学位論文要旨



No 215784
著者(漢字) 保井,美樹
著者(英字)
著者(カナ) ヤスイ,ミキ
標題(和) 米国における「負担者受益」型のまちづくり制度に関する研究 : 財源調達・意思決定上の効果と限界
標題(洋)
報告番号 215784
報告番号 乙15784
学位授与日 2003.10.16
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第15784号
研究科 工学系研究科
専攻 都市工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大西,隆
 東京大学 教授 西村,幸夫
 東京大学 教授 原田,昇
 東京大学 助教授 小泉,秀樹
 東京大学 助教授 城所,哲夫
内容要旨 要旨を表示する

目的

本研究は、米国で、市民の「負担」に対する自己決定意識の高さを基礎に「小さな統治単位」が志向されたことによって発展したまちづくり事業の制度を「負担者受益」という視点から分析すると共に、日本にも参考になる計画システムの基礎となる考え方の一つとして「負担者受益」という新たな発想を提示し、それを用いる際の要件を検討することを目指すものである。

「負担者受益」の定義と分析の視点

序章においては、本研究で述べる「負担者受益」型まちづくりの仮定義とそれについて研究することの意義を既往研究のレビューを踏まえて述べ、分析の視点を示している。

早くから地方分権が徹底している米国は地方政府の数の多さが特筆されるが、筆者は、その理由を(1)住民自治論、(2)受益者負担論、(3)公共選択論の3点に求める。そして筆者は、これらの理由が相俟って発達した市民の「負担」に対する自己決定意識の高さに基礎を置く「小さな統治単位」志向が、米国において、私的セクターの自発的負担によってまちづくりの財源を確保し、負担者が自己の負担に見合う公共施設・サービスを得るために事業の実施・運営に関する意思決定を行うまちづくりの仕組みを発達させたものと考え、これを受益者負担の考え方が発展した「負担者受益」型まちづくりと呼ぶ。そして、このような考え方が生まれたきっかけを、米国における地方政府の一種であり、特定目的地方団体として米国で特に多く設立されてきたSD(Special District: 米国特別区)に求め、近年では、TIF(Tax Increment Financing)、BID(Business Improvement District)、TDR(Transferable Development Right)といったまちづくりの事業制度の中に見られると述べる。本研究で「負担者受益」型の制度として取り上げるのは、(1)負担が先行的・自発的で、(2)「負担」及び「受益」とは、制度によって初めてもたらされるものであり、(3)負担者だけでなく、広く地域社会に便益をもたらす仕組みであって、かつ、(4)自発的に「負担」を行う者には、事業における意思決定に積極的に関与させるような仕組みである。

また、本研究では、「負担者受益」を分析するための視点として、その財源調達・意思決定上の「自立性」と、その欠点や限界を認識し、それに配慮するような措置が取られていることを示す「正当性」の2点を設定する。市民の自発的な意思によって事業の財源を調達し、代わりに事業に関する意思決定に市民が深く関与する「負担者受益」は、財源調達・意思決定の過程において自立的であるという効果が期待されるものの、他方、これを突き詰めれば、まちづくりに参加できるのは財源負担者のみとなり、それ以外の意見は取り入れられないことが限界となる。米国でも先進的な地域においては、限界を踏まえた新たな取組みが始まっていることから、「負担者受益」について検討する際には、それらの取組みを参考に、効果を最大限に生かしつつも、欠点・限界が最小化されるような方法を検討することが必要であると考えられる。

「負担者受益」に該当するまちづくり制度の検討

第1章〜第3章では、「負担者受益」型まちづくり制度の原型であるSDと、1990年代に米国の都市において積極的に活用されたTIF、BIDを取り上げ、それぞれの制度的特徴を探っている。

まず第1章では、SD制度を取り上げる。SDは、実に数多く設立されており米国における細かい統治単位の形成に貢献しているが、本研究においては、その受益者負担による財源調達、負担者による自治的な意思決定の特徴を明らかにして、これが米国で「負担者受益」型のまちづくり制度を発達させたきっかけになったと述べる。また、制度の効果及び限界を検証することによって、今後、日本で、市町村を補完するような小規模なまちづくり主体を検討する際にどんな示唆を与えるかを検討する。

