学位論文要旨



No 215778
著者(漢字) 崔,在東
著者(英字)
著者(カナ) チェ,ゼドン
標題(和) 近代ロシア農村の社会経済史 : 帝政末期ロシアのストルィピン農業改革研究
標題(洋)
報告番号 215778
報告番号 乙15778
学位授与日 2003.09.24
学位種別 論文博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 第15778号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 奥田,央
 東京大学 教授 森,建資
 東京大学 教授 廣田,功
 東京大学 教授 小野塚,知二
 東京大学 助教授 石原,俊時
内容要旨 要旨を表示する

本稿は、第I部でストルィピン農業改革によってもたらされた土地利用の変化やその影響、第II部で改革によってもたらされた土地所有権および農民家族内の財産所有関係の変化、さらに第III部では、ロシア農民経営の再生の「第三の道」として、土地利用や土地所有とは異なる次元で模索されていた主にゼムストヴォによる農民協同組合の実状を考察し、ストルィピン農業改革の新たな位置付けを探ることを課題とする。その際に、これまでの研究史には十分に取り入れられていない、近代化論と最近の歴史人類学的手法などによる比較史的視点を採用した。

第I部では、改革による土地利用の変化を検討した。具体的には、伝統的ロシア農民共同体で見られた農業改良とその経済的意義、共同体の解体を目指す改革が推進される中で共同体に留まった農民経営がどのような状況であったか、そこで見られた農業改良をめぐるゼムストヴォとストルィピン農業改革との対立、改革期のロシア政府が最も重視していたフートル経営とオートルプ経営の実態とそれらに対する農業技術援助をめぐるゼムストヴォと土地整理委員会との対立、さらに第一次世界大戦期における土地整理政策、臨時政府によるストルィピン農業改革の終焉、を検討した。

その結果確認されたのは以下のような点である。19世紀後半からゼムストヴォの援助によって共同体に積極的に導入された牧草播種によって農民経営を向上させようという試みは、牧草播種が干草販売のために転用されたこと、輪作規則から逸脱する農民が多かったことによって、期待されたほどの効果をあげることができなかった。さらに、ストルィピン農業改革によって共同体による牧草播種の導入はほとんど不可能になったため、ゼムストヴォによる援助は農業技術援助から農民協同組合へとその重点が移された。これに対してロシア政府は、援助の重点を区画地経営へ移すよう要求し、多くのゼムストヴォもそれに応えたのであるが、ロシア政府がもっとも重点を置いていた区画地経営の半分以上は形成の時点ですでに健全な経営のために最小限必要とされる規模以下の土地しか所有しておらず、家族分割や相続によって更なる細分化が生じた場合にはほとんどが必要最小限以下の所有規模になることが運命付けられていた。これらの区画地経営には政府の集中的援助による若干の農業改良が見られたものの、著しいものではなかった。しかし、区画地経営の創出は農民側からの大きな反対にもかかわらず、第一次世界大戦中も継続され、1917年2月革命まで一貫して維持された。

第II部では、ストルィピン農業改革によって土地所有関係にもたらされた変化を考察した。ここでは、研究史において注目されてきた村と農戸と関係の変化ではなく、農戸(農民家族)内部の変化に分析の重点を置いた。具体的には、私的所有権の確定過程、私的土地所有権の性格、私的所有権の確定=伝統的家族所有原則の廃止による家族内部の変化、土地の非公式な取引の扱い、農奴解放以降の時期における家族分割と改革期の家族内部の変化による家族分割、農民の遺言と相続の変化、私的所有権が排他的に認められた戸主の数の変動、を検討した。その結論は次のようである。

第1に、ストルィピン農業改革によって「私的所有分与地」という新たなカテゴリーの土地が大量に出現した。研究史において注目されてきた割替共同体からの脱退者だけでなく、無割替共同体と世帯別所有地の農民も私的所有分与地を所有することになった。これによって、ヨーロッパ・ロシアの全農戸のおよそ70%が私的所有分与地の所有者となった。

第2に、現地における地方行政機関や公証機関の対応が不十分であったことなどのために明確な私的所有権に基づく近代的所有関係の確立という課題を達成できなかったが、その根底には共同体を解体することを先決課題とすると同時に、混在地的私有農をフートル経営とオートルプ経営への移行の中間段階としか見なさないロシア政府の独特な政策が横たわっていた。

