学位論文要旨



No 215788
著者(漢字) 小野塚,知二
著者(英字)
著者(カナ) オノヅカ,トモジ
標題(和) クラフト的規制の起源 : 19世紀イギリス機械産業
標題(洋)
報告番号 215788
報告番号 乙15788
学位授与日 2003.10.22
学位種別 論文博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 第15788号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大澤,眞理
 東京大学 教授 廣田,功
 東京大学 教授 馬場,哲
 東京大学 教授 森,建資
 東京大学 助教授 石原,俊時
内容要旨 要旨を表示する

「クラフト的規制」こそは19〜20世紀のイギリスの労使関係・労務管理に通底する最大の特徴であったといっても過言ではない。本論文は、この「クラフト的規制」がイギリス機械産業においていかに形成され、それがいかなる条件のもとで維持されてきたのかを明らかにすることを目的とする。この目的を達成するために、この論文は、序章、第I部(第1〜4章)、II部(第5〜7章)、終章の四つの部分から構成される。

序章は、まず、「クラフト的規制」という概念を吟味したうえで、これまでの研究史を概観して、以下の諸点を確認する。(1)労働史、労働社会学、労使関係論などの分野で、クラフト的規制の機能や実態には関心が払われてきたが、その起源とそれが再生産されてきた条件は明らかにされていない。(2)その中では、クラフト的規制とは労働組合(熟練職人集団=クラフト)が一方的に主張・行使する規制であるという「一方的規制」説がながく支配的で、それゆえ、クラフト的規制の発生史は労働組合史で代替されることが多かった。(3)クラフト的規制をめぐる大争議は19〜20世紀に度々発生し、そのたびに規制の完全打破を唱えた使用者側が圧勝したにもかかわらず、争議後の使用者がクラフト的規制から自由になれなかったという事実を、一方的規制説では説明しにくい。(4)むしろ、1960年代に制限的慣行の解消や非公式労使関係の整序をめざして学界・言論界・政策立案の場で問題認識が深化した際に登場した「使用者側関与」説とでもいうべき見方の方が、クラフト的規制現象をよりよく説明できるのだが、それはクラフト的規制の刻印された組織や環境を説明するものではあっても、起源や再生産の条件を明らかにするものではなかった。

序章の問題整理と課題設定をふまえて、第I部は、クラフト的規制事項のうち入職過程こそが根幹の位置を占めることに注目して、イギリス機械産業において入職を規制してきた徒弟制度が、いつ、どのように形成されたかを明らかにする。第1章は、初期の機械産業に成立した諸組合文書(主として組合規約)を用いて、それらが主張した入職=加入資格のあり方を分析する。労使協同の職業別共済組合(産業福祉型組合)にあっては、入職=加入資格が賃金格付けに対応して階梯状に表現され、全従事者に開かれているのに対し、労働者のみの職業別共済組合(旧職種型、新職種型、新旧合同型の労働組合)にあっては、入職以前の経歴によって制限され、資格は有無どちらかしかありえなかった。とはいえ、旧職種でも7年季は弛緩し、5年季を、さらに職人規制法徒弟諸条項撤廃後は「7年就労」をも認める方向へ変化することで入職資格を維持しようとした。元来、徒弟制度のなかった新職種は、1820年代に「5年就労」を入職資格として設定し始めた。新旧合同型組合はそれを「5年修業」へ、さらに「徒弟」へと徐々に呼称をあらためて、新たな徒弟制度として定着させようとした。

これまでの諸研究も熟練労働者の資格要件が徒弟修業にあると考えてきたが、実際に徒弟修業を経て入職した者の比率がどの程度かはまったく不明なままに残されてきた。第2章は、「徒弟経験率」という概念を設けて、18世紀から20世紀初頭までの348人の機械産業従事者の伝記データをもとに、入職制度としての徒弟修業の定着の度合いを測る。その結果、1820年代まで新職種の徒弟経験率は2ないし3割にとどまっていたのが、1830年代の入職者では61パーセント(3年短縮年季も含めれば78パーセント)が徒弟修業を経て入職するというように、1820年代から30年代にかけての急激な変化を経て徒弟制度は定着したことが明らかにされる。第1章の組合規約分析では、1820年代以降が新職種における入職資格生成の時期であることが明らかにされたのだが、第2章の徒弟経験率算出から、それが単に労働者側の主張だけではなかった −使用者も徒弟経験者から熟練労働者を採用するようになった− ことが判明する。

