学位論文要旨



No 215774
著者(漢字) 星,健夫
著者(英字)
著者(カナ) ホシ,タケオ
標題(和) 大規模電子構造計算の理論と応用
標題(洋) Theory and application of large-scale electronic structure calculations
報告番号 215774
報告番号 乙15774
学位授与日 2003.09.16
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第15774号
研究科 工学系研究科
専攻 物理工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤原,毅夫
 東京大学 教授 前田,康二
 東京大学 助教授 初貝,安弘
 東京大学 助教授 伊藤,伸泰
 東京大学 助教授 丸山,茂夫
 東京大学 助教授 常行,真司
内容要旨 要旨を表示する

ナノスケールの物質設計には、電子構造理論にもとづく量子力学的取り扱いが欠かせない。今日の電子構造計算は、密度汎関数理論に基づく第一原理計算が大きな成功をおさめているが、取り扱えるシステムサイズは通常100原子程度に限られる。本論文は、これらの現状をふまえ、大規模電子構造計算の基礎理論を構築し、現実的な系へ応用することを目的とする。

本論文は3部8章からなる。第1部は、序論(第1章)と、電子構造計算理論のレビュー(第2章)からなる。第2部では、大規模電子構造計算の基礎理論を構築し(第3・4章)、詳細と応用例を示した(第5章)。第3部では、大規模電子構造計算が重要な応用例として、ナノ結晶シリコンの脆性破壊過程を取り上げた。背景を説明した(第6章)のち、10万原子系までの分子動力学シミュレーションを行い、量子力学的観点からそのメカニズムを解明した(第7章)。最後に、まとめと今後の展望について述べた(第8章)。

一般に、電子構造計算において、システムサイズを大きくすることと、計算精度を確保することは、相反する要求になる。本論文では、(a)強束縛(tight-binding)ハミルトニアン、特にその普遍性、(b)一般化ワニア状態理論を中心とした、複数のオーダーN法、(c)ヒルベルト空間分割によるハイブリッド電子構造計算法、の3つの基礎理論を構築し組み合わせるにより、これを成し遂げた。上記理論は全て、電子構造エネルギーを粗視化する手法とみなすことができ、その精度はエネルギーを用いて系統的に議論できる。

量子力学的問題は通常、行列の対角化に帰着される。その場合、計算時間はシステムサイズの3乗に比例し、この事情が大規模計算を困難にしている。「オーダーN法」とは、計算量がシステムサイズに比例する手法の総称であり、大規模計算に欠かせない概念である。本論文でもちいる電子構造エネルギーは、 強束縛ハミルトニアン〓と波動関数{φi}により〓と書ける。これを1体密度行列〓により、〓と書き直すことができる。本論文における大規模計算理論は、密度行列〓を求めることが基礎となっている。

強束縛ハミルトニアン自身の導出は本論文の範囲外であるが、その普遍性に着目し、ダイヤモンド構造をとる元素(C,Si,Ge,Sn)に対し系統的な解析を行った。本質的な量子力学的自由度として、各波動関数に対しs軌道成分の重み〓を定義した。ここで|Is〉は、I番目の原子に対するs軌道を意味する。 理想的なsp3混成では、f(i)s=1/4となる。パラメーターf(i)sを用いた定量的解析により、異なる元素や異なる相における構造が、統一的に理解できることを示した。このようなメカニズムは一般に、混成解消(dehybridization)と呼ばれ、 後述する破壊シミュレーションにおいても、重要な役割を果たす。

大規模計算の基礎方程式として、密度行列〓を用いた方程式を導出した。占有される波動関数のうち一部から部分行列〓Aを構成し、残りを〓に割り当てれば、波動関数の直交性により、両者は直交する:〓 これは、占有されたヒルベルト空間を分割したことに相当する。これら部分行列の満たす方程式を、ある種のハミルトニアン〓(A)mapを用いた交換関係として、数学的に導いた:〓また、本論文で重要な物理概念に、一般化ワニア状態の理論がある。これは一般に1電子ハミルトニアン〓に対し、〓を満足する局在波動関数{φi}として定義される。密度汎関数法でも適用されており、凝縮系における結合軌道描像を直接与えるものである。添字iは局在中心を示し、結合軌道の場合、ボンドサイトを表す。形式的には、固有状態{φ(eig)κ}に対するユニタリ変換〓と等価である。本論文では、(7)の特別な場合として、ワニア状態に対する平均場方程式を数学的に導いた。一般化ワニア状態を求める近似計算としてオーダーN法が導かれることは従来から知られていたが、上記の平均場方程式に変分法・摂動法を用いることにより、新しいオーダーNアルゴリズムが導出された。これらを、変分オーダーN法、摂動オーダーN法と呼ぶ。特に摂動法は、適用範囲は限定されるものの、 100万原子以上の系までに適用でき(図1(a))、 256CPUの並列計算でも高い並列効率を実実現した。