第3に、ロシア政府は区画地経営を含むすべての「私的所有分与地」に対して一貫して分与地規定を適用していた。このため、「私的所有分与地」は私的所有地であると同時に分与地であるという二重性を持つことになった。この二重性の問題は、相続、遺言、家族分割などに現れた。改革以前の家族所有の原則=分与地規定に従えば、分与地については一切遺言は認められず、これは最高裁セナートも認めていた原則であった。しかし、ストルィピン農業改革によって、私的所有地としての性格をも有することになったため、遺言について扱いあぐねた最高裁セナートは初めのうち判決を控えていた。相続についても事態は同様であった。すなわち、「私的所有分与地」が私的所有地であるとすれば、遺言も相続も自由であり、相続の際には一般民法が適用されるはずであるが、「私的所有分与地」が分与地であるとすれば、遺言も相続も自由でなく、相続に際しては地域慣習に従った相続がなされるはずであった。結局、司法機関、当事者である農民双方を巻き込む大きな混乱を引き起こした後、原則としては遺言、相続については分与地に準じた扱いがなされることになった。その根底には農奴解放以降ロシア政府が一貫して堅持してきた農民保護=農民のプロレタリアート化防止の政策が存在していた。

第4に、父戸主にのみ私的所有権を確定・認定する権利が与えられ、父戸主外の直系卑属には一切の権利が与えられなかったが、改革以前の家族分割の大部分が公式の認可を受けていない無許可家族分割であったため、家族分割の有効性、すなわち戸主は誰かをめぐって家族内部に大きな争いが生じた。また、戸主の排他的所有権の認定は必ずしも経営の改善を意味してはいなかった。

第5に、戸主と直系卑属関係を持たない家族成員がいる場合には戸主による排他的私的所有権の確定・認定を禁止し、共同所有権の確定・認定を義務付けた。共同所有権者がそれぞれの持分を売却することは禁止されたが、家族分割をした後、私的所有権を確定し、売却することは法律上認められていたので、改革期にはこれを理由とした家族分割が多く見られるようになったと考えられる。さらに、一定の混乱は見られたものの、改革以前からの無許可家族分割が追認される方向に向かったこと、家族分割規則が緩和されたこと、地域慣習に基づくグレーゾーンの拡大などにより、改革期に家族分割は制度的なバックアップを受けることとなり、登録戸主数の増加率は改革以前のおよそ2倍にまで増加した。これは、ヨーロッパ・ロシアのすべての地域で共通に確認される現象であった。このような現象は、私的所有権の設定を通じてドヴォルの経営を安定させ、細分化を防止しようとしたロシア政府の当初の意図とはまったく逆の結果を招いたことを示している。他方、登録戸主数の急増は、排他的戸主権の確立と私的所有権の確定という新たな状況にロシア農民が積極的に対応していったことを示す結果でもあった。

第6に、ストルィピン農業改革期において家族分割、相続や遺言、非公式な取引をめぐる訴訟が急激に増加し、訴訟の過程において多くの場合家族の絆が傷つけられ、それまで家族所有の下で暗黙に維持されていた家族内部における分業・協業システムは大きく崩されることになった。

第III部では、土地利用と土地所有の面における活動の場を失いつつあったゼムストヴォ農業技術援助組織が改革期における組織の拡大と同時に、農民経営の再生と復活のための第三の道として最も多くの時間と人力を注いだ「第3の道」としての農民協同組合の実状を検討した。具体的には、モスクワ県ゼムストヴォが牧草播種を経営の集約化と結びつけるために力を注いだ農民酪農組合の活動と実状と、安価で身近な信用の提供を目的とした農民信用組合およびゼムストヴォ小規模信用金庫の活動、を検討した。その結論は以下の通りである。第1に、モスクワ県農民酪農組合は買付人や大手牛乳会社との競争に勝ち抜き、モスクワ市場に参入することには必ずしも成功しなかった。第2に、郡ゼムストヴォ小規模信用金庫は郡によって相違が見られたが、モスクワ郡などの4金庫において大きな発展が見られ、4つの郡における農民信用組合の大半がゼムストヴォの援助の下で設立された。第3に、農民酪農組合と異なって、農民信用組合は1910年に全農戸の10%以下が組合員であったが、1915年半ばに50%を越え、戦時中の1917年には70%以上が組合員になるという大きな発展を見せた。貸付のほとんどは無担保・無保証の個人的信頼関係に基づいて行われていたが、返済期限を過ぎた貸付の割合は極めて低かった。第4に、農民信用組合の組合員としての農民は、ストルィピン農業改革の過程で見られた農民とは異なるイメージを示し、農民経営の再生のための「第3の道」としての十分な可能性を示していた。