では、使用者は何の疑いも不満もなく、こうした入職の制度を受け容れていたのかというと、むろんそうではない。第3章では、まず、使用者が徒弟制度に不自由を感じていることが確認されるが、他方で、こうした不自由を託ちながらも、徒弟制度に依存した行動と言説を示していたことも明らかにされる。こうした両義的な態度と認識を再構成するために、本論文は、能力養成システムと入職資格付与システムという徒弟制度の二つの性格を区別する。使用者たちが潜在的に選好し、依存したのは能力養成システムとしての徒弟制度であって、そこでは能力は連続的に分布する可変量とみなされる。入職資格付与システムでは、熟練は階梯状には存在せず、有無どちらかの値しかとらない。熟練工たちが主張し、使用者が不自由感を覚えた入職制度は、これであった。しかし、使用者たちは徒弟制度のこの2面を自覚的に表現・認識することはなく、入職資格付与システムを峻拒して徒弟制度を能力養成システムに純化させようとはしなかった。

第4章は、使用者の能力観をさぐる。19世紀前半の機械産業使用者が、「能力」について語る機会は非常に限られていたが、残された言説からは、彼らの能力観は無限定かつ曖昧であるものの、能力養成を徒弟制度と結びつけて考え、養成期間を徒弟年季と等値させてきたことが判明する。普通の使用者より、はるかに多くの言説を残した二人の技術者=経営者(フェアバンとネイスミス)を見た場合も、能力とその養成について無限定な認識しか有さなかった点では大差はない。こうした無限定性を根拠に、第4章では、現場権限の肥大化・一人歩きからクラフト的規制の発生が仮説的に説明される。

第I部は入職過程のみを取り上げて、そこでの制度形成とそれをめぐる労使双方の言行を再構成することから、クラフト的規制の根幹の位置を占める入職制度の形成過程を描き出そうとしたが、第II部は、こうした入職過程の制度形成を前提にして、労使がいかなる目的・機能・組織原理を備えた団体を形成し、労働力の供給・調達が制約された状況でどのように独特の行動様式と戦術を編み出し、両者の間に、「クラフト的規制」で特徴付けられるイギリス機械産業労使関係がいかに形成されたかを描く。第5章は、まず、おもに1830〜40年代を対象にして、入職制度の形成とともに重要になった地域間・職種間の格差に注目することにより、労働組合の地域連合(union)的性格から中央集権的性格への転換の必然性を跡付ける。続いて、企業への労働力の入り口と出口(入職と移動)に関わる使用者の諸方策 −「無資格者」、徒弟比率、ブラックリスト、退職証明書など− をめぐる問題を、また、企業内部で労働力を効率的に用いようとする諸方策 −ピースワーク、恒常的残業、多台持ちなど− をめぐる問題を整理する。これらの作業から得られる結論は、クラフト・ユニオンが一方的に諸規制を主張・行使しようとしていたという通説とは異なる。労使双方は必ずしも一致しない利害と異なるルールを自覚しながらも、双方が妥協し合って、入職資格、無資格者、徒弟比率、ピースワーク、残業について暗黙の慣行を共有し合っていたと合理的に推測しうるのである。

第6章は、「職業保護」政策と「経営権」が初めて全面的に対立した1851〜52年争議を扱う。この争議は従来、典型的なクラフト的現象とされて、一方的規制説に沿って理解されてきた。しかし、争議原因は結成直後のASEが一律厳格な「職業保護」政策を追求したため、それまで成立していた暗黙の慣行が否定され、使用者側の強固な対抗団結を呼び起こしたことにある。つまり、それはクラフト的な労使関係からの逸脱現象だったのだが、世論にも歴史家にも強烈な印象を与えたため、悪しき規制と不自由を及ぼす元凶としての労働組合というイメージが、この争議によってむしろ固定化した。

第7章は1852年ロックアウト後の労使関係において、職業保護と経営権が純粋には実現せず、相互に制約し合ったまま共存している状況を明らかにする。まず、熟練労働者たちは厳格一律な職業保護条項を組合規約から削除し、職業保護闘争至上主義を放棄した。対抗的な使用者団体は機能を低下させ、あるいは休眠状態に入った。入職制度によって労働力調達に不自由のある状況で使用者団体が追求した機能は、争議時・平時を問わず労働力が無規律に企業間を移動することをチェックすることであり、そこから「経営権」保護を目的とする団体が個別企業の自由を制約するというアポリアが生まれ、「自由な労働」という使用者側のイデオロギーも二面性を帯びることになった。

