学位論文要旨



No 215757
著者(漢字) 新谷,博幸
著者(英字)
著者(カナ) シンタニ,ヒロユキ
標題(和) 塩素系漂白で生成する高分子有機塩素化合物の構造とその起源
標題(洋)
報告番号 215757
報告番号 乙15757
学位授与日 2003.09.09
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第15757号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 飯塚,尭介
 東京大学 教授 飯山,賢治
 東京大学 教授 小野,拡邦
 東京大学 教授 鮫島,正浩
 東京大学 教授 磯貝,明
内容要旨 要旨を表示する

本研究の背景

記録媒体として紙が発明されて以来、文明の発展と共に紙の消費量は増加し、包装・衛生用品などその用途を広げつつ、紙の需要は増加の一途をたどった。20世紀末には、電子媒体による新しい記録法が登場し、ペーパーレス時代の予見もされたが、21世紀に入っても、紙の消費量は増加し続けている。紙の発明された当初は、その原料に草本類を用いてきたが、その後、木材をパルプ化する技術が開発され、大量の紙を効率よく生産することが可能となった。木材のパルプ化には様々な方法があるが、現在、最も多く生産されているのはクラフトパルプである。クラフトパルプは強度に優れているものの、難漂白性という欠点がある。難漂白性が塩素漂白とアルカリ抽出に始まる多段漂白法の開発によって克服されたため、クラフトパルプの生産量は急速に伸びた。クラフトパルプの多段漂白では塩素(C),二酸化塩素(D),次亜塩素酸塩(H)とアルカリ抽出(E)を組み合わせ、CE(H)DEDを基調とする5〜6段の漂白が用いられてきたが、塩素系の薬品、とりわけ塩素を使用するため、多種多様の有機塩素化合物が生成し、これらの環境中への排出が社会的な問題となった。漂白排液に含まれる有機塩素化合物の急性毒性・慢性毒性・突然変異原性・生物体内への蓄積性に関する研究が数多く報告され、有機塩素化合物による環境汚染は深刻な問題となった。その対策として、酸素前漂白の導入、塩素の二酸化塩素による置換などによって有機塩素化合物の生成量を抑制する努力がなされてきた。しかし、これらの手段は、有機塩素化合物の生成量を削減する効果はあるものの、環境汚染を皆無にすることは出来ない。そこで、近年では、塩素の使用を中止して有機塩素化合物の生成が無視し得るとされる二酸化塩素を中心とした無塩素漂白(ECF)、あるいは、酸素,オゾン,過酸化水素などの酸素系の試薬を用いる完全無塩素漂白(TCF)に切り替える工場が北欧諸国を中心に現れてはいるが、広く導入されるには至っていない。今後、分子状塩素の使用は廃止される方向に進むと考えられるが、世界的に見ると、依然として塩素を含む多段漂白への依存度は大きく、我が国においても、分子状塩素を二酸化塩素と混合して使用している工場が多い。このような現状からも、また、既に膨大な量の有機塩素化合物が環境中に排出されたという事実からも、塩素系漂白において生成する有機塩素化合物の性状やその生成機構を明らかにすることは極めて重要である。

漂白排液中の有機塩素化合物の性状については、低分子化合物に関しては、多くの知見が得られているが、高分子区分のものに関しては、その起源物質が何であるかという点を含めて、不明な点が多い。有機塩素化合物が多種多様であることと、その構造が塩素によって元の構造から大きく化学変化しているため、構造の解明は困難を極める。アルカリ抽出段の漂白排液中の有機塩素化合物は、塩素による構造変化に加えて不可逆的な化学反応が起こっているため、よりいっそう困難である。しかし、漂白排液中の有機塩素化合物の高分子区分は少なくなく、むしろ大部分を占めることから、その構造及び生成機構を調べることは必要不可欠であると考えられる。

本研究の目的

本研究は、塩素系漂白で生じる高分子有機塩素化合物の性状及びその生成機構を解明することを目的として行った。塩素処理パルプから高分子有機塩素化合物を溶媒で抽出・単離した物質の性状を詳しく分析することで有機塩素化合物の構造、生成機構を調べた。また、低分子を含めた有機塩素化合物全体の性状に関連する以下の2項目についても検討をを行った。

漂白排液中の有機塩素化合物量を測定する方法は数多いが、AOX(Adsorbable Organic Halide)値によって、有機塩素化合物の環境中への排出規制を行っている国が多い。我が国においても、日本製紙連合会がAOX値に基づいて、有機塩素化合物の排出量の自主規制を行っている。AOX法は、操作が簡便で再現性に優れていることから広く普及したと考えられるが、その測定原理を考えると、有機塩素化合物量を過小評価する可能性があり、この問題点を指摘する研究者も少なくない。AOX値と真の有機塩素化合物量との差に関する詳しい研究報告が無いので、本研究では、有機塩素化合物の排出規制をAOXで行うことが適切なのかどうかについて検討した。