総じて、ストルィピン農業改革は、村と農戸との間では共同体的所有が支配的であり、農民家族内部では家族全体所有の原則が堅く守られてきたロシア農民社会に、近代的私的所有権の導入と同時に、区画地的経営と健全な小農経営の確立を試みる革命的改革であった。しかし、ロシア農民の伝統的な所有および法意識を短期間に変革することは困難であり、政策の更なる進化が求められていた。一方、土地利用や土地所有における変革であるストルィピン農業改革とは異なる次元で同時期に模索されていた農民協同組合はロシア農民経営の新たな発展の可能性を示していた。

審査要旨 要旨を表示する

本学位論文は、農民共同体の解体をめざした20世紀初頭のストルィピン農業改革を考察したものである。第I部ではストルィピン改革によってもたらされた土地利用の変化やその影響、第II部では改革によってもたらされた土地所有権および農民家族内の財産所有関係の変化、さらに第III部では、ロシア農民経営の再生の「第三の道」として、土地利用や土地所有とは異なる次元で模索されていた主にゼムストヴォによる農民協同組合の実状を考察し、ストルィピン農業改革の新たな位置付けを探ることを課題としている。

第I部では、伝統的ロシア農民共同体で見られた農業改良が、共同体の解体を目指す改革が推進されるなかでどのような状況におかれたか、そこで見られた農業改良をめぐるゼムストヴォとストルィピン農業改革との対立、改革期のロシア政府が最も重視していたフートル経営とオートルプ経営の実態とそれらに対する農業技術援助をめぐるゼムストヴォと土地整理委員会との対立、さらに第一次世界大戦期における土地整理政策、臨時政府によるストルィピン農業改革の終焉が分析されている。

ここでの結論は次の通りである。19世紀後半からゼムストヴォの援助のもとで牧草播種を積極的に導入することによって農民経営を向上させようと試みられたがその試みは、牧草播種が干草販売のために転用され、あるいは、輪作規則から逸脱する農民が多かったために、期待されたほどの効果をあげることができなかった。さらに、ストルィピン農業改革によって共同体による牧草播種の導入はほとんど不可能になったため、ゼムストヴォによる援助は農業技術援助から農民協同組合へとその重点が移された。これに対してロシア政府は、援助の重点を区画地経営へ移すよう要求し、多くのゼムストヴォもそれに応えたのであるが、ロシア政府がもっとも重点を置いていた区画地経営の半分以上は形成の時点ですでに健全な経営のために最小限必要とされる規模以下の土地しか所有しておらず、家族分割や相続によって更なる細分化が生じた場合にはほとんどが必要最小限以下の所有規模にならざるをえなかった。これらの区画地経営には政府の集中的な援助がおこなわれ、それによって若干の農業改良が見られたが、著しいものとはいえなかった。しかし、区画地経営の創出は農民側からの大きな反対にもかかわらず、第一次世界大戦中も継続され、1917年2月革命まで一貫して維持された。

第II部では、ストルィピン農業改革によって土地所有関係にもたらされた変化が考察されている。これまでの研究史では村と農戸との関係の変化が詳しく考察されてきたが、農戸(農民家族)内部の変化については十分な研究がなく、ここに分析の重点を置かれている。具体的には、私的所有権の確定過程、私的土地所有権の性格、私的所有権の確定=伝統的家族所有原則の廃止による家族内部の変化、土地の非公式な取引の扱い、農奴解放以降の時期における家族分割と改革期の家族内部の変化による家族分割、農民の遺言と相続の変化、私的所有権が排他的に認められた戸主の数の変動が検討されている。その結論は次の通りである。

