジャコ、H. tanakaiはニホンスナモグリ、H. spinulosusはイトメ、H. ctenidisはゴカイが主な宿主であることを明らかにした。

第3、4章では、多摩川河口干潟において優占するH. gomsoensisとH. spinulosusの生態について以下の点を明らかにした。2種はいずれも卵期を成体雌の卵嚢内で過ごし、ノープリウス期に浮遊生活を行い、コペポディドI期に宿主の巣孔に入り、その後は共生生活を行う。春から秋にかけて再生産を行い世代を繰り返すが、冬季には再生産を停止する。巣孔内の個体数密度は高温時に増加したが、増水による著しい塩分低下に伴い低下した。H. gomsoensisは珪藻類などのミクロ・メイオベントスを摂食し、H. spinulosusに比べて多くの卵を長期にわたり生み、大規模な個体群を形成した。一方、H. spinulosusは、雌に偏った性比、雄の多型、交尾前ガード等、H. gomsoensisにはない生殖生態を示し、イトメの巣孔という閉鎖的な棲み場所で確実に配偶相手を確保する戦略が示唆された。

第5章では、野外における魚類の消化管内容物調査と、疑似巣孔を用いた室内実験を行い、巣穴共生における捕食回避の意味を検討した。H. gomsoensisは巣孔を利用することにより、卓越種であるマハゼの捕食を回避したが、野外では巣孔へ侵入したマサゴハゼの捕食を受けていた。一方、多毛類の巣孔を利用するH. spinulosusとH. ctenidisは、野外で採集されたマサゴハゼには捕食されていなかったが、多毛類を頻繁に捕食するマハゼに捕食されており、巣穴の利用形態が捕食回避と密接な関係をもつことが示された。

第6章では、第2〜5章の結果をふまえ、本属における巣孔共生の適応的要因として、捕食回避、河川増水時の低塩分水の回避、および巣穴における餌の供給について考察し、多摩川河口域に定住する4種は、異なる宿主との共生生活により、ニッチの分割・シフトを行っているものと考えた。また、浮遊幼生の種多様性は、干潟における宿主生物群の種多様性の指標ともなることを示唆した。

以上のように本論文は、Hemicyclops属カイアシ類の生活史の全容を初めて明らかにし、宿主、餌生物、捕食者との関係、および同属種間の関係についても豊富な新知見を提供した。さらに、干潟生態系における共生生活の意義と種多様性の保全等についても新たな視点を提示しており、学術上、応用上貢献するところが大きい。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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