(7)式に対する直接の応用として、ハイブリッド電子構造計算法を導いた。すなわち、分割された部分系〓A, 〓Bを別々の手法で計算する。本論文においては、(i)厳密対角化法、(ii)変分(オーダーN)法、(iii)摂動(オーダーN)法、(iv)連分数法、からなるプログラムコードを作成した。対角化法と摂動法、変分法と摂動法、連分数法と摂動法、の3種の組み合わせにより、テスト計算を行った。この手法は、系が不均一であるときに特に有効である。後述する脆性破壊シミュレーションでは、ワニア状態により部分系を定義し、上記ハイブリッド法が用いられている。亀裂面付近に局在中心をもつワニア状態では変分法が、その他の(バルク)領域では摂動法が用いられた。

応用として、ナノ結晶シリコンの脆性破壊過程をとりあげた。102-105原子までの様々なサイズのサンプルに対し、(001)方向へのひっぱり試験を行った。以下の2点に注目した:(1)亀裂面の生成過程、 特に表面再構成まで含めたナノスケールの構造、(2)マクロサンプルにおける破壊現象との違い、特にサイズを変えていくことで期待できるクロスオーバー。破壊の素過程として、結合切断から2段階の表面再構成プロセスが起こることを観測した(図1(b))。このメカニズムは混成解消として理解でき、 電子構造計算による量子力学的な取り扱いが本質的である。1万原子以下の比較的小さい系では、単一原子層からなる(001)面が現れ、表面上では、清浄表面で観測されている非対称ダイマーが生成された(図2)。一方、1万原子以上の大きな系ではステップ構造が生まれた(図3)。これは、化学(量子力学)的エネルギーと、ひずみエネルギーとの競合として理解でき、上記のクロスオーバーの始まりとみなすことができる。

さらにシステムサイズを大きくするには、変分オーダーN法部分に対する並列化が必要である。また、並列計算を用いても、マクロ系までを直接扱うことはできない。マクロ系までを扱う立場にたつなら、 エネルギー汎関数におけるマップとして、 連続体理論への橋渡しが重要となる。

本研究で取り上げた3つの基礎理論は、本論文により確立されたものと考える。これらは量子力学において一般的に成立するものであり、シリコン又は破壊現象に限定されるものではない。他の系への適用は、今後の課題である。ただし、ワニア状態理論の成功は共有結合物質に限られている。金属系にも適用できる計算手法としては、上述の連分数法があり、これを用いた大規模計算手法の確立は今後の課題である。3つの基礎理論は、概念上もプログラムコード上も独立であり、独立に発展させていくことができる。これらを自在に組み合わせることにより、様々な元素・システムサイズ・精度の計算が可能になるものと期待する。

(a)摂動オーダーN法(Order-N)と厳密対角化法(Diag.)における、計算時間のシステムサイズ(原子数)依存性(第1章図1.1)。(b)破壊素過程における、ワニア状態の観測。エネルギーεi=〈φi|〓|φi〉とs波成分の重みf(i)sを示した(第7章2節図7.5)。

4501原子からなるナノ結晶シリコンの破壊過程。初期構造に含まれる欠陥ボンドを起点として、非対称ダイマーを含んだ亀裂(001)面が生成される。ワニア状態を、結合軌道(ロッド)または原子軌道(球)として描いた。後者は、f(i)sによって色分けされている。また、黒い結合は、表面再構成によって形成された結合を表す(第7章5節図7.21よりの抜粋)。

亀裂(001)面におけるステップ構造のサンプルサイズ依存性。(a)色分けの例:理想結晶構造におけるボンドサイトの、原子層による分類。(b)(c)結合が切れたボンドサイトを、理想結晶構造において図示している。(b)約3万原子系、(c)約12万原子系。(b)ではサンプル全体の断面を、(c)では中央付近のみの断面を描画している。サンプルサイズは、 [110]または[110]方向に、(b)が約10nm、(c)が約20nm。(第7章6節図7.29,図7.34)。

審査要旨 要旨を表示する

電子構造理論の最近の課題は次の2つである。第一は、電子相関の強い系における電子相関の役割を明らかにすることおよび、それらの系における第一原理計算手法を確立すること;第二は、大きな系に関する第一原理手法を確立しナノスケールにおける応用研究を拡大すること、である。本論文はこの第二の課題に対する重要な寄与をなすものである。

著者は、タイトバインディング近似の下で、ワニエ関数のオーダーN計算理論、ヒルベルト空間分割理論の2つの基礎理論を開発し、計算負荷(計算時間、記憶容量)が取り扱う電子の数に比例するいわゆるオーダーN法の計算理論を確立した。さらに本論文では具体的な応用として、シリコン単結晶の亀裂破壊を取り上げ、亀裂形成の電子的基礎過程、亀裂伝播プロセスにおける過渡電子状態、亀裂拡大における電子的結合と弾性歪みとの競合を、理論的に明らかにした。