第1に、ストルィピン農業改革によって「私的所有分与地」という新たなカテゴリーの土地が大量に出現した。研究史において注目されてきた割替共同体からの脱退者だけでなく、無割替共同体と世帯別所有地の農民も私的所有分与地を所有することになった。これによって、ヨーロッパ・ロシアの全農戸のおよそ70%が私的所有分与地の所有者となった。

第2に、現地における地方行政機関や公証機関の対応が不十分であったことなどを原因として、明確な私的所有権に基づく近代的所有関係の確立という課題は達成されなかった。しかしその根本的な原因として、共同体を解体することを先決課題とすると同時に、混在地的私有農をフートル経営とオートルプ経営への移行の中間段階としか見なさないロシア政府の独特な政策をあげることができる。

第3に、ロシア政府は区画地経営を含むすべての「私的所有分与地」に対して一貫して分与地規定を適用していた。このため、「私的所有分与地」は私的所有地であると同時に分与地であるという二重性を持つことになった。この二重性の問題は、相続、遺言、家族分割などに現れた。改革以前の家族所有の原則=分与地規定に従えば、分与地については一切遺言は認められず、これは最高裁セナートも認めていた原則であった。しかし、ストルィピン農業改革によって、私的所有地としての性格をも有することになったため、遺言について扱いあぐねた最高裁セナートは初めのうち判決を控えていた。相続についても事態は同様であった。すなわち、「私的所有分与地」が私的所有地であるとすれば、遺言も相続も自由であり、相続の際には一般民法が適用されるはずであるが、「私的所有分与地」が分与地であるとすれば、遺言も相続も自由でなく、相続に際しては地域慣習に従った相続がなされるはずであった。結局、司法機関、当事者である農民双方を巻き込む大きな混乱を引き起こした後、原則としては遺言、相続については分与地に準じた扱いがなされることになった。その根底には農奴解放以降ロシア政府が一貫して堅持してきた農民保護=農民のプロレタリアート化防止の政策が存在していた。

第4に、父戸主にのみ私的所有権を確定・認定する権利が与えられ、父戸主外の直系卑属には一切の権利が与えられなかったが、改革以前の家族分割の大部分が公式の認可を受けていない無許可家族分割であったため、家族分割の有効性、すなわち戸主は誰かをめぐって家族内部に大きな争いが生じた。また、戸主の排他的所有権の認定は必ずしも経営の改善を意味してはいなかった。

第5に、戸主と直系卑属関係を持たない家族成員がいる場合には戸主による排他的私的所有権の確定・認定を禁止し、共同所有権の確定・認定を義務付けた。共同所有権者がそれぞれの持分を売却することは禁止されたが、家族分割をした後、私的所有権を確定し、売却することは法律上認められていたので、改革期にはこれを理由とした家族分割が多く見られるようになったと考えられる。さらに、一定の混乱は見られたものの、改革以前からの無許可家族分割が追認される方向に向かったこと、家族分割規則が緩和されたこと、地域慣習に基づくグレーゾーンの拡大などにより、改革期に家族分割は制度的なバックアップを受けることとなり、登録戸主数の増加率は改革以前のおよそ2倍にまで増加した。これは、ヨーロッパ・ロシアのすべての地域で共通に確認される現象であった。このような現象は、私的所有権の設定を通じてドヴォルの経営を安定させ、細分化を防止しようとしたロシア政府の当初の意図とはまったく逆の結果を招いたことを示している。他方、登録戸主数の急増は、排他的戸主権の確立と私的所有権の確定という新たな状況にロシア農民が積極的に対応していったことを示す結果でもあった。

第6に、ストルィピン農業改革期において家族分割、相続や遺言、非公式な取引をめぐる訴訟が急激に増加し、訴訟の過程において多くの場合家族の絆が傷つけられ、それまで家族所有の下で暗黙に維持されていた家族内部における分業・協業システムは大きく崩されることになった。

第III部では、土地利用と土地所有の面における活動の場を失いつつあったゼムストヴォ農業技術援助組織が、改革期における組織の拡大と同時に、農民経営の再生と復活のための第三の道として最も多くの努力を注いだ農民協同組合の実状が検討されている。具体的には、モスクワ県ゼムストヴォが牧草播種を経営の集約化と結びつけるために力を注いだ農民酪農組合の活動と実状と、安価で身近な信用の提供を目的とした信用組合およびゼムストヴォ小規模信用金庫の活動に焦点が絞られている。その結論は以下の通りである。