終章では、第I部、第II部の叙述をふまえて以下の点が確認される。第1に、入職規制は労使の合作であった。それは労働者側が主張しただけでなく、使用者側の二重の関与 −観念的にも現実の労働力調達の面でも徒弟制度に依存し、修業証明書や賃金格付けを通じて資格要件を認定すること− で発生し、維持されてきた。第2に、労使双方のルールは相互に制約されて共存しているのが常態であって、多くの史料が物語る労使間の摩擦・軋轢・対立・争議は常態からの乖離であったと考えられる。第3に、労使双方が平時・争議時を問わず、直接的な闘争以上に関心を払ったのは、労働力の移動に関することがらであった。移動の障壁を低くしようとする労働者側に対して、使用者側は団体を通じて移動を抑止し、管理しようとしたが、それによって、自らが新たな規制を及ぼすようになった。つまり、クラフト的規制とは労使双方の団体に染み込んだ性格であり、労使関係に埋め込まれた構造だったのである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、「クラフト的規制」が19〜20世紀のイギリス労使関係・労務管理を通ずる最大の特徴であったと捉え、それが機械産業において形成され維持されてきた条件を明らかにすることを課題としている。その要旨は以下のとおりである。

序章(「問題の所在」)は、まず「クラフト的規制」という概念について、熟練労働者の職業(trade)の、とくに入職(誰が正規に入職できるか)と現場権限(職場で誰が何を決めるか)に関して、「使用者側が是認しえない規制が現になされ、あるいは労働者たちによって主張されること」、と定義する。そのうえで、内外の研究史を概観することで以下のように本論文の課題を設定する。

(1)労働史、労働社会学、労使関係論などの分野で、クラフト的規制の機能や実態は扱われてきたが、その起源およびそれが再生産されてきた条件は明らかにされていない。(2)クラフト的規制とは労働組合(熟練職人集団=クラフト)が一方的に主張・行使する規制であるという「一方的規制」説が長く支配的であり、クラフト的規制の発生史は労働組合史で代替されることが多かった。(3)クラフト的規制をめぐる大争議は19〜20世紀に度々発生し、そのたびに規制の完全打破を唱えた使用者側が圧勝したが、にもかかわらず争議後の使用者はクラフト的規制から自由になれなかった。こうした事実を一方的規制説では説明しにくい。(4)1960年代にいたって、制限的慣行の解消や非公式労使関係の整理をめざして、学界・言論界・政策立案の場で問題認識が深化した。その際に登場した「使用者側関与」説の方が、クラフト的規制の現象をよりよく説明できる。しかし、それはクラフト的規制が刻印された組織や環境を説明するものではあっても、起源や再生産の条件を明らかにするものではなかった。

そこで第I部(「入職の制度化−機械産業における徒弟制度の形成」)は、クラフト的規制の対象事項のうち入職過程こそが根幹の位置を占めることに注目して、イギリス機械産業において入職を規制してきた徒弟制度が、いつ、どのように形成されたかを明らかにする。

第1章(「19世紀前半諸組合の入職=加入資格」)は、初期の機械産業に成立した諸組合の文書(主として組合規約)を用いて、それらが主張した入職=加入資格のあり方を分析する。労働者のみの職業別共済組合(旧職種型、新職種型、新旧合同型の労働組合)では、7年季の徒弟といった入職前の経歴によって加入が制限されたが、旧職種でも年季を短縮しつつ7年「就労」も認める方向へ変化し、そのことで入職資格を維持しようとした。元来は徒弟制度がなかった新職種は、1820年代に「5年就労」を入職資格として設定し始めた。新旧合同型組合は、「5年修業」、さらに「徒弟」と呼称を改めつつ、それを新たな徒弟制度として定着させようとした。つまり、1820年代以降が新職種における入職資格生成の時期であることが明らかにされた。

これまでの諸研究でも、実際に徒弟修業を経て入職した者の比率は不明なままに残されてきた。第2章(「機械産業従事者の徒弟経験率」)は、「徒弟経験率」という槻念を設けて、18世紀から20世紀初頭までの348人の機械産業従事者の伝記データをもとに、入職制度としての徒弟修業がどの程度定着していたかを測る。その結果、1820年代まで新職種の徒弟経験率は2ないし3割だったものが、1830年代の入職者では61%(3年短縮年季も含めれば78%)が徒弟修業を経て入職するというように、1820年代から30年代にかけての急激な変化を経て徒弟制度が定着したことが明らかにされる。同時に新職種におけるこうした入職資格の生成は、単に労働者側の主張によるだけではなく、使用者も徒弟経験者から熱練労働者を採用するようになったことにもよる、という事情が示された。