本論文は英文で書かれており、3部8章からなる。

第1部では、序論と、電子構造計算理論のレビューを与える。一般に、電子構造計算において、システムサイズを大きくすることと、計算精度を確保することは、相反する要求になる。このことを第1章で論じている。

第2章では、本論文が選択しているタイトバインディングハミルトニアンの普遍性および、特にタイトバインディングハミルトニアンを第一原理的にどの様に求めるべきか、線形マフィンティン軌道との関連などを論じている。これにより、システムサイズを大きくすることの意味とよって立つべき基礎を明確にしている。

第2部では、大規模電子構造計算の基礎理論を構築する。

第3章は、タイトバインディングハミルトニアンの準備に当てられている。また、用いられるタイトバインディングハミルトニアンによって、ダイヤモンド構造半導体(001)表面で見られる対称・非対称ダイマーが良く記述されることを示し、ハミルトニアンの一般性を述べている。

第4章では、ワニア状態に基づく複数のオーダーN法について述べている。従来、ワニエ関数は系の固有状態を求め、次にユニタリ変換により作られる。本論文では、適当に選ばれた局在状態(具体的にはボンド結合軌道)を出発に逐次的に構成する方法を用いている。これにより、一般化ワニエ状態が作られることを数学的に示し、また同じ軌道を摂動法により構成できることを示している。さらに、この方法を一般化して、密度行列を用いて、ヒルベルト空間分割によるハイブリッド電子構造計算法を構成している。この方法は、実空間を分割する従来のハイブリッド法と異なり、ヒルベルト空間分割であるから、結果に方法による接続の不連続性などが現れない優れた方法であることを示している。オーダーN法は、一般化ワニエ関数を求める手順の中に、局在軌道として表現することにより導入されている。一般化ワニエ関数を求める手続きは、電子構造エネルギーを粗視化する手法とみなすことができることが述べられ、計算精度をエネルギーを用いて系統的に議論している。

第5章では計算の手続きについて、メモリーサイズ、逐次近似の方法を含めて詳細に述べられている。

第3部では、大規模電子構造計算が必要な応用例として、ナノ結晶シリコンの脆性破壊過程を取り上げ議論する。

第6章ではシリコン単結晶における亀裂破壊の背景を説明している。それらは弾性領域での古典的破壊理論であるグリフィス理論と、シリコン(001)表面のシミュレーション結果を理解するための予備知識として非対称ダイマー構造およびステップ構造を説明している。

第7章ではナノ結晶シリコンの脆性破壊過程をとりあげ、原子数が数100から数十万個までの様々なサイズのサンプルに対し、(001)方向へのひっぱり試験に対応する分子動力学シミュレーションを行い以下の2点に注目している。(1)亀裂面の生成過程、特に表面再構成まで含めたナノスケールの構造、(2)マクロサンプルにおける破壊現象との違い、特にサイズを変えていくことで期待できるクロスオーバー。破壊の素過程として、結合切断から2段階の表面再構成プロセスが起こることを観測し、このメカニズムは混成解消として理解できることを述べ、電子構造計算による量子力学的な取り扱いが本質的である。サンプルサイズ依存性としては、1万原子以下の比較的小さい系では単一原子層からなる(001)面が現れ、表面上では、清浄表面で観測されている非対称ダイマーが生成されること、一方1万原子以上の大きな系ではステップ構造が生まれこれは化学(量子力学)的エネルギーとひずみエネルギーとの競合として理解できることが示されている。この競合が現れたことは、ミクロからマクロへのクロスオーバーの始まりとみなすことができることが述べられている。

まとめと今後の展望について述べたのが第8章である。そこでは、さらにシステムサイズを大きくするには変分オーダーN法部分に対する並列化が必要であること、また並列計算を用いてもマクロ系までを直接扱うことはできないことが、グリフィス理論から導かれる自発的亀裂進展サイズと量子力学計算のサイズ限界に関して議論されている。最後に、マクロ系までを扱う立場にたつならエネルギー汎関数におけるマップとして連続体理論への橋渡しが重要となることが述べられ、量子力学計算と連続体理論のハイブリッド計算の意味および重要性が述べられている。

以上を要するに、著者は、タイトバインディング近似の下で、ワニエ関数のオーダーN計算理論、ヒルベルト空間分割理論の2つの基礎理論に基づきオーダーN法の計算理論を確立し、シリコン単結晶の亀裂破壊における亀裂伝播プロセスにおける過渡電子状態、亀裂拡大における電子的結合と弾性歪みとの競合を、理論的に明らかにした。本論文で扱った問題は、電子構造エネルギーを粗視化する手法と位置付けることにより、新たなオーダーN法を開発し、広く応用可能なかたちで確立したものであり、物理工学への貢献は大きい。

よって本論文は博士の学位論文として合格であると認める。

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