第1に、モスクワ県農民酪農組合は買付人や大手牛乳会社との競争に勝ち抜き、モスクワ市場に参入することには必ずしも成功しなかった。第2に、ゼムストヴォ小規模信用金庫と信用組合は預金事業の不振と、貸付資金不足により、その活動を短期貸付に制限せざるをえなかった。第3に、両農民協同組合の不振の最も大きな原因の一つは、そもそも零細な農民経営をその組合員とせざるを得なかったことであった。

総じて、ストルィピン農業改革は、村と農戸との間では共同体的所有が支配的であり、農民家族内部では家族全体所有の原則が堅く守られてきたロシア農民社会に、近代的私的所有権の導入と同時に、区画地的経営と健全な小農経営の確立を試みる革命的改革であった。しかし、ロシア農民の伝統的な所有および法意識を短期間に変革することは困難であった、と論文全体が総括されている。

ストルィピン改革は、共同体的土地所有を解体するばかりでなく、ロシアに近代的な私的土地所有を導入しようとした重要な歴史的事件であり、1990年代以降の現代の土地改革にも匹敵する巨大なテーマである。ロシアにおける共同体の問題が政治、社会、経済のあらゆる局面にわたる著しく複雑な問題を構成するだけに、ストルィピン改革もそれと同様の複雑さをもつ困難な問題である。このような状況のなかで本論文は新しい問題領域を開拓し、それを解明することに成功している。

ストルィピン改革といえば、これまで主としてただちに共同体の解体と、フートル、オートルプ経営の創出という問題に関心が向けられた。そこでは、共同体的土地利用の特徴と欠陥が描写、分析され、それにもかかわらず農民の共同体への執着が存在することが指摘され、全体として共同体の解体が順調には進まなかったことが強調されてきた。さらにロシアの共同体の特殊性からただちに割替的な共同体がその典型とみなされた。しかし、共同体のなかには割替機能のない非割替制的な共同体が多数 (40%) 存在していた。それに対する高い関心がおそらくこの論文の第1の功績であろう。そのために、ストルィピン期の混在的私有農を全体として考察する可能性があたえられたということができる。

ついで本論文の、それよりも重要な特徴は、ストルィピン改革をロシアにおける私的所有の確立の試みと位置づけて、その歴史的特質を多面的に解明しようとしたことである。とくにストルィピン改革の結果出現した「私的所有分与地」が私的所有地であると同時に分与地であるという二重性をもつことになったという観点は著者独自のものであろう。またこれまで共同体と農戸との関係については長く研究されてきたが、農戸内部の問題については十分には論究されてこなかったといわなければならない。私的所有の問題はまさにこの農戸(家族)内部の分析を必要とするであろう。旧来の共同体農民における家族所有を否定しようとしたストルィピン改革期の家族分割や遺言、相続の研究はきわめてユニークなものである。区画地経営の脆弱性をその家族分割による土地の細分化という側面から分析することができたのも、このような視角のゆえである。

とくに最後の区画地経営の脆弱性を実証するに際して、形成された区画地経営の大きな部分が分割制限規模よりも小さいことを明らかにしたことも大きな功績である。この研究の結果、ストルィピン農業改革によってつくりだされた区画地経営の90%もの部分が相続および家族分割による経営の細分化の際に分割制限規模以下になる危険を孕んでいた、という驚くべき結論を導いている。これは、すぐあとでふれる著者の史料渉猟の徹底さとも関連しており、ここでもアルヒーフ史料が実に有効に用いられている。

ストルィピン農業改革は、通常「強者への賭け」と特徴づけられてきた。それに対して、著者は、「富農の育成ではなく、排他的戸主権と私的所有権に基づいた、経営的〔に〕健全な小農経営の育成を目的としていた政策であった」という新しい観点をうちだし、「ロシア政府の中でも区画地経営を富農に育成するという位置づけは行われてはいなかった」と主張する。こうした新しい観点は、今後のロシアの農業・農民史研究にとってすぐれた貢献をなすものである。