とはいえ、使用者は何の疑いも不満もなく、こうした入職の制度を受け入れたわけではなかった。第3章(「使用者の徒弟制度への両義性」)では、使用者が徒弟制度に不自由を感じていたこととともに、不自由を託ちながらも徒先制度に依存した行動と言説を示していたことが明らかにされる。徒弟制度の性格を能力養成システムと入職資格付与システムの2つに区別すれば、使用者たちは潜在的に前者を選好し、依存しており、そこでは能力が連続的に分布する可変量とみなされたことが分かる。一方、後者の入職資格付与システムでは、熱練は連続量ではなく有無どちらかの値しかとらない。熟練工たちが主張し、使用者が不自由感を覚えた入職制度は後者だった。しかし、使用者たちは徒弟制度のこの2面を自覚的に表現・認識することはなく、入職資格付与システムを排して徒弟制度を能力養成システムに純化させようとはしなかった。

第4章(「能力・養成・現場権限」)は、使用者の能力観をさぐる。19世紀前半の機械産業使用者が、「能力」について語る機会は非常に限られていたが、残された言説によれば、彼らは能力を無限定かつ曖昧に捉えながらも、その養成を徒弟制度と結びつけて考え、養成期間を徒弟年季と等値させてきた。例外的に多くの言説を残した二人の技術者=経営者(フェアバンとネイスミス)も、能力とその養成について無限定な認識しか持たなかった。こうした無限定性を根拠に、第4章では、現場権限の肥大化・一人歩きからクラフト的規制の発生が仮説的に説明される。

第II部(「団体的労使関係におけるクラフト的規制」)は、以上のような入職過程の制度形成を前提に、「クラフト的規制」で特徴づけられるイギリス機械産業の労使関係がいかに形成されたかを描く。

第5章(「入職規制から『職業保護』へ」)では、まず、おもに1830〜40年代を対象にして、入職制度の形成とともに重要になった地域間・職種間の格差に注目し、労働組合の地域連合(union)的性格から中央集権的性格への転換の必然性が跡づけられる。ついで、企業への労働力の入り口と出口(入職と移動)に関わる使用者の諸方策(「無資格者」、徒弟比率、ブラックリスト、退職証明書)、また、企業内部で労働力を効率的に用いようとする諸方策(ピースワーク、恒常的残業、多台持ち)、などをめぐる問題が整理される。クラフト・ユニオンが一方的に諸規制を主張・行使しようとしていたという通説とは異なり、これらの諸方策をめぐって労使双方は、必ずしも一致しない利害と異なるルールを自覚しながらも、妥協しあって暗黙の慣行を共有していたと推測される。

第6章(「『職業保護』と『経営権』」)は、「職業保護」政策と「経営権」が初めて全面的に対立した1851〜52年争議を扱う。この争議は従来、典型的なクラフト的現象とされて、一方的規制説に沿って理解されてきた。しかし、争議原因は、結成直後のASE(合同機械工組合)が一律厳格な「職業保護」政策を追求したため、それまで成立していた暗黙の慣行が否定され、使用者側の強固な対抗団結を呼び起こしたことにある。つまり、それはクラフト的な労使関係からの逸脱現象だったのであるが、世論にも歴史家にも強烈な印象を与えたため、悪しき規制と不自由を及ぼす元凶としての労働組合というイメージが、この争議によってむしろ固定化した。

第7章(「使用者団体とクラフト的規制」)は、1852年ロックアウト後の労使関係において、職業保護と経営権が純粋には実現せず、相互に制約しあったまま共存している状況を明らかにする。まず、熟練労働者たちは厳格一律な職業保護条項を組合規約から削除し、職業保護闘争至上主義を放棄した。対抗的な使用者団体は機能を低下させ、あるいは休眠状態に入った。入職制度によって労働力調達に不自由のある状況で、使用者団体は、争議時・平時を問わず労働力が無規律に企業間を移動することをチェックするという機能を追求した。そこから、「経営権」保護を目的とする団体が個別企業の自由を制約するという矛盾が生まれ、「自由な労働」という使用者側のイデオロギーも二面性を帯びることになった。

終章では、以下の点が確認される。第1に、入職規制は労使の合作であった。それは労働者側が主張しただけでなく、使用者側の二重の関与、すなわち観念的にも現実の労働力調達の面でも、徒弟制度に依存し、修業証明書や賃金格付けを通じて資格要件を認定することで、発生し維持されてきた。第2に、常態では、労使双方のルールは相互に制約されて共存しており、多くの史料が物語る労使間の摩擦・軋轢・対立・争議は常態からの乖離であった。第3に、労使双方が平時・争議時を問わず、直接的な闘争以上に関心を払ったのは、労働力の移動であった。移動の障壁を低くしようとする労働者側に対して、使用者側は団体を通じて移動を抑止・管理しようとしたが、それによって、自らが新たな規制を及ぼすことになった。つまり、クラフト的規制とは労使双方の団体に染み込んだ性格であり、労使関係に埋め込まれた構造であった。

