学位論文要旨



No 215755
著者(漢字) 松本,一朗
著者(英字)
著者(カナ) マツモト,イチロウ
標題(和) 遺伝子発現プロフィール解析による味覚系組織の特性の解明および組織特異的遺伝子の同定
標題(洋)
報告番号 215755
報告番号 乙15755
学位授与日 2003.09.09
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第15755号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 阿部,啓子
 東京大学 教授 清水,誠
 九州大学 教授 二ノ宮,裕三
 東京大学 教授 清水,謙多郎
 東京大学 助教授 反町,洋之
内容要旨 要旨を表示する

食物に含まれる化学情報は、味覚器である味蕾の味細胞と口腔内に神経終末を伸ばす体性感覚細胞によって受容され、末梢感覚神経節を経て、中枢において情報処理される。味細胞を介して生じる感覚が味覚であり、味の情報は、味細胞とシナプスを形成して求心性の伝達を行っている味神経に伝えられる。脊椎動物の外部感覚系全体を俯瞰したときには、味細胞は、視細胞や聴覚細胞、そして同様に化学物質を受容する嗅神経細胞と対比することができ、一方、味神経は、視神経や聴覚神経、また、感覚細胞であると同時に一次伝達神経でもある嗅神経細胞と対比することができる。味覚系を総合的に理解するためには、味覚系を構成する組織・細胞の個別の解析、特に遺伝子発現解析やタンパク質機能解析を中心とした分子的解析が必須である。本研究では、最近開発された技術であるDNAマイクロアレイを用いて、味覚関連組織を対象として、感覚系組織と対比しながら遺伝子発現プロフィールを解析し、味覚受容と味覚伝達系の一端を解明することを試みた。

DNAマイクロアレイ解析は、遺伝子発現を全ゲノム的に網羅的に解析する手法としてここ数年の間に急速に普及している。マイクロアレイ解析では、遺伝子個々の発現レベルの相対値が求められるが、それよりもむしろ、極めて類似した2つの状態の差異から細胞種や細胞状態の特性・全体像を得ることに重点が置かれてきた。しかし、本研究の標的である味覚組織(味蕾)と味神経は、組織レベルで他種の細胞(周辺上皮細胞、味神経以外の神経細胞やグリア細胞)と混在しており、従来の解析手法では味細胞および味神経の特性を解明することは困難である。

以上のような状況を踏まえて、私は以下の2つの章に述べる解析を行い、味覚系における遺伝子発現プロフィールとその特性の解明、および味覚組織特異的な遺伝子の同定を行った。具体的には、ラットを実験動物として、第1章において、味神経を含む末梢感覚神経節を標的として組織間の差異が中程度の遺伝子発現プロフィールに対して階層的クラスター解析を適用し、遺伝子発現における全般的な特性と特異的遺伝子の同定を行い、第2章において、味蕾を含む上皮組織において特異的に発現する遺伝子を、発現プロフィール全体は大きく異なる嗅覚組織との類似性を抽出することによって同定した。

味神経を含む末梢感覚神経節の遺伝子発現プロフィールの解析

味細胞から味情報を受け取る味神経細胞は、次の3つの神経節に細胞体をおく。膝神経節(geniculate ganglion、以下GG)には舌前部や軟口蓋の味蕾に存在する味蕾に終末を伸ばす味神経が、舌咽神経下神経節(petrosal ganglion、以下PG)には舌後部や咽頭部に存在する味蕾に終末を伸ばす味神経が、そして迷走神経下神経節(nodose ganglion、以下NG)には喉頭蓋に存在する少数の味蕾に終末を伸ばす味神経が含まれる。しかし、これらの神経節には、一般体性感覚神経や一般臓性感覚神経などの他の神経細胞が混在しており、また、味神経だけを示すマーカーやその特性はほとんど未知である。ここでは、神経細胞機能の点で類似性を有するこれらの神経節における遺伝子発現プロフィールの関連を解析する系を確立すること、味神経を含む神経節の特性を明らかにすること、そして、最終的には味神経の性状を味神経マーカーの獲得を含めて明らかにすることを目指した。このときの対照として、味神経を含まないが、口腔内に投射する一般体性感覚神経細胞を含む三叉神経節(trigeminal ganglion、以下TG)を用い、合計4つの末梢感覚神経節の解析を行った。