この成功を可能にした条件としてあげなければならない本論文の最大の特色は、現代の日ロ、英米の研究書の批判的検討をつねに忘れることなく、問題の積極的な解明のために、史料収集をまことに徹底的におこなっていることである。各種の政府刊行物とゼムストヴォ刊行物、同時代の多数の新聞と雑誌、同時代のレベルの高い研究書ばかりでなく、Российский государственный исторический архив (ロシア国立公文書館)、Центральный исторический архив г. Москвы (モスクワ市公文書館)、Государственный архив Российской Федерации (ロシア連邦国立公文書館)に所蔵されている膨大な量のアルヒーフ史料を駆使している。それは読者を驚かせ、感動させるほどである。著者は、現在ロシアの研究者にあたえられている可能性を十二分に活用しているといえよう。

しかし第1に、本論文の長所をなす箇所が同時になおも曖昧さをふくんでいる。たとえば、前述の通り、本論文は私的所有の導入という観点からストルィピン改革を本格的に考察しようとしたものである。ところが一方で、多くは私的所有意識を十分にもたないロシア農民の伝統に由来するストルィピン改革期の政策(共同所有権確定の容認と相続の際の地域慣習の適用など)の特殊性を強調し、またロシア農民の特殊な相続慣行にもとづく区画地経営の脆弱さを強調しながら、他方で、明らかに、私的所有の関係や権利がロシア農民に定着する可能性を積極的に展望している(210、272頁)。もとよりこれは問題の複雑さを物語るもので、一概に欠点というのは酷かもしれない。また農民のなかの変化の要因を認めないことは、歴史的な態度ではない。しかし、少なくとも著者の研究課題として今後もひきつづき考察しなければならないテーマであることは事実であろう。

第2に、農民運動とストルィピン改革との関連についての分析がなされていない。これももとより、著者の研究課題のそとにある問題領域であり、そのことが本書の欠陥をなしているわけではない。「農民革命」的観点は本論文では採用しないと明言されているからである。しかし、その視角がないために、たとえば、牧草播種を論じた際に、ヴォロコラムスク郡のその専門家である農業専門家ズブリーリンが1905〜06年の「マルコヴォ共和国」運動の関係者であったことなどへの論及ができなくなっている。

第3に、共同体的土地利用の様態や特徴は研究史で十分に解明されているとして、あるいはむしろそちらに傾きすぎているとして、本論文は特別には論究していないが、共同体農民の土地についての「観念」といったメンタリティーに関連する領域にも(著者は十分その能力があるだけに)論究していただきたかった。

第4に、著者は、「農民革命論」的観点からのストルィピン改革研究の限界として、それによっては「ロシア農民の日常的心性」を十分に明らかにできないこと、「近代化論、社会史、歴史人類学、比較史、ロシア農民のモラル・エコノミー」の観点が反映されていないことをあげている。それに対して著者自身は、これまでの研究史には十分に取り入れられていない、近代化論と最近の歴史人類学的手法などによる比較史的視点を採用した、と「論文要旨」に書かれているが、「近代化論」や「歴史人類学」がどのように取りいれられているのか、十分には明らかではない。

最後に、いくつかの小さな問題をまとめて指摘しておかなければならない。それらは重要度においてそれほど劣るわけではない。なによりもまず本論文全体を通じて事例の羅列が多い。著者は更に一歩踏み出して、仮説を作り、仮説の背後にある分析視角に立って、様々な事例を整理する積極的な態度が必要であったであろう。協同組合を対象とした第3章が、他の章とどのような関係に立つかも必ずしも明快ではない。また比較史的な研究をまでめざしたものでありながら、ロシア固有の概念である「ゼムストヴォ」や「ドゥシャー」など、あるいは地主を意味する「ポメーシチキ」までが、時代背景の十分な説明なしにそのままで用いられている。それは、他国史の研究者が本論文を読むことを著しく妨げている。モノグラフにまとめる際に注意するべきもう一つの問題点であろう。

しかし、これらの欠陥にもかかわらず、前述のように、本論文は、オリジナルな問題意識と、問題解明のための史料収集の不屈の努力に支えられた著しく水準の高い研究であり、ストルィピン改革研究の現水準を著しく高めるものである。審査委員全員一致で、著者は経済学博士の称号をあたえるにふさわしいとの結論に達した。

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