塩素漂白で生じる有機塩素化合物に関する知見は多いものの、そのほとんどが針葉樹由来のものであり、現在、多く用いられるようになった広葉樹に対してそれらの知見が適用できるのかどうかについては不明である。また、塩素系の漂白試薬を使用する工場で広く用いられている酸素前漂白についても独自に研究する必要があると考えられる。そこで、針葉樹パルプ,広葉樹パルプ,酸素前漂白した広葉樹パルプを塩素処理−アルカリ抽出して、脱リグニンの挙動を比較した。

実験結果と考察

漂白排液中の有機塩素化合物量の指標として広く用いられているAOX値が、真の有機塩素量をどの程度反映するのかを調べるために、様々な漂白排液のAOX値を燃焼法によるTOCl(Total Organic Chlorine)値と比較した。その結果、概してAOXはTOClより低い値を示し、TOCl/AOX比が2.2となる結果もあった。TOClは、原理的に揮発性の有機塩素化合物が対象外になるため、真の有機塩素量よりも小さい値を示すにもかかわらず、その値よりもAOXの方が小さい値であったことは、明らかに、AOX値が有機塩素量を過小評価したことを示している。その理由の一つとして、AOXは試料を活性炭カラムに通し、吸着した物質の有機塩素量を測定するため、活性炭に吸着されない物質は測定値に反映されないことが考えられた。また、活性炭に試料を通す前処理として添加される硫酸が、有機塩素化合物の有機塩素が無機塩素として脱離する反応を引き起こすことが明らかとなり、これもAOXがTOClに比べて小さくなる原因と考えられた。AOXは有機塩素化合物量を過小評価するということが明らかになったので、有機塩素化合物量の指標としては、TOClとPOX(Purgeable Organic Halide)の併用などが望ましいと考えられる。しかしながら、TOClは技術的に高度な操作が要求される上に、測定に長時間を要するので、漂白排液中の有機塩素化合物の新たな測定法を開発する必要性が高い。

これまで得られている針葉樹由来のパルプの漂白排液に関する知見が広葉樹由来のものに対しても適用できるのかどうかについて検討するために、針葉樹未晒クラフトパルプ(NUKP),広葉樹未晒クラフトパルプ(LUKP),酸素前漂白した広葉樹クラフトパルプ(LOKP)を様々な塩素比で塩素処理−アルカリ抽出して、塩素処理排液(C段排液)とアルカリ抽出排液(E段排液)のTOC(Total Organic Carbon),AOX,TOClを測定した。パルプのカッパー価の減少とTOCの分布から脱リグニンへの寄与を調べたところ、NUKPではC段に比べてE段の方が脱リグニンの寄与率が大きいという結果になり従来の知見と一致したのに対して、LUKPではC段の寄与率が大きかった。AOX,TOCl同様の傾向が認められた。これらの結果は、NUKPとLUKPでは残存するリグニンに対する塩素の反応が本質的に異なる可能性を示している。すなわち、針葉樹由来の有機塩素化合物に関する知見がそのまま広葉樹由来のものに適用できるかどうかについては不明であり、広葉樹パルプに関して独自に研究を行う必要性が高いことが示された。LOKPでは、C段の脱リグニンに対する寄与率が高いというLUKPの特徴がさらに顕著に現れた。酸素前漂白を行うことが主流となっている現在においては、酸素前漂白したパルプに関する知見の蓄積も望まれる。

高分子有機塩素化合物の性状を明らかにするために、まず、塩素処理パルプ中に残存する有機塩素化合物を溶媒によって抽出することを試みた。溶媒としてジオキサン濃度50〜60%の含水ジオキサンを用いることにより各種塩素処理パルプから高収率で抽出物が得られた。抽出物は元素分析、及び、ゲルろ過による分子量分布の測定から、高分子有機塩素化合物であることが確認された。この抽出された高分子有機塩素化合物に含まれる中性糖は3.5%以下であり、リグニン由来の物質である可能性が高いと考えられた。抽出物の性状を詳しく調べたところ、共通する特徴として、アルカリ性ニトロベンゼン酸化による分解生成物において芳香核骨格を持つものが非常に少ない、1H−NMRスペクトルでは芳香核プロトンのピークが不明瞭であり、相対的にメチル・メチレン・メチン・ヒドロキシルメチル・ヒドロキシメチレンの領域に多数のピークが観測される、IRスペクトルでは芳香核に由来するピークが極めて小さいか観測されない、という結果が得られた。これらの特徴から、抽出物の化学構造は、起源物質がリグニンであるとすると、リグニンの芳香核が酸化的開裂することによって生成したムコン酸型の構造、及び、これに塩素・塩酸・次亜塩素酸・水などが付加したポリカルボン酸型の構造を主体とすると考えられた。抽出物をアルカリ処理することによって生成する主な低分子化合物は、その生成機構を上述の構造から説明することが可能であった。また、MWL(磨砕リグニン)の塩素処理物の1H−NMR及びIRスペクトルを測定したところ、抽出物のスペクトルの特徴とよく一致しており、抽出物、すなわち、高分子有機塩素化合物はリグニンから生じ得ることが示された。

