学位論文要旨



No 215790
著者(漢字) 磯部,秀之
著者(英字)
著者(カナ) イソベ,ヒデユキ
標題(和) 八味地黄丸のヒト網膜中心動脈血流に及ぼす影響
標題(洋)
報告番号 215790
報告番号 乙15790
学位授与日 2003.10.22
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第15790号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 中原,一彦
 東京大学 教授 高橋,孝喜
 東京大学 助教授 佐々木,司
 東京大学 助教授 平井,浩一
 東京大学 講師 石井,彰
内容要旨 要旨を表示する

健常成人を対象とし、最新の超音波画像診断装置を用いて、漢方薬の投与前後におけるヒト網膜中心動脈の血流を観察したところ、八味地黄丸には、エキス顆粒、丸薬、煎じ薬ともに、血流速度の増加作用が認められた。網膜中心動脈は、最高流速、最低流速、平均流速ともに有意な増加を示したが、血管抵抗には有意な変化はみられなかった。なかでも、問診等より八味地黄丸の適応と考えられたケースは、血流速度の増加が顕著であった。

現段階では、網膜中心動脈の血管径は測定できないため、血流量の測定は困難である。しかし、八味地黄丸の投与により、血管抵抗は変わらず、血流速度は最高流速、最低流速、平均流速ともに増加したことから、八味地黄丸は、網膜中心動脈の血流量をも増加させたと推察することは可能である。

また、八味地黄丸の投与により、血圧及び脈拍数の有意な変化は認められず、八味地黄丸は、血圧や脈拍数などの全身の循環動態には影響を与えずに、網膜中心動脈の血流速度を増加させたと考えられる。このことから、八味地黄丸が網膜中心動脈の血流速度を増加させるメカニズムとしては、網膜中心動脈及びその近縁の血管を局所的に拡張させている可能性が高い。

八味地黄丸は、漢方でいうところのいわゆる「腎虚」を目標に使用される、使用頻度の高い漢方処方の一つである。実際的な使用目標としては、腰下肢の痛みや脱力感、冷え、しびれ、排尿異常、陰萎、口渇、腹証での小腹不仁や小腹拘急などが挙げられる。臨床的な応用範囲は幅広く、疾患としては、糖尿病、前立腺肥大、男性不妊、老人性白内障、高血圧、腰痛、骨粗鬆症、膣炎など多彩である。特に、加齢に伴う種々の病態によく用いられている。

八味地黄丸は老人性白内障などの眼疾患にも使用され、有効例の報告も認められる。しかし、視力や認知力の向上など、自覚症状は改善するものの、他覚所見の改善については明らかではない。今回観察された八味地黄丸の作用は、網膜を中心とした眼底部の血行動態を改善することで、視神経などの伝達を含んだ眼の機能を向上させ、視力などの自覚症状の改善を促しているものと考えられる。また、網膜中心動脈は内頚動脈の分枝であり、その変化は脳血流を反映しているとも考えられる。そこで、この観点から推察すると、八味地黄丸は、脳循環を改善し、大脳皮質の視覚野に対しても、その認知力を向上させ、皮質レベルでも視力を改善させている可能性が考えられた。

一方、網膜中心動脈は種々の眼疾患において、その血流速度の低下や血管抵抗の増大が報告されており、しかも、その病態の進展、悪化との関連性が指摘されている。つまり、網膜中心動脈の血行動態を改善させることは、眼病変の改善につながる可能性が高い。八味地黄丸が網膜中心動脈の血流速度を増加させたことは、八味地黄丸の眼疾患への有効性を示唆するものである。八味地黄丸の適応と思われる例で、血流速度の増加が特に大きかったことは、いわゆる漢方医学的な証とその効果との関連性を示している。