おおよそ以上の内容をもつ本論文の意義は次のようにまとめられる。第1に、イギリス機械産業にそくして、クラフト的規制の起源の解明に取り組み、その生成と再生産の条件を明らかにしたことである。使用者側の対抗戦略と団体結成、さらに累次の争議勝利にもかかわらず、なぜ使用者がクラフト的規制から自由になれず、規制が維持・再生産されてきたかについて、イギリス本国の研究者はいわば自明として問うこともなく機械産業労働史を叙述してきた。クラフト的規制そのものを対象とした研究の嚆矢は、アメリカ出身のザイトリンの1980年代初めの業績であったが、それ以来の研究潮流も19世紀末以降に関心を集中し、クラフト的規制の「起源」は問わなかった。本論文はその起源を正面から問題にし、とくに伝記データから徒弟経験率を推計するという方法を駆使した事実発見などを通じて、機械産業労働史および労働組合史の発展に貴重な貢献をなしている。

第2に、クラフト的規制の機能や実態に関しては、労働組合による「一方的規制」説が通説の座を占めてきたが、本論文は、入職規制が労使の合作であり、使用者側の関与によって発生し維持されてきたことを確認した。従来の「使用者側関与」説が、規制の存在を所与としてその組織や環境を説明することに止まっていたのに対して、本論文は、労使の団体形成に始まり、団体の行動様式と戦術の相互作用的な形成を丹念に描くことで、「クラフト的規制」で特徴づけられるイギリス機械産業の労使関係が生成した条件を明らかにしえた。

第3に、入職制度によって労働力の調達が制約される状況で、企業内での労働力使用の効率性(ピースワーク、残業、多台持ち)よりも、労働力移動のコントロールにこそ、労使の圧倒的なエネルギーと時間が割かれたことを、浮き彫りにした。争議の経過とその結果(勝敗と妥結条件)を吟味するだけでなく、争議後の労使関係、とくに使用者団体の平時的な機能とその変遷をたどり、クラフト的規制をめぐって個別企業と使用者団体の間に孕まれた矛盾を指摘している。現代イギリスの労使関係論の枢要な論点をも射程に収める歴史像の提示といえよう。

とはいえ、本論文にも疑問とすべき点、改善が望まれる点がないわけではない。第1に、イギリス機械産業におけるクラフト的規制の起源を問い、それが1830年代にあることを突きとめ、その再生産の条件を明らかにしたことは、重要な貢献であるが、史料的限界にも阻まれ、歴史的因果関連という意味での「起源」は、なお解明されたとはいえない。第I部では、使用者の無限定的な能力観を根拠に、現場権限の肥大化・一人歩きからクラフト的規制の発生が仮説的に説明されるが、この「仮説」は、第II部において十分に実証されておらず、仮説に止まっている。

第2に、従来の労働史研究が労働組合による「一方的規制」説を通説としてきた点は、本論文によって確かに修正を迫られたが、さりとて、使用者の無限定的な能力観を根拠とする「使用者側関与」ないし「労使合作」説が、クラフト的規制の起源と再生産を十分に説明しえているとは感じられない。この点は、一方では、能力養成システムと入職資格付与システムという徒弟制度の2面のうち、前者の具体的あり方の追究が、本論文にとってなお今後の課題として残されていることと、関連している。他方では、ザイトリンに始まる研究潮流が経営者側の製品戦略・市場戦略や労働市場条件を重視してきた点に対して、本論文が正面から切り結んでいないこととも、関連していると思われる。

この第2点と重なって第3に、本論文がクラフト的規制の「起源」の解明に課題を絞りこんだことは、一貫した歴史像の提示を可能にした反面、先行研究の豊かな諸論点に逐一対峙することを省かせることにつながった点は否めない。そのため、内外の先行研究に対する本論文の独自性を読みとることが、必ずしも容易でない面が見受けられる。

このような問題点をもつとはいえ、本論文が、イギリス機械産業にそくして、クラフト的規制の起源の解明に取り組み、その生成と再生産の条件を明らかにしたことは、間違いなくイギリス機械産業労働史および労働組合史に対する貴重な貢献ということができる。審査委員会は全員一致で、本論文が博士(経済学)の学位を授与されるにふさわしいという結論に達した。

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