まず、神経節の概要を把握し、さらには神経節内の区分といった微細構造を知るために、末梢感覚神経節での発現が示されているいくつかの遺伝子マーカーの発現プロフィールをin situ ハイブリダイゼーション法によって解析した。その結果、体性感覚の1つである温度感覚に関与する2つのイオンチャンネル(VR1およびTREK-1)は体性感覚神経をほとんど含まないGG以外の神経節で発現しており、一方、味神経などの感覚細胞で発現することが予想されるTrkBはGGとNGで高頻度に発現することがわかった。また、4つの神経節を構成する細胞の均一性については、上記を含む6個のマーカー遺伝子の発現パターンから、TGとPGは異種性が高いこと、GGとNGは比較的均一であることがわかった。

次に、ラットの遺伝子約8,700個がスポットされたDNAマイクロアレイを用いて、これら4種の末梢感覚神経節における遺伝子発現プロフィールを解析した。まず、実験系の改善を行った。味覚関連神経節は小さく、含まれる神経細胞も最少で1,000個程度(GG)であることから、少量の全RNAを用いて再現性と定量性がある発現プロフィールを得る条件を検討し、10個のGGから得られる全RNAで解析できる条件を確立した。この条件下で得られた全遺伝子の発現データを、4つの神経節の中で最大値を与える発現量によって区分し、組織・細胞特異的な発現を示す遺伝子を含むことが予想される中間的な発現量を与える遺伝子群(2,662遺伝子)を特定した。次に、階層的クラスター解析を行い、神経節間で発現様式が異なるクラスター37個を選択して、そこに含まれる498遺伝子を同定した。この遺伝子群において、神経節間の発現プロフィールの類似性を示す組織樹を作成したところ、PGとTGが遺伝子発現レベルで密接に関連していることが明らかになった。さらに、組織樹の性状と発現量の相対値から、神経節特異的遺伝子を含むことが期待される18のクラスターグループを見出し、そのうちの13グループから22個の遺伝子を選択して、in situ ハイブリダイゼーション法による細胞レベルでの発現様式を検討した。その結果、DNAマイクロアレイ解析から予想される発現様式と、実際に細胞レベルまで解像度を上げて解析した組織発現データは基本的に一致した。すなわち、網羅的な発現量のデータ解析によって、組織特異性などを示す遺伝子を同定する可能性を提示した。

味覚系組織の遺伝子発現プロフィールからの味蕾特異的遺伝子の同定

第1章で述べたように、細胞構成がかなり異なる神経節のような組織において階層的クラスター解析を行うことで、組織における遺伝子発現の特性や特異的遺伝子の同定を行い得ることが明らかになった。そこで、次段階として、より類縁性が乏しい比較組織しか存在しない味蕾へのDNAマイクロアレイ解析の適用を試みた。味蕾細胞の周辺には上皮細胞が存在し、DNAマイクロアレイ解析に供与し得る量の細胞を純度よく取り出すことが難しいほか、2者の細胞構造と機能が大きく異なるため、発現に差異が見られる遺伝子数は多いと予想され、単なる引き算(ネガティブな選択)からは味覚機能に関連する遺伝子発現像を得ることは困難であると予想される。したがって、味蕾細胞と類似した機能を有する組織からのポジティブな選択を併せて用いることができれば、味覚機能に関連する遺伝子の選別が効率的に行えることが予想される。そこで、本章では、味蕾を含む乳頭上皮と味蕾を含まない舌上皮の対照とともに、嗅覚系組織である主嗅上皮と鋤鼻嗅上皮を類似性を提示する組織として用い、合計4組織によるDNAマイクロアレイ-階層的クラスター解析を行い、味蕾の遺伝子発現プロフィールを得るとともに、味蕾特異的遺伝子の同定を行った。

4つの発現プロフィールを第1章と同様に階層的クラスター解析を行い、組織間で異なる発現様式を示すクラスター38個を見出した。しかし、これらのクラスターに含まれる遺伝子全体では、味蕾と嗅覚組織との類縁性を明確に見出すことはできなかった。そこで、乳頭上皮と嗅上皮との類似性を組織樹と発現量データから検討したところ、5つのクラスターが味蕾特異的に発現する遺伝子を含むクラスターとして見出された。これらに含まれる38種の遺伝子全てに関して、乳頭上皮層における発現様式をin situ ハイブリダイゼーション法により解析したところ、味蕾の全てあるいは一部の細胞で発現する遺伝子を11種、味蕾特異的ではないものの乳頭特異的に発現する遺伝子を19種同定した。以上の結果から、新たに味蕾においても組織特異的遺伝子の同定を行い得ることが明らかになった。