第2章では、増税を行うことなく、かつ、上位団体の補助金も使わずに、民間財源を調達することによって都市における衰退地区の再開発事業を行おうとするTIF制度を取り上げる。TIFを用いることで、事業がどのように地域で運営されているのかを、財政の仕組み、事業の進め方などの点から検討し、TIF制度に見られる「負担者受益」の考え方の特徴を明らかにする。

第3章では、衰退した中心市街地で、資産所有者が財源を拠出して再活性化のための事業を実施するBID制度を取り上げる。資産所有者が政府に頼ることなく、自発的に財源を拠出し、組織を設立して、小さな範囲で事業を行っていくBIDの制度及び運用の実態から、これが「負担者受益」の中でも「負担者自治」というべき仕組みであるとする。そして、「負担者自治」の視点から導き出される利点と欠点に即してBID制度を分析した上で、負担者に一定の自治を与えて独自の公共施設・サービスの提供を可能にすることにより特に衰退した都心の商業地域が再活性化される可能性を探る。

「負担者受益」の発展経緯

上記の3制度の分析を踏まえて、第4章では、米国で「負担者受益」型まちづくり手法がどのように発達してきたのかを、19世紀以来の受益者負担制度の歴史的な観察から分析している。他方、日本において受益者負担が発達しなかった理由についても検討し、今後のまちづくりにおいては、受益者負担の考え方に基づく「負担者受益」型のまちづくり手法が重要であることを示すと共に、その際の政府と私人の役割分担について検討する。

「負担者受益」の限界と米国における新たな展開

第5章、第6章においては、「負担者受益」の新たな展開として、原則として負担者が事業を主導し、地区レベルで事業が運営される「負担者受益」型のまちづくり事業制度に、広域的及び近隣住民の観点も取り入れる方法について検討する。

第5章では、米国において異なる方法を用いて広域成長管理に関する政策を進めているワシントン州、ミネソタ州、アリゾナ州を対象に、州政府や都市圏レベルの広域機関が、広域計画と土地利用や開発に関する権限を有する地方政府の計画との間の整合化を図り、「負担者受益」型の個別の開発事業が広域成長管理政策に沿った形で実施されるようにする方法を探り、「負担者受益」型まちづくりが広域的な観点から正当化される仕組みについて検討する。

第6章においては、「負担者受益」型まちづくりが広域的な観点だけでなく、更に近隣住民にも受け入れられるような仕組みとはどのようなものかを、ワシントン州とアリゾナ州の中でも特に開発の集中が見込まれ、近隣の利益との調整の必要性が高いと思われるシアトル市とフェニックス市の両都市で導入されている「アーバン・ヴィレッジ」と呼ばれる近隣計画プログラムから探り、「負担者受益」型まちづくりが近隣の利益との調整の観点からも正当化される仕組みについて検討する。

主要な結論

第6章までに得られた知見を踏まえ、結章では、「負担者受益」・「負担者自治」型の事業制度として本研究で取り上げてきた各制度を横断的に捉えなおし、「負担者受益」型まちづくりの効果と限界への対応をまとめた上で、「負担者受益」が適切に導入されるために必要な条件を提示している。

「負担者受益」から見た各まちづくり制度の特徴: まず、本研究で取り上げた制度につき、「負担」・「受益」及び地域にもたらす便益の内容、制度の中での政府と私人の関係を整理する。TIF、BIDが地域にもたらす便益は、いずれも衰退した地域の再活性化であるが、「負担者受益」の考え方に基づく「負担」・「受益」は、前者が開発費の支出と税金の還元による開発利益の獲得、後者が負担金の拠出と売上げや資産価値の向上と異なる。TDRについては、地域にもたらす便益は、それなしでは不可能な歴史的建造物や自然環境の保全を可能にすることであり、「負担」・「受益」は、容積率の購入費用、容積率の緩和によって得られる開発利益である。また、各制度における政府と私人の関係も多様であり、制度を管轄する地方政府には、将来の金融リスクを理解した上で税収還元について現実的な計画を作成すること(TIF)、近隣住民が求める意見を理解し、開発者と協議の上、事業計画に反映させること(TIF、TDR)、容積率の売却者と購入者を適切に組み合わせること(TDR)、負担者である資産所有者の満足度を測ること(BID)など、様々な役割が求められる。これらの「負担者受益」型まちづくり制度は、いずれも自発的な「負担」を行う者に地方政府がインセンティブを与える仕組みであり、その種類は間接的な資金援助型(TIF)と規制緩和型(TDR、BID)とに分けることができるが、いずれも負担者である私的セクターの努力に応じてインセンティブが与えられるようになっている点が特徴的である。