審査要旨 要旨を表示する

記録媒体としての紙の需要は、新しい記録媒体として電子媒体が開発された現在においても着実に増加しており、その製造には世界的に主としてクラフトパルプが使用されている。蒸解後に得られる濃褐色の未晒クラフトパルプを漂白して白色の晒クラフトパルプを製造する工程が漂白工程である。難漂白性のクラフトパルプの漂白には、従来、分子状塩素処理工程を中心とした多段漂白が使用されてきたが、その過程で生じる多量の有機塩素化合物の環境に対する影響が強く懸念されるところから、現在、世界的に分子状塩素を使用しない漂白法への転換が急がれている。しかし、現実に我が国を含め世界の多くの国において、依然として分子状塩素が漂白剤のひとつとして使用されていることに加えて、過去に環境中に排出されてきた膨大な量の有機塩素化合物の環境中での消長についても、多くが不明のまま残されていることを考えると、塩素系漂白排液中の有機塩素化合物の性状を明らかにすることは極めて重要であるといえる。しかるに、同漂白排液成分の性状に関する既往の研究は、そのほとんどが針葉樹材をパルプ製造原料とした場合の低分子量成分に限定されている。そのような状況から、本研究では急速に重要性が増している広葉樹材を使用した場合の排液成分、とりわけ高分子有機塩素化合物の性状を明らかにすることを主な課題としている。

第1章で既往の研究について総括した後、第2章においては排液中の有機塩素化合物の定量的評価法としてのAOX(Adsorbable Organic Halide)法の妥当性について検討している。活性炭カラムへの吸着を利用して有機塩素化合物を分離し塩素量を求めるAOX法は、有機塩素化合物の環境中への排出規制を行う際に広く使用されているが、その定量値が真の有機塩素量を示しているか否かについては明らかではない。本研究においてAOX値と全有機塩素(TOCL)値を、塩素処理段(C段)排液とそれに続くアルカリ抽出段(E段)排液について比較したところ、広葉樹クラフトパルプ(LUKP)、酸素前処理広葉樹クラフトパルプ(LOKP)、針葉樹クラフトパルプ(NUKP)のいずれについても、C段排液のAOX値はTOCL値の50%程度にとどまっていることが明らかとなった。一方、E段排液での両定量値の間には大きな相違が認められていない。このことはC段およびE段排液成分の性状の違いを示すとともに、少なくともC段排液についてAOX値を用いて全有機塩素化合物量を評価することが不適切であることを示している。

第3章ではLUKPからのC段およびE段における脱リグニン挙動を、NUKPおよびLOKPと比較検討している。異なる塩素投与量(Chlorine ratio)での脱リグニンの進行を排液のTOCL、AOXおよび全有機炭素(TOC)で調べた結果、NUKPではE段での脱リグニンがC段でのそれに比較して大きな割合を占めているのに対して、LUKPおよびLOKPではC段での脱リグニンが主要な部分を占めていることが明らかとなった。

次いで第4章では、C段処理パルプ残存リグニンを同パルプから含水ジオキサンにより抽出することを試み、ジオキサン濃度50-60%の条件において高収率で得ることに成功している。この区分は数%の中性糖成分を含むものの、基本的にはリグニンに由来するものと考えられたが、アルカリ性ニトロベンゼン酸化分解反応生成物、1H-NMR,FT-IR等による分析結果から、通常のリグニンとは大きく異なり、高度の塩素化と芳香核の開裂が進行した構造を有していることが明らかとなった。また、このことはC段排液リグニンについても同様であった。第5章ではアルカリ抽出過程におけるリグニンの構造変化について検討している。前章において得られた含水ジオキサン・リグニンのアルカリ処理を行い、結合塩素の40%から85%がアルカリ抽出過程で脱離することを明らかにしている。このような結合塩素の不安定性は、それがリグニン側鎖あるいは芳香核開裂構造に結合していることを示唆しており、先に記した構造的特徴と合致している。

以上要するに本論文は、塩素系漂白で生成する高分子有機塩素化合物の性状について基礎的視点から詳細に検討したものであり、学術上また応用上価値あるものと認められた。よって、審査委員一同は本論文が博士(農学)に相応しいものであると認めた。

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