八味地黄丸の構成生薬は、地黄、牡丹皮、茯苓、沢瀉、山茱萸、山薬、桂皮、附子の八味である。六味丸は八味地黄丸から桂皮と附子を除いた八味地黄丸に類似の処方であり、八味地黄丸は[六味丸+桂皮+附子]とみなすことができる。六味丸(エキス顆粒、煎じ薬)の投与では、網膜中心動脈の血流速度、血管抵抗ともに有意な変化は認められなかった。桂皮や附子各々一味(煎じ薬)の投与においては、ともに網膜中心動脈の血管抵抗の有意な減少が認められたが、血流速度の増加はみられなかった。桂皮と附子を合わせた二味の煎じ薬では、網膜中心動脈の血流速度は減少し、六味丸に桂皮か附子を加えた(八味地黄丸から附子か桂皮を除いた)七味の煎じ薬では、血流速度、血管抵抗ともに有意な変化はみられなかった。これらのことから、八味地黄丸の網膜中心動脈の血流速度増加作用は、六味丸、桂皮、附子すべてが加わって、八味になることによって、はじめてもたらされることが示唆された。六味丸に桂皮と附子を加えて、八味にすることによってもたらされるこの作用は、八味地黄丸という処方の構成を意味付けるものであり、八味地黄丸の効果や適応を裏付ける作用の一つと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は漢方薬の生体に及ぼす影響を調べるため、内頚動脈の分枝であり網膜を潤す血管である「ヒト網膜中心動脈」に着目し、健常成人を対象として、最新の超音波画像診断装置を用いて、漢方薬の投与前後におけるその血行動態の変化を観察したものであり、下記の結果及び考察を得ている。

八味地黄丸(生薬構成は、地黄、牡丹皮、茯苓、沢瀉、山茱萸、山薬、桂皮、附子の八味)のエキス顆粒に、ヒト網膜中心動脈の血流速度を増加させる作用が認められた。網膜中心動脈の血流は最高流速、最低流速、平均流速ともに有意な増加を示したが、血管抵抗には有意な変化はみられなかった。

六味丸は八味地黄丸から桂皮と附子を除いたもので、八味地黄丸に類似の処方である。しかし、その六味丸のエキス顆粒の投与においては、網膜中心動脈の血流に有意な変化はみられなかった。

八味地黄丸の丸薬に関しては、偽薬も使用してダブルブラインド、クロスオーバーでの投与を行い、同様の観察を行った。その結果、偽薬の投与では変化は認められず、エキス顆粒の時と同様、丸薬の投与においては、網膜中心動脈の血流速度は増加した。やはり、最高流速、最低流速、平均流速ともに有意な増加を示し、血管抵抗には有意な変化はみられなかった。

八味地黄丸は、白内障などの眼疾患にしばしば用いられる。一方、網膜中心動脈は種々の眼疾患において、その悪化、進展に伴う血流速度の低下、血管抵抗の増大が報告されている。八味地黄丸が網膜中心動脈の血流速度を増加させることは、眼病変の改善につながる可能性が高く、八味地黄丸の眼疾患への有効性を示唆するものである。

八味地黄丸の投与例に関して、問診等より漢方医学的な「証」を考慮し、その適応の有無についての検討を加えたところ、八味地黄丸の適応と思われる例では血流速度の増加が顕著であった。このことは、いわゆる漢方医学的な「証」とその効果との関連性を示している。

八味地黄丸の作用の構成生薬からの検討を、生薬の調整が可能な煎じ薬を用いて行った。まず、八味地黄丸の煎じ薬では、エキス顆粒及び丸薬と同様、網膜中心動脈の血流速度(最高流速、最低流速、平均流速とも)は有意に増加し、血管抵抗には有意な変化はみられなかった。次に、六味丸の煎じ薬では、やはり、エキス顆粒と同様、血流速度、血管抵抗ともに有意な変化はみられなかった。八味地黄丸は六味丸に桂皮と附子を加えた処方である。そこで、桂皮や附子各々一味(煎じ薬)を投与して測定を行ったところ、ともに網膜中心動脈の血管抵抗を有意に減少させたが、血流速度の増加はみられなかった。さらに、桂皮と附子を合わせた二味の煎じ薬では網膜中心動脈の血流速度は減少し、六味丸に桂皮か附子を加えた(八味地黄丸から附子か桂皮を除いた)七味の煎じ薬では、血流速度、血管抵抗ともに有意な変化はみられなかった。これらのことから、八味地黄丸の作用は、六味丸、桂皮、附子のすべてがそろって八味になることによって、はじめて現されるものと考えられた。六味丸に桂皮と附子を加えて、八味にすることによってもたらされるこの作用は、八味地黄丸という処方の構成を意味付けるものと考えられる。

以上、本論分はヒトを対象として、漢方薬の効果や適応の裏付けの1つを示したものと考えられ、八味地黄丸がヒト網膜中心動脈の血流に及ぼす作用は、八味地黄丸の眼疾患等への有効性を示唆したものである。また、本研究は漢方薬が生体に及ぼす影響の1つについて、漢方における「証」とその効果との関連性や生薬構成の意義等についても考察が可能であった。漢方医学の特質を生かした発展のためには、こうした方面からの研究も、ぜひとも必要と考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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