「負担者受益」型まちづくりの効果と限界: 意思決定が国に集約され、事業単位でのコスト管理を行わない公共事業を「集権的・行政主導型まちづくり」、事業単位で採算性の確保を求める点でコスト意識は高いものの、依然として事業の主導権は政府にある第3セクターや日本版PFI等を「行政主導の民活型まちづくり」、ボトムアップ型の合意形成や民主的な意思決定に基づく事業を「参加型まちづくり」と位置づけると、本研究で取り上げた「負担者受益」型まちづくりは、ボトムアップな意思決定と高いコスト意識に特徴がある。つまり、意思決定及びコスト管理の両面において自立性が高い仕組みであり、これが最大の効果であると位置づけられる。

他方、「負担者受益」型まちづくりという考え方を採り入れるにあたっては、単に負担者が自らの利益を追求するだけでなく、事業が地区内及び周辺で負担者以外に及ぼす影響、主に環境の観点から広域的に及ぼされる影響に気を配り、それらの観点からも十分に支持されるように配慮された制度が設計されるべきである。それによって、制度の公益性が確保され、まちづくりの制度として正当化される。

「負担者受益」型まちづくりが適切に導入されるための条件: 最後に、「負担者受益」型まちづくりが導入される際に配慮されるべき条件を、(1)目的、(2)場所、(3)主体、(4)財政の各点に関して提示する。

まず、「負担者受益」型まちづくり手法の目的に関しては、地域独自のまちづくりを進め、地域に付加価値を付けるために、既存の行政区域の一部地域において、財政上の制約或いは公共性の観点から既存の行政組織が提供し得ない公共施設・サービスを、私的セクターの主導において提供することを可能にすることと述べた。その導入場所については、単に事業財源を負担する意思のある私人が存在するだけでなく、新たな公共施設・サービスが提供されることによって負担者だけでなく、広く一般住民の福祉の向上につながるような地域を優先して対象とすべきであり、具体的には、外部性の高い都市の中心地域或いは商業地域が最も適していると述べた。主体については、自立した意思決定を行うことができる民間主体であって、同時に、負担に対するリスクを自己責任で処理しうるだけの能力を持ち合わせている必要があるとした。また財源調達に関しては、受益者負担を基本とするが、財源負担を自発的に行う民間主体が、利益が出ない場合のリスクも踏まえた上で負担する必要があると述べた。

日本への示唆

日本においては、多くのまちづくり事業が、主に応能的な考え方に基づき国或いは国の基準に沿って徴収された税金を財源として実施されてきたが、今後は、各地域で応益的な考え方に沿って徴収された財源を用いて実施することが検討されることになる。それによって、市民はまちづくり事業において、単なる利益の享受者から、事業を主導する立場へと変化していくことができる。そのような検討を行う際に、本研究で提示した「負担者受益」の概念が活用され得るものと考える。

審査要旨 要旨を表示する

保井美樹氏の博士学位請求論文「米国における『負担者受益』型のまちづくり制度に関する研究−財源調達・意思決定上の効果と限界−」は、米国において、地方政府と私的セクターが連携しながら進める様々なまちづくり事業制度を、「負担者受益」という新たな概念を通じて分析し、これまで集権的な意思決定と応能的な財源調達を特徴としてきた日本のまちづくり事業制度に、意思決定と財源調達の面で地域が自立的である「負担者受益」という新たな計画システムの概念を提示しようとする意欲的な論文である。本論文で「負担者受益」型として取り上げる制度の要件としては、(1)私人によって行われる「負担」が先行的・自発的で、(2)「負担」と「受益」が、制度によって初めてもたらされるものであり、(3)負担者だけでなく、広く地域社会に便益をもたらす仕組みであって、かつ、(4)自発的に「負担」を行う者に、事業における意思決定に積極的に関与させる仕組みであるとされる。