本研究では、味覚系の第1段階を担う感覚組織である味蕾と、第2段階である一次神経を含む味覚系末梢感覚神経節における遺伝子発現を、DNAマイクロアレイを用いて解析した。本研究で対象とした遺伝子に対しては、専攻研究のように状況証拠や遺伝子機能の知見による前段階選別は行っておらず、基本的に全ての可能性を網羅している。実際、新たに組織特異的な発現を見出した遺伝子には、既知の遺伝子機能からは味覚系における機能が想像しにくいものが含まれている。また、同時に、味覚系組織の遺伝子全体における発現の基礎データが得られた。一方、ラットの全ゲノムは公開されておらず、DNAマイクロアレイには全ての遺伝子は含まれていないことは、今後さらに全ゲノムを含む新規のマイクロアレイを用いて研究を継続する必要性を示している。本研究で新たに同定された組織・細胞特異的発現の知見を基に、味覚におけるそれらの遺伝子機能を個別に研究することも急務であろう。

審査要旨 要旨を表示する

味覚は、食物などに含まれる成分が口腔に与える化学情報を味細胞で感知し、生じたシグナルを神経伝達して中枢で認識することにより得られる感覚である。味覚受容体の発見や細胞内シグナリング系の解明など、受容機構の解明には著しい進展がみられるが、神経系への伝達がどのように行われ、そこでどのような情報処理がなされているのかについては不明な点が多い。

本論文の研究は、味覚という生体応答を総合的に理解するための分子論的基盤の確立を目途に、味覚系を構成する組織の遺伝子発現プロフィールを解析し、それらの組織に発現する遺伝子群を情報科学的に特定した初めての試みである。また、その過程においてDNAマイクロアレイ実験における新たなデータ解析の方法論の提示をも行っている。すなわち、本論文は序章に続いて以下に概説する2つの章で構成される。

第1章は、末梢感覚神経節の遺伝子発現プロフィールを解析した結果を述べている。味細胞からの味のシグナルを中枢神経系へと伝達する味神経を含む神経節と、香辛料の刺激や温冷、物理的な食感など、食物摂取により生じるいわゆる味覚以外の感覚に関与する神経節を対象とした。つまり、食物摂取に伴う口腔内感覚全般を視野に入れつつDNAマイクロアレイを用いて各神経節の遺伝子発現データを取得し、神経節間で発現量が異なる遺伝子群を階層的クラスター解析法によって統計学的に同定した。これらの遺伝子群から約20種の遺伝子を選択し、in situハイブリダイゼーション法によって細胞レベルでの発現様式の解析を行い、神経節依存的かつ特異的に、そして細胞種特異的に発現することを明らかにした。また、これらの遺伝子の細胞レベルでの発現様式は、それぞれの遺伝子が属する遺伝子クラスターの組織樹の様態とある程度対応していることを見出し、遺伝子発現データの情報科学的解析のみから細胞レベルの発現様式を想定した遺伝子の選別が可能であることを示した。

第2章では、味覚系組織の遺伝子発現プロフィール解析から味蕾特異的発現を示す遺伝子を同定している。味覚系組織との差を見出すための参照組織として非味覚系舌上皮、類似性を見出すための参照組織として同じ化学感覚系である嗅覚系の2組織(主嗅上皮と鋤鼻嗅上皮)の解析を行い、第1章で得られた方法論を適用している。最終的に37遺伝子が味蕾系組織特異的遺伝子であることを示し、そのうちの13遺伝子が味蕾特異的発現を示すことを明らかにした。このなかには、味細胞の分化や成熟への関与が推測されるもの、細胞内シグナリングへの関与が確定しているものが含まれており、味覚研究の新たな方向性を示唆する基礎となる多くの新データが得られた。

以上、本論文は、DNAマイクロアレイ実験データの新たな解析方法論をまず提示し、それを味覚研究に適用することにより、口腔生理学の研究さらには食品開発の研究に感覚情報科学の面から新たな指針と展望を与えるものであり、学術上、応用上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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