論文は3部に分かれ、序章と結章を含め全8章の論考によって成り立っている。第1部「米国における『負担者受益』型まちづくりの諸相」では、米国における「負担者受益」型まちづくり制度の原型となったSD(特別区:Special District)と、1990年代に都市部の衰退した地区を再活性化させるために活用されたTIF(Tax Increment Financing)及びBID(Business Improvement District)を取上げ、それぞれの制度的特徴を探っている。第2部「『負担者受益』型まちづくり発展の経緯」では、米国で上記のような「負担者受益」型まちづくり制度がどのように発達してきたのかを、19世紀以来の受益者負担制度の歴史的な観察から分析している。そして第3部「『負担者受益』型まちづくりの新たな展開」では、原則として負担者が事業を主導し、地区レベルで事業が運営される「負担者受益」型のまちづくり事業制度に、いかにして広域的及び近隣住民の観点も取り入れるかを、米国における先進的な取組みの分析を通じて検討している。

論文で取り上げられているSD、TIF、BID、TDR(Transferable Development Right)の4制度は、個別には、既に日本に紹介されているものであるが、本論文は、「負担者受益」という新たな概念を通じてこれらの制度を歴史的・横断的に捉える点が新しく、「負担者受益」の考え方が米国でどのように発達してきたかを、地方政府や財政構造の変化を踏まえながら、個別の制度を地域の統治のあり方と関連づけて分析している点で優れている。筆者は、米国市民が有する「負担」についての自己決定意識の高さとそれに伴う「小さな統治単位の志向」が、今日の「負担者受益」型のまちづくり事業制度の発展につながったものと考えており、具体的には、SDという特定目的の地方公共団体で、米国において最も数多く設立されてきた地方政府の一種がそのきっかけとなったと考えている。このようにTIF、BIDといった個別の事業制度の分析のみならず、それが発達した背景にある市民の志向及びそれに基づいて発達した地方政府の特徴に着目する研究はこれまでになく、地方分権化の流れの中で地域が独立して意思決定、財源調達を進めるまちづくりの方法が求められる日本にとっても、単に海外の先進的事業手法を知るだけでなく、それが発達した社会的背景や市民の基本的志向を理解することができるため、示唆に富む論文に仕上がっている。

また、筆者は、「負担者受益」型の事業においては採算性や自発的な「負担」者の利益が重視されてしまう点を限界として指摘し、どのようにして広域的な長期計画にも整合するように事業が実施されるかについても、Smart Growth等の米国都市計画の近年の新たな展開との関係も意識して検討している。これによって本論文は、「負担者受益」型事業の各制度の分析だけでなく、広域的な都市計画の視点も盛り込んだ構成になっており、地方政府と私的セクターが連携して実施するまちづくり事業に関する研究として完成度が高い。

論文の最後には、それぞれの制度に見られる「負担」・「受益」及び地域にもたらす便益の内容、制度の中での政府と私人の関係が整理されている。例えば、制度によって地域にもたらされる便益は、衰退した地域の再活性化(TIF、BID)、歴史的建造物や自然環境の保全(TDR)、「負担者受益」の考え方に基づく「負担」・「受益」は、開発費の支出と税金の還元による開発利益の獲得(TIF)、負担金の拠出と売上げや資産価値の向上(BID)、容積率の購入費用と容積率の緩和によって得られる開発利益(TDR)といった具合である。筆者は、「負担者受益」を自発的な「負担」を行う者に地方政府がインセンティブを与える仕組みと位置づけ、それらがいずれも負担者である私的セクターの努力に応じてインセンティブが与えられるようになっている点が特徴的だと捉える。

日本においては、多くのまちづくり事業が、主に応能的な考え方に基づき国によって或いは国の基準に沿って徴収された税金を財源として実施されてきたが、今後は、各地域において応益的な考え方に沿って徴収された財源を用いて実施する方法についても研究を進める必要がある。この論文は、「負担者受益」型まちづくり制度の理論提示を試みることにより、まちづくり事業の費用負担を応益的に調達し、代わりに、負担者となる私的セクターを、単に政府が行うまちづくり事業の利益を享受するだけでなく、まちづくりを主導する立場へと変化させる手法を提言するものであり、まちづくりを地域の統治のあり方と関連づけて分析した研究として、価値のある論文である。

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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